友だち 目的の座標に着地すると、周囲から賑やかな声が聞こえてきた。妙に甲高くて耳につくこの声は、未成熟な子供たちの叫び声だ。路地から抜け出して角を曲がると、大通りの先に小学校の校舎が見える。ランドセルを背負った無数の子供たちが、校門に吸い込まれるように歩いていた。
そんな子供の群れに紛れるようにして、僕は校舎へと続く道を進む。四方から飛んでくる耳障りな声に、思わず顔をしかめてしまった。そんな僕のすぐ隣を、一回りは小さい男児が駆け抜けていく。周囲の風が巻き込まれて、三つ編みにした髪が微かに揺れた。
「おはよう」
「おはよう、ルチアーノ」
校門を抜けると同時に、見慣れた子供たちが声をかけてくる。僕の周りに集まってきたのは、同じクラスに在籍する生徒たちだった。周囲を取り囲むように陣形を定めると、口々に話を持ちかけてくる。適当に相槌を返しながら、僕たちは教室へと歩を進める。
始業前の小学校の教室は、外と同じくらい賑やかだった。そこかしこに集まった子供たちが、甲高い声で何かを話している。変声期を迎えていない子供の声は、嫌でも耳に入り込んでくる。聴覚システムの音量を調整していると、隣の席に女の子が歩いてきた。
「おはよう。ルチアーノくん」
にこやかに笑みを浮かべると、少女は机の上に荷物を置く。落ち着いていて上品な仕草は、他の子供たちとは大違いだった。花のように可憐な笑みも相まって、その姿は学年のマドンナである。同じようににこやかな笑みを浮かべると、僕も挨拶を返した。
「おはよう。×××ちゃん」
少女の視線が離れたのを確認すると、僕は机の下から本を取り出す。文字を目で追う振りをしながらも、密かに少女の様子を眺めた。鞄の中のものを机に移すと、彼女は教室内へと視線を向ける。クラスメイトが近づいてくると、楽しそうに言葉を交わし始めた。
僕がこの少女を気にかけているのは、個人的な趣味などではなかった。この普通校にはそぐわない少女こそが、今回の追跡のターゲットだったのだ。なんでも、政府関係者の娘として生まれながら、家庭の方針とやらでこの学校に転校させられたらしい。わざわざ娘に苦労をかけようとするなんて、人間の考えることは理解できない。
そんなことを考えていると、教室のスピーカーから音声が流れた。文字に起こすと独特な擬音で表現される、学校のチャイムというものである。子供たちが席につくと同時に、廊下から担任教師が入ってくる。僕の退屈な任務の一日が、今日も始まったようだった。
退屈な授業を全てこなし、教師が先導する帰りの会を済ませると、僕たちはようやく学業から解放される。教科書の詰まった鞄を手に取り、思い思いの友人に声をかけると、子供たちは自分の家へと帰っていくのだ。この帰りの友人争奪戦も、クラスでの格を決める争い事のひとつらしい。彼らが最も気にしているのは、クラスの人気者が誰を選ぶかだった。
ざわめき始める子供たちを横目で眺めながら、僕は机の中身を片付けていく。クラスメイトが次から次へと帰っていくが、焦る必要は微塵にもなかった。転校初日で彼らの心を掴んだ僕は、既に奪われる側に移ったのである。その証拠に、僕が重くなった鞄を背負っていると、隣の席から女の子が声をかけてきた。
「ねえ、ルチアーノくん。よかったら、一緒に帰らない?」
ターゲットからの直々の誘いに、僕は密かに口角を上げてしまう。彼女の方から行動を起こしてくれるなんて、誘う手間が省けるというものだ。それに、帰宅の相手に選んだということは、僕は警戒されていないのだろう。首尾良く家まで送り届けられたら、もっと詳しいことが分かるかもしれない。
「いいよ。僕も、×××ちゃんと帰りたかったから」
作り物の笑顔で答えると、僕は少女の隣に歩み寄る。薄ピンクのランドセルを背負っていた彼女が、微かに頬を赤く染めた。僕が教室の外へと歩を進めると、彼女は様子を探るように後をつけてくる。しかし、その距離感も最初だけで、門を出る頃には普段通りに戻っていた。
「×××ちゃんは、どこに住んでるの?」
しばらく大通りを歩いた辺りで、僕はさりげなく問いを投げかける。せっかく二人で話す機会を得られたのだから、距離を詰めておいた方がいいと思ったのだ。彼女の身の回りの情報は既に得ているが、僕の知らない話が聞けるかもしれない。幸い、彼女は何も疑わなかったようで、雑談をするように答えてくれた。
「繁華街の近くだよ。少し前まで、トップスエリアだったところ」
「そっか×××ちゃんは、トップス階級のお嬢様だったんだよね。ご両親も有名な人なのかな」
