眠れない日は君と「ミスタ、聞いてよ。もう散々だったよ……」
先週からほぼ休みなく何かしらの作業をしていたこと。特に昨夜は、遅くまでずっと執筆と楽曲作成に追われていたこと。今日の配信間際、せめて仮眠を取ろうとして寝過ごしたこと。しかも自力で起きられず、他の配信に参加していたルカに電話で起こしてもらったこと。慌ててセッティングしたVR機材がうまく動かなくてものすごくイライラしてしまったこと。配信開始がかなり遅れたのに、リスナーは叱りもせず優しかったこと。
声色だけで疲弊度合いが伝わってくる。彼の頭が疲れ切っている時、たいていこういう電話が掛かってくるのだ。普段は愚痴などそう零さないのに、限界に差し掛かるととめどない言葉が流れ出してきて止まらないらしい。
「それはお疲れ。でもちょっと無理し過ぎだぞ」
「なんとか締め切りは守れたんだ。本当にギリギリだった」
「それはすごいけどさ、ちょっとは自分のことも……」
「んー、分かってはいるんだけどね」
歯切れの悪い返事。睡眠に難を抱えているアイクは、普通の人のような生活リズムで過ごすことが難しいと自覚している。それに、毎日の配信やら受けている依頼やらが輪をかけて彼を追い詰める。責任感も強いからエナジードリンクに頼ってでも期限内に仕上げようとするし、その合間に仲間のヘルプだってするから身体が一つでは到底足りないのだ。
「もう今日はやることないの?」
「うん。だから眠れさえすればいいんだけど、配信終わったら頭が冴えちゃって」
今日やったVRゲーム、頭も手も使うし、すごく怖いでしょ?どうも落ち着かないから電話しちゃった。とアイクは続けた。ミスタはゆるく相槌をうちながら、どうしたもんかなと思案していた。
―――コンコンコン、とドアノッカーの音が響く。
「……あ、ちょっと待って。誰か来たみたいだからまた後で」
そういうとアイクは電話を切って階下へ降り、玄関のドアノブに手をかけてゆっくりと開ける。
「え?!ミスタ?なんで来たの」
「来たら悪かったか?」
ミスタはバックパックを肩から下ろしながら、さも当然のように玄関をくぐってきた。
「今ジムの帰りでさ。泊まってっていい?」
「急すぎない?まあ、いいけど……」
素直に喜べよーなんて言いながら並んでリビングまで行く。まだ時刻は夕方。お疲れの文豪様を労る時間はたくさんある。
「風呂貸りるね。ジムのシャワー混んでて浴びてこれなかった」
「うん、今ちょうど僕も入ろうかと思ってたところ」
「じゃあ一緒にだな。先に身体洗って待っててくれ」
言われるがままに、身体を洗い浴槽にお湯を溜めて待つ僕って素直かもしれない。いや、今日は本当に何も考える頭が残っていないだけかな。バスタブの中で深々と息をついて目を閉じていると、ミスタが浴室に入ってきた。タオルの他になにか持っているようだ。
「……バスボム?ミスタが持ってるなんて珍しいね」
「LUSHのやつ。ジムバッグにいれてあったの思い出したから、はいどうぞ」
ミスタはアイクが浸かる湯のなかにそれをそっと落とした。しゅわしゅわと発泡する音と、湯気とともにふわっと上がってくる香り。ラベンダーの柔らかな芳香に包まれ、アイクは次第にミルキーな色に染まるバスタブをしばし眺めた。
「これすごくいい香り…早くミスタもおいでよ」
「オッケー、シャワー浴びたら入るよ」
いつもそうしているように、アイクの背中側に作ってもらったスペースに身体を沈める。男同士で密着して風呂なんてって少し前は思っていたけど、どういうわけかアイクとなら大丈夫だった。少し熱めに張ったお湯と、広がる香りが心地いい。アイクの濡れた髪に頬を寄せ、その控えめな肩や腕にかけ湯するようにさする。
「こんなに贅沢なお風呂の時間、久しぶりだよ。ありがとうミスタ」
