好奇心なんか出さなきゃよかった 水平線に沈みゆく陽光は、今日を惜しむように広く橙を広げている。ほんの僅かに残る陽気が頬をさすが、海からの風はひんやりとしている。
沈む夕日を見に行こうよ、と誰かが言い出して皆で海辺に散歩に来たのに、どういうわけかミスタと(気まぐれで姿を表した)光ノが肩を並べて歩いている。他の3人は、2人よりはるかに前方でケラケラと談笑して振り向きもしない。
「僕の願いですか?」
「あぁ。何かあるのかなって」
探偵稼業で気付いた傾向。心の奥底の願いが依頼に繋がっている事が多い。実際の依頼が浮気調査だろうが迷子の犬探しだろうが、だ。無意識のうちに本当の想いを叶えようと本人を突き動かしている。
ミスタは偶然出くわした光ノに、世間話の一つとして聞いてみた。
「うーん…強いて言うならば」
美しいエメラルドグリーンの瞳が、一番星でも見るかのように上方に泳いでいく。時折吹く強い風をも受けながら、たっぷりと時間を掛けてミスタの質問に向き合った。
「……"闇ノ"、の幸せですかね」
――――――
主人格の幸せ。オルター・エゴであれば一度は目を向けたことがある(だろう)。リアスである俺も、主人格である探偵紛いの彼のことを考えないでもない。
闇ノには、焦がれているけれどなかなかうまくことが進まない相手がいるのも知っていた。
ミスタがじれったい彼らにちょっかいを掛けたり、アイクがこっそりと相談に乗っていたり、ヴォックスがおおらかな目で見守っていたりすることも知っている。
「闇ノの幸せが光ノの幸せ、ねぇ」
その話を聞いてからは、ミスタはより一層その色恋の行方を気にしていた。ヴォックスと共謀して、彼らが二人きりになる時間を余分に与えたりもした。
飯の種にすらならないそれを、ミスタはほんのいっときの気まぐれを含んで、「人は幸せであるに越したことはない」なんて思いながら、漫然と行く末を眺めていた。
だが、ついに、時が満ちたようだ。
「リアス。闇ノが、ルカと付き合えましたよ」
あの日と同じ、夕暮れの海で俺はそれを聞いた。
「そうみたいだな。ミスタがずっとちょっかい出してたのは知ってる」
黄昏時のグラデーションを背景に、たまにこうして2人だけで過ごす。皆揃って来るのとはまた風情が違う。恋人でもなんでもない俺らの、いつも通りの、夕陽を眺めて話すだけの時間。主人格に許しを貰う必要などないのだが、やはり別人格として過ごせる時間は限られているのだと思い至る。
「僕の幸せは、闇ノの幸せです」
海に石でも投げ込むような、彼にしては張った声。でも、どこか弱々しく震える色を含んでいた。あの時と同じくらいの位置でひときわ大きく瞬く星を意味もなく見つめて、俺はその意味を探っていた。
「おう、それはこの間ミスタが聞いたし、だからルカと――」
「僕に、頼らなくていいときが来たっていうことです」
被せるように、まるで二の句を告げさせないように、光ノの言葉が制してきた。
「……もしかして、お前、」
光ノに向き直り、その白い肩を乱雑に掴む。腕に必要のない力が籠もるが、その力を抜く術も分からないくらいに混乱している。
「リアスには、わかっちゃいますよね、はは……」
この期に及んで笑うなんておかしなヤツだ、と言いたいのに声が出ない。気がついたときには、その線の細い身体を抱き留めていた。
「駄目だ。俺が許さねえ。なあ、」
「はは、初めて抱擁してもらえたのに、そんな言葉しかくれないんですか?」
「声が震えてんぞ。泣きたいなら泣けよ」
「泣きませんよ。僕の幸せ、なんですから」
「違う。闇ノの幸せはおまえの幸せじゃない!」
ミスタは見逃していたんだ。
俺は今更、それに気づいた。
光ノは嘘をついていた。
宵の明星は、あいも変わらず同じ場所で輝いている。
「……僕に頼らないで生きていってほしかった」
肩越しの絞り出すような声。わなわなと震える彼をひしと抱き締め続ける。どうしたらいいのか、皆目見当もつかない。自己中心的な言葉ばかりが口をつく。
「俺の気持ちはどうだっていいのか」
「リアスが僕に何かを思っていることは知っています」
「……」
「知っていますが、そもそも僕なんて存在しないものでしたから」
「それは俺もだろ」
「リアスとは、派生の仕方が…違、うんです……」
お互いの顔が見えない、煮えきらない会話が酷く不格好に継続する。母なる海はそれを聴いているのか否か、ただ分かるのは、俺らの言葉を掻き消そうともしないことだ。
同時に、光ノの言葉がどんどんと弱くなっている気がする。まずい。時間がない。苛立ちと焦りばかりが募る。光ノの意志は、あの日に固まっていたんだ。
建前の願いがあるなら、その言葉の裏側に『本心の願い』があったはずなのに。
「どうしたら俺はお前を繋ぎ止められる」
「恋人でもない、貴方が?」
「……光ノ、一度しか言わない、聞け」
「……はい」
「お前が、好きだ」
「…………」
どれだけみっともなくてもいい。誰かに見られていても構わない。彼の自我を手放すまいと、強く腕に納めたまま、しばらく目を閉じていた。いや、事実と対面するのに怖気づいて開けられなかった。この行動に意味があるかなんて、これっぽっちも考える余裕はなかった。
そのあいだ、たった一回だけ、強く抱き返された。
――どのくらい瞼を動かさなかったろう。実際は多分、そこまで長くなかった。意を決して開いたら、そこにいたのは闇ノだった。彼は俺に感謝を告げた。
彼の目は涙していた。光ノの置き土産だそうだ。
ことの発端はミスタだが、俺もまたミスタの一部だ。自身を責められる訳もない。力なく砂地に膝をついて歯を食いしばる。行き場のない衝動は、涙とともに垂直に落ていった。
――――好奇心なんか、出さなきゃよかった。