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    保健室登校の類司。嘔吐、過呼吸表現を含みます。

    悪夢の続きをまた見るのかい今回ばかりはちゃんとキャプション見てください。全部じゃなくていいので。
    地雷踏み抜きますよ。
    読了後の苦情は受け付けないです。
    天馬司がいじめられてたり、保健室登校だったりします。

     毎日のルーティンは、下駄箱にある上靴がないところから始まる。いつものことかと裏庭の池に行くと、やはりそこに自分の上靴はあるわけで。今日もこんな憂鬱が始まるのかと胸が苦しくなる。今日は少し肌寒いから、水をかけられないといいな。そんなことを思うなんて、随分この生活にもなれたものだと心のなかで笑う。

     なぜこうなってしまったのだろうか。きっと、誰でも良かったのだろう。たまたま自分になっただけ。暇つぶしかのようにはじまった嫌がらせはエスカレートし、酷いいじめへと発展した。こんな思いするのが自分で良かった、なんて思っていたのははじめだけで、日々なぜ自分がこんなものにあわなければならないのかと嘆いている。
    (教室に、いかなければ)
    この続きは、なくなるのだろうか。逃れられるのだろうか。
    逃げたい。苦しい。辛い。
    そんな言葉が頭の中をぐるぐると回っている。心臓のあたりがきり、と痛くなり、服の裾をきゅ、と握りしめる。
    担任に助けを求めるのなんて、とうに諦めている。最後どうなるかは簡単に想像がつくからだ。きっと今より酷くなる。
    もう、嫌だな。
    もうすぐで始業のチャイムが鳴るというのに、上靴を取ったその場所から接着剤でくっついたように足が動かない。遅刻はいけないのはわかっている。それに親や担任にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。教室にいかなければいいのかな、なんて思ってはいけないのに。

    ぺたん。足の力が抜けて、座り込んでしまう。
    (ちがう、立って、行かなきゃ)
    はやる気持ちが加速しても、体は動かない。思ったとおりに体が動かなくて、ついに自分はおかしくなってしまったのかと思えてしまう。
    「ごめん………なさ…」
    とんでもない罪悪感で涙と一緒にこぼれ出た言葉は、チャイムの音にかき消される。
    ここに座り込んでいたって一時的な回避にしか過ぎないのに、どんどん居心地が良くなる。二度と教室には行きたくなくなる。

    教室に行かなければいけないのに、行きたくなくて。
    繰り返し繰り返しそんな行き来ばかりしていると、自身の呼吸音が徐々に狂っていくのがわかる。
    「──はッ」
    何が起こっている? なんでオレは呼吸の一つさえまともにできない? はやく、早く抑えなきゃ
    「ひゅッ…、はー、はっ…ぜぇ、ぁ、ひぐっ」
    苦しい。酸素が頭に行き渡っていないのか、目が回る。手足の感覚もしびれて分からなくなってきている。
    このまま息苦しいのが続いてしまったら、死ぬのだろうか。誰にも知られずに、オレはここで息絶えて、ずっと一人で
    「はぁーッ、けほ、はひゅ、ッふ、はぁっ、ひゅーッ」
    だめだ、もうわからない。死ぬことへの恐怖もあって呼吸がどんどん下手になっていく。
    視界がぐにゃぐにゃして気持ち悪い。今自分が座っているのか寝ているのかもわからない。なんだ、これ。
    直後、がつんと頭が何かで打たれた感触があり、体中の力が抜けてそのままぱちん、と意識を落とした。




    「やぁ司くん、おはよう。」
    カーテンの奥から顔を出したのは、最近出会った神代類という男。余裕を持っているように見せているのだろうが、時折とても苦しそうに、泣きそうな顔をして蹲っているのをオレは知っている。
    「もう10時だが。まあ、おはよう、類。」
    そう返して、オレは類が座っているベッドの向かいにある椅子へ向かう。自習道具が入っている重たいバッグを床に置き、自嘲するように類に尋ねた。
    「今頃、教室はどうなっているんだろうな。」
    類はしばらく黙ったあと、苦笑いしながら言う。
    「君が考えることじゃないよ。」
    優しいテノールが耳に響く。安心させてくれるような言い方だった。そうだよなと相槌を打つと、彼はフフ、と笑ってこっちにおいでよと自身の隣を指差す。

