A1これは、きっと、NOじゃない。
その判断が、最初は難しかった。
「なァ、火よこせや」
おもむろに、火のついていない煙草を咥えたメレヴィアがこちらを向いた。誰に向かって言っているんだろうかと一瞬考えて、考えるまでもなかったことに気付いた。この部屋には自分と彼しかいない。
「…私、煙草は吸わないのでライターなんて持ってませんよ」
「じゃあお前も吸えよ、俺よく火ィ忘れるんだわ」
「それ私に何のメリットもありませんよね……」
「この俺専属の火付け係ってワケだ、ありがたく思えよ」
「はぁ……遠慮しておきます」
なんて言ったのはいつだったか。結局あの時は安っぽいライターをそこらで適当に買って済ませたなとふと思い出す。今となっては自分も彼に負けず劣らずのヘビースモーカーだ。それにかこつけてあの男も遠慮なしに火をねだってくるようになった。もうひとりのチームメイトに申し訳がない。
【=】に選ばれて、養成機関を卒業したのち、A区の幹部に選ばれた。その日に顔を合わせたA区のリーダーは、自分より歳下の若い男だった。勿論、よく知っていた。この区画のヒーローで、人気者で、テレビでよく見る顔。近くで見ると睫毛が長くて、エメラルドじみた碧の瞳に少しだけ赤が混じっていたから、なんというか物珍しいなと思った。子供っぽいが自分は灰色の髪だから、向こうがワンランク上みたいに感じてしまって余計に。
出会った当初は、知り合って短いこの男との距離感、付き合い方を、まだ測りかねていた。
こちらからしたら彼の方が一方的に有名人だったのだ。市民の中でのスター的存在の男だが、チームメイトの元一般人、という立場として対応に困る。
というか別の意味の距離感でも困っていた。妙に至近距離なのだ、全てが。パーソナルスペースの感覚が常人よりも希薄なのだろうか。
ことあるごとに肩を組んできたり、後ろから肩に顎を載せてきたり。ベタベタという言葉を使うほど不快な仕草なわけでもないし、やめろと言えばすぐやめるし、彼が気を許した相手にのみだ、ということもあるので受け入れようとは思っているが、だとしても喧嘩をふっかけてきた相手の胸倉を引っ掴んでゼロ距離で怒鳴り散らすこともあるのだから驚いた。
しかしまぁ、「かっこいい」という言葉がA区イチ、いやこの国イチで嵌る男だなと思う。世の女が彼をスター扱いして騒ぐのも頷ける。
骨格のはっきりした長身、堂々とした態度に現実離れした美貌。シラフの男でも惚れ惚れしてしまうような、男らしさと儚さを兼ね備えたそのうつくしい顔に似合わない豪快で大袈裟な表情も、逆に絵になるものだ。
だからこれは誇張でもなんでもなく、本当に驚いたのだ。
メレヴィアがSubだと知ったあの時は。
*
「まさか、ここまで汚れることになるとは……狭い部屋ですみませんね」
【Q】の大量発生事案が多発していた時期のことだったと思う。2人で一晩中仕事してまわった後には、頭から足まで墨汁でも被ったかのように真っ黒く汚れていた。形容しがたい【Q】の不快な匂いで鼻はもう使い物にならなくなっていたと思う。まぁそんなわけで、メレヴィアの拠点が現場から遠かったこともあって、自分の家へと上げたのだ。
メレヴィアは家の前で犬猫のように頭を震わせて顔にかかる液体を飛ばして、邪魔くさそうに髪を掻き上げた。ドアが少し汚れたが、それを咎められるほどの精神力はその時の自分にはなかったことを覚えている。そして彼は無言でずかずかと部屋に入ると、不躾に中を見回した。
「お前もしかしてインテリアにこだわりあるタイプかよ、意外だわ」
「そりゃ自分の部屋です、自分が落ち着く空間にしたいですからね」
おそらく彼は部屋の壁にある絵画のことを言っているのだろうが、正直それは昔の友人との成り行きで貼っただけの、特に明言すべき理由があるものでもなかった。でもなんとなく年下の前ではかっこつけたくなったので適当言っておくことにする。