「たまにはちゃんと温まらないとな。お前ずっと冷たいもの飲んでる気がするし」
「そんなこと……あったね。特に、ゲームしてると熱いもの飲みにくいから」
念願だった大きめのバスタブつきの部屋を借りたのに、あいにく長湯する時間はずっと取れていなかった。今日も一人だったらシャワーだけで済ませてベッドでスマホをずっといじっていたんだろうなと思う。僕はミスタとお風呂に入るのが好きで、ミスタも満更ではなさそうだ。お湯とともに小さな幸せを浴び、後ろの彼に気付かれないように微笑む。
二人でほかほかに温まったあと、互いにドライヤーで髪を乾かしてみた。普段は自分でやるんだけど、好きな人に乾かされるのは存外に心地いいと知った。ミスタもドライヤーをしている間中、撫でられている動物のような満足げな顔をしていて、どうも同じことを考えていそうだった。
「待って、人生で一番髪がサラサラかもしれない……なんで?」
と言いながら乾いた自分の髪を撫でつけるミスタが面白くて吹き出してしまった。タオルドライをしっかりして、低温で地肌をめがけて、キューティクルに逆らわずに優しく乾かすといいんだよと伝えたけれど、ほーん?という生返事しか返ってこない。そんなところも好きだよ、と心のなかで呟く。
アイクに聞けば今日はろくにものを食べていないことがわかったので、オーダーした軽食を食べながら少しだけ先輩の配信を覗いた。
その中でアニメと漫画の話になると目を輝かせて蘊蓄を傾ける姿は本当に……なんていうか、物知りだなあと思う。アイクのお陰で知ることのできた一般常識とアニメのミームは数知れない。
「じゃあ、次はストレッチね。ベッドに寝て」
すっかり明かりを落とした、ほのかな間接照明だけの寝室。ミスタは僕をベッドに寝かせると、今日ジムで教わってきたというストレッチを施してくれた。
膝を屈曲させて上から体重を掛けてもらったり、今度は逆に身体全体を伸張させ、足首を持って左右に揺すってもらったり。一人だとできないような負荷をかけてもらうことで、身体が正常な可動域を取り戻している感じがする。他にも肩甲骨まわりの凝り固まった筋肉をほぐしたり、手のひらのマッサージまで。
「あぁ……生き返るってこういうことをいうのかな」
「オッサンみたいなこと言うなよな」
「もう若くはないと思ってるよ」
「そしたら無理な生活するの禁止、ジムも一緒に通おうぜ」
ミスタに丁寧に緩められた全身は軽く感じるほどで、つい数時間前までデスマーチ状態で張り詰めていた頭もいつの間にかスッキリとしている。
「ありがと、みすた……ぁ」
伸びをしたらあくびが出てしまった。かなり副交感神経が優位になった身体は、もうベッドと一体化していて起き上がりたくない。
「どういたしまして」
あくびが少しだけ移りながらも、いつもアイクと一緒に寝ているポケモンのぬいぐるみたちに退いてもらう。悪いけど今日は俺のスペースだ。たまにちょっとコイツらに妬いてるのは秘密。
「……腕枕、するか?」
横に並んだミスタの優しい声にちょっとドキッとした。もうすでにどろどろに眠ってしまいたいような気分になっていたので、ノーと言えるはずもなかった。
ミスタの腕を借りて枕にし、仰向けになる。二人では少し狭いセミダブルのベッドも、 ピタリと寄り添えば余裕があった。
そしたら、仕上げに。と言いながらミスタは僕の方へ体の向きを直した。僕の胸のあたりに自由なほうの手を置いて、トントンと心地よいリズムの振動を寄越してきた。まるで、親が子供を寝かしつけるかのような慈愛を含んで。
……ミスタがそっとハミングしている。
聞いたことがある曲。何だったっけ?
スローテンポで、たしか、子供の頃に聞いたような。
ゆったりと流れる川みたいな……
…………
「おやすみ、アイク。」