    彼から人一人分空けて座ると、彼は拳一つ分にも満たない、出会ったばかりとは思えない距離に詰めてきて、オレを胸の中へ閉じ込めた。
    「大丈夫、大丈夫だよ。君がここにいるだけでいいんだよ。」
    なでなで、彼は柔らかい手付きでオレの頭を撫でる。眠くなってしまうような、溶けてしまいそうな感じがした。目の前がぼやけて、類の灰色のカーディガンの皺すらまともに見えなくなってしまう。
    「す…、すまなぃ……。」
    消え入りそうな声で謝罪をした。ここにいることを、オレの存在を受け入れてもらえるような気がして、胸が温かくて痛いような感覚だった。
    類の背中へ手を回して、カーディガンに顔を押し付ける。彼の匂いがふわふわ頭の中へ広がって、一つになっていくようだ。胸が罪悪感で痛いのに、幸せでいっぱいになって変な感じだ。

    2週間前出会ったがここまで打ち解けているのは、きっとずっと保健室でふたりきりで過ごしているからだろう。それに、趣味も合ったようで話が尽きなかった。彼がなぜここにいるのかは知らないが、オレは2週間前、HR中に過呼吸を起こし倒れた。運良く校舎裏の抜け道から登校していた類によりオレは保健室に運ばれ、それから担任の判断で1ヶ月はここにいることになっている。オレがされたことはバレていない。……というか、触れられていない、というのが真相だろう。仕方のないことだが。

    「ねぇ司くん」
    小さい子に読み聞かせをするみたいに彼は言った。君は優しすぎるんだ。ぎゅうと抱きしめる力が強くなって、ぅあ、と息をもらす。背中に回した手で類のカーディガンを握る。このままずっと、類と過ごせたらいいな。学校に行くことすら怖いのに、今だけは幸せに溺れてしまいそう。ぬるま湯のような温度の中、閉じそうな瞳でふふ、と笑った。


    「失礼しまーす、先生、サボりたいので──」
    がらがらと扉を開く音がした後、男子生徒の声が聞こえる。眠くて回らなかったはずの頭はいっきに冴える。オレは、この声を恐怖とともに耳に植え付けられている。はひゅ、と急に苦しくなった息の音が聞こえる。胸の体積が縮まって、ぴり、と痛みが走る。
    幸いカーテンはしまっているので、相手はオレがここにいることなどわからないだろう。わかっているはずなのに緊張はおさまらない。体が冷えて寒い。あの男子生徒はオレをからかいに来たのではないか。怖い。心做しか類のカーディガンを握る手が強まっている感じがする。これ以上は跡がついてしまうのに。彼の手もオレの背中に回って、上下に緩やかに撫でている。
    「…つかさくん、落ち着いて。……息は背中の手に合わせてね」
    耳元で彼は囁く。表では先生が対応していて、類の声は聞こえないだろう。
    大丈夫、僕がいるからね。類のそんな言葉が胸の中へ落ちていく。そこを起点とし失われた体温は元の温度を徐々に取り戻していく。
    「……はぁっ、……る、……るぃ…………ッ」
    縋るように彼の名前をずっと呼んでいる。ここには類とオレしかいないから、なんて思い込んで話し声に聞こえないふりをしてみる。


    「──はーい、ありがとうございましたー……」
    しばらくすると、残念そうに笑う男子生徒の声にがらがらと扉の音が少しの静寂をはさみ2回。張り詰めた糸がぷつんと切れるように一気に緊張がとけて、はあ、と息をつく。力が入らなくなってするすると自身の手が類の服の上を滑る。
    「ぁ……ごめん、類、」
    「こんな時くらい正直に甘えるべきだよ、全く。」
    安心で今度こそまぶたが重くなって、類の胸に体重を預けたままオレは眠りに落ちてしまった。