メレヴィアは疲れているのか眠そうな目をしながらふらふらと家の中を歩いた。汚れるからその格好のまま動かないでくれ。
「ちっと風呂貸せや」
「ちょっと、勝手に入らないでくださいよ、色々説明するので…」
*
烏の行水とはよく言ったもので、10分としないうちに風呂から出たメレヴィアは、勝手に冷蔵庫から缶ビールを取り出してソファーにどかりと座り込んだ。貸してやった服は微妙に脚の丈が合っていないような気がして妙に腹が立ったが気にしないことにする。俺も風呂に行くか、と立ち上がると、メレヴィアは濡れた髪のままソファーにもたれかかって言った。
「なぁ、今日泊めろや」
「別に構いませんが……パートナーさんに誤解されないようにしてくださいね」
「あ?パートナー?何の話だよ」
「え?」
お互い頭に疑問符を浮かべながら見つめ合う。
「いないんですか?てっきりパートナーがいるものだと思っていましたが…」
「あ?ンでだよ」
確かに、きちんとそういう話を面と向かってしたことはなかった。いい機会かと思って、正直に話すことにする。
「まぁ、そこそこ有名な話でしょう。A区のメレヴィアは女を抱きはするが、DomとSubとしてのプレイだけはしない、というのは。明確な相手が既に居るものとばかり」
少々不躾ともいえる言い方だったが、メレヴィアはへぇ、と気の抜けた相槌を打つ。
「『信頼関係があるやつとやるもんだぜ、そういうのは』。でしたっけ」
以前、女の誘いを断っていたのを偶然見たことがある。それを引用すると彼は片眉を上げた。
「まぁパートナーがいるのに女抱いてるのはどうなんだよ……と思ったりはしたんですけど」
「俺の印象最悪すぎねぇかそれ」
からりとメレヴィアは笑った。
そして1度缶を机の上に置いたかと思えば再び掴んで、傾けた。缶の表面には玉のような汗が浮かんでいる。
「まぁ今だから言えるけどよぉ、そりゃできるわけねぇんだわ」
「ん?それはどういう……」
「だって俺、」
Subだもん。
「A区のトップがSubなんざ、どーもカッコつかねぇからよ」
あっけらかんと言ってのけ、また缶ビールを傾けるメレヴィアに驚いた。思わず、日頃から心がけている口調を忘れるくらいには。
「……俺に、言ってよかったのか」
「チームメイトだろうが。言わねぇと俺の気持ち的に嫌だわ」
おらお前も早く風呂行けや汚ぇな、と言いながらこれまた勝手にテレビの電源を入れるメレヴィアは、やはりSubとは思えないほど勝ち気な雰囲気を纏っていた。
それからというもの、更に彼は気を許したようだった。仕事終わりに一緒に映画を観て酒を飲んだり、朝っぱらから2人同時に呼び出されて急いで準備したり。時には2人でお叱りを受けることもあって。そういう、どうでもいいけど楽しいことが積み重なって、そしていつの間にか、多分これは惚れちまったってことなんだろうなと、ふと理解した。
*
それからまた少ししたころ。街で暴漢に襲われていた女性を助けた際、自分もGlareを喰らってしまった。そう端的に告げたメレヴィアは、俺の家に来た。普段は見ないサングラスをしていたのは、苦しげな表情や少しばかり悪い顔色を誤魔化すためか。
あくまでも彼は普段通りを装って、余裕のあるように見せた笑みと共に、背筋を伸ばして立っていた。
「久々に喰らっちまってよ、微妙にしんどいんだわ」
元から白く不健康そうだったくせに、さらに青い顔色が気になって、頬へ手を伸ばす。メレヴィアは特段拒まなかった。
「……わざわざここに来たってことは、俺以外にお前がSubだって知ってるやつ居ないのか?」
表情はあまり変わらなかったが、少しだけ口角を下げて、ぼんやりと斜め前に視線をずらしたメレヴィアはなんでもなさそうに言った。
「……ま、いないことはねぇよ」
ただ、お前んとこが良いと思っただけだわ。
そう告げて歩き出したメレヴィアは、一瞬俺の右肩に頭を載せ、野良猫が甘えるような仕草をした後、すぐに部屋の奥へと入っていってしまった。