「そんなことないよ。確かに、昔はトップスだったけど、シティの中では下の方だったもの」
トップスエリアについて話を広げると、彼女は慌てた様子で否定する。どうやら、この少女の家庭の方針としては、トップス育ちを誇るつもりはないみたいだ。両親の職も中堅の職員だから、立場を弁えているのだろう。それだけ手堅い人間となると、付け入る先を探すのは難しそうだ。
「そういうルチアーノくんはどうなの? ルチアーノくんも、ご両親が治安維持局の職員なんでしょう」
脳内で作戦を巡らせていると、今度は少女が問いを投げかけた。話の流れで家柄について詮索されるのは、彼女に近づく前から想定済みである。思考の隅から用意していたカードを持ち出すと、平静を保ったまま言葉を返した。
「僕の家も、君とそんなに変わらないよ。良かったら、また今度招待してあげようか?」
「いいの? じゃあ、お母さんに聞いてみるわね」
中身の無い話を続けながらも、僕たちは繁華街の奥へと歩いていく。人で溢れた大通りを進むと、遠くに大きな建物が見えてきた。僕と少女の両親が勤める、治安維持局のビルである。情報によると、彼女の住む邸宅とやらは、繁華街とこの建物の間にあるらしい。
しかし、首尾良くことが進んでいる時ほど、予想もしない邪魔が入るものだ。少なくとも、この時の僕にとっては、運は僕に味方してくれなかった。もうすぐで繁華街を抜けるという時になって、背後から人の声が聞こえてきたのだ。そして、その声の主は、僕が今一番会いたくない人間のものだった。
「あれ、ルチアーノ?」
聞き慣れた間抜けな声が耳について、僕は思わず背後を振り向く。案の定、そこに佇んでいたのは、僕のタッグパートナーを勤める青年だった。買い物帰りか何かのようで、手には大きな紙袋を下げている。最悪なタイミングでの対面に、思わず素の声が漏れてしまった。
「げっ……!」
「ルチアーノくん? どうしたの?」
あからさまに表情を変える僕を見て、少女が不思議そうに顔を覗き込む。せっかくここまで持ち込んだのだから、こんなことで無駄にしたくはなかった。急いで平静を装うと、目の前の少女に視線を合わせる。口元に笑みを浮かべると、言い聞かせるように声をかけた。
「なんでもないよ。少し待っててもらえるかな」
少女が頷いたことを確認すると、僕は青年の元へと歩いていく。さすがに普段と違う雰囲気を察したのか、こちらに近づいてくる様子はなかった。目と鼻の先まで近づくと、僕は真下から彼の姿を見上げる。少女に聞かれることのないように、小さな声で口を開いた。
「どうしたんだよ。こんなところで」
「ただの買い物だよ。ルチアーノの方こそどうしたの?」
「そんなもの、見れば分かるだろ。任務で潜入してるんだ」
苛立ちを滲ませながら言葉を並べると、彼は納得したような表情を見せた。ここまで言わないと分からないなんて、協力者としては面倒な人間だ。デュエルの腕さえなかったら、当の昔に切り捨てていたかもしれない。そんなことを考えていると、今度はこんなことを言い出した。
「そっか。友達ができたのかと思ったけど、違ったんだね」
「友達? 僕と人間が?」
予想もしない言葉が飛び出してきて、僕は思わず顔をしかめる。日頃から怖いもの知らずなこの男は、時にこういうことを言い出すのである。突拍子もない発言に呆れていると、彼は大真面目に言葉を続けた。
「そうだよ。前から思ってたんだ。ルチアーノに友達ができたらいいなって」
「何寝ぼけたことを言ってるんだよ。僕は神の代行者で、人間を導く存在なんだぞ。人間と友達になるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないからな」
吐き捨てるように言葉を告げると、僕は青年に背を向ける。これ以上話をしていると、少女を待たせ過ぎてしまうだろう。ここで任務に穴を開けたら、積み重ねてきた信頼が台無しだ。今は一刻でも早く、彼女の元に戻らなくてはならない。
「とにかく、僕は任務中なんだ。話なら後にしてくれ」
最後に一言だけ言葉を残すと、僕は駆け足で青年の前から離れる。彼もそこは弁えているのか、これ以上探ってはこなかった。再び作り物の笑顔を浮かべると、少し離れたところで待っている少女に歩み寄る。彼女も青年のことが気になるのか、チラチラと視線を向けていた。
「待たせてごめんね。あの人は、僕の知り合いなんだ」
