じめつく妙な息苦しさで、不意に目が覚めた。不快感を訴えてくる喉に手をやってから、ベッドサイドテーブルに手を伸ばし、目当てのものがないことを確認してだらりと腕が垂れる。白く無機質な天井を数秒見つめてから上半身を起こした。下ろした長い髪が鬱陶しい。深夜特有の静けさと風の気配。壁に掛かった時計を見れば、日付なんてとっくに切り替わっている。
隣室の主は今日は出張でいない。それでも夜中の独り言の声量は控えめになってしまうものだ。
「……喉乾いた」
─────
職員寮と生徒寮の間、渡り廊下の中間地点のドアを開ける。自販機の青白い人工の光源しかない談話スペース。薄暗く静謐な空間のふたつ並んだそのソファーの片側には、淡い金髪が居座っていた。
「あ、ミカちゃんだ」
その人物はこちらを認識すると、笑って手を振った。
「こら、その呼び方はやめなさいっていつも言ってるだろう」
「やだ〜!!」
駄々をこねるように腕を振る彼女──新沼 千偉──は、自分の受け持つ教え子のうちの1人だ。
私──御上 侑然──は、彼女の座るソファーに歩み寄る。彼女は淡い桃色のショートパンツから覗く脚をぷらぷらと暇そうに揺らした。
「ドリンク買いに来たの?ミカちゃん」
「そりゃ、わざわざ自販機前まで来て飲み物買わない人なんていないだろ。千偉ちゃんはどうしたの?夜更かし?」
見るに、ドリンクの類いは手に持っていないようだ。少し悩むような素振りを見せてから、彼女は言った。
「そんなとこ!」
健康優良児の彼女がこの時間まで起きているのは意外──というより珍しいものだったが、特段聞き出すようなことでもあるまい。
「ミカちゃん髪結んでないの?かわち〜ね」
「ふふ、アラサーの男に可愛いなんて言うものじゃないよ」
眩しさを感じる自販機の前に立って、気に入っているパッケージを見つける。
「千偉ちゃんも、今日は髪そのままなんだね」
「そりゃ寝るしね!」
いくつも並ぶ楕円を押せば、ピッ、と小気味よく音が鳴る。取り出した小さな缶を見て、背後から声が飛ぶ。
「ミカちゃん、こんな夜中からコーヒー飲むの?寝れなくなっちゃうよ」
「この時間に起きちゃったからね、今日は特別さ」
彼女は手持ち無沙汰そうに髪の毛に触れた。毛先にかかるピンクのグラデーションは、無機質な明かりの白色で鳴りを潜めている。
「…何か飲む?奢ってあげるよ」
「まじ?ラッキー!」
「というかここまで来てるのに飲み物買ってなかったの?」
ダボついた袖をばたばたと揺らして彼女は手ぶらを示した。
「スマホも財布もぜ〜んぶ部屋に置いてきちゃった」
「じゃあ仕方ないねぇ」
いつも考え無しだポンコツだ、と同級生から怒られている彼女だが、確かにこればかりは擁護できないかもなぁとなんとなく思う。
「なにが良い?」
「いちごミルクある?」
「あるよ」
「じゃあそれで〜」
「後からちゃんと歯は磨きなよ」
「は〜い」
取り出し口からパステルピンクのボトルを取り出して差し出す。重さの無くなった自身の缶はゴミ箱へ。一息ついてから言う。
「私、ちょっとお手洗い行ってくるね」
「ちいもいく〜!」
ノータイムで返事が返って来る。
…男性教諭のトイレについてくることある?……自分も女子トイレに行くってことか。そりゃそうか。
「そっか、歩きながら飲むのはお行儀悪いからやめなね」
職員寮の1番近いトイレへと歩き出す。
まぁ彼女だって若い女の子なのだし、あの空間に1人というのが嫌なのかもしれないし、…
「……え、なにナチュラルに男子トイレ入ってるの」