いつも大きく見える背中が、少しだけ縮こまっているように見えた。
*
「いい酒あンじゃねぇか、ちょっと飲ませろよ」
「別に良いですけど……少しは残しとけよ」
風呂に入り、好きなだけ酒を飲んで、顔色も元に戻った──というかいつもより赤くなっている気もする──メレヴィアは、ベッドへとダイブした。
「お前もこっち来いよ」
「いやそこ俺のベッドなんだが……」
逆に普段よりも上機嫌になっている彼にぐい、と腕を引かれて、自分もシーツの海に沈む。慣れ親しんでいるはずの自室のベッドなのに妙に居心地が悪かった。
メレヴィアはベッドサイドテーブルの上のグラスに手を伸ばして、ベッドの上にあぐらをかく。そして口寂しそうにまた酒を煽った。寝室は禁煙だと注意してからは一回もその約束を破られたことはないが、そのせいで彼の飲酒が加速している気はしなくもない。
メレヴィアはベッドに沈む俺を見下ろしながら機嫌が良さそうに笑った。
「お前、いつもみてぇな胡散臭い敬語よりよぉ、今の方が俺は好きだぜ」
「…そうかよ。逆にお前は目上の人間に対する敬語の使い方ってのを勉強した方がいいと思うがな」
「うるせーっての」
彼は酒気で赤らんだ顔をしつつも不意に眉を下げて、部屋の窓を見た。酒で誤魔化そうとしても誤魔化しきれなかったなにかを追い出すようにして、ふー、と深い息をするメレヴィアに、日ごろしない心配の気持ちが浮かぶ。
「……お前、Subとしてプレイすることがないんなら、それなりに欲求不満で体調不良とか起こしたりしねぇのかよ。そうじゃなくても、今日みたいに当たっちまった時────」
「なに、気でも遣ってくれてンのかよ。イニアスくん」
不意に、視界が白と黄色で埋まった。唇に触れたものの感触で、目の前の人間───メレヴィアにキスされたのだと気付いた。
ちゅ、と軽いリップ音だけを残して顔を離した彼は悪戯っぽく薄く微笑んだ。ああきっと、世の中の女どもはこの男前な顔に堕ちるのだろう。
今思えば確かに、このときは酷く驚いた。だが、不思議と嫌ではなかった。自分も酒が回っていたのだろうか。
何故かお互い何も言わないまま、今度は自分が上半身を起こして彼の後頭部に手を回して、顔を寄せた。
ふわりと、触れるだけのくちづけ。
1度離れて、角度を変えてまた唇が寄せられる。
口開けろ、と低く囁くメレヴィアに言われるがまま、弾力のある舌と舌が触れ合う。くたりくたりと緩やかに絡み合う舌が心地よく、ゆるやかになぞられる歯列や上顎も快感を産む。酒のせいでひどく熱い粘膜と粘膜が接触する感覚が妙にいやらしい気持ちになった。
前から本人の言っていた通り、ダイナミクス関係なしに男としての行為は山ほどしてきたのだろう、確かに彼のキスは上手く、手慣れていた。
口内を擦られる度に、悪寒にも似たなにかが腰から背中を駆ける。暴力的なまでの官能が脳を支配して、目の前の淡い金髪に添える手の力が段々と増してゆく。
さりさりと、彼の骨ばったしろい指で自分の首の刈り上げた部分を触られるのが擽ったく、少しぞわりとした。
彼の髪からは俺の家のシャンプーの匂いと、彼自身の匂いが漂った。香水越しでないにおいを感じるのは、初めてな気がした。
気まぐれに、彼のピアス穴まみれの両耳を自分の掌で覆う。
彼は一瞬びくりとして、しかし少し笑うような雰囲気を見せた。生々しい水音が響くのだろう、先程よりも眉間に皺を寄せて体を震わせている。
「…ン、ふ……ぅ」
どちらからともなく顔が離れていく。彼は片耳に手を添えながら言った。
「ンだよ、変態か?」
「お前にだけは言われたくねぇな」
それにしても、流れが急だな、なんて呑気に考えながら、それでもその流れに抗おうとはしないままに、どさりとベッドの上に押し倒す。伸びた金の襟足がシーツの上で拡がった。
「……ちょ、待て…」
すると唐突に気まずそうな、不安げな表情を見せたかと思えば、メレヴィアは俺の口を掌で覆った。
「……ー、やっぱダメだわ」
「は?」
こいつ今なんて言った?