    僕に抱きしめられたまま眠っている彼をそっと見やる。じんわりと汗をかいて起きそうにない様子は、正直はじめて出会ったぐったりとしている彼を想起させられて心がざわついてしまう。二度と覚めなかったらどうしよう、なんて眠っているだけなのに弱気になってしまう。
    「…先生、司くん寝てしまいました。」
    「そうね…神代くんはそのままでもいい?」
    「はい。……彼を不安にしてしまいそうなので。」
    数日前に寝落ちしてしまった彼を一人にしてお手洗いに行っている間に、目覚めた彼は先生の声も聞かず走り出し、戻ってきた僕がすぐに探しに出ると空き教室に震えた彼がいたのは今考えてもゾッとする思い出だ。
    教卓の下で耳を塞ぎ、体操座りをしてその膝に顔を埋めて必死に小声で謝罪を繰り返していたのだ。殴らないで、ごめんなさいと怯える彼は僕を認識できず、近づいた途端がた、と教卓ごと音を立てて飛び上がり、るい、るいと僕の名前を呼んでいた。
    出会ったばかりなのにここまで頼ってくれるのかと少しの嬉しさとともに彼の状態の酷さに驚いた。

    きっと彼はいじめを受けていたのだろう。彼が抱えていた泥まみれの上靴は僕が自宅へ持ち帰って自作の洗濯機の実験として洗った。思ったよりきれいな仕上がりになったので司くんにそのまま何も言わずに返した。
    洗っただけなのに本当に嬉しそうにありがとうと笑うから、恥ずかしくなって僕もふふ、と笑みをこぼしてしまったのだ。僕の顔を伺うような行動ばかりするので彼が心から笑ったのが嬉しかったのもあるのかもしれない。

    何時間か後にいつの間にか司くんは目が覚めて、ゆるりと頭を持ち上げる。
    「フフ、おはよう、だね。」
    「ん……? おはよぉ、るい…」
    まだ眠たげな声にいつもとのギャップを感じる。寝起きの彼はいつもの取り繕っている様子もなく、素を見ているようで僕は好きだった。
    「あれ、類。…ずっとこのままいてくれたのか?」
    「君のためだよ。気にしなくていい。」
    「はは、類は優しいな。ありがとう。」
    彼は内緒話をするみたいにきれいに笑う。司くんが寝ている間僕も少し眠っていたし、実際そんなにどこか心配するような顔をされることじゃない。
    彼の頭を2回撫でたあと、カーテンの向こうから「そろそろご飯食べる?」と声が聞こえてくる。司くんのお腹がぐう、となった。
    返事しなくともわかるみたいだ、と3人で笑う。
    行こっか、と司くんと至近距離で目を合わせた後、僕たちはカーテンの外へ出た。
    繋がれた左手の後ろであくびをする音がした。



     保健室にある机の椅子に隣同士で腰掛けて、司くんは弁当袋を2つ取り出す。黄色と紫の無地で、取っ手は灰色のどこにでもある普通のものだ。彼は紫色の方を僕の机に起き、水道に手を洗いに席を立つ。
    「今日もありがとう。司くんの料理、好きなんだよね。」
    「いつものお礼だ。そんなに褒めても野菜は抜いていないからな。」
    聞き捨てならない言葉が聞こえた気がするが、彼の作ってくれた弁当に免じて許すことにしよう。さて、野菜はどうやって回避しようか。
    僕も彼を追い席を立ち、手を洗いに行く。ちゃんと手を清潔にしろ! と怒られてしまうからだ。ちなみにいただきます、と挨拶するのも彼によってこの2週間で習慣づけられてしまった。
    「あ、こら。ちゃんと手を拭け。」
    司くんの手によりハンカチで丁寧に手を拭かれる。もちろんいつも入っている反対のポケットから取り出したハンカチだが。
    それでも、僕はこうして世話を焼いてくれる司くんに味をしめて(自分のハンカチは持ってきているが)何度もやってしまう。フフ、ごめんねぇと気の抜けた謝罪をすると、司くんは「申し訳ないと思うならちゃんと直せ」と言ってぎゅうと痛くなるくらいの力の強さで指を握る。いてて、なんてわざと言ってのけても知らん顔をされた。

