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    あずきバー

    @A2U_KI_

    あずきバーの小説置き場です〜〜〜
    たまーに没の供養とか表じゃあげづらい絵とかも載せるかも

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    あずきバー

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    この1話で終わる創作です。
    めちゃくちゃ読みにくいし字数多いし比喩は下手だしキャラの名前ややこしいですが、暇があったら読んでいただけるとめちゃくちゃ喜びます💃🏻💃🏻💥🎉

    キャラの詳細はTwitterにあるのでよろしければ!

    スターチスの莞爾────美しいこの世界を、美しい君と見ていたいんだ。







    荒くなる呼吸を、自分では止められない。いっそ見事と言えるほど完璧に包囲されているこの状況、自分の周りだけ蒸し暑いような感覚。不快感すらあるそれに舌打ちが漏れる。

    「ッ…僕は、美とロマンに反することはしたくないんだが…」

    やはり、1人では厳しい任務だったか。
    独りごちながら、額から垂れるものを目にかかる前に雑に拭う。深いセピア色の手甲に、汗とも血液ともつかない液体がこびりついた。
    寂れ、古ぼけて薄汚れた礼拝堂。半壊とも言えるだろうその年季の入った建物の、褪せてはいるがそれでも鮮やかさを残すステンドグラスのひび割れた隙間から、微かに冷えた風が勢い良く通り抜けていく。暗闇の中、唯一の光源である月が普段通りに白くそこに有った。
    少々苦労すると通知はされていた任務だった。しかしここまでとは。長槍の柄を掴む手に、焦りからか汗が滲む。
    …あまり戦闘が得意な方ではないとは前々から自覚していたが、ここまで見事に取り囲まれて動けないとなると、流石に前線に出るのを辞めようかとすら思う。

    辺りが次第に薄明るくなってきた。夜が明けたのだろう。そもそも僕は───ヘルメロは、どうしてこんな朝早く、というか深夜からこんな目に遭ってるんだ。少しの現実逃避に浸る。

    こちらの焦燥など知らぬとでも言うように、周囲の二足歩行の影がゆらりと脚を踏み出す。ぼろ布を纏ったような痩躯、その首の上には、お世辞にも人の頭を模したとは言えない赤黒い球形の物体が浮遊していた。じりじりと距離を詰めてくるこの化け物たち──世の中では禍種かしゅと呼称されている──にどう立ち向かうか、かなり悩みどころだ。

    …“彼”は来ないだろうか、ならば1度どうにかして撤退か──しかし予想通りであれば──、とごちゃごちゃ考える割合が脳の大半を圧迫してきた頃だった。

    「───余所見のしすぎだ、ヘルメロ」

    大きく穴の空いた礼拝堂の天井上空。頭上から、幸福の音色が聴こえる。よく通る低音のつめたさを纏って、声は空間に響いた。
    きっとやってくると予想、いや確信していたその彼は、やはり予想通りのタイミングで現れた。敵前であることも気にせずに振り返って、その姿を視界に投げ込む。勿論賞賛の台詞も忘れずに。

    「ルスレイ!!流石、僕の愛する美の結晶は登場も美しいな!」
    「君は今日も気色が悪い」

    彼───ルスレイは、背後に浮かぶ無数の剱を従え、宙に固定されたひとつを足場にこちらを見下ろしていた。色素の薄い金糸の襟足が、朝焼けに照らされてこの場に不釣り合いな輝きを放つ。そこにだけ快晴の青空が広がっているように鮮やかな蒼い瞳と目が合って、つい見惚れてしまいそうだ。今日初めて視るその姿に浮かれて、思わず余計なことがぺらぺらと口から流れ出ていった。

    「君なら来てくれると思っていたよ!そもそも、戦闘に関しては僕より君の方がランクが上だ。僕1人に任される任務じゃなかったと思うんだけど」
    「元々2人の任務だったのに、君が随分先に飛び出していったんだろう。本来の予定は明日だった」
    「え、そうだったのか」
    「全く、これだから話を聞かない奴は……」

    マントを翻して、彼は腕を動かす。戦うための動作であるそれが、まるで舞踊のようにも見えて、思わず感嘆の溜息が漏れた。

    ──やっぱり君は、僕の愛する芸術だ。

    移動した掌に追従して、複数の輝く剱が浮遊する。

    「そうは言いつつも、助けに来てくれたんだな」
    「はぁ…さっさと終わらせて、俺は帰って寝たい」
    「素直じゃない君の芸術的価値が損なわれないように、僕も愛を以て協力しようじゃないか!」

    そう言えば彼は溜息を吐いて視線を他所に逸らした。藍白の布地が風を孕んで彼のシルエットを曖昧にする。

    「今の今まで追い詰められていた奴が協力とは、妙な話だな。…随分と愛を安売りしているように見受けられるが」
    「言い方が悪いな!…って、ッうわ!!」

    耳元を、敵が武具を振り抜いて掠めた。すんでのところで回避出来たから良いものの、至近距離にまで禍種が近づいてきたことに気づいていなかったことは問題だ。いや、これは彼が目を引く姿なのが悪い。

    「…無駄話は後にしよう。───まず君、伏せろ」

    言葉を脳が理解する前に身体が動いた。

    瞬時に彼が、天に広げた掌を振り下ろす。

    唸るような轟音と共に、浮遊する無数の剱が一斉に下に放射された。高速で一直線に降下する煌めきはざくりざくりと禍種の肉体を貫き、空気までもが切り裂かれて音を立てる。何百もの剱の乱舞に、竜巻のような風と砂埃さえ起こった。目の前に迫っていた禍種は、頭部を見事に破壊されて塵と化した。
    僕はといえば、耳鳴りのような断末魔を上げながら霧のように消滅していく禍種を、情けなく中腰になったままでただ眺めていただけだった。びちゃりと頬に撥ねた化け物の血が、粉になって崩れ流れた。
    全てを貫き地に突き刺さった白銀の剱たちは、役目は果たしたとでも言うように輪郭をぼかして空気に溶けていった。

    ───少しの残響の後に、静寂が引き返してくる。

    今まで僕がやってきたのは何だったんだと思うほどに、一瞬にして全ての禍種を文字通り“消し去った”圧倒的なその力に、無意識に上がる口角を抑えられない。手のひらの隙間から漏れ出る笑みと背を屈めたままの姿勢は、きっと傍から見れば発情した獣もかくやといったところか。襲いかかる強烈な感情に、顔に熱が集まっていくのを感じた。思わず、喉が震える。

    「あ、あはっ……良い、善い、好い…!」

    そこから紡がれるのは、やはりいつもの渇きの喘ぎだった。溢れそうになる唾液を無理矢理飲み込んで、浅い息を吐く。

    「───る、ルスレイ、っなぁ、僕を殺してくれ!!!!」

    未だに宙にいる彼を、見上げながら叫んだ。

    「嫌だ」

    極めて簡潔に、彼は毛ほども興味がないと言いたげに無表情で答えた。

    「どうして君はうるさい僕のことをいつも鬱陶しいと思っているんだろう!じゃあ殺したっていいじゃないか!」
    「君が死ねば、俺の負担する仕事が増える。それに、君の思い通りに事を進ませるのは癪に障る。君が俺に殺されたいと思っている間は、俺は君を殺さない」

    この返しを何回させれば気が済むんだ、とルスレイは肩を竦める。その姿すら様になるその容姿は、やはり僕が追い求めた芸術だった。
    ──その芸術でこの生を終わらせたいのだと、いつになったら分かってくれるのか──

    「き、君って性格が悪いな…!だがそれも良い…!」
    「それはどうも」
    「…じゃ、じゃあそんなに殺してくれないなら、君が寝てる間に剱を持たせて僕の腹に刺したっていい!」
    「俺の意思が介入しないそれで君が満足できるのならば、好きにするといい。だが仕事の引継ぎをしてからにしてくれ」

    あっけらかんと言い捨ててみせた彼は、周囲の禍種の存在が確認できなくなったことを確かに把握してから地に降り立った。その脚が纏う編上げのロングブーツが砂を被る。それは美しくない、と思わず布を取り出して拭こうかとも考えたが、流石に布に手をかけるまでで踏み留まった。

    「…し、仕事の引継ぎって…君ってやつは…!やっぱり駄目だ!いつか絶対にきちんと君に殺されてみせるからな!!」
    「…そうか。励むといい」

    励むといいってなんなんだ。君が今やってくれれば済む話なのに。

    しかしたった今仕事でヘマをしている手前、これ以上我儘を言うのは憚られて口を噤む。
    それを見てとった彼はまるで犬猫を見る人間みたいに笑った。サファイアを縁取る長い睫毛が震える。

    「君、普段からそう静かなら良いんだがな」
    「おい、喧嘩売ってるのか」







    ルスレイが自らの本拠地である紺楼院こんろういん霄晰会しょうせきかい、その執務室の机の上に午後の会議で使う予定の書類を置き忘れたことに気付いたのはつい先程だった。会議まで時間はあるが、やることはすぐに済ませる性格のルスレイは、外から帰ってきたその脚で廊下を通り、執務室へと向かっていた。物事を後回しにして得があることは少ない。それはこれまでの経験上知っていた。
    格子の隙間から控えめに光が差し込む美しい空間、煌びやかに光を反射する床のタイルにぶつかる靴音が、高い天井に響く。
    すると、マントを羽織ったその背に、幼くも上品さと知恵を感じさせる鈴の音のような声がかかった。

    「──あ、ルスレイ!帰っていたのね」
    「…ヴァルグロウニャ様。どうかいたしましたか」

    小さな手足を動かして、“創造主”が駆けてくる。本来ならば部下であるルスレイが駆け寄るべきなのだろうが、この上司──霄晰会の神ヴァルグロウニャ──はそういう事は気にしないタチだ。
    オフホワイトの地につきそうなロングヘアを重そうに揺らしながら、ルスレイの腰ほどしかない小さな上司は首を傾げた。小鳥の鳴くような軽やかな音がそのまるい唇から零れ出でる。薄桃色の瞳は穏やかにルスレイを見つめていた。

    「あら、ヘルメロは?一緒の任務じゃなかったの?…いや、それは明日の予定だったかしら…」
    「…彼が予定を勘違いして今日先に向かってしまったので、先程俺も向かい、無事任務は遂行致しました。ヘルメロなら今は自室に居ると思いますが」

    今日は朝から疲れたし少し寝るよ!と手を振って部屋へと入っていったヘルメロの後ろ姿を思い出しつつ言う。ヴァルグロウニャはにっこりと微笑んだ。
    人間からすれば、この御方はただの幼い少女のように見えるのだろう。それほど、なんの違和感すら抱かせない彼女の立ち振る舞いがそこに有った。

    「そう、なにも無かったのなら大丈夫よ。回復は順調?」
    「此処に帰ってくるまでに殆ど外傷は治っていたので問題は無いかと」
    「なら安心ね。何か不具合があるようなら、すぐに言うように伝えておいてくれるかしら?」

    承知致しました、と目を伏せれば少女はぽんと手を叩く。軽くひねれば折れてしまいそうなその手首は、それでいて上位存在としてのある種の強さを纏わせているようだった。

    「まぁ、本題を忘れていたわ。ルスレイ、頼み事をしても構わないかしら」

    少女は少しだけ首を傾け眉を下げつつも、微笑みを失うことなく言葉を紡いだ。

    「実は、お兄様からお仕事がきているの。急を要するものではないらしいのだけれど…」
    「…リエヴァンダレ様から?構いませんが…向こうの神使はどうしたのですか」

    随分と珍しいことだ。創造主たるヴァルグロウニャの─便宜上の─兄にあたるリエヴァンダレが、管轄会派以外の神使を頼ることなどほとんど無い。余程の事情があるのだろうか。ヴァルグロウニャは白いワンピースの布を手持ち無沙汰に弄って答えた。

    「今はみんな長期休暇中らしいの。それにしたって、1人くらいお仕事に残ってもいいでしょうにね」
    「…まぁ、あのお方のことを考えれば不思議ではないですが…」

    存外普通な理由だった。それにしてもあの会派──晃秚会こうばんかいは人手不足なのか?それともあの気まぐれな神が面倒くさがって一斉に休暇を取らせたのだろうか。しかし、考えても答え合わせのしようがないことは考えない方が得だ。するりと、ルスレイは脳の方向を元に戻す。

    「…それで、任務というのは?」
    「特段変わったことじゃないわ。いつも通りに“禍種”を殲滅してきて貰えれば大丈夫よ」

    彼女は胸元のポケットから銀のメモを取り出し、ルスレイへ差し出した。大雑把な癖字でことの詳細が記されている。すぐに彼女の兄の字だと確認できた。

    ───禍種。自分たち天界の住民の脅威であるその異形の存在は、この世の歴史を語る上で欠かせないものだ。
    彼らに統一性があるとすれば、堕ちた浮浪者のように薄汚れた布を身に纏い、その頭部には無機質な赤黒い物体が不気味に浮遊していることだろうか。知性はあるのかないのか、意味不明な行為を繰り返しては、天界の住民に危害を加える迷惑極まりない存在だ。
    しかしそれを根源から滅ぼす方法は太古から未だに見つかっていないため、禍種討伐の任務依頼が定期的に上層部から提出されるのである。ルスレイやヘルメロのような神直属の上位神使でも、そういった仕事が回ってくることは珍しくない。

    メモを胸ポケットに仕舞って、ルスレイはひとつ礼をする。

    「了解致しました。それでは、少し用があるので失礼します」

    えぇ、またね。上司はまた純白のワンピースをふわりとたわませて背を向けた。しかしまた何か思い出したように振り向く。

    「───そうだ、ルスレイ!コアのメンテナンスを行おうと思うのだけど。その用事が終わったらでいいわ、後で紺楼院の拝礼室…いや、その横の部屋に来てくれる?午後の会議の前には終わらせるわ」
    「承知致しました」

    神使のコアのメンテナンスは決して欠かせないものだ。コアを軸として生きる神使にとって、何か不調があればそれが死に直結することも少なくない。それ故に定期的に状態を確認することは大事だが、しかしなんとまぁ面倒なことか。メンテナンスの間は書類仕事を進められないことを、ルスレイはあまり好ましくは思っていなかった。何より仕事を終わらせて自室に帰って本を読みたいのだ。

    この世界は美しいものや娯楽を多く有しているが、面倒事もそれなりに目立つ。神使のコアメンテナンスはそのいい例と言えるかもしれない。

    ───人間の思い描く“天界”というものがどれほどの桃源郷であるか知りはしないが、この場所は少なくともその想像の軽く数倍はくだらないものだろう。

    人間に崇められ下界に恵みを齎してきた神も今では巨大なシステムの1部であり、人間が夢見るような全知全能なものではない。
    この時空に存在する神の大部分が、ここ『紺楼院』に身を置いている。組織を回す歯車として、命を削りながら下界の観察に天界の治安維持、更には進化や生命の研究を行っているのだ。

    紺楼院霄晰会。神ヴァルグロウニャが率いるこの会派の主軸としてルスレイやヘルメロは日々を過ごしている。
    コアを失わない限り、神使がその生命を手放すことはない。いつか来る、いや来ないかもしれないその日まで永遠に、主人に、神に、世界に、奉仕を繰り返す。空虚とも言えるだろうその実態を、然して享受しなければならない。だからといってそのことをどうこうと考える人間的感性をルスレイは持ち合わせていなかったが。きっと“上”の連中にこの考えが知られれば、不敬だと罵られるだろうか。