「今日はもう寝ようぜ、悪酔いしてンだよ俺ら」
メレヴィアはそう言うと、ぐちゃぐちゃになっていた布団を引っ張って寝転がる。
「は!?!?───え、ちょ、おまえマジか!?」
正直俺が怒って良かったのか良くなかったのかは未だに微妙なラインだったと思うが、それでも困惑はした。
正直、その厚い布を引っぺがしてそのまま続きをしてしまいたいという気持ちが無かったと言えば嘘になる。
しかし彼の翠の瞳がどことなく不安げに部屋の端を見詰めているのをみとめて、少し冷静になった俺は思わず彼の前髪を梳いた。
「……体調悪そうなら、careだけでもしとくか」
音がしそうなほど長い睫毛を揺らして、ゆっくりと瞼を伏せたメレヴィアは子どものように手足を折り曲げて寝る体勢に入った。
「いや、いいわ」
「……そうですか。…ま、なにか変化があればすぐに言ってくださいね」
「ん」
女々しいと言われるかもしれないが、確かに少しだけ傷ついた。
なし崩し的にだろうが一緒のベッドでキスまでした癖して、ダイナミクスの絡むことにはまだ触れさせてくれないような、そんな関係値しか、そんな信頼しか無いのか。
それを、口に出すのは憚られた。
途端に身体の中心から熱が抜き取られたような気持ちになって、自分も眼鏡をサイドテーブルに置いてベッドに潜り込む。
布団越しのすぐそこにいるメレヴィアが、なんだか酷く遠いもののように感じた。
そもそも恋人でもなんでもなく、ましてや下心もなく、ただチームメイトとして良くしてくれていただけなのだ。だから、彼だって自身の秘密を明かしてくれたのだ。それなのに、何を勘違いしていたのだろうか。
多分、俺の存在なんて、そこらの女に多少の追加ステータスが付いたくらいのものなのだろうと、1人納得した。
*
その次の日、朝目覚めた時には既にメレヴィアの姿はなかった。
─────そしてそれから、俺の前に姿を現すことは無かった。
*
『───メレヴィア、お願いです、電話に出ていただけませんか』
スマホの通知に残るメッセージに、どうしようもなく罪悪感が募る。
ただあの時、彼と“記憶”を重ねてしまった、そんな自分が嫌になってしまって、どうしてもだめだった。
*
「メレヴィアが襲われた───」
メレヴィアと連絡が取れなくなってから1週間が経ったころ、仕事中に入ったメッセージに応えて本部へと赴けば、待っていたのは幹部入りが決まった最初の会議の時にもいた、気弱そうな職員だった。
「目立つ人ですからね、それなりに目撃情報が入っていて……犯人は一般人で、個人的な執着から犯行に及んだとか……」
「今、どうなっているんですメレヴィアは、まさか連れ去られたりなんて────」
「そ、それは大丈夫みたいです!自分で犯人を返り討ちにして、自力で現場を去っていったという話ですが……」
妙に言い淀む男に少しの苛立ちと焦りが煽られる。
「ッなんなんですか、はっきり言いなさい」
「ええと……どうにも様子がおかしかったらしく……その後どこに向かったかは分かっていないそうです」
「はぁ……」
その時、不意にスマホが着信を知らせた。知らない番号ではあるが、前にどこかで───、と考えながら画面に触れる。
「…はい」
『イニアスくんで、合ってるかしら』
耳に届いたのは、つややかな美しさをまとった声だった。
*
唐突に連絡をよこしたのは、B区のゾールとかいう女だった。彼女が運転する車の助手席で、なかなか核心を突いた話をしない彼女に少し苛立ちながら自分は座っていた。女の、紫のインナーカラーが入った灰色の長髪は無造作にひとつにまとめられている。