    「いただきます」
    ぱか、と弁当箱の蓋を開けると鮮やかな具材が目に飛び込んでくる。食欲をそそられる…が。
    「今日はそのミニトマト、絶対に食べてもらうからな。」
    見事に野菜を避けたおかずの中に紛れていたのは赤い怪物。どうしてこんなに無慈悲なことをするんだい、と泣き真似をしてみても司くんはじゃあオレが食べるからなとは言ってくれない。
    とりあえずそのミニトマト以外のものを食べることにした。甘い卵焼きも、唐揚げも僕の口の中で美味しそうに弾けている。本当に類は美味しそうに食べてくれるな、と彼はほほえみながら言う。美味しいから当たり前じゃないか、と返すが、彼はそうかもしれないがそういうことじゃないんだ、と少し拗ねていた。

    最後に残ったミニトマトとじっと見つめる。
    「そんな親の敵みたいな目で見ても…」
    と呆れたように司くんは笑うが、これは重大な問題だ。他の具材と一緒に食べることも考えたが、司くんの料理をそんなことには使いたくない。
    うーんと長考していると、隣から「あーんしたら、食えるか?」と恥ずかしそうな声が聞こえた。見ると両手をもじもじと股の間で遊ばせて上目遣いをする彼。
    野菜とあーんで天秤がかかる。初めてあーんのおさそいを受けたので、ここは応えたいところだが。
    「……食べさせてほしい。」
    僕の野菜嫌いは誘惑には勝てなかった。見るのさえ嫌なのに司くんが持ってきてくれた弁当というだけでそれは簡単に覆されてしまったし、当然のことかもしれないが。
    「ほら、箸貸せ……ん、類。あー…」
    右手に箸を持ち、左手は手皿に。あー、とぽっかり開いた口。彼に差す日の陽も相まって、一つの芸術作品のようだ。
    そっとポケットからスマホを取り出すと、「撮ってもいいから早くしろ」と急かされる。お言葉に甘えてカメラを起動し、パシャパシャと2,3枚撮る。フォルダを見つめてふふ、と笑う。
    開いた口に急に入ってくる何か。慌てて前を見ると怒ったような表情をした彼が言う。
    「いつまで待たせるんだ」
    「ん!?……んぅ、んん〜〜!!」
    「吐き出したら明日は2倍だからな。よくかんで飲み込め。」
    そんな! 悪夢みたいな条件を出されてしまった。仕方がない、と急いで数回噛んでそのへんにあったお茶と一緒に飲み込む。
    「く……司くん…ッ!!ひどいじゃないか!」
    ペットボトルを左手に持ち彼の方を見る。
    何故か彼は赤面して、「あ、ぁ……それ、…オレの……」ととぎれとぎれに言っている。
    「へっ!? ……あ!!ごめん司くん、新しいの買ってくるから!」
    彼の分のお茶を飲んでしまったことに気づき、急いで席を立つ。トマトの味なんて驚きで吹き飛んでしまった。
    「…別に、いい。類だから。」
    本当に司くんったら思わせぶりな態度を取ってくれるね!
    は〜、とため息を漏らすと司くんは「な、なんかへんなこと言ったか?」と僕の目を覗き込んでくる。したよ!!と叫びたいがなんでもないよ、と今更ながらクールを装う。顔が熱くてたまらなかったな。


     そんなふうに毎日ふたりきりで過ごす生活をして3週間と半分が経とうとしていた。今オレは重大な選択を迫られている。

    類に教室に戻ることを伝えるか、だ。

    3週間経っても彼がここにいる理由はわからなかった。そもそも触れさせてくれないし、普段の様子からは悩んでいる気配すら見せたがらないからだ。気にしないでくれ、なんて言っていたがそういう言動をされるほうが不安になるものなんだよなと思っていたりする。

    「教室、かぁ…」
    正直戻るということを考えることさえ嫌だが、これ以上担任に心配をかけてはいけないし、これからも保健室に通うなら親に連絡されてしまう。
    咲希のことで大変だったのにオレのことでも忙しくさせてしまったら申し訳ない。
    ──今頃、教室はどうなっているんだろうな。
    新しいいじめの対象がいるのだろうか。そもそもいじめなんてなくなっているのだろうか。それならばオレはもういなくても、
    「つーかーさーくーん」
    頬をつんつんと突かれる。ぐるぐると回る頭は少しずつ現実に引き戻されていく。
    ああそうだ、こいつがオレを甘やかすから戻りたくなくなってしまう。
    それならば引き離せばいい。甘えるなんてできないようにしてしまえばいい。
    もう、伝えてしまおう。
    「……類か。話があるんだが。」
    いつもより低い声が出て自分でもびっくりした。不思議そうに首を傾げる類を椅子に座らせる。食事のときに座っている椅子だ。いつもと違うのは、類とオレが向かい合わせになるように座っていること。
    いつもと様子が違うオレに気づいたのか、彼も真剣に話を聞く体勢を取る。