    ───“考えても意味が無いことはある”。いつものように呪文じみたそれを心の中で唱えて、ルスレイはまた廊下を歩く。
    …心なんて、本当にあるか分からないが。








    ───つぷりと、神の手が皮膚を溶かして背の筋肉を通り抜けていく。後ろから服を気崩して背中を晒し、簡素な寝台に腰掛けている自分の背後、寝台の上に彼女は膝立ちをしている。長い髪が背中に触れて少し擽ったい。
    ヴァルグロウニャ様の、その幼い小枝のような細く柔い腕が、背から突き入れられていくのを感じる。

    まだ若い方とはいえ、自分もかれこれ2000年以上は生きてきている。同じくメンテナンスも数え切れない程受けてきた。…それでも、このときの感覚には未だに身が震え、喉が妙に硬くなってしまうものだ。
    こつりと、神の指先が肉体の奥のコアに触れる。

    「…ッ…う」
    「ごめんなさい、もっと痛くなかったらいいのだけれど」
    「…いえ、仕方のッ…ない、ことですから」

    コアの異常が無いか調べる、いわば健康診断のようなものだ。そうは分かっていても、コアを直接触られるというのは急所を直に触れられるのと同義だ。脳と直結する神経を束ねてそれを撫で回すその行為に、気が狂いそうなほどの感覚が身体中を渦巻く。上手く呼吸できているか分からない。時折詰まる息が苦しい。
    苦痛と表現するにはあまりに浮遊感があり、快楽というにはあまりに刺激的すぎる。どうにも形容しがたいこれを彼女は今“痛み”と表現したが、どうにもしっくり来ない。

    …しかしこれも記録データには不要な情報だ。深く考えることで答えが出るものでは無い。だから、考えなくて良い。
    しかし、外部からの中心への刺激によって目の前が白く点滅して、思考を投げ出すことになるのはあまり慣れないのだ。常に脳を回すことを望む自らの性質上、恐怖の感情が付随していないかと言われればそれは否だ。

    「ふ、ッ…ぅ、ゔぅ」

    理性を手放したくなかった。
    痛みでそれを繋ぎ止めようとしたのか、無意識に親指の付け根を噛んでしまっていた。自覚して口を離せば、くっきりとついた深い歯型には血と唾液が纏わりついている。
    傷口から赤い液体が控えめに流れ出ているが、自分たち神使の身体には自己回復能力が備わっている。この程度なら放っておけばすぐ元に戻るだろうと、気には留めなかった。
    だが様子をよく見ている彼女は、目敏くそれに気がついたようで。

    「…あら、噛んでしまったの?いけないわ、痛いでしょうに」
    「…いえ、ッお気になさらず」
    「だめよ、すぐ治るからって、痛いのはよくないのよ」

    赤くなった手を取って、そこに口づける。いつもいつも、あなたは治るからって好きにしすぎなのよ。小言にも似たような、しかし人間の母親の慈愛のようなそれを囁かれて、僅かになんとも言えない感覚になる。薄桃色の眼と視線がかち合って、また離れた。
    その間にも触診の手は止まらない。短い時間で終わらせようとしているのだろうか、その手は先程よりも急いているように感じる。
    だがそれは先程よりも強い刺激を与えられていることを意味していた。叩きつけられるように息が止まりかける。呼吸を促すように、細い指が口内に差し入れられた。

    「ちゃんと息はすること。別に死にはしないけれど、苦しいわよ」

    ひどく、声が遠くに聞こえる。ぐるぐると渦巻く、止めたくても止められない思考を正常に戻すように、ぐるりと、この時間の終わりを告げる感触がする。コアが大きく震えた。

    「ッゔ、はッ…ッ!」

    ずるりと液体を伴って腕が背から引き抜かれる。水滴がシーツへと垂れる音が妙に大きく聞こえた。べたついているであろうその細い腕とは逆の掌が、頭に乗せられる。自分より頭何個分も小さい少女にこう撫でられるというのも不思議な話だ。少しすれば手は離れて、寝台の上にあった書類に何やら書き込んだあと、服の背部分のボタンがひとつひとつ閉じられていく。余韻に上がる息を整えて、自ら制服の襟元のホックを閉じた。

    「ご苦労さま。特に異常は無さそうだから、今回のメンテナンスは終わりよ。もしかしたら、周期的にみてそろそろコアの分裂があるかもしれないかしら……一応気にとめておきましょうね。それ以外でも、もし何か不調を感じたらいつでも直ぐに言うこと」
    「……了解、しました……」

    最後に彼女は背中を摩って、ぽんと叩いた。


    ───暑苦しくも感じる部屋を出て、冷たい空気を肺に入れる。かぱりと口を開けて深呼吸をした。
    コアは、まだ少しじんじんと熱を持っていた。

    まだこの感覚があるのならば、自分は大丈夫だ。
    ……まだ、自分は生きている。









    ──会議の時間まではまだ時間がある。それまでの暇を潰そうと自室へ歩いていると、共用通路の手摺りに肘を突いて体重を乗せ、窓の外を眺めている片割れ──ヘルメロが居た。外の木々の緑を反射させて、透き通っていると錯覚するほど煌めくライラック色の三つ編みが、柔らかく光を吸い込んでいる。どことなく小動物を思わせる、呆けたような横顔がどこかを見つめていた。

    それから、こちらに気がつくなり慌ただしく騒いでは直ぐに駆け寄ってきた彼に、仕事はどうしたと聞けば彼もメンテナンスで呼ばれたのだと云う。負傷の後にメンテナンスとは忙しい奴だ。

    「もう大丈夫なのか」
    「ん?ああ、今朝の傷なんて、半刻も寝れば無かったようなものさ」

    それより君は?メンテナンスは無事に終わったかい、とヘルメロは問いかけてくる。問題はないと返せば、ほっとしたように彼は破顔した。
    腕を合わせてぐっと背筋を伸ばした彼は窓の外を見ながら息を吐く。

    「それにしてもいいなぁ、ヴァルグロウニャ様は君の身体に合法で触れられるのか」
    「表現が気持ち悪い。ヴァルグロウニャ様はメンテナンスを行っているだけだ」
    「し、失礼だな〜!わかってる!他意はないよ!僕は君のその肉体の芸術性に興味があるんだ」

    …芸術。彼がよく口にする言葉だが、生憎と自分にはそういう人間寄りの感性は付与されていない。理解しがたいなどと言ってしまえばそれまでだが、彼が熱心に語るそれについて好奇心がないかと言われればそうではなかった。
    彼は人間の安っぽい評論家がするみたいに大袈裟に手を動かして語る。

    「君の中心にあるそのコアを一目見たいだけだ。きっと美しいよ、だって君のだもの」
    「…同値のコアから君も産まれたことを忘れたのか。随分と記憶力がお粗末なようで」
    「おい、そんな言い方することないだろう!いや、勿論覚えているよ。2000年経ってもね」

    2000年、とは誇張した表現ではない。2000年前のあの日、自分と彼は生命として動き始めたのだ。
    ヘルメロは、心底楽しいと顔に書かれていると錯覚するほどの無邪気な笑顔をこちらに向けた。格子の外から入り込む陽光によって、その瞳の柘榴は見る度表情を変える。

    「いやぁしかし本当に…君は芸術として最高だ!神というのはきっとこだわって君を作り上げたに違いない!」

    思わず、目を瞠った。自分自身を誰かが作り上げたとは、自分には持ち得ない視点だった。妙な知的好奇心とでも言うか、単に気になって訊く。

    「…神というのは、ヴァルグロウニャ様の事か」
    「いいや?ほらあるだろう、人間が無意識に縋る、概念的なこの世の神が。それのことを言ってるのさ」
    「……」

    やはり彼には、人間に近しい感性が根幹に存在している。元は同じデータからスタートした身としては、その異質さにはかなり興味が引かれた。
    ヘルメロがどさりと音を立てて廊下の長椅子に腰を下ろす。

    「そもそも彼女は僕たちの外見的特徴を故意にデザインしたわけでは無いと言っていた!つまり君のその美しさを作り上げたのは、母たる彼女でもない誰か…そういうわけだ!」

    …成程、筋は通っている。しかし、

    「──俺は俺が作った。他人が介入した記録は無い」

    そう告げれば彼は形のいい眉を下げて、降参とでも言うようにひらひらと手を振った。

    「まぁ、繭の中で自己を形成する過程があったのは確かだ。しかし君には…そういうんじゃなくてなんというか、想像を超えるような…神秘的な、というか………いやもう、なんだっていい、でも君は綺麗だ」
    「随分と雑なんだな」
    「僕は君みたいに理論的に行動することは苦手だ。芸術とロマンを見つめて僕は生きていきたい」

    さっきあんな顔をして殺してくれと嘆願した者の発言としてはあまりにも相応しくないそれに、思わず鼻で笑う。

    「その結果がその他殺願望か」
    「そんな言葉で言わないでくれ!僕は僕という作品を君の手で完成させたいだけだ!」
    「…ふん。精々頑張ることだな」

    きみ、本当に人情ってもんが分からない奴だな〜!とヘルメロはぼやいた。
    ───彼のようなその思考回路は、コアを観察し記録するヴァルグロウニャ様であれば解るのだろうか。
    そう考えると同時に、廊下にくぐもった声が響いた。

    「──ヘルメロ、いるんでしょう?お話も良いけれど、次は貴方の番よ」

    遠くから神の声が鼓膜を揺らしている。聞き慣れた少女の囁き声。ヘルメロは弾かれたように礼拝室の方向を向いた。

    「あ、そうだった、メンテナンス…」

    じゃあ僕は行ってくる!と元気に立ち上がったヘルメロの顔には、やはり人間のような表情が浮かべられていた。

    「あぁ、行ってらっしゃい。君も不具合が無いといいな」
    「勿論!」

    ぱたぱたと駆けていく靴音が遠ざかってゆく。
    彼の行動はいつも人間味を纏っていて、そして確実に彼の意志と明確な目的に基づいて行われている。

    「……ならば───“あの時”の行動にも、何か意味があったのだろうか」

    自分だけになってしまったこの空間でぼそりと呟く。

    …神使というのは、神が作り出したコアを軸に成長し、包まれている繭の中で一定の大きさになるまで過ごす。その後繭の外に出て、それから更に成長を重ねた後に、神の下で仕事をこなしていくことになるのだ。
    勿論、彼と自分も例に違わない。

    2000年前。彼と自分が生まれたとき。

    ヴァルグロウニャ様が作り出した繭──当初“5つ”あった繭の中で、最初に繭の外へと這い出たヘルメロは────俺以外の3つの繭を、破壊したのだ。









    数週間前、晃秚会の神リエヴァンダレ様から依頼された仕事は、ヴァルグロウニャ様から渡されたメモで知らされていた通りだった。日の傾きかけた地上に、自分の影が伸びる。砂漠に近いような乾燥した砂埃が辺りを覆っていた。

    「…凡そ報告通りの量だな」

    現場には大量の禍種が蠢いていた。晃秚会の神は、性格に難ありだが稀代の天才と称されるだけあって、仕事は的確だと感心する。この量ならば、少し時間はかかるとしても1人で十分だろう。
    しかし───ひとつ引っかかることがあった。
    まず本来、禍種の体躯は人間と似たようなつくりをしている。2本の腕と2本の脚、それが胴に引っ付いているのだ。…だが、どうもそれに当てはまらない影が、ひしめく禍種の中にひとつ見える。

    「…新種…?」

    見た事のない禍種だ。少なくとも紺楼院の資料の中には無い。700年かけて大書庫の書物の全てに目を通した自分だからこそ分かるのだ。
    胴体らしきものは見当たらず、気味の悪い凹凸をした頭部の球体から、下に無数の腕が伸びている。不規則にばらばらの方向へと蠢くその腕の集合体に、生理的嫌悪が無いと言えば嘘になるだろう。

    ──とにかく、倒してしまえばそれで仕事は終わる。もし倒せなくとも一度撤退してヴァルグロウニャ様へ報告か──

    そこまで考えて、ぐっと手に力を入れる。
    神使というのは、自らの持つ“顕力”を具現化、エネルギーの集合体としてかたちを持たせる。そして生み出したそれを利用しての戦闘が主だ。
    今回もその通り、慣れた手つきで手先に神経を集中させ、手に馴染む形状の剱を生成する────────筈だった。

    掌の先でエネルギーが霧散する。確かにそこに存在しているのに、ひとつになることを妨害されている、とでも言うか。像はいつまで経っても結ばれない。

    ──おかしい。前回のメンテナンスで異常は無かった筈だが──

    単純に考えれば、あの新種が何らかの影響を及ぼしていると仮定するのが妥当だろう。
    その蠢く腕を、目を凝らして観察する。ちらりと見えたのは、通常の禍種には見られない指環らしきもの。赤黒い指に嵌るそれがこの現象への直接の原因かはまだ分からないが、情報は多い方が良いだろう。今後の研究対象になるかもしれない。こういうのを担当している会派はどこだったか。

    しかし、今武器を生成できないのは困りものだ。今の自分は攻撃手段を持っていないことになる。

    「ッ…仕方が無い、」

    くるりと左脚を軸に身体を勢いよく回すと、眼前に迫っていた一匹の腹を蹴り飛ばし、その手から離れた武具を奪い、すぐそばのもう二匹を続けて刺し貫く。…このタイプの長槍は扱い慣れていないが、無いより随分マシだろう。一先ず1度撤退するまでは持ち堪えられそうな要素は手に入った、

    ────途端、一本の光が戦場を駆けた。

    新種の指環から飛び出した“光”だった。
    それが自分の胴に刺さった。
    血と肉が抉り取られた。
    衝撃が、身体を突き飛ばした。
    コアの1つが光を受けた。

    「────っぐ、はッ」

    一瞬、状況に理解が及ばなかった。
    視界が白く霞み、意識が1度飛んだかと思えば、痛みで引き摺り戻される。
    コアを、神経を抉り焼き切る、息もできないほどのあまりの激痛に、身動きが取れない。崩れ落ちないように、槍を地に突き刺して脚を突っ張ることしか出来なかった。
    好機と見た周りの禍種が放った短刀が、身体を貫いた。1つは肋骨に、1つは左目を抉って抜けた。もう1つは、コアにぶつかって通り抜けていった。風穴が開く、とはこういうことだろうか。

    「ッかひゅ、…ゔッ!」

    ごぽりと口から液体が溢れる。ぐらりと意識が傾く。いくら性能の優れた神使でも、コアをこれほど傷付けられて無事で済む者は居ない。十二分に解りきっていた。

    ───この状態では撤退も難しい、…死ぬだろうな───

    意外にも脳は冷静で、この状況を受け入れようとしていた。視界の隅に、腕を振り上げる新種の姿が映り込む。ひどく景色がゆっくりに見えた。

    身体が、空中に縫い止められたように動かない。このまま為す術なく残りのコアも壊されて“終わり”なのだろう、そう覚悟を決めた──────その時だった。

    強風と、耳を劈くような轟音。

    眼前に迫っていた新種の身体が、見事に建築物の壁面を突き破って地平線の向こうへ吹っ飛んでいく。

    「───すまない、来るのが遅くなってしまった」

    純白の翼が風を切る。白のローブがはためいた。黒の装飾を纏った腕で背中と膝裏を支えられたかと思うと、淡く輝くオパールの瞳が覗き込んでくる。
    霄晰会の仲間ではないが、見覚えのあるそれは、“晃秚会”の───