「メレヴィアが世話になっているようで……なんて言い方、できる立場じゃないわね、わたしは……。まぁいいわ、今日はメレヴィアくんからの伝言を預かってるの」
「伝言?」
「伝言ってほど大層なものじゃないのだけれど、」
ブレーキがかけられて、唐突に車が道端に止まる。ゾールはすぐ横のマンションを指して言った。A区の端、人気のない道に面したその建物は死んでいるかのように静かだった。
「今、彼はここにいるわ」
彼女によると、メレヴィアの所有するセーフハウスのひとつがこの中にあるらしい。ゾールから部屋番号が書かれたメモと鍵を渡されて、そもそもなんでセーフハウスなんぞ持ってるんだ、と考えて、あぁそうかと思う。
A区画を代表する立場に無理やり選ばれて、Subでありながら皆を守り、引き連れる役を担った彼の精神は、どれほどまでに無理を強いられていたのだろうか。いくらA区画最強と称される男であろうが、少しも弱さがない訳では無い、のか。当たり前のことに、自分は気付かなかったのか。彼が部屋に閉じこもる理由も曖昧な自分には、何も分からなかった。
「イニアスくん」
車を降りて部屋に向かおうとすれば、女は車の窓を開けて呼びかけてくる。特徴的な狐目はその特徴を失っていた。
「……はい」
「犯人は、もう私が始末したわ。そこは気にしないで。────メレヴィアくんのこと、よろしくね」
それだけ言うと、車はあっという間にそこから去ってしまった。
彼女とメレヴィアの間に何があるのか、ついに聞くことはできなかったけれど、聞いたところで今の自分には何も関係ないのだとわかっていた。
*
──────ありとあらゆる部屋を見た。リビングも、寝室も、すべて。
見ていないのは一つだけになった。それを部屋と呼んでいいのかは怪しかったが。
扉の前に立って、そっとノックをした。
「メレヴィア、……いるのか?……開けるぞ、」
そっとそっと、気をつけて。きぃ、と音を立てながら、クローゼットの入口が開いた。
目を疑った。
あの、いつも傍若無人で堂々として男らしい、人混みから少し目立つくらいの長身。淡い金髪と、緑の中に炎を孕んだ瞳に、ちょっとキザなカッコつけが様になる、名の通ったヒーローの、この男が。
ワックスも落ちて肌に髪がぺっとりと張り付くくらいべしょべしょに嫌な汗をかいて、目蓋や目尻を越して額すら真っ赤になるほど泣き腫らして、殆ど服の掛けられていないクローゼットの暗く狭く埃っぽい隅に、長い手足を折りたたんで縮こまっていた。
なにも拘束するものは無いはずなのに、動かしてはいけないと言いつけられているように、彼は体育座りで、手足をひとつにまとめて動かさなかった。
「………ぅ、」
暗闇の中に浮かぶ碧の瞳が、クローゼットの開いた隙間からの光に細められたのが見て取れた。
彼はこちらが苦しくなるほどに歯を食いしばって、擦れた歯が口の中でくぐもっていびつな音を立てた。
絶対に声を上げてはならないという意識。きっと、声を上げればどうなるかを、どうなったのかを、知っているようだった。
鼻をちいさくすする音がして、涙すらも拒絶するように、息も詰まらせて、口を閉じていた。それでも人間は息をするいきものだから、堪えきれずに彼の口は苦しげに小さく開いた。
そこから漏れ出た「はぁ」という吐息、もしくは悲鳴が、あまりにせつなくて、いじらしくて。自分は、心臓の底を幅広のリボンで縛られたような気になった。