    「類、オレな」
    戻りたくないってこと、気づいてほしいのはわがままだろうか。

    「来週から戻ろうと思うんだ。」
    類。


    「…教室。」
    ごめんな。



    「司くんは、戻りたいのかい」
    唖然とした彼の口から出たのはそんな言葉だ。こんな時までオレのことを気遣うなんて、優しいにも程があるだろう。
    「はは、そうだな」
    戻りたいわけないじゃないか。まぶたが震え、笑う口も引き攣っている。顔を見れば嘘なんてまるわかりだというのに類はオレを見ようとしない。
    「い、いやだよ……」
    ゆらり、彼が立ち上がる。椅子はがたん!と音を立てて倒れるが、類は気にも止めないようだ。

    「どうして、君をあんな奴らのところに行かせなきゃならないんだい!?」
    「君は痛い思いをして、悩んで、ここへ来たんだろう!?」
    「どうして、どうして傷つく場所にわざわざ戻ろうとするんだ…ッ!」
    「どうして、どうして、どうして、ッ!!」

    オレのそばでしゃがみ込んだ類は最後に一言言った。
    「……僕のことを、君も一人にするんだね」


    どくん、と心臓がはねた。類の核心に触れたような気がした。
    「…すまない。」
    触れたいのに、そんな資格すらオレはもうないように思えて。
    今更何も言えなくて、彼の頭にも手を伸ばせなくて、ただ一言しか言えなかった。

    彼はそれから保健室に来なくなった。




    「……先生、」
    「大丈夫よ、また何かあったらいつでもおいで。」
    月曜日の昼休み。不安で震えているオレを見た先生は別に今日じゃなくていいんだよ、なんて言うけれどこれ以上類のいない保健室にもいたくない。
    「類が来たら、ありがとうと言っておいてください。」
    「もちろんだよ。神代くん、本当に天馬くんのことを大切に思っていたからね。」
    しばらく沈黙が続く。
    13時、予鈴のチャイムが鳴った。
    正直、不安でたまらない。教室に戻るなんて本当はしたくない。心地よい保健室で過ごしていたい。それでもやはり親にはバレたくないし、担任にも迷惑はかけられない。失望されたくない。嫌われたくない。見放されたくない。
    きっと、大丈夫。
    一ヶ月前までずっと耐えてきたんだから。
    「先生、もう、行きます。ありがとうございました。失礼します。」
    「はーい。そんなに緊張しなくていいのよ。」
    オレは保健室から出ることに決めたのだ。



    ぺた、ぺたと廊下を歩く。教室は2階にあり、保健室は1階。階段までの通路を人の目を気にしながら、縮こまって歩く。怖くて泣きそうだ。
    …ぃ……ょう……。だぃ、じょ………。だいじょうぶ、だいじょうぶ
    類と過ごした一ヶ月を思い出す。
    目覚めたオレを困ったように笑う顔で見つめる彼。もっとお前のことを知りたい、と言えば赤くなってそっぽを向いてしまった彼。オレと過ごし始めてから学校に来る頻度が増えた彼。クラスメイトが怖くて取り乱すオレを落ち着かせてくれた彼。作った弁当を残さずに美味しそうに食べる彼。
    全部、全部、大切な思い出で。思い出すたび顔が綻んで、懐かしさに涙が出る。
    そうだ、教室に戻っても類に会いに行ってやろう。そして、大好きなショーの話も、今度は類が教室に行けるようにだってしてあげよう。
    彼がオレにしてくれたみたいに。
    2階へ行くための階段をのぼる。これを上がった先には数個の空き教室を挟んでA組の教室がある。予鈴が鳴ったため、廊下に出ている生徒は少ないだろう。
    大丈夫、うまくやっていける。
    きっといじめだってやめてくれる。
    一段、二段。右足、左足。
    あれ、どうしよう。目の前が暗くて。