    「リエヴァンダレに言われて来たが……重傷だな。1度帰ろう」

    朦朧とする意識では、返答が出来なかった。浅く息をする口から無意味な母音が僅かに零れ落ちる。

    「バラザーシャ」

    白の男の背後に、焦げ茶にも似た黒髪の男が降り立つ。翼を仕舞い、地につきそうなほど長い碧色のマフラーをはためかせたその男は、群がる禍種を横目で勢いよく蹴り飛ばしながら言った。

    「残りの処理はオレに任せてくれていい、キミは早くその子を霄晰会のとこに届けなよ」
    「あぁ、了解した」

    …抱えられたまま、その2人の会話を聞くことしか出来なかった。息をするのも散々な苦痛が体を苛んだ。
    自らを抱えている白髪の男は、再び飛び立つために身を屈める。

    「……すまない、」

    その言葉は、何に向けた謝罪かは分からなかった。







    ばたんと、大きな音を立てて豪奢な扉がひとりでに開く。

    「霄晰会の者は居るか!」

    紺楼院の入口、夕日の射すそこへ、男を横抱きにした白髪の男が降り立った。大ぶりな翼を背に仕舞うと屋根の下に入り、抱えた男の様子を膝を突いて確認する。
    ───目は薄く開いている。コアの大部分を破壊されても尚息絶えぬ精神力を持ったその神使は、しかし口から細い吐息混じりに血を吐いていた。

    何やら不穏な様子にざわつく人混みを掻き分け、呼ぶ声を聞きつけた薄紫の髪の男──ヘルメロが騒ぎの中心に駆け寄った。

    「今、霄晰会って────ッる、ルスレイ何があったんだ、そんなボロボロで…!」
    「……やかましい…」
    「どうしたんだ、君がこんなに傷を負うなんてッ…」
    「…ッ、想定外が重なった…、」

    ルスレイの左目は痛々しく抉れている。雪花石膏のように美しく白いはずの肌は大変血色が悪く、その表面には左目を中心にひび割れたように黒い線が脈打ち、時折赤に淡く発光していた。
    胴は大きく傷付いて大量の血を流しており、神使の自己治癒が上手く働いていないことは明白だ。白い制服が、元の色をすっかり忘れたように一面赤黒く染まっている。
    緩慢な動作で瞬きをして、ルスレイは息も絶え絶えに告げた。

    「…剱の生成が不可能だった、…ッ恐らく、新種と思われる奴が、持っていた指環……それが、顕力の合成を妨害する装置だったのだろう……ッ」
    「き、君!それを分析するのは後でだ!傷が酷いんだからそんなに喋るな!」
    「………ヘルメロ、ッ指環からの光を、コアに向けられれば終わりだ、気を付けた方がいい」
    「だから喋るなって!待ってろ、すぐにヴァルグロウニャ様をっ……!」

    その時、ヘルメロの手首をルスレイが掴んだ。
    縋るように酷く弱々しく込められた力だったが、ヘルメロの動きを止めるには十分だった。光の消えつつある蒼いサファイアが、ヘルメロを正面から射抜いている。

    「……結局、きみは…、自分のことしか、考えていない、ッ」

    ────この状況で聞くにはあまりに唐突で、そして衝撃的だった。
    ヘルメロは、自分がこれまで2000年もの間、自分本位などという言葉とは無縁に、自分以外を第1に生きていると信じて疑っていなかったから。

    「俺に対する言葉も、全て…、っ、きみの芸術にとって、俺が都合のいい存在、だからだ」
    「は、そんなッ…、る、ルスレイ」

    苦しそうに息を吐きながら全部言うだけ言って、ルスレイは先程よりさらに焦点の合わなくなった目でへらりと笑った。普段の涼しげな鉄面皮が崩れる。

    「……はは、変な顔…」

    ───そのまま、機能を停止したようにがくりとルスレイの全身から力が抜けた。ヘルメロの顔から一瞬で血の気が引く。

    「る、ルスレイッおいっ!んむ、」

    …しぃ、と白髪の男が指をヘルメロの唇へ押し当てた。ルスレイのコア付近に逆の手の人差し指を添えて言う。

    「まだコアの生命反応はある。気絶しているだけだ」

    その言葉に、ヘルメロも慌ててコアを確認する。…確かに、ルスレイは生きていた。

    「……ほ、本当だ……」

    深い傷を刺激しないよう、慎重にルスレイを抱え直した男は、ゆっくりと立ち上がってヘルメロに視線を寄越す。

    「兎に角、霄晰会の…ヴァルグロウニャ殿のもとに連れていこう。彼女は今何処に?」
    「…きっと今は霄晰会の拝礼室だ。着いてきて欲しい」

    諒解した、と男は静かに首肯した。

    紺楼院の入口広間からいくつも枝分かれしてそれぞれの会派本部へと繋がる通路、その内のひとつを2人は進んでいく。ヘルメロは落ち着きなくちらちらとルスレイの顔を覗きながら、紺楼院の中でも名の知られた人物であるはずのその男に言った。

    「そ、そうだ、貴方は…晃秚会のバラザーシャさんだろう」
    「あぁ。私はバラザーシャ、晃秚会のリエヴァンダレが作った。今回の件、リエヴァンダレが依頼したのだろう。…ヘルメロ殿、彼の部下としてこのような事態になってしまったこと、深く詫びたい」

    白髪の男、もとい晃秚会のバラザーシャは、ルスレイを抱えたまま深く頭を下げて謝罪する。頭の動きに合わせて、顔の横に垂れる白い三つ編みが流れ落ちた。ヘルメロは眉をきつく下げて言った。

    「…っいや、これは晃秚会やリエヴァンダレ様のせいじゃない。頭を上げてくれ」
    「…ありがとう。君は優しいんだな」

    ヘルメロは目を一瞬見開くと、悲しそうに乾いた笑みを浮かべる。

    「……優しくなんかないさ。彼もさっき言っただろう、僕は…」
    「…あまり深く考えるのはお勧めしない。コアを汚染された状態のこの子がする発言を、まさか君は本物だと思うのかな」

    ──────それでも、本物じゃないとは限らない。
    だが、ヘルメロがそれを口に出すのは憚られた。

    静寂の後、再び歩みだした2人を追いかけるように、赤目に黒髪の男が靴音を鳴らして歩んでくる。その腕の袖は僅かに赤黒く汚れていた。赤目と反対の碧いマフラー、温和そうな表情と、左頬の独特のタトゥー。なんともアンバランスな男だ。

    「──彼、大丈夫なのかい?」
    「あぁ、アデルリスタ…。今のところはなんとも言えないな。そうだ、あの後はどうなったんだ?」

    バラザーシャにアデルリスタと呼ばれたその男は、少しだけ溜息を吐いた。確か、彼もバラザーシャと同じく、晃秚会に所属している神使のはずだとヘルメロは思い出す。
    アデルリスタの落ち着いた低音が通路に響く。

    「あの場所にいたのは全部喰って来たよ。だが……その彼を撃った新種らしき奴は、あの時吹っ飛んでいってそのままだ。きっと逃げて回復しているんだろうね…追跡も試みたが、新種だからかコア探知に反応しなかったよ」
    「そうか……」
    「……すまない、喰って来たとはどういうことだろうか」

    ふと出てきた、禍種の討伐にはあまり似つかわしくない単語に、ヘルメロがおずおずと尋ねる。アデルリスタは軽く笑った。

    「ん?あぁ、そのままの意味さ。オレに与えられてるお仕事。…禍種を経口摂取した場合の神使のコアへの影響の実験をしてるんだ」
    「摂取……?それはつまり、」
    「食べてるんだよ、あの化け物たちをね。真似はしない方が良いぜ、まだ研究の途中だし、そもそもアレあんまり美味しくないし」

    晃秚会は何の研究をしているんだ、とは突っ込めなかった。長たる神が智のある変わり者であれば、その構成員も変人揃いなのだろうか。

    「そもそも、どうしてお2人はルスレイを助けに?」
    「ご主人様のお達しでね。急に場所だけ言われたものだから、オレたちも何が何だかよく分かっちゃいないんだが……でも本当に、もう少し遅くなっていたらどうなってたことか」

    アデルリスタは憂うように目を細め、バラザーシャの腕の中のルスレイを見た。そして言った。

    「まぁオレたちの話はいい、まずは彼を霄晰会の神に届けるのが先だろ?」

    その言葉にヘルメロとバラザーシャは頷いて、脚を急がせる。バラザーシャの腕の中で、ルスレイが小さく呻いた。







    ───霄晰会の神ヴァルグロウニャは、はじめ散々な見た目で運ばれてきたルスレイにひどく驚いていたようだったが、すぐに落ち着いて処置を開始した。…ヴァルグロウニャも、優秀とはいえまだ若い方に分類される神だ。初めての部下の惨事に、手は微かに震えていた。

    横たわるルスレイに触れるその小さな後ろ姿に、ヘルメロが語りかける。

    「ヴァルグロウニャ様、…あなたは彼の治癒に専念してくれ」

    腹から深く息を吸うと、はっきりと告げた。

    「僕が────全部終わらせてくる」

    手甲が酷く歪むほど、ヘルメロの拳に力が入っている。それを横目で見たバラザーシャが歩んで名乗り出た。白の三つ編みがふわりと揺れる。

    「…ルスレイ殿の話を聞く限り、コアに指環の光が当たれば致命傷は避けられないのだろう。ならば、“コアを持たない”私が行った方が良いのでは」

    ───ヴァルグロウニャから聞くところによると、バラザーシャは神使ではなく、晃秚会の神リエヴァンダレが研究の果てに作った“人工の神”であるらしい。それ故に、神使なら持っているはずのコアを有していないという。

    「…いや、その条件の方が想定外を産むかもしれない。ルスレイの報告と条件は同じ方が良い。それに…万が一があってはいけない。紺楼院晃秚会の主要戦力である貴方を、霄晰会のことで失う訳にはいかないだろう」
    「ならば2人で行こう。晃秚会の神使をもう1人連れてきて、3人でも良い。そもそもこれはリエヴァンダレの依頼だったのだから」

    あくまで善意からの提案をするバラザーシャに、ヘルメロはひどく言いにくそうに、それでいて明確に返答する。

    「……言い方を、変えても良いだろうか。────僕が殺したい。だから、僕だけで行かせてくれ」

    薄暗く輝く柘榴の瞳に、バラザーシャはそのオパールを僅かに瞠ると、目蓋を伏せて微笑んだ。なんとも人間らしい神使だと、少しの面白さも感じて。

    「あぁ、…理解した。そうしよう。だが何かあれば、すぐに助けを求めてくれ」

    そうさせて貰うよ、とヘルメロは眉を下げた。

    「…ヘルメロ」

    背を向けたままルスレイの治癒作業を続けるヴァルグロウニャが、ヘルメロに声をかけた。

    「どうしたのかな、ヴァルグロウニャ様」

    小さな背中から返ってきたのは、いつになく頼りなくか弱い、幼い子どもが親に泣きつくような、少女の声だった。

    「…あなたまで壊れて戻ってきたら、許さないわ」

    ───創造主の脅迫じみた懇願の言葉に、ヘルメロはひとたび目を見張ると、その憂いを拭うように笑顔で堂々と告げた。

    「…あぁ。必ず無事で帰ってくると約束しよう。我が愛する母よ」







    湿度の低い風が強く吹き付けている。アデルリスタが教えてくれた、あの新種がいると思われる場所────あの日僕がルスレイに助けられた礼拝堂は、やはりステンドグラスの隙間から冷えた空気を通していた。日の沈みきった空に月は見えない。

    ───ルスレイの情報通り、顕力による武器の生成は困難だった。2000年の間、数えられないほど扱ってきた筈のエネルギーを、上手く具現化できない。何度試しても、使い慣れた長槍が掌に収まることは無かった。

    僕たち神使が顕力を具現化して生成する武具は、確かに具現化を阻止されればただそこにあるだけのエネルギーであり、物理的な攻撃手段たりえない。
    今の僕は、顕力による武力を持たないのだ。

    しかし────────神使が顕力以外で戦えないとは、一言も言っていない。

    「…久々に持ち出したよ、こんなもの」

    まだ産まれて百数年しか無かった頃、具現化技術が拙かった僕たちが代用として使っていた、それ。
    ヴァルグロウニャ様から頂戴した神具──禍種を殺すことに特化した武具だ。
    磨きあげられたこの大剣は、顕力でできたものと違って重量がある。久々の重みを感じながら、大剣を振り上げた。アデルリスタが喰ったと言っていた通り、見渡す限りほかの禍種の姿は無い。
    しかし先程のように顕力の使用が不可能なことを考えると、新種は近くにいると考えていいだろう。

    そっと礼拝堂の外へと足を踏み出せば────視界の先には、見慣れない姿の禍種。

    妙に変な音が聞こえる気がしたから何かと思えば、僕が無自覚に歯ぎしりをしていただけだった。

    「………君か、僕の、僕の愛する芸術を、汚したのは」

    腸が煮えくり返るとは、こういうことを言うのだろう。知識を求める神使であるルスレイに、あとで教えてあげようか。
    いっそ清々しいほどの生理的嫌悪を抱かせてくるその禍種の見た目は、美しくない。てらてらと気味悪く光を反射するぬめついた表面は鳥肌が立ちそうだ。バラバラに動く無数の腕も、生物として気色悪い。
    こんなのが、あの美しいルスレイを───、

    「ッあぁ、本当に……穢らわしい!!」

    激情のまま走り出す。予想通り、新種の指環から光が一直線に放たれた。アレがコアに当たれば終わりだとルスレイは言っていた。
    まずは一度試しに大剣で防いでみれば、きぃん、と不愉快な音が鼓膜を揺らし、軽く衝撃はあったが簡単に光は横に逸れていった。この大剣があれば回避は可能な程度の殺傷能力らしい。ならば大丈夫だ。
    恐らく、この新種はこれ以外に攻撃手段を持っていない。しかも先程はルスレイが武器を持っていなかったから防げなかったというだけで、全てを貫き通すような破壊力をこの光は持ち合わせていないようだった。
    だが当たれば致命傷は避けられないことに変わりは無い。慎重に大剣を捌いて的確に弾き避けつつ足早に駆け抜け、徐々に距離を詰める。無意識に息が詰まっていた。視界を妨げる砂埃を切り裂いてゆく。

    次々と無数に放たれる光を弾きつつ進んだ先には、まるで助けでも乞うようにこちらへと無数の手を伸ばす化け物がいる。その腕を、力任せに叩き斬った。

    「───ッはあッッッ!!!!」

    金の表面にヒビが入って、ぱきんと軽い音を立てた指環を、ぐっと、慣れない大剣に力を注いでそのまま破壊する。それを身につけた手も指も、腕すら残さないように、粉々に。禍種の気味の悪い断末魔の叫びが聞こえても、ぐちゃぐちゃ、ばきん、と気味の悪い音が鳴っても気にしなかった。