ひどく頼りない小さな子供を、泣かせてしまったような焦りが浮かんできた。彼はとっくに成人した、自分よりも背の高い男だというのに。
何故か、無性に喉が渇いたような気持ちになって、じわりとした熱気がこもるこの空間を割った。
「メレヴィア、」
名前を呼んだ時、大袈裟だと思うほど彼の肩が跳ねた。身体中がひどく痙攣でもしているのかと思うほど、彼は震えていた。
誰がどう見たって、“普通”ではなかった。彼が本当にメレヴィアという男なのか、分からなくなりそうだった。
「……メレヴィア?」
もう一度名前を呼んで、彼のぐしゃぐしゃの顔に手を伸ばそうとした。
ばちん、と音がして、いやだ、と耳の遠くで聞こえた。
手を振り払われたのだと、数秒遅れて気付いた。
こちらがはっとしたのと同時に、目の前の彼は心底怯え、やってしまったという、背筋を這い上がる後悔と恐怖をありありと浮かべた目を大きく開いて、ひゅっと息を詰まらせた。
固く閉じられていたはずの口が焦ったように開かれる。
「──ご、ごめんなさいっ、ごめんなさい、もうしないから、ごめん、なさいっ」
端的に言えば、ひどく、ショックだった。
ぼろぼろとこぼれ落ちる大粒の涙がこちらまで苦しくさせて、溺れそうだった。
見てはいけないものを見てしまったような。どこか、彼ではなく自分が謝るべきはずなのに、と思った。
「ごめ、ごめんなさい、ごぇ、ッなさ、ごめんなさいっ」
泣きながら謝罪を繰り返すメレヴィアを極力刺激しないよう、視界の端から、彼の両手を俺の両手で包む。
「俺だ、…イニアスだ。……俺のことがわかるか、メレヴィア」
真正面から彼を見つめる。なんだか若いガキが青春でもしているかのようなアングルで、じっと目を見た。成功する確証はなかった。
……芯のなくなっている彼の目が、少しづつ何かを取り戻していくのを見た。
「───い、にあ、す」
囁き声のような、気を抜くと聞き逃してしまいそうな音で彼は自分の名前を呼んだ。──かと思えば、糸が切れたように瞼を閉じて倒れ込んだ。気絶か。
泣き腫れていて気が付かなかったが、近くで見ると隈が目立つ。気を張り詰めて、ろくに睡眠も取れていなかったのだろうか。
────きっと、襲撃に合ってからこのセーフハウスまで帰りついたものの、Sub性による恐怖が尾を引き、ずっと閉じこもっていたのだろう。彼の異常な反応は、昔に何かあったことを意味しているのか。自分は何も知らない。
彼の足元に転がっているスマホを見る。おそらく電源はもう入っていない。最後の最後、頼って連絡したのがあの女だったのか。直接連絡したのが自分ではなかったことに、酷く嫉妬しそうになる。自分はこんなに心の狭い人間だっただろうか。
腕の中で死んでいるかのように動かないメレヴィアは、ひどく熱くて、それでいてつめたかった。
*
先程全て見て回ったこの部屋の中を、メレヴィアを抱えて動いて、ベッドに寝かせた。ろくに食べていなかったであろう彼の体は薄っぺらくなっている気がして、このまま死にはしないよなと、不安になった。
ベッドの横で、しきりに眼鏡を気にしながら深呼吸をすることしか、自分にはできなかった。
「…………、」
どれくらい時間が経ったかも分からなくなった頃、長い睫毛が震えて、ぼやけたエメラルドが現れる。
「メレヴィア、」
彼は1度こちらを見たかと思うと、あの日のように視線を部屋の隅にどかして、たっぷりとした沈黙ののちにぼそりと言った。
「…………………悪かった」
「……どうして、あなたが謝るんですか」