    あれ。
    なんで足が動かないんだろう。

    一ヶ月前と同じような状況に焦る。オレは戻らなくちゃいけないのに。もう保健室にいてはいけないのに。
    どうしようもなく怖くて。
    だぃ……ょう………こゎく……ぃ……、だいじょうぶ、こわくない
    震えて声もまともに出ない。
    自身を落ち着けるため、そのまま階段に座り込む。二段高いところに肘をおいて、顔を俯かせる。
    大丈夫、大丈夫だから。大したことないから。
    そう言い聞かせてみても何も変わらない。
    「ゃ…だ……いかなく、ちゃ」
    体は動かない。自分のものではなくなってしまったようだ。
    教室に行って、席について、授業を……
    ──オレの机はあるのか?
    不意にそんな考えが頭をよぎる。机はマーカーで落書きされていないか?椅子に画鋲は置かれていないか?忘れてしまった教科書はなくなっていないか?破られていないか?

    あの場所教室に、オレの居場所はあるか?

    『──居て迷惑。』
    『消えてくれたほうが俺たちも楽だ──』
    『先生、お前の相手するの疲れるんだ』
    『あんなことされておいてまた教室に来るの笑えるよね──』

    机に書かれた暴言の数々。暴力を振るわれたもうなくなったはずの傷が痛い。刃物で何回も何回も心臓を貫かれたような痛み。
    ぐにゃぐにゃ視界が曲がって一ヶ月前までの記憶がフラッシュバックする。
    「ひッ…!!」
    2階に響く足音に異常なほどの恐怖を抱く。自身を掻き抱いて類にされたように落ち着こうとする。
    ──怖くない、怖くない
    「ひゅ……ッ、はぁっ、すぅ、はーっ、……はぁ、」
    あぁ、どうしてオレは同じことを繰り返してしまうんだ。早く直して、教室に行かなくちゃいけないのに。
    ──吸って、吐いて、……そう、偉いね
    「ふッ…ひゅー、は、…ッ、かひゅッ…はッ、はーっ、は」
    どうして落ち着けないんだ。思考だけが空回りしてどんどん息ができなくなっていく。
    地上にいるのに水の中に溺れていくようだ。
    「はーっ、ぜぇ、る……るぃ、ッもぅ、ごめ、ッごめん、はぁッ、ひゅー、」
    類に頼りたいのに、そういえばもう保健室には来てなくて。
    そもそもオレは類を見捨ててしまったのだから来ないのだろう。
    なんて寂しくて、くるしいのだろうか。
    もう誰もオレの味方なんていない。類でさえもオレが敵に回してしまった。
    自己嫌悪ばかり先回りして、気持ち悪さが募っていく。
    「はぁッ…ぅ、ぷ」
    瞬間、喉に違和感を覚え、口をふさぐ。うまくいっていないのかもしれない。
    息を止めてしまったのでそれも長く続かず、口からなにか出そうになる。
    ここで吐いたら2階まで響いてしまわないだろうか。
    そう思うと一層、吐いてはいけないと思う。
    「ぜぇ、はぁッ、ハーッ、んぐ、ッ、ひゅ、ふーぅッ」
    2階から話し声が聞こえる。この声は知らないはずなのに、何故かオレの耳はあいつらと同じようにいじめてくる相手だと認識して先ほどとは段違いに怖くなる。
    「ゔぇ、ひゅー、はぁ、る、るぃ!、ぅ……ゃあ」
    駄目だ、もう、怖くて、
    周りが、見えなくて、聞こえなくて。
    自分の息の音だけがただ聞こえて。
    苦しくて、辛くて、開放されたくて。
    「ゔぇぇぇ、ぉえ、げほ、はぁーーッ、ごぇえ、ひゅ、」
    我慢はできず、階段に吐いてしまう。足にも自身のカーディガンにもかかるが、そんなことかまっていられない。
    「お、ゃだ……ッぜぇ、ぅぷ、げほッ、ぇぇえ、ぁ、」
    呼吸が苦しくて、衣服についた嘔吐物が気持ち悪くて。
    誰かに助けてほしいのに、オレにはそんな相手などいなくて。
    もう、何もかも捨ててこのまま、苦しいまま死んでしまえたら。
    「ひゅー、がほッ、ぅ、ぇぇえ! るぃ、い……こゎ、はぁッ」
    左手は何かを探すように動いて、右手で口を抑えて。傍から見たら多分地獄絵図のようだろう。
    せめて、最期に類に会えたら良かったのに。
    朦朧とする意識の中、ただそんなことを思っている。

    ──司くんッ!!