    ───指環が破壊できたのなら、顕力の合成も可能なはず。その考えは的中し、目の前には馴染みのある長槍が直ぐに姿を現した。

    槍で禍種の頭部を貫いてそのまま地面に刺し、新種の動きを縫い止める。原型を留めていない腕の集合体を、ブーツが汚れるなんて気にせずに力任せに踏みつけて、至近距離で感情に任せて叫んだ。

    「──ッあれは、あの清廉は、僕のものだ!それを穢すなんて、禍種も、人間も、神使も、──神であっても!!……誰にだって、許されることじゃない」

    僕は何を言っているんだろう。禍種が言葉を理解出来るのかは知らなかった。でも叫ばずにいられなかったのだ。

    「…君なんかに、芸術は理解できないよ」

    途端、新種のそのからだが、どろりと輪郭を失って地に広がった。脳天に刺さっていた槍が意味を為さなくなる。…かと思えば、もう一度何かを形作るように、赤黒い液体があしもとからかたまっていく。

    ───作り上げられたその姿は、眩しくも淡く輝く金髪に、白く艶やかな肌、切れ長の目を長い睫毛が縁取った、僕の求めた芸術、美の結晶、愛すべき美しさを備えた────あのルスレイ、そのものだった。
    ただ一つ違いを述べるとするならば、

    「……いいね。その瞳。まるで……彼が僕の目しか見ていないみたいに、……あかいじゃないか」

    思わず、笑みが零れた。この化け物は、どうしようもなく、……何も分かっちゃいない。
    ルスレイを──禍種を見下ろしたまま、大剣を振りかざす。

    「でも───────いくら君が彼の容姿を真似しようと!あの高潔を模倣しようと!!」

    ──きみは、彼には成り得ないよ。

    あぁ、僕を殺すのは、あの彼でなくちゃならないのだ。

    その首を、落とす。骨に当たる感触と、肉を切る感触。美しい芸術を模倣した贋作、それをめちゃくちゃに破壊した。不思議と大剣は重く感じなかった。

    あぁ、2000年前の僕もこうだったのかもしれない。ルスレイの“模倣”をしたあの3つの繭を、許せなかったのかもしれない。なんて滑稽なことなんだろうか。それが本当なら、僕だって。

    「…………ッ」

    赤い目のルスレイ───新種は、跡形もなく塵になって消えた。ものを叩き斬る音からふと地面を抉る音に変わったことに冷静になって、必死に大剣を振るっていた腕を止める。

    ────終わったのか。

    最初のルスレイの助言が無ければ、僕もわざわざ質量のあるこの大剣を持ち出さずに顕力で戦うことを選んで、指環の光でコアを撃ち抜かれて終わりだっただろう。

    辺りを包む静寂に、本当に終わったのだと実感すれば、一気に疲労が身体を襲った。重い大剣を抱えていた腕がじんじんと痺れている。そもそも戦闘は得意ではない。身体に大きな損傷が無かったのはある意味奇跡だ。

    「はぁ…………」

    地に突き刺した大剣を支えにその場に蹲ると、不意に下がった視界に黒の硬質な靴が映り込んだ。勢い良く顔を上げれば、白髪の男──バラザーシャが笑っていた。何も言わずにいれば、黒のグローブに覆われた手が、己の頭を撫でる。

    「よく頑張った、ヘルメロ殿。さぁ、帰ろう……彼が待っている」







    「…3つのコアの損傷と汚染が激しいわ。わたしでも、完璧に修復は出来なかった」
    「……ッ…」

    紺楼院に戻ってくれば、死人のように横たわるルスレイの傍に、ヴァルグロウニャが座り込んでいた。帰ってきたヘルメロを見たヴァルグロウニャ様は、よかった、あなたはもどってきたのね、と鼻を啜った。

    「わたしも全力を尽くすけれど、あとはルスレイ本人の自己治癒が上手く働くかどうかも重要ね…」

    まだ、ルスレイの片目が修繕されていない。血は止まっているが、通常であれば今頃既に治りきっている筈。
    …日頃ふとした時にしか見えない、隠された宝のようなあの蒼さが好きだったのに。限りなく愛して通いつめた芸術品が、不意に無粋な客に落書きをされたような気持ちだった。
    一部始終を見ていた晃秚会の2人が、端の壁で並んで会話している。

    「大変だねぇ、霄晰会も…」
    「…そうだな。しかし、何よりヘルメロ殿が無事で良かった」
    「ああ、何よりそれに尽きるね」

    ルスレイの手にヘルメロが自らの手を重ねる。
    つめたい指先を、自分の体温でもとに戻したかった。

    「ヴァルグロウニャ様、…結局、ルスレイは」

    彼女は、床に視線を落とした。

    「…汚染されたコアをどうにかしなきゃいけないわ、でも今から申請を出して間に合うとは到底思えない」

    コアの新規作成には上層部への申請と許可が必要になる。しかし今、悠長にそんなことをしている時間は無い。何しろ特例が許される社会ではないのだ。

    そもそもの話をするが、神使のコアは最初は神が生み出したひとつからスタートする。繭の中でコアの周りに肉体を生成し、ある程度の大きさで繭を捨てる。その後は定期的にコアを分裂、それぞれを肥大化させていく。
    ルスレイやヘルメロも、勿論最初はひとつだったが今は6つに変化しているのだ。しかしもうじき次の分裂で8つになるだろうと、前回のメンテナンスで判明しているが。

    だがルスレイの6つのコア、今やその半数が機能を止めかけている。すぐにでもその3つを汚染なしのコアに変えなければ、生命の維持は難しいだろう。更に、コアは最初のひとつと同じ系統の方が適している。つまり、リエヴァンダレを初めとする紺楼院の他会派の神ではなく、他でもない“ヴァルグロウニャが作ったコア”を用意する必要がある。

    ────ならば、

    「コアを、…僕のコアを使えばいい」

    ヘルメロが、突き動かされるように口にする。目は大きく開かれていた。ヘルメロが言ったそれは危険な試みだった。

    「彼の汚染されたコアをみっつ捨てて、僕のを入れれば」
    「そんなことッ…、今のあなたが急にコアを半減させたら、その生命を保つことは不可能よ!」
    「僕には!僕が殺した3人のコアを入れればいい!!」
    「なッ………」

    懇願するような、しかし怒りを孕んでいるようなその叫びに、ヴァルグロウニャがたじろいだ。
    ヘルメロは、たからものに傷がついたことに気付いた子供のように、元に戻して欲しいのだと泣いて喚きたかったのを堪えていた。

    「…2000年前、僕が繭から出たあとの2日、僕は周りの3つの繭をコアごと粉々に壊して回った。…しかしそれを復元しないような貴女じゃない」

    ヘルメロは膝の上で両手を握りしめている。苦しげな表情を浮かべた神は、その小さな腕を組んで言った。

    「…確かに、あの子たち3人の最初のコアは、どれも復元して保管してあるわ。でも、あの3つは当時の…2000年前のままよ。貴方の今のコアの代わりとして扱うには未熟すぎる。…ヘルメロ、それを貴方に入れれば…」

    分かっている、と言うようにヘルメロは目を伏せた。鮮やかな柘榴が瞼の奥に隠れる。

    「コアは僕たち神使の生命情報を保管するものだ。それが半数になれば、確実に今までとは違う僕になってしまうだろうが…」

    両の拳に力を入れた藤色の男は、鋭く目を開く。

    「そんなことはどうでもいい、僕はただルスレイを救いたいだけだ。彼は───失われていい存在じゃない」

    ヴァルグロウニャは、ルスレイの血色の悪い手に重なるヘルメロの手の上から、己の手を重ねた。

    「……紺楼院霄晰会の神として、誰1人死なせる訳には行かないわ」

    晃秚会の2人が、この光景を静かに観ていた。

    「少しでも貴方の生体維持にまで異常を来すようなら、すぐに中断して貴方を生かす方に変える。それでいいわね?」
    「…あぁ…当たり前だよ。…それが、紺楼院にとって有益なことだ」

    …ヘルメロは、目を伏せて下唇を噛みながら言った。







    ───端的に言えば、その試みは成功した。

    結果、3日後に意識を取り戻したルスレイは、その後丸1日ベッドから起き上がれずに居た。

    そして今、…やっとのことで、自室から出ることに成功したのである。

    「ッ、」

    廊下の窓に何度も手を突いて、乱れた息を整える。いつもの制服とは違い、首元の緩い簡素な服はあまり慣れない気がした。
    汚染された3つと、ヘルメロの中の3つのコアの入れ替えを行ったと、昨日起きてから創造主に聞いた。ヘルメロのコアが馴染むまでまだ時間がかかるだろう。そうヴァルグロウニャは言っていた。分かってはいたが、どうにも思い通りに身体が動かない。治癒の追いついていない左目の分、視界も以前より格段に狭く、遠近の把握に違和感を感じる。

    ──やはりまだ自力で動くには支障があるか──

    壁に寄りかかって、力が抜けた膝が床を突く。ルスレイ自身が思っている以上に、身体に無理をさせているらしい。

    しばらくそうしていれば突然、視界が真白く染まる。比喩とかではなく、真っ白な何かがそこにあった。

    「───フン、随分と情けない姿だな。霄晰会の」

    低い声が耳に響く。顔を上げれば、ルビーの目と視線がかち合った。ヴァルグロウニャとよく似た白髪。視界を覆っていた白──ローブで顔が少し隠れているが、誰か分からないほどルスレイは馬鹿ではなかった。

    「…リエヴァンダレ、様」

    稀代の天才、晃秚会の神が、何か用だろうか。任務の失敗の叱責か、直々に廃棄処分でもされるのだろうか。
    ルスレイが訝しげな表情を浮かべていると、リエヴァンダレは唐突に言い訳がましく言った。

    「勘違いするなよ。俺は奴の被造物が低レベルなものと上の連中が勘違いして紺楼院全体の研究費を削減されることを阻止したいだけだ」

    その言葉と同時に、未だ癒えないルスレイの左目を何かが覆う。ぱちんと、金具が後頭部でとめられる音がした。あまり状況を理解出来ていないルスレイは無言でそれに触れる。革の素材でできた───眼帯か。その中心、左目の真上あたりに何か硬いものが嵌められている。

    瞬時にその正体に思い当たって、再びルスレイは勢い良く顔を上げてリエヴァンダレを見た。───これは、コアだろう。
    しろい神は無表情で言った。

    「外付けの装置だ、効果は保証しない。…少なくとも、他人のコアを中に突っ込むよりは余程賢いやり方だろうな」
    「…何故、」
    「何度も言わせるな。奴の被造物の代表としての自覚が無いのか」

    じわりじわりと、水で冷やされるように、しかし熱で溶かされるように。ルスレイの身体が次第に言うことを聞くようになる。…不安定なコアの統率を執っているのだ、この眼帯のコアは。
    リエヴァンダレは天才と称される神だ。ヴァルグロウニャよりもコアの扱いに長けているのだろう。創造主以外のコアであるにも関わらず、段々と馴染んでいくのが鮮明に感じられる。
    リエヴァンダレはその人相の悪い顔のまま、気分良さそうに薄く笑った。

    「…上手くいっているようだな。何かあればヴァルグロウニャに言え」

    ───ありがとう、ございます。
    神経質そうに足早に去っていった神の背中に、ルスレイは立ち上がってそう投げかけた。







    いくらか日付が進んで、リエヴァンダレからのコアにも身体がだいぶん慣れてきたころ。
    リハビリ期間中と違い、今日はいつもの制服姿である。そのルスレイは片割れたるヘルメロの部屋に向かっていた。
    雑にしたノックの返事をロクに聞かずに中に足を踏み入れる。ヘルメロの姿は確かに部屋の中にあった。

    ───ところで、あの日コアを半数手放し、代わりとして2000年前の幼く未発達のコアを入れたヘルメロは、その影響が大きく出ていたのである。

    「…?」
    「今日の体調は大丈夫か」
    「…」

    …簡単に言えば、精神が幼くなってしまったのだ。それこそ2000年前のように。そのおかげで会話すら危うい。ヴァルグロウニャもこれは当初から予想していたらしいが、それの対策までは見当がついていなかったという。
    だが───今日はそれを解決しに来たのだ。
    ルスレイは寝台に腰掛け、脚の間に手招きしてヘルメロを呼び寄せる。素直にそばに寄ってきたヘルメロには、自分が誰であるか認識出来ているのだろうか。考えながら、背を向けさせて座らせた。彼のシャツのボタンを外し、襟を後ろに引いて項を露出させる。

    「少し痛いかもしれない。泣くなよ」

    彼はこちらを見て、こどものように首を傾げる。いつもよりくらいような赤と目が合った。
    きっとあの彼──本来の彼──には届いていないだろう。だから、ルスレイは彼の耳に口を寄せて囁く。

    「上手く適応出来たら───君のことを、殺してあげてもいい」

    ヘルメロの項あたりの皮膚表面に、懐から取り出した、幼子の拳程度の大きさの結晶をひとつ嵌め込む。どろりと輪郭を溶かして、皮膚へと吸い込まれていった。菱形にそこに収まったのは、……ルスレイ自らの中から取り出したコアだ。

    つい先日、コアの分裂があった。ルスレイのコアは8つへと増え、以前より全体の安定度は上がっている。それをひとつ摘出したのだ。

    ルスレイのコアは、ルスレイの生体情報を記録し構成している。つまり──当然2000年の間そばにいたヘルメロの情報も記録されているのだ。それを入れれば、2000年前の未学習のコアが半分を占めるよりは、ヘルメロのデータは元の状態に多少なりとも近づくだろう。少なくとも、今日言葉が喋れるようになれば進歩だ。
    まだまだ完全に回復するまでは時間が掛かる。気長に待つしかないだろう、そう思っていたが────

    「…あれ、ルスレイ?」

    彼は、けろっと喋りだした。以前と変わらない声色で。データの同期が早すぎやしないか。鮮やかな柘榴の輝きは以前と寸分違わない。

    「……ヘルメロ」
    「ルスレイ!!なんだか久しぶりじゃないか君は今日も美しいな!!その眼帯はどうしたんだ君の美しい顔を覆うだなんてなんとも無粋なことをする!!」

    至近距離で捲し立てられたいつも通りの文言に、喧しい、と苦言を呈せばヘルメロは一瞬口を噤む。しかしまた口を開いて、首の後ろを指さした。

    「そうだ、こ、これ、君が作ったのか」
    「…作った、とは少し違うが」
    「……………ま、まさか今回の分裂の分を片方千切ったんじゃないだろうな」

    勘がいいな。意外と頭が回るんだな、とルスレイが感心していれば、ヘルメロはルスレイの肩を両手で掴んで揺さぶる。

    「なんて無茶してるんだ!!ヴァルグロウニャ様には言ったのか独断でやったなら怒るぞ!」
    「独断だが」
    「じゃあ怒る!!!!」

    ルスレイは両肩を固められたまま、自らの左目を覆う眼帯を指差して言う。

    「本来コアは偶数になった方が安定する。今回の分裂と、ひとつを摘出したことで俺の中のコアは7個になったが、俺は外にこれがひとつあるから丁度いいだろう」
    「え、ぼ、僕は奇数になるんだが…」
    「…さぁ?」

    自分の感性ではなんとも形容しがたいが───不安定の美。そう呼ぶのが正しいのだろうか。彼には、それが似合っていた。そして何より、今のヘルメロの状態は完全に安定している。