ベッド白いシーツの上に投げ出された手を取って、自分の膝を見つめながら言う。
「…無理にとは、言わない。ただ、俺はお前を傷付けたくないから知りたい。だから……聞かせてくれるか」
今思えば、少し急ぎすぎていた気もする。しかしメレヴィアはそれを許した。
「……別にいいけどよ、聞いて楽しい話じゃねぇよ」
「……そんなこと、わかってる」
するとメレヴィアは再び目を閉じ、わがままなこどものように呟いた。
「腹減った。喉乾いた」
*
自分が思っていた以上に混乱していたのか、メレヴィアが1週間弱飲まず食わずの状態であったことをその時ようやく思い出した俺は、食料が微塵もないこの部屋から出るべく、大急ぎで部下に車を用意させてから助手席にメレヴィアを乗せ、自らも運転席に乗り込んで急発進した。私の家でいいですか?軽いものならすぐ用意できますけど…それとも大事をとって病院に行きますか?と矢継ぎ早に言えば、慌てすぎだわ、お前の家でいい、と彼は笑った。
煙草が吸いたいのか、少し唇をなぞるような仕草をして彼は窓の外を見た。
「……イニアス」
「どうしました」
「……やっぱいいわ。俺の話、聞きてぇんだったな」
妙に初めを濁したメレヴィアは、そのままぽつりぽつりと話し始めた。
───最初は、父親。今となっては父親のダイナミクスが何だったのかすらも分からない。まだ自分のダイナミクスすら知らなかった頃だった。おとうさん、と叫んで涙を流す自分の声が未だに脳にこびりついている。母親は何も言わなかった。随分後になって、とある人から「君の母親は自分の旦那の性欲を息子に押し付けたんだ」と言われて、あぁそうか、とショックを受けて、でも母親を恨む気にはなれなかった。優しかったあのひとを知っていたから。
母親によって引き渡された、2人目は最悪だった。もう10代になっていただろうか、幼少期のフラッシュバックでパニックになったところを良いおもちゃのように扱われて、自分の中の尊厳は打ちのめされた。
safewordもなかった。ただただplayという名の暴力を、ぶつけられているだけだった。
飽きた、と言われて捨てられた。それからの記憶は曖昧で、いつの間にか次の人間の元にいた。きっとただのそいつは暇つぶし程度にしか思っていなかったんだろうと思って、自分の人生のちっぽけさを知った。
3人目は、苦しかった。safewordはあった。前と違って、safewordがあるから、ともしかしたら最初はどこか呑気に構えていたのかもしれない。その分、今までと何も変わらなかったことに絶望した。
safewordは言えなかった。言わせて貰えなかった。
───そこからどうにか逃げ出すことができて、ついに警察だのなんだのの世話になった。
「昔の、相手に……勝手に契約書書かされた」
極めて冷静に。過去のことだから、もう終わったことだから。そう言い聞かせているかのように。
ぽつりと水たまりに水滴が落ちるように、少しずつ、声に波紋が広がっていく。
思い出す恐怖と、焦りもあるのか、彼は平生よりも幼いような、あどけない口調で話した。
「やなこと命令されても、やめろって、いえなかった。safeword言っても……怒られて、」
血の気をなくして青ざめていた顔が、ますます生気を失っていく。膝の間で組まれた両手が、震えながら互いの甲に爪を突き立てた。
なによりも信頼の上に成り立つ、それがDomとSubの関係だ。Subのコントロール権を自ら明け渡す、その信頼を築かずに奪い取ったものに、何も意味は無い。
