夢遊病育児放棄を受けていた兄の息子を引き取って、四年の歳月が過ぎた。
あと二ヶ月程で高校受験を控えている甥っ子は、正式な養子縁組を組んだわけではないものの、養父となった私にも何か不満を抱いていたのだろう。
本来ならば親からしたら反抗期というのは面倒だったり、多少なりとも傷ついたりするものだと職場の同僚達は言うが、迎えたばかりのあの子の姿を知っていれば、例え拒絶という形であろうとも何か感情を表に出してくれる事が嬉しくて仕方がない。
しかし、困ったこともある。
ガチャリ
私室の扉が無遠慮に開けられ、トストスと裸足の足音は中へ踏み込む。
「おはよう、いや…まだ今晩は、カナ?」
彼が反抗期へと突入してから、週に一日十分ほど夜中に私を訪ねて来る。
だが、その間彼は一言も発することはない。
所謂"夢遊病"というやつなのだろう。
目は開かれているものの、どこか虚で目線はなかなか合わないし、呼びかけに反応する事も無い。
いつも通り椅子に腰掛けた私の首にスルリと腕を回して頬を寄せる。
第二次性徴期も終盤に差し掛かり、この頃かなり身長も伸びて喉仏も出てきた。
今まで恋人なんて持ったこともないどころか、恋愛に興味すら無かった癖して庇護下に置いた成熟途中の少年へ劣情を抱いて居るだなんて、誰にも知られるわけにはいかない。
そんな葛藤を知らず、サラサラと艶とコシのある銀糸が首筋をくすぐる。
養子縁組を組んでいないとは言え、流石に教鞭を取る人間が未成年に手を出すのはマズイだろう。
込み上げる欲を飲み込んで、きめの細かい滑らかな頬へ口づけをする。
「何がそんなに嫌なのかネェ…」
夢遊病とは、強いストレスが原因で発症する場合が殆どらしく「ダディに教えて?」と、優しい声色で言ったところで、彼の意識は眠りの底に沈んでいるため返事は帰ってこない。
愛おしい背中に手を滑らせて、意識のある内は一切の接触を拒むようになった体温を堪能した。
そろそろ十分が経過する。
間も無く去っていくであろう細い身体を抱き留めたまま私のベッドで休ませてしまえば、彼の目が覚めた時に…と、思考を巡らせたものの、怒らせて本気の拒絶を向けられる可能性が否めない。
すっかり臆病になってしまった自分自身が可笑しくて、胸元の温もりへ力を込める。
肩口からはすぅすぅと、健やかで規則正しい呼吸音が聞こえ始めた。
いつもならば、正しい眠りに戻る前に彼自信の足で自室へと戻るのだが、今回は違う。
腕の中の愛おしい温もりを大切に扱いたいが、邪な気持ちが横槍を入れて来る。
まだ駄目だ、せめてこの子が選べるようになるまでは、手を出してはいけない。
今私が迫れば、この子は今後の生活の保証を考えて強く拒絶はできないだろう、だから駄目なのだ。
この子から私を求めるように仕向けるのなんて、手間というのにも烏滸がましいくらい容易い。
それをしたくないと思うのは、きっと愛なのだろう。
初めて誰かに抱いた愛を、私は大切にしたいと思ったのだ。
彼の部屋へ運んであげよう、そう決心をして体重を少し移動して持ち上げる体勢を整える。
「…ぁ、れ…?だでぃ?」
寝起きで回らない舌のまま、ゆったりと掠れた声を放つ。
情事の後を彷彿させるその気怠さに、危うさを見出してしまう。
「起きちゃった?おはよう、リリィ」
私の声を受けても尚「ふふふ」と柔らかい笑い声を上げながら首元へ頬擦りをし始める。
「ふふ、夢の中なのに、ダディの匂いがする」
不思議だなぁ…と楽しそうに笑う。
「僕、ダディの匂いすき」
どうやら夢だと勘違いをして甘え続ける愛し子に「好きなのは、匂いだけ?」と質問をした。
「ダディの事が好きだから、ダディの匂いも好き」
でもね…と続けた声色が曇り始める。
「父親とそこまで仲がいいのは気持ちが悪い、父親の論理感を疑うって言われたんだ」
少し強くこめられた力に、容姿も頭脳もズバ抜けている彼を妬む人間が学友に存在しているのだとわかった。
「僕自身へのやっかみで済むならいい…でも、アナタへそれが向くのは嫌だったから…だから昼間はそれらしく振る舞ってるんだけど」
少しずつ、涙声へと変わっていく。
「僕はアナタが大好きだから、嫌な態度をとってアナタに嫌われたらどうしようって…」
低脳共の戯言なんて聞き流せば良いものを、素直で可愛いこの子は心を傷めてしまったらしい。
元凶にはご退場頂こうネ?胸中で静かに予告をした。
それにしても、私への反抗がストレスで夢遊病にまでなってしまい、無意識のうちに甘える事でソレを発散するだなんて、なんとも可愛らしい。
可愛くて可愛くて、もう逃してやる必要は無いのでは?と己の欲が抑えられなくなってしまいそうだ。
「ねぇ、リリィ?君がハタチになったら、ダディのお嫁さんになる?」
それなら、キミと私がどれだけ"仲良く"していたっておかしくは無いだろう?そういう意味を込めて、冗談めかした言葉が口からまろび出た。
「なる」
思わぬ即答とハッキリとした口調に驚いて目線を向ければ、黒い瞳は私の動揺を映していた。
「夢だったなんて、言わないよネ?」
スッと細められても、奥は私を射抜いたまま否とは言わせない。
「…何処から起きてたのカナァ?」
「匂いだけが好きなのか、と問われた辺りだヨ」
どうやら、絡め取られて居たのは私の方だったらしい。
「学校の時間まで、お話しよっか」
クスクスと笑う、出会った当初よりも随分と重たくなった彼に「アナタの側に居たら、五年なんてあっという間だろうネ」と変声期を終えてすっかり低くなった声を耳に注がれ、満更でも無い気持ちになりつつも今夜はもう眠れそうに無い将来の伴侶を抱えたままリビングへと向かった。