    ヘルメロは適当な説明に些か不満があるようだが、ふと何かを思い出したように叫んだ。

    「…ちょっと待て、さっき言ったこと、僕は覚えているぞ!!適応できたら殺してくれるって──」
    「さぁ?そんなこと言ったかな」
    「な、とぼける気か」
    「聴覚に異常があるのかもしれない。もしかしたら、コアの適応が追い付いていない、とか。それならば記憶や五感が混乱するのもしょうがないだろう」
    「き、君なぁ……!!」

    ルスレイは日頃約束事は守る質だが、こればかりはしらを切るしかなかった。勿論当然のことなのだが。

    ───まだ、君を殺したくはない。










    「ヴァルグロウニャ」

    一部の天界の住民には人気のある紺楼院の中庭、月明かりに照らされるそこで、花と共に“きょうだい”2人は立っていた。動きを止めている噴水の水面に、この世のあらゆる景色が反射する。
    リエヴァンダレは、小さなヴァルグロウニャを見下すように腕を組んでいた。

    「お兄様…」
    「次にこんなミスをしてみろ、上の連中が研究費を減らしに来る前に俺がお前を処分する」

    2人の神の透き通る真白い髪が、ひんやりとした空気に揺られる。
    “上位の神”に叱責を受け、ヴァルグロウニャは小さな手でワンピースを握りしめた。真っ白なそれに、放射状に皺が寄る。

    「…ごめんなさい、今回は私の見通しが甘かったわ。貴方や晃秚会の皆にも迷惑をかけてしまったし…」
    「…フン、分かっているなら良い」

    神経質そうに目を細めてリエヴァンダレは返した。慌ただしく風に煽られるローブのフードを鬱陶しそうに脱ぐ。
    ヴァルグロウニャは、眉を寄せながら彼に問いを投げた。

    「…でも、なぜお兄様は今回の件を晃秚会の神使にやらせなかったの。どうして…ルスレイに依頼したの。全員が長期休暇中なんて嘘だったじゃない。主軸のバラザーシャやアデルリスタはあの場に居たし、それに…ルスレイを助けろとあの二人に指示したとも聞いたわ」

    リエヴァンダレは軽く俯いて大きく溜息を吐くと、腕を組み直して言った。月が背後から彼を照らして、ヴァルグロウニャからは彼の表情は分かりにくかった。

    「助けろ、とは俺は言っていない」
    「……どういうことかしら」
    「見に行け、と命じただけだ。奴を助けたのはあくまでバラザーシャの勝手な判断であり、俺個人はどうでも良かった」

    きっとリエヴァンダレは新種の存在に気が付いていた。しかしそれを知らせずに、霄晰会に禍種討伐を依頼した。そして結果を部下に見に行かせた。
    それが意味するリエヴァンダレの真意に、ヴァルグロウニャは気がついていなかった。

    「ルスレイが死んでも良かったと言いたいの?」
    「簡潔に言えばそうなるな」

    ヴァルグロウニャは、意味が分からないと言いたげに兄の顔を見た。

    「…どうして、なの。わたしは…あの子たちを愛しているのに、」

    リエヴァンダレは諭すように静かに言った。

    「………お前が、会派を背負うにはまだ早い。ほんの4000年生きただけの奴が調子に乗るな」
    「………」
    「それを分からせる良い機会だった。部下を失い、まだ俺の下で過ごせば良かったと、貴様が自覚すれば良いと」

    ───聞きようによっては、それは狂っているとも言えた。妹のために、妹の部下の2人を窮地に追いやった。それをきっと常人はおかしいと言う。

    しかしこれを聞いたヴァルグロウニャは───半ば、落ち込んでいた。
    そこまで、自分が未熟だと思われていたのだろうかと。自然と項垂れる。

    ───神というのは、出自が不明であることが多い。突如として肉体と精神を世界に産み落とされ、何も分からぬままそこにひとりで立ち尽くすのだ。それを道行く誰かが導いて、多くの者は紺楼院に所属することになる。

    4000年前、唐突に生を受け、此処が何処か、自分が何者であるかも解らずに立ち止まっていた、そんなヴァルグロウニャに手を差し伸べたのはリエヴァンダレだった。

    “血”で繋がっていなくとも、きょうだいとして、彼の下で学んできた。そして自立して自分の会派を持った。でも───。

    …研究費がどうこうだとか。そんなもの、霄晰会の神使が消えれば勿論紺楼院全体で減っていたでしょうに、それを考慮しても私を手元に置いておきたかったと言いたいの。神として、私が弱くて、頼りないから。

    「……だが、杞憂だったようだ」

    ヴァルグロウニャは、勢いよく顔を上げる。いつの間にか月の傾きは変わっていて、リエヴァンダレの青白い顔を真っ直ぐに照らしていた。

    「あれをあそこまで治すとは想像していなかった。部下も、面白い愚か者ばかりだ。───随分と、俺の妹は俺の知らないうちに強くなっていたようだな」

    ───いつもの顰めっ面はどこへ消えたか、“兄”の顔で、リエヴァンダレは微笑んだ。







    ばきり、と硬いものを噛み砕く音がする。朝焼けに伸びる影は2つ。影のひとつ──アデルリスタは言った。

    「ねぇダレさま、妹ちゃんにはもっと優しくしてあげたって良かったんじゃないの?」
    「適切な行動だと判断しているが」
    「いやいや、あれじゃ怒ってるようなものじゃないか。途中からは多少アレだったものの…素直に言ってやれば良いのに」
    「俺の被造物の分際で俺に指図するな」
    「そういうとこだよ、ダレさま」

    アデルリスタは、硬いもの、もとい禍種を噛み砕きながら言う。口の周りを赤黒く汚しながら食べ進めるその様をリエヴァンダレは静かに観ていた。

    「そんなに見ないでよ、オレ照れちゃうなぁ」
    「調子に乗るな」

    ヘラヘラと笑いながら“仕事”を続けるアデルリスタと記録用紙を入れ替えるリエヴァンダレのもとに不意に暗闇が落ちたかと思うと、白い翼をばさりと動かしてバラザーシャが上空から降り立った。地面の影がみっつに増える。

    「…リエヴァンダレ、霄晰会の神使2人はその後も状態に変化は無いようだ」

    翼を仕舞いながらバラザーシャは言った。アデルリスタはわざとらしく両手を振って驚く素振りをする。

    「ワオ、わざわざ経過観察までさせてるわけ?その思いやりをちゃんと表に出せば…」
    「新種の禍種によるコアの汚染の研究だ。俺が意味も無くプライベートでデータを集める訳が無いだろう」
    「それ 、素で言ってるのか照れ隠しなのか…いや、ダレさまなら前者かな」

    半分バカにされていることに腹を立てた神は不機嫌な顔で腕を組む。にこやかにバラザーシャは言葉を重ねた。

    「妹御の仕事も順調のようだ。心配する必要は無いと思うぞ、リエヴァンダレ」
    「貴様…心配ではないと何度言わせる」
    「そうなのか?なら取り消そう」

    なんとまぁ面倒な上司だと、黒髪の神使は肩を竦めた。
    記録用紙をボードに挟んだリエヴァンダレは何かぼそりと呟くと、白と黒の部下2人に向き直った。

    「お前ら、次の仕事がある」
    「何だい、ダレさま。俺たち2人の仕事?」
    「読め」

    ずい、と懐からそのままに差し出されたひとつの分厚い書類の束を受け取って、雑なんだから……とアデルリスタは苦笑いをしながら書類に目を通し始めた。バラザーシャはアデルリスタの斜め後ろに立ち、肩越しに紙の端を持つ。

    透き通る赤と白の宝石が揃って文字をなぞってゆく。その間リエヴァンダレは別の資料に何やら書き込んでいた。
    全く同じタイミングで読了したページを何十枚も捲り、最後の1文字をぴたりと認識し終わると、2人は同時に目を見合わせた。

    「…遺跡調査?オレたちが?」

    記されていたのは、禍種の討伐でも下界視察でもなく、ただの天界遺跡調査。それだけだった。
    アデルリスタは予想とは違っていたとありありと書いてある顔をしてリエヴァンダレに告げる。

    「最近発見されたらしい。低ランクの構成員に行かせれば大きく損害が出るだろうと予想されている。だからお前達が行け」

    簡潔に答えられたそれを聞きながら、バラザーシャはアデルリスタの手にある書類を引いて自らの正面に持っていく。アデルリスタは欠伸をして言った。

    「ふぅん、成程ねぇ…オレはまぁいいけど」
    「私も、問題ない。仮にあったとしても、君は行けと言うのだろうし」
    「よく分かっているようだな」

    半ば強制ではあるが2人の意志を確認したリエヴァンダレはすぐに資料を畳むと、踵を返して紺楼院本部へ戻ろうとする。
    アデルリスタは自らより背の低いその肩に手を載せて、わざとらしく上目遣いをしてみせた。

    「ダレさまぁ、終わったら豪華なご褒美が待ってる〜とか、そういうのがあったら、オレ頑張れるんだけどなぁ?」
    「喧しい、禍種を触った後の手で俺に触れるな。余程廃棄処分にされたいようだな」

    盛大に顔を顰めた神はアデルリスタの頭を鷲掴みにする。セットされた黒髪がぐしゃりと形を潰した。
    廃棄処分なんて、リエヴァンダレはやるなら有無も言わさずにやる。だからこれはある種の彼の戯れなのだ。

    「ハハッ、怖い怖い、ちょっと巫山戯ただけじゃないか、っていやちょっとまって痛い痛い痛い!ッフフ、キミの手袋無駄に硬いんだからそれやめてくれよ、あ、いったいって、ヤバいってば!」
    「リエヴァンダレ、離してやってほしい」
    「フン……図に乗るなよ」
    「上司に虐められてるんだけどオレ…」
    「しかし確かに、報酬がある方が仕事の意欲にも繋がるというのは一理あるだろう。リエヴァンダレ、なにか設定するというのは、いいことではないだろうか」

    リエヴァンダレはその言葉に一瞬考える素振りを見せたが、すぐにいつもの表情に戻るとそのまま歩いていく。

    「ならば報酬を約束してやろう、だがその任務が終わってからのお楽しみと云うやつだ」
    「ダレさまってば、それじゃあんまりやる気出ないぜ?」
    「ほう?お前が俺からされることで喜ばないことは無いと思っていたが」
    「オレどんなドマゾだと思われてるんだい?」
    「確かに、先程も君は笑っていた」
    「それはそういうことじゃなくてね、バラザーシャ」

    3人の歩く影は揃って移動していく。最後まで離れることのなかったそれは、一緒に紺楼院の陰へと吸い込まれて行った。








    とある1日。朝日が部屋を満たしている。その中を、少しぬるいくらいの空気がゆっくりと流れてゆく。部屋にはふたり、白と黒の髪が並んでいた。

    しゅるしゅる、と白くつややかな髪が指の間を滑り抜ける。何千回と繰り返してきた手馴れた動作で髪留めを嵌めてやれば、髪の持ち主はふわりと微笑む。

    「前から思っていたが、君は髪を結うのが上手だな」
    「はは、それ6000年も結ばせ続けてきた奴が言うことかい?」
    「それもそうだったな」

    ──バラザーシャとアデルリスタは、晃秚会の敷地内の一室に暮らしている。簡単に言えばルームメイトのようなものだが、まぁ下界の言葉を借りるなら社員寮、とでも言うか。ひとつ屋根の下、ということは紺楼院は皆変わりないのだが、それでも、同じ部屋にふたりが過ごすというのは多少なりとも珍しいものだ。
    同じ主から生まれ、6000年という月日を共にした彼らの間には無駄な諍いなど起こる訳もなく、生温く平穏な日々がこの部屋では続いている。

    そして今日も、彼らは同じこの部屋で目を覚ました。

    「アデルリスタ。先日新入生に貰ったクッキーが余っているのだけれど。君も一緒にどうかな」
    「へぇ、美味しいのかい?」
    「君の口に合うかは分からないけれど」
    「おいおい、まさかこれだけの年月が経ってもオレの好みが把握できてないなんて言わないよな」
    「冗談だ、ちゃんと君の好みそうな味だよ」

    箱を取り出しながら 、バラザーシャはくすりと笑って言った。

    「君、最近のリエヴァンダレの研究のおかげで、あまり精神的に満足な食事が出来ていないだろう」
    「まぁそうだけど、どうかしたのかい?」
    「美味しいものを食べて欲しいと思って」

    禍種を経口摂取した場合の神使への影響。それはなんとも不思議な研究で、本来ならばもっとランクの低い神使にやらせてもおかしくは無いだろうものだ。だがアデルリスタはそれを受け入れ、先日の霄晰会の神使の取りこぼしの処理のような仕事を繰り返し、禍種を延々と捕食していた。

    しかしそれとは別に、アデルリスタはきちんとした食事をよく摂る。禍種で膨れた腹には多少無理をさせることもあるが。
    バラザーシャはそれもよく知っていた。

    「我々、造られた存在は本来食事を必要としない。娯楽として嗜む者もいるが……君はあまりそうは見えない。君が食事を摂るのは、何か意味があるのだろう?」
    「……」

    何か意味がある、と言われればそうでもあるような、ないような。アデルリスタは考えた。
    強いて言うなら、研究のために、殆ど無味に近いが苦みも多少ある──決して美味しくは無い禍種ばかりを口にして。そればかりで腹が満たされてしまうから。…次第にちゃんとしたものの味が分からなくなってしまうんじゃないかと、少し不安になっているというのは、ある。
    いや、まぁ普通に主人に見せればコアデータの修繕で元に戻るのかもしれないけれど。

    でももし───君と、いや誰かとものをたべるときに、自分だけ味がしないなんて虚しいだろう?