メレヴィアは話している間、一度もこちらを見なかった。
「……あとは、特に言うべきことはねぇよ」
言うべきではないと判断しただけで、言っていないことはまだあるのだろうと感じ取った。
「ンな面倒なSubと関わる必要はねぇ。そう思ったからこないだは途中でやめた。……悪かった」
話は終わったと、彼は視線をさらに俯かせる。
「だから……気にしなくていい、【=】の仕事仲間として普通にやってくれりゃそれで、」
俺は車を路地の端に止めた。
「メレヴィア、」
名前を呼んで、シートから立ち上がる。彼はその動きにもぴくりと反応した。
「ンだよ、イニアスく────」
そっと、彼の体を抱きしめる。やはり、腕の中に収まった身体は以前より細い気がした。
少しだけ強ばった肩にひどく胸が苦しくなって、少し躊躇いそうになる。
「…………やめろ、」
「やめろ」という単語に、ここでやめなければ、自分は彼のトラウマと同じ行為をすることになってしまわないかと、思った。それでも。
回した手で、つとめてゆっくり、静かに背を撫でながら、わざと顔は見ないようにして彼に言った。
「……本当に嫌なら、もう1回言ってくれ。約束する。本当に、それでやめる」
彼が息を呑むのが聞こえた。
「……でも、お前は、もっとわがままを言ってよかったはずだ」
世界はきっとそれを受け入れてくれるはずだった。
「絶対に、お前の訴えは無下にされてよかったものじゃなかった」
世界は彼の言葉を受け入れるべきだった。
「怖かったんだろ、この間も。Domと急に接近したから」
だから、せめて自分は。
「よく頑張ったな、メレヴィア」
彼はそれからなにも言わなかった。
きっと今でも、自分の要求を相手に棄てられないとは、信じきれていないのだろう。
今まで彼のことを、妙にわがままな男だと思っていた。けれどそれは、彼の精一杯の甘え、いや、“許されるかの確認”だったのか。
───しばらく経って、彼は黙ったまま少しだけ俺の肩に頭をのせて体重をかけてきた。今はこれだけで満点だろう。自分は嬉しくなって、指先が痺れるような感覚になりながら、彼の頭を撫でた。
いつか、彼が自分から本気で願ってくれるまで、俺はきっと。
*
「なぁイニアスくんよォ、もし俺が死んじまったらどうするよ」
「またそういうしょうもないことを……」
あれから何年経っただろうか。2人並んで、太陽のない路地で紫煙をくゆらせて、他愛無い話をするのは何回目になったのか、もう自分には分からない。一つだけ分かるのは、あの日とは違って2人の関係性に“チームメイト”以外の名前がついていることくらいか。
「死なせねぇよ、俺がいる限り」
メレヴィアは道を歩く猫を見ていたし、俺は剥がれかけのポスターを見ていたから、お互い顔は見えなかったけれど。
「この俺のことが大大大好きなンだなァ、イニアスくんは」
メレヴィアの声は、口角を上げて笑っているとき特有の声をしていて、思わず自分が恥ずかしくなる。
「まぁそうは言っても、無茶はそろそろ控えて頂きたいですね。私がいなかったら今頃どうなってると思ってるんですか」
「馬ァ鹿、お前がいるから好きにやってんだろうが」
メレヴィアはこちらを見ると、こどものようにあどけない、無邪気な顔で笑った。
「これからも助けてくれんだろ?イニアス」
彼の目には“信頼”が滲んでいて、自分は言いようのない“達成感”のような、何かを感じた。
「…………まったく、わがままなんだよお前は」
金色のこどもは空を見て、ふふんと笑った。