「すげ〜〜!!ちい男子トイレ入ったことない!!」
「そりゃないだろ……」
小さな体格の彼女は、男子用のぶかぶかのスリッパを突っかけて歩きづらそうにしている。
流石に時間帯の配慮があるのか、彼女は1番小さなライトのスイッチを押すと、手洗いの真四角の鏡を見て前髪を直している。
「…まぁいいや、いてもいいから勝手にどこかに行ったりしないでね」
「なに?…あ、トイレに1人にされるのが嫌なんだ〜!ミカちゃん!」
「そんなわけないだろ……こんな夜中にうろうろするもんじゃないって言ってるんだよ、年頃の女子高生がさ」
「別によくな〜い?ここ結界内なんだからフシンシャだっていないよぉ」
「そういう問題じゃないんだよ」
流石に教え子の前で用を足す訳にも行かないと判断して個室の扉を開ける。
確かに他に人が居ないのであれば、自分が気にしなければ良いだけの話である。良いように解釈しすぎだろうか。
「ミカちゃんってホラー大丈夫なタイプ?」
「それなりにかな。というか人が用を足してる時に話しかけるの、あんまり良くないよ千偉ちゃん」
「無言の方が気まずくない?にゃはは」
「はは、君がここにいるからだろ」
「たしかにぃ」
スイッチを押して水を流す。個室から出て彼女の隣の蛇口に手をかざせば、冷えた水が自分の表面を伝っていった。彼女は依然として前髪を触っている。
「ちいはホラー映画好きなんだけどさ、こないだ2年のみんなで見たらほんとカンくんもロンくんも微妙にビビっててさ、ちょーウケた」
「かわいそうだからやめてやりな」
「今度ミカちゃんも一緒に見ようね」
話を聞いているのかいないのか、彼女は悪戯っぽくこっちを向いて笑った。私もつられて笑った。
「うん、楽しみにしてるよ。ふふ」
─────
場所を戻せば、また特に何も無い時間が過ぎてゆく。自分もスマホは部屋に置いてきているし、この場には時計がない。しかし、段々と空は白んでいく。
ソファーの背もたれにぐでんと仰け反って、彼女は背後の窓の外を見詰めている。首に負担のかかりそうなその体勢は傍から見れば辛そうだ。
「逆さに見る空、きれい?」
「それなり!」
彼女は声を潜めて、しかし元気に答える。私も真似をして後頭部を背もたれに預けた。
消えてゆきそうな、しかし力強く光り輝いている星達が、無数に薄暗い空を歩いている。
あと数時間もすれば青空に溶ける彼らのことを、何百年、何千年、あるいは何十億年も前の姿を見ているのに過ぎないと知った少年のあの日、自分はどう感じたのだったか。
ふと、昔読んだ小説を思い出した。
「──千偉ちゃんはさ、ここから見える星たちが本物だと思う?」
「どゆこと?」
脈絡のない私の問いに、彼女は疑問の声をあげる。
「ほら、ここは組織の作った結界の中で、言うなれば現実とは違う異次元だ。ここの窓から見える星々は、現実だと思う?それとも幻?」
「なるほどぉ」
瞼を伏せ、顎に手を当てて悩む仕草をして、若者は思案した。
「……うーん、どこで読んだか忘れたけどさ、前に読んだ本?マンガ?アニメだったかな…まぁそれでさ、」
目を開けて、彼女は再び空の先を見た。つやつやと輝く瞳が、宇宙を映して輝いている。
「“受け手が感じる感想に間違いなんてない”、っていうの?この空が本物でも偽物でも、それをきれいだな〜って思うちい達の感想は変わらないし、偽物だからってこの綺麗さが減っちゃうわけじゃない。……なんていうか、本物でも偽物でもなんでもいいけど、ちいはきれいだと思うし、誰もそれを間違いだって言えないよね」