    だから。たとえ必要ないとしても、アデルリスタは食事を摂る。舌から味を感じることで得られるものは、思っているよりも多いものだ。

    「オレにわざわざ…優しいんだねぇ、神様は」
    「優しくあることは、正しいことだと思っているよ」

    そこまで言うと、バラザーシャは不意に恥じらうように顔の横の髪に触れると、視線を逸らした。色素の薄い瞳が、窓の外のみどりを映す。

    「まぁ、本音を言えば、……ただ私が君と一緒に食べたいだけさ」

    少しの静寂の後、2人してへらりと笑い合う。

    「……珈琲、淹れようか」
    「……角砂糖みっつにミルクは半分で」
    「分かってるよ、オレがどれだけキミに作ってやってきたと思ってるんだ」



    この後、充足感で眠たくなった2人が昼寝をして会議を無断欠席し、リエヴァンダレが少々怒りにくるのは秘密の話である。









    ────というのが、数日前の話。

    そして今、そんな2人は例の遺跡に足を踏み入れたところである。アデルリスタは軽く咳をして苦笑いをした。

    「…こりゃまた、随分と埃っぽい所だね」

    危険だなんだと神は言っていたが、入ってみれば、禍種もいなければなんの変哲も無いただの古代遺跡のようだ。粗く磨かれた石で組まれた建築物の表面はところどころ苔むしていて、蔦が絡まっている。中の薄らと埃の舞う空気の籠った空間は少々不快だが、仕方あるまい。
    壁に彫られた古代文字を眼と指でなぞりながら、バラザーシャは呟く。

    「ここ数千年間で私たちが最初の訪問者であることは間違いないようだ」
    「あぁ、ダレさまの事前情報と変わりない。…それにしても、オレの好みには合わない場所だ。個人的には早く帰りたいよ」
    「分からなくもないが……ルスレイ殿でも連れてくれば、きっと喜んで調査するのだろうな」
    「あぁ……彼、“識る”ことが好きだものね。でも顔はあの無表情のままなんだろうねぇ」
    「違いない」

    手元の記録用紙にメモを取りながら、奥へと進んでいく。これで再調査を要求されたらたまったものでは無い。今回で終わると良いが。いや、あの主人ならば何度でも調査させるだろうが。
    そもそも、自分たちより霄晰会や他の会派の方が古代文字云々には強いんじゃないのか。わざわざ晃秚会に頼むとは、上の連中も変わった奴らだ。

    そろそろ半分、といったところで立ち止まる。古代文字を少しづつ解析しながら書き留める手を止めて息を吐けば、ふとバラザーシャが壁面に手をついて何かを凝視しているのが目に入る。

    「……これは?」
    「どうかしたのかい?バラザーシャ」

    彼は不自然に出っ張った壁の装飾らしきものに触れる。黒い手袋が砂埃で白く霞んだ。

    「いや…少し気になることが、?」

    ばたん。────突如、彼の立っている足場が開く。その穴に彼は吸い込まれるように落ちた。

    「───え、おい」

    余る布の衣擦れの音と、瓦礫が崩れる大きな音。響き渡る音を聞くに、かなり深い底に彼は着地したようだ。繋がっているのが奈落の底なんかじゃなくてひとまず安心か。ぽろぽろと砂や小石が穴の中に落ちていった。落とし穴、というには捕獲の仕組みも特にないお粗末な装置だ。これを設置した古代の民は何を考えているのか。

    あまり夜目が効く訳では無いが、暗い中の様子を少し覗き見る。彼は着地してしゃがみ込んだまま、こちらの穴からは見えない奥側をじっと見ているようだった。

    「おいおい、大丈夫かい?キミ。そこ、何かあるのか?」

    ただ静かに、目を離せない、とでも言うようにバラザーシャは向こうを見つめていた。十数秒の間をおいて、彼は返事をする。

    「あぁ……すまない、調べられそうなものは特にない。早く戻ろう」

    すぐに彼は翼を器用に動かし、穴目掛けて鳥のように飛び上がり、穴の縁を掴んで翼を仕舞う。勢いよく這い上がって立ち上がった彼の白い髪には砂埃が着いていたから、手で払ってやった。すると彼は真似するみたいにオレの髪を触った。別にオレは頭を撫でたわけじゃないんだぞ、とまた苦笑する。

    「ありがとう、心配をかけてしまったかな」
    「心配ってほどじゃないが…まぁいいさ、何も無かったなら次へ進もう、バラザーシャ」
    「あぁ、分かっている」

    微笑んだバラザーシャの顔はいつもと変わらないように見えたが、今思えば────それは間違いだったのかもしれない。









    ─────何度も何度も、夢を見ている。




    夢の中で、私は──バラザーシャは、白い場所の真ん中に立っている。特筆することも何も無い、無限に広がる無の空間。真ん中かどうかも本当は怪しかった。

    そしてすぐ目の前で、顔のない少女が白い床に座り込んでいる。

    「またがんばらなくちゃ」

    少女は言った。そして私は目を覚ました。
    その日は、特に何も変わりは無い1日だった。いつも通りの仕事と、いつも通りの会話。私にとっての普通、というのはこういう状態なのだろうとふと思った。紺楼院の面々と、ただ過ぎる日常を享受していた。



    その次も、またその次も、同じような白い夢を見た。
    これまでの6000年間で夢を見ることは無かった故に、創造主であるリエヴァンダレにちょっとした相談をしてみたりもしたが、「人間のように記憶の整理でもしているんじゃないか。気になるようなら生体データを編集して二度と見れないようにするが」とのことだった。別に実害がある訳でも無いので、データの編集は断っておいた。
    アデルリスタは、最近妙に早く目覚める──いつも私たちは同じ時間に同じベッドで起きる──私に、どうしたんだと聞いてきたけれど、特に言うことは思いつかなかった。



    その次もまた夢を見た。

    「今日も、頑張ろうね」

    少女は言った。私は目を覚ました。
    何故だかその日は調子が良かった。定時より随分早く仕事を片付けてしまって、部下やアデルリスタの仕事を少し肩代わりしても時間が有り余るほど。なにか強大な力が背中を押すように、全ての流れが正常だった。



    次も、その次も、また夢を見た。

    「ちょっと、疲れちゃったかも」

    少女は言った。私は目を覚ました。
    何となく、いや、何もかも上手くいかない日だった。目覚めた瞬間から頭がぼんやりとしていて、仕事もミスを多発し、なんだか私以外の構成員──アデルリスタやリエヴァンダレでさえ、上の空とでもいうか、調子が悪いようだった。誰かが、全てを悪い方向へと引っ張っているように。



    ───少女は、とある日の夢の中で、名前を教えてくれた。彼女は───この世の全てだった。



    次も、次も、その次も、また、夢を見た。

    「たすけて、」

    ───少女は言った。私は、目を覚ました。








    …バラザーシャの様子がどうもおかしい。最近は公務に支障を来たしている。といっても、オレやダレさまじゃなきゃ気付かない程度だろうがね。これは驕りとかそういうんじゃなくて、彼がそういう性質だってだけさ。

    数週間前───あの遺跡から帰ってきた少し後ぐらいからか。最初は少しの違和感でしか無かったそれは、今や大きな不幸の予兆のように不気味なような。

    提出用のボードに挟まった書類を捲る。その中に主人のサインを見つけた。…きょうだいと主人、よく似たしろい2人は、あまり性格は似ていないなとふと思う。

    執務室に向かいながらぼんやりと考えていれば、肩が誰かとぶつかる。

    「おっと、すまないね」

    慌てて見れば、金髪に隠れた蒼い両の瞳がこちらを静かに射抜いていた。彼はぶつかったことなど気にしていないように、心を透かしたようにそのまま問いかけてくる。

    「どうかしたのですか、アデルリスタさん」
    「あぁ、ルスレイくん……いいや、特には何も無いんだけど。キミもどこかに行く途中かい?」
    「ヘルメロを探しているんですが」

    別に彼に言うことでもないかと思って、言わなかった。彼も深くは追求してこないのが、自身の興味に従って行動する彼らしい。

    自分が最後に彼を見かけたのはまだリハビリ途中の様子だったから、元気そうな様子に少し安心する。

    「ヘルメロくんはオレも見てないな……というかそういえば、もうあの眼帯無しで大丈夫なんだね」
    「えぇ、随分安定してきたので」
    「いいことだね、キミの左目が戻って良かった」
    「リエヴァンダレ様のお陰です」

    いいなぁ、オレもダレさまからなんかプレゼントしてもらいたいや。そう笑ってみせれば、金の彼は「もういらないので、あの眼帯差し上げましょうか」なんて言う。ヘルメロくんもぼやいていたけど、この子のこの人情のわからなさ加減は少し面白い。神使らしいといえばらしいのかもしれないけど。

    「──大事に取っておきなよ。いつかまた使うかもしれない」

    そう言って、再び執務室へと歩き出す。彼も特に何も言わずに歩いていった。
    ヘルメロくん、見つかるといいけど。


    考え事をしていたせいか妙に長く感じた廊下を抜け、やっと執務室の手前まで行き着いて、ふと眩しさに窓の外を見る。

    青空の下、芝生の上で白い物体が仰向けに倒れ込んで、流れる雲を見つめていた。

    「…バラザーシャ?」

    何やってるんだ。確か彼は今日オフの日だったと思うが、流石にそこまでの不思議ちゃんじゃなかったはずだ。
    扉のサイドの机に書類を置いて、格子を開いて窓から出る。長いマフラーが引っかかりかけたが無事でほっとする。少々行儀が悪いが、誰も見ていなさそうで良かった。声をかけながら、純白に歩いて近寄る。

    「おい、…何やってるんだいバラザーシャ?」

    「……うん、そうだな。…君の言う通りだ」


    ───こちらを振り向きもしない、的はずれな反応。
    明らかに様子がおかしい。
    それきり彼は黙って、視線をずらすこともなく時折頷いている。まるで、“彼にしか聞こえないなにかの声を聞いている”ような、そんな素振りだ。反応を見るに、オレの声は届いていないのだろう。冷や汗にも似た不快感が背中を伝う。

    芝生の中央に座るバラザーシャは、凪いだ目で蒼い空を見つめている。しかしそれは、空を見ていると言うよりはもっとなにか大きなものを見ているような、変な奇妙さがあった。こんな様子が続くようなら、ダレさまに報告か───、

    「…ああ、全て、無くさなくてはならないな」

    不意に彼は言った。

    「……この世界は、解放を…破壊を望んでいる。私は、それに応えたい」
    「…は?」

    ───急に何の話だ、とは言えなかった。今思えば、虚空を捉えるそのオパールに、その時の自分は怯えていたのだと思う。彼は視線を空から外さぬまま、ゆっくりと立ち上がった。

    「行かなくては、」
    「…な、…」

    彼が、ぶわりと真白い翼を広げる。照らす太陽を遮って、ひどく大きな影が色濃く自分の顔に落ちた。
    芝生の途切れる崖に向かって、彼は歩みを進めていく。ざくざくと芝の地面を踏みしめる音。その背中を、自分は黙ってただ見ていた。そよ風が彼の髪を揺らした。

    ────彼が、崖の端からこちらを振り向いて何やら喋った。

    何を言ったのか、知りたかった。しかし声は聞こえなかったし、柔く動かされた唇を読むことも難しかった。
    でも、今日初めてオレを見たその白い瞳が、妙に脳に、コアの記憶に焼き付いている。

    黒いインナーの背から伸びるその大きな両の翼がばさりと風を切って周囲の草木を揺らす。

    彼が崖から足を踏み出す。
    あまりに強い風が目に迫って、思わずした瞬きを終えて瞼を開いた時にはもう既に、……彼の姿は見えないところまで行ってしまったようだった。

    ───言葉を失っていたオレは、無意識に空に手を伸ばしたかと思えば、勝手に口が動きだす。

    「……バラザーシャ、君は何処に行くんだ?」

    ────きっと、この声も届いていないのだろうが。

    この時に、何がなんでも追い掛けていれば良かったのかもしれない。…今となっては、もう遅いことだけれど。







    「バラザーシャが消えた?」
    「……あぁ、飛び去って行ってしまったよ」

    リエヴァンダレは、いつになく深刻そうな顔をして部屋へと入ってきたアデルリスタから事の仔細を聞くと溜息を吐いた。黒の手袋がぐしゃりと白髪を掻く。ローブの下の顔は、とてもじゃないが人間の子供が見れば泣くのは確実な程の人相の悪さだった。

    「最近の奴の状態がおかしかったのと関係が有るのか」
    「まぁ、そう考えるのが普通だろうね。……ダレさま、彼は……世界を解放する、いや…破壊しなければならないと。そう言っていた」
    「………」

    リエヴァンダレは顎に手を当ててしばらく思案した。そして徐に晃秚会本部の壁に設置された院内伝声管を握る。くすんだ金の管が声を繋いだのは、かの“妹”の会派だった。







    紺楼院晃秚会、その一室に5人は集まっていた。

    「…バラザーシャが、世界の破壊を望んだ?」

    ヴァルグロウニャがまるい頬に小さな片手を添えて言った。アデルリスタは眉間に皺を寄せて呟く。

    「……あのバラザーシャだ。ジョークでもなんでもないだろうし…何より、最近は様子が変だったんだよ」
    「かの稀代の天才リエヴァンダレが作った最高傑作が世界滅亡を目論んでるだって?天界の大ニュースじゃないか!」

    ヘルメロが顔を青くして頭を抱える。頭の上の光の輪が力無く震えていた。リエヴァンダレが軽く舌打ちをする。

    「俺の造った“神”が『世界は滅びるべきだ』と言うのであれば、それが真理だ。───俺の作品に、誤りは無い」
    「お兄様…」

    リエヴァンダレはそれほど慌ててはいないようだったが、それでもなお紫の髪の神使は怯える素振りを見せた。

    「そんな…この天界を、いや下界すらも、全て終わらせる?それが、最善だと?」

    ヴァルグロウニャがワンピースを触りながら逆の手でヘルメロの震える手を握った。

    「……でも確かに、お兄様の作ったものが大きな間違いを産むなんて、わたしには想像がつかないわ」

    それは誰もが感じていたことだ。
    1万年を生きたリエヴァンダレは天界随一の頭脳と実績を持つ。だからこそ晃秚会は強い権力と研究権限を持っているのだ。バラザーシャという神を造る試みも、リエヴァンダレでなければ許されざる行為であったことは間違いない。その天才が生み出した作品がエラーを起こしているとは、紺楼院に属する学者として皆信じ難いことなのだ。

    しかしそれを考慮したとしても、世界を終わらせるその行為を受け入れられるものは、終末を望む一部の者を除いて、殆どゼロに等しいだろう。
    ヘルメロの隣で黙って皆の話を聞いていたルスレイはアデルリスタを見る。

    「本当にそう言ったのですか、彼は」
    「…あぁ。“この世界は破壊を望んでいる。…私は、それに応えたい”、…だってさ」

    「破壊、以外の解放は無いのだろうか」

    それに答えられる者は、そこには居なかった。それに答えるには、あまりにも情報が少なすぎた。

    2人の神────きょうだいは立ち尽くす。

    「……解放を望む世界、新種の禍種、暴走する“神”…」
    「はぁ……何かおかしいことが起きているようだな」

    リエヴァンダレは今度は大きく部屋に響く舌打ちをする。

    「このことを上の連中に知られてみろ、研究費削減どころか天界追放……いや、死刑だ。まぁ、世界が終わればそれを実行できる機関が残っているわけがないがな」

    天才は宣言するように手を振った。

    「“真実”を言う奴に説得もクソも無いだろう。…奴が“世界を救う神”としての意識と力を完全に手にする前に殺す。上の連中には勘づかれずにな」

    正直、それにすぐに賛同できるかと言えば皆複雑な心境だっただろう。────つい先日、霄晰会は、特に神使2人は、彼に救助され支えられたというのに。
    しかし、そんな甘いことを言っていられる状況ではない。“最高傑作”が世界を壊し始めればどうなるか、それも皆解っていた。

    「晃秚会と霄晰会、力を合わせるしか無いわね」
    「ええ、僕たちもできることはしよう。なぁ、ルスレイ」
    「……世界が滅んでは困るからな」

    3人の顔を見て、アデルリスタは頼もしげに笑った。神使2人を──自分の僅か3分の1ほどしか生きていない後輩を面倒に巻き込むことに、少しでも後ろめたさがなかったと言えば嘘になったのだろう。

    「…ルスレイくん、ヘルメロくん。キミたち2人、まだ本調子じゃないだろう。くれぐれも無理はしないように」
    「ええ、分かっています」

    金と紫の2人は、揃って深く頷いた。








    紺楼院晃秚会の本部、もといリエヴァンダレの書斎では、いつでも静かに空気が掻き混ざっている。2人しかいない部屋、しかしいつもより焦りの混じるその静寂を、部屋の主が不意に破った。