    耳元で声が聞こえて、目が覚める。
    「ぅあ、誰…、ハァッ、ひゅ」
    「僕だよ、類さ。司くん、ここでは危ないから下に降りようか。」
    ふわりと体が浮き、しばらくすると降ろされる。
    「る、るぃ……ごめ、ごめんなさッ…おれ、はぁッげほげほッ、」
    「大丈夫、落ち着いて。ね、司くん。呼吸、合わせられる?」
    「はーッ、む、り……類、も……つら、」
    もう、辛い。無理。
    そればっかりオレの口は反復して、過呼吸なんて治まらない。
    それを見て呆れたのか類は司くん、ごめんといつもの数トーン低い声で言った。
    「るぃ、ぁ、…、ごめッ…!?」
    鼻と口を一気に抑えられ、一切の空気の出入りを阻止された。
    息ができなくて、息がしたくて胸だけが収縮と膨張を繰り返す。
    「ん、んぅ!?ッ〜〜!!」
    死ぬ、そう思うと左手はすぐ動いて類の肩のあたりを叩く。
    パッと両手は離されて、呼吸をすることを許された。
    「ぜひゅーッ、はぁーーッ、」
    顔を真っ青にして首を抑えながら呼吸をした。目からも口からも液体は出ていたが、気にしていられるほどの余裕はなかった。
    「大丈夫? 過呼吸は収まったかい?」
    真横から声が聞こえてそっとそちらを見やる。
    幻だと思っていたのにそこには類がいて、思わず涙があふれる。
    「ぅう〜〜、るぃ、るいッ……ふっ、う〜」
    「あーもう、泣かないの。」
    そう言って類はオレの背中を撫でる。毛布に包まれたような安心感に、あぁやっぱり類がいなきゃいけないんだな、と思う。
    「る、ぃ……ごめん、」
    「言うことはそれじゃないだろう。」
    苦笑いしながら彼はオレの頭を撫でる。
    「頑張ったね。偉いよ。こんな時くらい、甘えてもいいんだよ。」
    オレの体、今汚いのに。類は平然とオレを抱きしめて、褒め続ける。認められた嬉しさに涙があふれる。
    「類、るぃ……ッ」
    「うん。なぁに?」
    「オレ、教室、戻れなくて……ッ」
    あぁだめだ。彼がいると自然と言葉が出てしまう。聞いてほしい、なんて思っているみたいに。
    こんな弱った姿ばかりじゃ、呆れられてしまうかもしれないのに。
    「ねぇ司くん。もう、戻らなくていいんだよ。」
    彼は囁いて、続ける。
    「君がこんなになるまでいじめた奴らが悪い。司くんは、何も悪くないんだよ。あんなところよりずっと僕のそば保健室にいてくれないかい。僕がいるから勉強だって教えられる。それに、僕はまだ野菜を克服できていないんだよ? 君がいなかったらどうするんだい。」
    甘い誘惑に、負けてしまう。もう、それでいいかも、なんて。
    「オレだって、戻りたくない…ッ」
    あぁだめだ。類のそばにいると、どんどん自分が弱くなっていく。こんなこと言うつもりじゃなかったのに。
    「オレ、は……ッこれ以上っ、迷惑、かけたくなくて…ッすまない、結局……」
    「大丈夫さ。こんなこと、迷惑なんて思っていないよ。司くんのことが大好きだからね。」
    急に大好きなんて言われても、と困惑してしまう。おかしくなって、失笑する。笑っているのか泣いているのかわからないが、心が晴れているのは確かだ。
    「はは……そうだな。帰ろう、類。」
    まずはここ周辺を片付けてからだが。そう言って二人で笑う。

    ああ、もう戻れない。
    でも、類と一緒ならきっとどんなことでも乗り越えていける気がする。
    それなら、いいのかもしれないな。
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