想定よりも遥かに詩人的な返しに、少しだけ驚いた。目を細めた私を見て、彼女は眉を下げて笑った。
「……質問とはズレてたかな?」
「いいや、素敵な答えだったよ」
てか急に変なこと聞くね、せんせー。と教え子は無邪気に笑った。
─────
それから、また少し経った。コーヒーのおかげか瞼は少し重い程度で、二度寝をするタイミングは完全に逃してしまっているようだ。
ホワイトブロンドの少女は怠そうに目を細めているが、自室に帰らないというのは眠れないということなのだろう。
カフェインのせいか妙に体が冷える。セクハラで訴えられたりするかな、とあまり回らない頭で考えながら、彼女を呼んだ。
「ちーちゃん、こっちおいで」
「なになに?ミカちゃん」
隣のソファーから立ち上がってこちらへ素直に寄ってきた彼女に、私のすぐそばのソファーの布地をぽんぽんと叩く。
「寝れないんでしょ」
その言葉に、無邪気な生徒はにやっと笑うと、私の右太腿に跨る。提案よりもアグレッシブな動きに思わず苦笑いした。彼女は私の肩に頭をぐりぐりと押し付けて言う。
「ミカちゃん、ほんとそういうとこだと思うよ。そーまクンがひっつき虫になるわけだよね」
「え?今は壮眞は関係無いだろ?」
「無自覚かよ、ウケる」
日頃はハーフツインにまとめられている髪を軽く撫でる。背丈のある自分の手に比喩無しで収まってしまいそうなその頭はどうにも頼りない。
彼女もおかえしと言わんばかりに私の髪に触れた。
「ミカちゃん髪つやつや、ヘアオイル何使ってる?」
「え、特に気にしたことなかったけど…」
「やば、もっと大事にしなよせっかく綺麗な髪なんだから」
「そっか…千偉ちゃんがそう言うなら、なにかしてみようかな」
「ちいなんて髪ブリーチしすぎてボロボロなんだよね、ウケる」
「そう?そんなに感じないけど」
「ちゃんと整えてるからです〜」
とろとろと混ざるような会話の中で、人肌の温度が薄っぺらい布越しに伝わる。女子高生らしいひらひらとしたそれを擽ったく感じながら、ゆっくりと、静かに微睡んでゆく。彼女も同じようで、私の髪を触る手は既に止まり、だらりと垂れていた。
「…おやすみ、ちーちゃん」
うん、と小さく返事が聞こえたのが、寝言だったかは定かではない。
─────
「……仕事、早く終わったからすぐ帰ってきてみれば」
寄り添ってソファーで寝ている相棒と教え子は、自分──京角 壮眞──が近づいてきた気配では起きなかったようだ。
少しばかり考えて、自室へと歩き出す。明るさを増した外の景色はどこか寂しさを感じさせた。
「使ってないブランケットあったよな」
畳んだままになっていたそれを取り出して持って歩く。皆が未だ起きていない寮内を独り占めするのは、こういう時の自分にとって密かな楽しみでもあった。
談話スペースに帰りついて、ソファーで静かなままの2人にブランケットをかけてやる。無垢な少女の無垢な寝顔に心を洗われつつ、相棒の寝顔には何故か少々安堵する。
「…ま、手間賃ってことで、」
独り言を言いつつ御上のポケットから財布を取り出し、小銭を拝借する。自販機の前で何を飲むか視線を漂わせていれば、不意に背後から声がかかる。
「そうま」
勿論聞き慣れた相棒の声。寝起きだからか少し掠れたそれは低い。
「なーに」
極力声を抑えて返事をする。
「ありがと」
どうやら、生徒想いな教師は相棒想いでもあるようだ。
良いから寝ろ、とジェスチャーをして、その場を後にする。ふふ、と御上が軽く笑ったのが聞こえた。
自販機で結局何も買わなかったことに気付いたのは、その日の夜ポケットから小銭が出てきた時だった。