    「…アデルリスタ」
    「ん?どうしたんだい、ダレさま」
    「俺はお前を、バラザーシャの“目”として創造した」

    ───“ものを造る”試みは、まずは想像のつかないものを作るよりよく知ったものを作る方が成功する。
    そう宣言したリエヴァンダレにより、“造られた神”バラザーシャはリエヴァンダレのデータに寄せて作られた。しかし───瞳だけは、リエヴァンダレと異なる色をしていた。ルビーが鎮座する筈だった眼窩には、無垢なオパールが居座っていたのだ。
    リエヴァンダレにとっては重大な“想定外”である其れを補うために、赤い目を持つアデルリスタが制作されたと言っても過言ではない。言わば付属品。
    単体でのアデルリスタに、価値がないと言われているも同然だった。しかし6000年の間、それを抱えて生きてきたのだ。

    「……そうだね、よく分かっているよ」
    「…ならば、正しいものを奴に“見せて”やるべきだ」
    「バラザーシャが、正しいものを見ていないと?ダレさまの被造物である彼が誤っていることを認めるのかい?あのプライドの高いダレさまが?」
    「ああ」

    ふざけている時以外は飄々としたポーカーフェイスを常とするアデルリスタには珍しく、分かりやすく目が見開かれる。

    「…驚いた、随分と素直なんだね」
    「学術研究は、試行と失敗、そこから得られる手掛かりを次に活かして改善し、更に試行を繰り返すことが鍵だ」
    「ああ、天界に生きる学者として当たり前のことだね」
    「ならば、俺の試行はまだ足りていなかった。それだけだ」

    リエヴァンダレは肘を突いて机に書類を広げた。羽根ペンの先が真白い紙の上を走る。

    「“最高傑作”じゃあなかった、ということかい。バラザーシャは」
    「複数の仮説があるのならば、最も単純なものが1番真実に近い可能性が高いものだ」
    「…その根拠は?バラザーシャは正しくて、世界は本当に破壊を望んでいるのかもしれないぜ?」

    ───字を書き留める手を止めて、神は言った。

    「世界が滅びれば、何も残らない。…妹の幸せも残ることは無い。俺が、それを望む訳がないだろう。故にそれは“正しくない”」

    ───なんと、まぁ。この神は───

    真意を理解してしまえば、笑わずにはいられなかった。

    「………ぶっ、…あっはは、ハハハッ!ふ、あはは!!はは…っあー、ふふ……なるほどなるほど、オレの創造主様は、やっぱり面白いね。最高だよ」
    「分かったのなら、役目を果たせ。それが出来ないほど無能に設計した覚えは無い」

    目の端に浮かんだ涙を、手袋のまま指で拭う。

    「うん、分かってるよ。………うん、ごめん、ダレさま。一つだけ聞いてもいいかな」
    「しょうもないことならコアを消し飛ばす。さっさと言え」
    「……バラザーシャが消えたら、オレに存在価値はあるのかい?」

    …本当は分かりきっていた、その答えがNOであると。バラザーシャの欠陥を補うための部品である自分は、バラザーシャがいなくては役には立たない。彼の存在こそが自らの存在意義だ。
    でもそれを、愛する創造主本人の口から聞くまでは納得したくなかった。したくないと、どこか意地になっていた。

    本当は───言って欲しかった。オレに、キミのそばにいていいだけの価値があると。

    リエヴァンダレは書類を退かして立ち上がると、書斎の棚から厚みのある本を一冊取り出して、普段通りの鋭い目でアデルリスタを見た。

    「───俺が無価値なものを創るとでも思っているのか。俺への侮辱も程々にしろ」
    「……え、それって、」

    とん、とアデルリスタの胸元に本の角を突きつける。少し背の低い神の紅い視線が、神使を貫いた。

    「お前は、俺に創られたということがどういう意味か理解できていなかったのか?」







    霄晰会の3人を待たせている部屋に戻ったリエヴァンダレは、ヴァルグロウニャに書類を渡す。

    「──幸い、上の連中はまだバラザーシャの不具合に気付いていない。奴を始末するのは今しかないぞ」

    ヘルメロが軽く唾を飲んだ。美とロマンを重んじる彼にとっては、晃秚会のあの造られた神も、ルスレイには及ばずとも美しさを評価すべき“芸術”だったからだ。

    「バラザーシャを殺し、機能不良による廃棄処分だと上に報告する。…それで、全て済む」

    リエヴァンダレは、僅かに苛立っているようだった。それは自分の作品を廃棄することへの憤りか、それとも被造物を誑かした“世界”とやらへの恨みか。

    「お兄様、」

    ヴァルグロウニャが兄を呼んだ。そして何かを言おうと口を開いた、

    途端、全員の視界が白く染まった。







    ──────突如として、5人は見知らぬ空間に居た。一同の顔には、大なり小なり困惑の色が浮かぶ。

    「…な、」

    白く染まったと思ったのは、単にその場所には白しか無かったからだ。何も映さない無の世界が、そこにあった。誰のものともつかない驚愕の声が聞こえる。

    「チッ……自らお出ましのようだな、バラザーシャ」

    顔を顰めたリエヴァンダレが見つめる空間が陽炎のように揺らぐ。…空間の縫い目を裂いて現れたのは、天才によく似た白髪。そしてこの空間にも似た、白いオパールの瞳。紛れもなく、あのバラザーシャだった。
    凪いだ鈴の音が、造られた神の喉から流れ出た。

    「すまないが……君達には、先に消えてもらいたい。きっと、私が世界を解放するのを邪魔するのだろう?」

    金の蔦があしらわれた黒いヒールがこの異様な空間の地面を突く。地面という概念がここにあるかも怪しかったが。

    ────あぁ誰だ、神は全知全能ではないと云ったのは!

    この男は今、異空間生成と複数人の強制移動を難なくやってのけてみせたのだ。神であるリエヴァンダレやヴァルグロウニャよりも、よっぽど世で言う“神”らしいことをしている。

    そして何より────彼の背にある翼は8枚。先日まで一対だったはずだが。
    常に浮かべられていた温和な微笑みはなりを潜めて、それが更に彼の神としての不気味さ、神聖さ───畏怖の対象へと成る様を表していた。

    「バラザーシャ、貴様は何をしようとしている」
    「アデルリスタから聞いたものだと思っていたが……、私は世界を救いたいんだ、リエヴァンダレ」

    リエヴァンダレは、自らの作品との対話を試みた。それは慎重に真摯に、難解な古文書を読むように、未知の式の解を導くように。

    「それが俺には理解しかねる。世界にとって、自らの破滅が解放となるのか?」
    「……そうだろうな。普通の者は、生あっての解放を望むことが多い」

    3人の神使と1人の神が、2人の神の対話を静かに観ている。
    バラザーシャは真っ直ぐにリエヴァンダレを見た。

    「いるだろう、人間にも神使にも。苦痛と疲労、自らを取り巻くすべてに耐えられぬから死を選ぶ者が。世界だって同じだ」

    憐れみすら感じさせる色を瞳に浮かべて、バラザーシャは語った。それは酷く純粋な瞳だった。

    「“生まれてから何も分からず、ひとりで何千年も立ち尽くす”…それが神なのだろう?……だが……あの子が生まれたのは何百億年、いや何千億年…時の流れという概念も無かったほど前、根源のことだ」
    「……“あの子”、か」

    ああ、あまりにもこの“神”は優しすぎる。

    「同じく何も分からず、自分以外に何も居ない、それを今まで永遠に続けてきたんだ、“世界”というひとりのいきものは」

    リエヴァンダレは、微かに後悔した。この男を造り出してしまったこと。6000年の間、人格を成長させてしまったこと。

    己にない素直さと慈悲深さを、彼のデータに求めてしまったこと。

    「これは私の同情からくる行為だ、リエヴァンダレ。私はあの子を救いたい。ただそれだけだ」

    バラザーシャの手に、美しく輝く細身の剣が現れた。世界を壊すにはあまりにそれは美しく、見る者の目を奪う。


    「だから、────お願いだ、私を止めないでくれ」









    5人分の荒い息遣いが、白の空間に響いている。

    この場で唯一涼しい顔をしているのは“神”、バラザーシャだけであった。8枚の羽を悠々と揺らして、宙から全てを見下ろすそのしろく美しい様は、やはり絶対的な“神”そのもので、造られただなんて何かの間違いかと思うほどに神秘的だった。

    此処に来て何時間経ったかすら把握出来ている者は誰ひとりとして居なかっただろう。そもそもこの空間に時間の概念があるかすらも不確かなことに間違いは無かったが、それさえ全員の気力と体力を奪うには十分だった。

    ヘルメロは口の端から伝う血液を拭って胸を押さえた。

    「……ックソ、強すぎるだろうッ……!!」
    「───ッ当たり前だ!俺が作った傑作なのだからな」

    創造主リエヴァンダレは、顔全面に苦難の表情を浮かべながら、しかしどこか誇らしそうに歯を食いしばって言った。大きく破れた彼のローブが白さを失いつつある。

    不意にバラザーシャは8つの翼を動かして白い地に降り立ち、歩んでゆく。とめどなく血の流れる左目を押さえて蹲る金髪の神使──ルスレイの頬に右手を添えると、慈しむように目を伏せた。

    「……1度救った命を奪うというのは、……私も心苦しいな」

    ルスレイが苦痛と疲労に顔を歪ませた。

    「………おい、誰の許可を取って僕の芸術に触れている」

    背後からヘルメロが、バラザーシャの剣を持つ左手を上から掴む。

    「…君は」

    バラザーシャの腕を、日頃の非力なヘルメロからは想像もつかないほどの力で、力強い神に負けぬように強引に力を込めて引く。ぶるぶると震えながらも無理やり空間の“見えない壁”に剣をざくりと突き刺させて引き裂き、無から裂け目を作り出した。しろい空間の隙間から、外界の青空が滲む。
    その一連の動作をバラザーシャは静かな目で見ていた。

    「…ほう、外へと出るのか?」
    「───他人事みたいに言うな、君も出るんだよ!!」

    ヘルメロは裂け目に脚をかけ、神の腕を鷲掴み、───諸共外へと飛び出した。
    白い空間から出た先には、圧倒的な重力の働く青空が広がっている。
    耳の横を空気が固まって通り過ぎていく。ごうごうと鼓膜を圧迫する感覚とともに、ヘルメロは初めて感じる底の無い空への落下の感覚に少し恐怖を感じていたが、それを態度には出さなかった。
    掴まれたまま身動きを取らず、神は冷静に問うた。

    「…私は翼があるのだから地上に戻れるが、君はどうなんだ?霄晰会の神使は翼を持たぬと聞く。墜ちてしまってもいいのか?」
    「ははっ、それはどうかな!」

    ───重力に従って空を落下していくヘルメロの背を、誰かの手が捕らえる。そのまま水平に軌道を描いた。

    「俺は、翼を持っているぞ」

    捕らえた人物──ルスレイの背に、外付けの人工翼が装着されている。───バラザーシャが現れる前に、リエヴァンダレがヴァルグロウニャへと装置を預けていたのだった。

    「成程、…彼からの………だが、だからと言ってどうなんだ、不慣れな空中で私を倒そうと?」
    「そうじゃなかったらなんなんだ?」

    ヘルメロの手は未だにバラザーシャを掴んだままだ。無理矢理それを振り解こうとしても、あまりにも強く不気味な執念が、それを許さない。長時間蹂躙され疲弊しきっているはずのその肉体は修復も間に合っていないはずだが、力の籠る腕と赤黒い瞳には、最大級の怨念が篭っている。

    「……厄介、だな」

    しかしそれでも凪いだ様子で、バラザーシャは周囲へと目を巡らせる。
    そうだ、ヘルメロとルスレイ以外の3人はどこに───、

    恐らく彼らは、白い空間から出た後に地上へと降り立ったのだろう。上向きの視線で、予想通りのそれを目で確認した瞬間、
    時を同じくして産まれた赤い目のきょうだいと、
    ───目が、合った。

    みたな、と。唇だけでアデルリスタは呟いた。

    「──目は、オレが封じる!!」

    アデルリスタが、叫ぶ。
    そして“バラザーシャの視界をジャックした”。
    神の視界が、一瞬で暗闇に墜ちた。
    それはリエヴァンダレによって、バラザーシャの目として造られたアデルリスタにのみ許された機能だった。アデルリスタの瞳のルビーが輝きを増す。

    失った視界を取り戻そうと抗うバラザーシャの“神”としての強力な力が、遠く離れたアデルリスタの眼孔を苛む。

    「ッ、…邪魔を、しないでくれ!」

    その頭蓋までも刺すような激しい痛みに顔を歪ませて耐えながら、またアデルリスタは声を上げた。

    「ぅッ、…ッルスレイ!ヘルメロ!…今のうちに、キミ達2人で殺れ!!────天界の命運、任せたよ!!」

    いくら神と言えど、唐突に視界が無へと消えれば混乱するのだろう。微かに弱くなったバラザーシャの動きを見逃さず、ルスレイは彼の背に己の腕を突き立てた。鈍く肉と皮がやぶれる音が聞こえる。

    「ッぐ、」

    8枚羽根の中央、背を覆う筋肉を突き破って、中枢へと手を伸ばす。そして、“とある物”を千切れた血肉の中に埋めてしまった。

    「何を、した、これは………ッ、コアか!」

    バラザーシャが見えない視界を振り乱す。
    ───ルスレイが今しがたバラザーシャに与えたもの、それはリエヴァンダレからの眼帯に嵌っていたコアだった。

    「な、どういうことだいルスレイ!」
    「…神使なら持っているはずのコアが無いから、彼は被造物でも神の括りにいるのだろう。───ならば無理矢理コアを軸にさせて、“神使に堕とす”!!」

    ルスレイのそれは、ふざけた頓智のようにも聞こえた。ヘルメロは目を丸くする。ルスレイは重ねて言った。

    「“コアを持つ神使”であれば、コアを破壊すれば“殺せる”。殺し方の分からない神よりよっぽどマシだ。それに────」

    コアが1つの幼い神使など、俺達の敵ではない。だろう?

    そう言い放ったルスレイに、バラザーシャは背の痛みに額を汗で滲ませながら告げる。

    「なにか勘違いしているようだが、私はリエヴァンダレの最高傑作だ。其れにリエヴァンダレが作ったコアを入れて、本当に弱体化できると思うのか?寧ろ強化される可能性を君達は考慮していないのか」

    ルスレイは乱れた金髪の奥で不敵に笑う。

    「やってみなくては分からないだろう。学者として、何度も試すことは大事だぞ」

    みるみるうちに肉の繊維が複雑に絡んでいき、バラザーシャの体内にコアが取り込まれていく。
    恐らく本人の意思とは関係がないのだろう。リエヴァンダレが作り出した“修復の早い”肉体とコアの親和性は高すぎるようだ。
    バラザーシャは大きく舌打ちをした。

    「想定外だ、」

    そしてコアと肉体が完全に同化してしまったその瞬間、──神だったはずのバラザーシャの8枚羽根が消失する。それと同時にヘルメロとルスレイは顕力を練って、長槍と剱、各々の手に馴染む武器を生成する。

    これで、終わるはずだ。

    赤と青、霄晰会の神使2人の瞳が、バラザーシャを突き刺した。武器を握る手を構える。

    「「はぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッ!!!!!!!!」」

    ───勢いそのままに、“神”のただひとつのコアを、貫いた。







    地上の芝生の上から全てを観ていた稀代の天才は、俯いて拳を強く握った。グローブが擦れて音を立てる。

    その隣の妹は兄を見ると、少し手を伸ばす素振りをして、その小さな手を引っ込めて、そして何も言わずに空の3人の元へ飛び立つ。
    神は、大きく深呼吸をした。

    「…………俺の、……」

    それから、空中で千切れたように、言葉は続かなかった。

    「………ダレさま」

    神の部下──アデルリスタがすぐそばに歩いてきた。目の痛みに耐えている様子は無い。既にバラザーシャの視界妨害は解除しているらしい。

    「……」
    「……あぁ、…」

    自らの肩にかかった翡翠色の長いマフラーを、アデルリスタはリエヴァンダレのま白いローブの上から巻き付ける。

    「……オレはこういう時、気の利いた事言えないんだよ」

    重なった布に顔を埋めて、……そんなことは知っている、とだけ、リエヴァンダレは呟いた。







    白い神は、瀕死の状態でヘルメロとルスレイに腕を引っ張られ、空を漂っていた。口と、大きく穴の空いた胴からは夥しい量の血液が流れ出ている。

    「…嗚呼、ッ止めないでくれ、霄晰会の神使。私は、世界を、救わなければならない…」
    「…救うだって?貴方ほど聡い者が、破壊を救いと呼べるのか」

    ルスレイは吐き捨てた。

    「世界が、それを望んでいる」
    「本当に聞いたのかい」
    「あぁ、私は…」

    「聞いたんだ、彼女が助けてくれと言っているのを」

    あの白い空間で、少女──世界は確かに泣いていたのだ。

    ヘルメロとルスレイは、交互に、静かに言葉を重ねた。

    「世界は…破壊を望んでいるかもしれない。でも、僕達の幸せは、世界という場所が無くては成立しない」

    「確かに、世界が無くなって、全ての概念が消滅すれば、誰もが…世界までもが全ての苦しみからは開放されるだろう。背負うものも無くなる。だが────そこには、幸福の概念だって無い」

    「世界が消えて皆消えれば、“幸せも苦痛も感じないことへの空虚感”も感じない。ならばそれでも良いと、思う者も多いだろうね」

    「だが、世界を続けた先にある幸福の積み重ねには価値がある」

    2人が、バラザーシャの顔を見つめた。
    それでも納得出来ていないような素振りを見せたバラザーシャは、悲痛な表情を浮かべて言った。

    「あの子の……“世界”の幸せはどうなる?まだ永遠に苦しめるつもりか、……大勢のためにひとりが永遠の犠牲になれと、そう言うのか」

    「───言うよ。だって、そういうものだろう」

    ヘルメロが、残酷にも聞こえる答えを、即時に告げた。

    「これは僕の自己利益だけを追求した話だが、」

    紫の神使は、心底幸せそうに、しかし苦しそうに笑いながら言った。

    「僕は、彼が生きる世界で、ずっとその横に立っていたいんだ。結果、永遠に世界を苦しめ続けて、世界の住人もずっとここに囚われたとしても。僕は────彼と共に居たい」

    バラザーシャは目を見開く。そして、ルスレイを見た。あの日彼が助けた神使を。
    彼は、至って無表情だった。凪いだサファイアがバラザーシャを見ている。
    ヘルメロは続けた。

    「我儘だ、僕は。愛を唄いながら、結局は自分が得をしたいだけ。でもいいじゃないか、それが生きるものの権利だ」

    空が燃えて、次第に蒼から橙に移り変わってゆく。
    唐突に、ヘルメロはバラザーシャに問いかけた。

    「───なぁ、どうしてこう“上手くいった”と思う?」

    こうもあっさりと、最高傑作を殺し、世界を“守った”こと。
    “神”だったはずの神使は、何かに気付いたようにぴたりと動きを止めた。紫の髪の男は言葉を重ねる。

    「……世界の意思だよ。あったんだろう、今までも、“なんでも上手くいく日”が」

    ああ、確かにあった。それはあの夢の中で、あの少女が、懸命に生きていた日。

    「世界は解放を求め苦しんでいる。だが───それを受け入れている」

    それが真実だった。世界は世界に望まれてその形を成す。それ故に、このような事件が起きたのも世界が望んだからで、このような形で終焉を迎えようとしていることも、世界がそう望んだから。

    世界は、解放を望んでいた。だがそれ以上に──世界の存続を、望んでいた。

    バラザーシャは、血の絡む喉で声を震わせた。

    「…嗚呼、私は────世界を助けたかった。だが────世界を生きる民を…愛していなかったかもしれない。それが神と言えるだろうか」

    ヘルメロは、…静かに涙を零していた。

    「君も正しかったことをしたと、ッ僕は思う。君は悪意ではなく、真っ直ぐすぎる善意で、世界という──ひとりのいきものを救おうとしたんだろう。…僕なんかよりはずっと正しい」

    もう力の入らない手でヘルメロの頬を伝う涙を拭ったバラザーシャは、そっと目を伏せた。

    「……自己中心的、君はその点で────人間らしい。人間的だ。人間臭い。………そういうものが、本当の意味で世界を救えるのかもしれないな」

    そのまま、彼は神使2人の手を振りほどいた。
    彼の背に翼はもうない。だからそれは、生を手放すのと同義だ。最後に彼は言った。

    「すまない。このようなこと、リエヴァンダレは私に望んでいなかったはずだ。……彼に、すまなかったと伝えて欲しい。私は…彼の求める神にはなれなかった」

    ──赤い夕焼けの天の底へと堕ちて行く白い“神”は、微笑みながらその6000年の歴史に幕を下ろした。







    「俺の“神”は、所詮ただの生成物、神たりえなかった訳か」

    地上に戻ったヘルメロは、リエヴァンダレに飛行装置を返却しながら伝言を伝えた。
    アデルリスタは既にひとりどこかに行ってしまったらしい。
    いつになく心ここに在らずな様子なリエヴァンダレは、首に巻きついた碧色のマフラーを握った。

    「バラザーシャが、すまなかったと。…君の求める神になれなかったと、言っていたよ」
    「………流石は俺の被造物だ、解っているようだな」

    ──天才は、やはりどこか誇らしげに薄く笑った。







    ────それから、日常は何事もなくのんびりと引き返してきた。リエヴァンダレの隠蔽のおかげで、上層部に咎められることもなく。
    ただ、…ひとりが欠けただけだ、バラザーシャが廃棄処分されただけだ、と。


    ある日の柔らかな日差しの下、“彼”の気に入っていた芝生の上で、紫の神使は小ぶりな花束を抱えて座りこんでいた。そこにひとり、金髪の神使が立ち寄って、日光を遮り男の顔に影を作る。

    「…その花は?」
    「スターチスだよ。この間来た新人の子に今日貰ったんだ」

    そうか、とだけルスレイは言った。芸術の分からない彼は、花にも心動かされることは殆ど無かった。
    ルスレイはヘルメロの横に腰掛ける。

    「…そうだ、スターチスの花言葉を知ってるかい?」

    唐突に問いかけたヘルメロに、ルスレイは思案するように下に目線を逸らして返した。長い睫毛が伏せられる。

    「…記憶が正しければ、ピンクのスターチスの花言葉は“永久不変”。淡紫のスターチスの花言葉は“上品”。青紫のスターチスの花言葉は“知識”。黄色のスターチスの花言葉は“愛の喜び”、“誠実”……だったと思うが」
    「はは、君の記憶が正しくなかったことなんてないだろ。正解だよ」

    ヘルメロは包まれた花束を解体して、1本1本眺めていく。
    集合体だけが芸術では無いとでも言うのだろうか。
    徐にヘルメロはルスレイを見て笑った。

    「…どれも君に似合う花言葉ばかりだね」
    「………“愛の喜び”なんかは、君の方が相応しいと思うが」

    そうかい?なんだか照れるなぁ。そうヘルメロは頭を掻いた。実際、この紺楼院で1番愛を重んじる男といえばヘルメロなのだろう。


    花を見るヘルメロと、空を見るルスレイ。しばらくの無言が続いたかと思えば、これまた唐突に、次はルスレイがヘルメロに話題を振った。サファイアが柘榴を覗き込む。

    「…君は、よく俺に殺してくれとばかり言うが、」

    一瞬ヘルメロは、その言葉の後に何が続くのかと半ば構えた。2000年も続けてきたそれに、何か苦情を入れられるのかと思ったからだ。それを気にもせず、ルスレイは続けた。

    「──俺を殺したいとは思わないのか?」

    ヘルメロが、花を持つ手をぱさりと膝の上に落とした。
    そんな動揺を知ってか知らずか、金髪の神使は言葉を変えてまた口に出した。

    「…いや、何と言うのが正解か……。そうだな、君の言う芸術を、君の手で終わらせたいとは考えないのか?」

    え、と呟いたヘルメロは目を白黒させ、空中で手を行く宛てもなく彷徨わせる。だんだんと顔に赤みがさしていく。

    「そうだな…こんなふうに」

    ルスレイはヘルメロのその動き回る両手首を緩く掴んで引いて、掌を自分の首元に添えさせる。若干汗をかいているようなヘルメロの手は震えていた。

    ───何だ、まるで君が首を絞められているみたいに真っ赤じゃないか。

    「どうだ?」
    「……ッ、いや、無理だね」

    絞り出すように言い切ったヘルメロは苦しげに目を逸らし息を吐いた。
    本人にはそのような意図はないのだろうが、追い打ちをかけるようにルスレイは言う。

    「じゃあ、心中というのはどうだ?君の云うロマンとやらには近付けると思うが」

    あっけらかんと言うルスレイに、ついにヘルメロは泣き出しそうな顔で肩を震わせた。

    「………な、僕は…………」

    赤くなった顔を両手で隠す。か細い声が、その隙間から漏れ出た。

    「き、君が僕のために命を終わらせてくれるなんて、無いと思ってたから、」

    確かにそうだ。これまで2000年、ずっと2人はルスレイがヘルメロを殺す場合のことしか考えていなかったし、ルスレイが死ぬというパターンは一度も話題に出たことは無かった。

    ルスレイは、ヘルメロの膝に落ちている花を1本摘んで言った。

    「そういえば……紺楼院霄晰会の神使としてではなく、ただの俺個人として、正直な話をするとすれば、…俺は、………世界が終わっても構わないと思っていたよ」

    ヘルメロが目を瞬かせる。世界が終わっては困る、と彼は当日言っていたが。

    「え、ほんとなのか、それ」
    「…まぁ、条件はあったが」
    「何だ、その条件って。勿体ぶらずに言ってくれ」

    ルスレイはいつもと変わらない無表情で呟いた。しかしそれは常より柔らかいような、なんとも言えない雰囲気を纏っていた。

    「……君とヴァルグロウニャ様が、隣にいれば。終わる世界を3人で見るのも悪くないと思った」

    ───あぁ、きっと、彼は全く人情が分からないなんてことはなかったのだ。

    「……さっき心中の話をしたのは、そういうことか?」
    「まぁ端的に言うならそうなるだろうな」

    しばらくヘルメロはその言葉を噛み締めていたが、不意にルスレイが続けた。澄んだサファイアは空を映し出す。

    「……だが、まぁ……、君と生きるこの世界に、興味が無いわけじゃない」

    興味が無いわけではない、というのは、興味を第1に動き知恵を求める神使であるルスレイにしてみれば、最大の肯定であると言えるだろう。
    ヘルメロは顔いっぱいに笑みを浮かべた。

    「…あぁ。僕も、君と生きるのが楽しみだよ。僕の愛する美しさを、僕はまだ見ていたい。だからまぁ…君に殺されるのは、しばらく我慢してもいいかな」
    「あぁ、そうしてくれ」

    君が望むのなら世界が終わっても良いのかもしれない。
    まぁ────世界自体がその生の連続を拒んでも、僕は彼を手放す気なんて持ち合わせちゃいないが。

    きっとヘルメロは、何度世界が滅びようとしても、自分の利益のためにそれを阻止する。彼は──どうしようもなく人間的であったから。

    「ルスレイ、君は先に勝手にどこかで死んだりしないでくれよ」
    「分かっている。しかもその言葉、そのまま返させてもらおう」

    2人は顔を見合わせて悪戯っぽく笑った。



    すると突然に小さな蝶が2人の眼前を横切ったかと思えば、遠くからしろい少女がふわふわと駆けてくる。それは2人の上司で、生みの親たる神。

    「──ルスレイ、ヘルメロ!ここにいたのね」
    「おぉ、ヴァルグロウニャ様!どうかしたのかい?」
    「ええと、アデルリスタがお茶でもどうかって言うの。あなたたちも一緒にいかが?」
    「リエヴァンダレ様は?」
    「えぇ、お兄様もいるわよ」

    アデルリスタとリエヴァンダレが、ヴァルグロウニャが来た方向の遠くの日陰からこちらを見ている。アデルリスタが軽く手を振った。
    ヘルメロはバラした花束を束ねて持った。

    「うん、喜んで行かせてもらうよ」
    「俺達も何か持っていくべきか」
    「うーん、別にいいんじゃないか?」

    アデルリスタに手を振り返して、ヘルメロとルスレイは2人のもとへ歩き出す。


    それについて行こうとして、しかし不意に立ち止まったヴァルグロウニャは、背後の芝生を見て微笑むと、ひとこと呟いた。

    ────もちろん、“彼”も一緒にね。

    一瞬、風と共に白の三つ編みが揺れて、白い一対の翼が視界を覆った気がしたが、誰にもその正体は分からなかった。


    「──ルスレイ!ヘルメロ!」

    紫と金の部下2人は、後ろから駆けてきた上司と手を繋いで歩いた。
    柔らかな日差しが、全てを──世界を照らしていた。




    ───美しいこの世界は、今日も生きている。


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    Replies from the creator

    あずきバー

    CAN’T MAKEずっとうだうだ言ってたやつの序章的なアレを書いたのでそっと放流します…………昔より文章ド下手になってる気がして自分でめちゃわろてる
    スケープゴート・エリジウム「……やっと来ましたか。早く行きますよ、2人とも。遅れれば上から苦情が入りますからね」
    「ンなモン勝手に入れさせときゃ良いだろうが。この俺に文句言う奴は全員ブチのめしてやんよ」
    「だめだよ、そんなに怖いこと言ったら……」

    安いスプレーの落描きにまみれた路地裏で、3人は歩き始めた。





    「忘れ物は無いかしら?準備が出来たならそろそろ出ましょ」
    「……問題ない」

    青いネオンの薄明かりの中で、2人は頷きあった。





    「ねぇまだ〜?ボクちょっとコーデ微妙だから1回戻りたいんだけどぉ」
    「ちょい待ちぃな、俺の酒どこにやったかわからんねん」

    偽物の光に照らされた扉を挟んで、2人は欠伸をした。






    2XXX年。

    [[rb:【Q】 > キュー]]────そう称される化け物へと、人間が変異してしまう現象。“この国で産まれた人間にのみ”発生するその現象に対処するため、この国は他国との関わりを最大限に絶つことを決心せざるを得なかった。未知の現象による混乱に陥った国内の景気は悪化し、外交面でも不便が目立つようになった。
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