少女と同じ方向に視線を向けながら、僕は用意していた言葉を告げる。彼に出会った時の対処についても、一応は考えてあったのだ。とはいえ、彼はイリアステルに関わってくるような怖いもの知らずだから、何をしでかすかは分からない。後ろ姿が見えなくなったことを確かめてから、僕たちは大通りを先に進んだ。
そこから五分ほど歩いたところで、不意に少女が足を止める。危うく追い抜きそうになって、僕も慌てて足を止めた。彼女の視線の先には、治安維持局へと続く通りが続いている。くるりとこちらを振り返ると、明るい声でこう言った。
「じゃあ、ここからは一人で帰るね。今日はありがとう」
どうやら、彼女の家に近づくのは、ここまでが限度であるようだった。クラスメイトとはいえ、知らない男に家を知られるのは、彼女にとっては避けたいことなのだろう。サテライトと統合した後のシティは、トップスエリアほどセキュリティが行き届いていないのだ。日々シティで起きている事件のことを考えると、彼女たちの警戒も最もだった。
「分かったよ。また明日ね」
簡潔に了承の言葉を告げると、僕は笑みを浮かべながら手を振る。彼女の家は既に突き止めているから、これ以上深追いする必要もなかったのだ。とりあえず、今日は一緒に帰ることができたから、ターゲットの接触としては十分だろう。僅かに口角を上げながら、僕は繁華街の路地へと歩を進めた。
青年の家に帰る頃には、すっかり日が暮れていた。
あの後、一度拠点となる邸宅に帰った僕は、翌日の支度を整えてからこの家に来たのだ。仮にも住み処を決めている以上、何もせずに放置するわけにはいかない。せめて人の住んでいる気配を示すために、部下たちに指示を与える必要があった。
狭いリビングにワープすると、僕は室内へと視線を向ける。家の主であるその青年は、キッチンの前にあるテーブルで夕食を取っていた。今日も市販の弁当を食べているらしく、周りには容器の蓋が転がっている。ちらりとこちらに視線を向けると、彼はいつもと変わらない声で挨拶をした。
「おかえり、ルチアーノ」
「……ただいま」
少し緊張を滲ませながらも、僕は彼の正面に腰をかける。今日の夕方に見られたことについて、何らかの詮索があるのではと思ったのだ。仮にも恋人が他の女と歩いていたら、多少の不快感を感じるだろう。彼の手元に視線を落とすと、僕は覚悟を決めて返事を待つ。
「今日は、遅くまで任務してたんだね。お疲れ様」
しかし、そんな僕の覚悟とは裏腹に、彼の様子は普段と変わらなかった。直前まで動かしていた箸をとめると、能天気な声で言葉を重ねる。最後まで言葉を伝え終えると、彼は再び箸を動かし始めた。
「まあね。今回は長期の潜入になるから、帰りが遅くなる日も増えるだろうな」
いつも通りの声色に拍子抜けしながらも、僕も平然と言葉を返す。彼が気にしていないというのならば、僕が気にかける必要もないのだろう。下手に探りを入れたりしたら、それこそ疚しいことがあるのではと疑われてしまいそうだ。どう話を回すかを考えていると、再び能天気な返事が返ってくる。
「そうなんだ。大変そうだけど、頑張ってね」
ひとまず、彼のその言葉を最後に、僕たちの任務についての話は終わった。彼の方から伝えたい話があったようで、話題は流れるように日中の出来事へと移っていく。彼の話はどれも下らないことばかりだから、僕は呆れ半分に言葉を返すことになるのだ。しかし、どれだけ平和な話を続けていても、頭の隅には夕方のことが残っていた。
「なあ、何か、聞きたいこととかないのかよ」
結局、沈黙を守り続けることに耐えられなくて、僕はその問いを口に出した。彼が僕の任務をどう思っているのか、気になって仕方がなかったのだ。本心では不満を抱えているけど、見栄を張って口にしていない可能性もある。しかし、そんな僕の邪推とは裏腹に、彼は能天気な言葉を返してきた。
「何かって、なんのこと?」
何も分かっていなさそうな発言に、僕は大きな溜め息をついてしまう。深く考えない彼のことだから、本気で気にかけていなかったのだろう。僕ばかりが変に気にしているなんて、重いみたいで悔しくて仕方ない。それでも、一度胸に浮かんでしまった疑問は、もう止めることはできなかった。
「僕の任務のことだよ。普通だったら、恋人が女と接触するのはいい気がしないもんだろ。もっと距離が近づいたら、あいつを家に呼ぶかもしれないんだぜ」
溢れるままに言葉を並べると、彼はパックの上に箸を置いた。僕の語調の鋭さから、内心の迷いを察知したらしい。真剣な表情でこちらに視線を向けると、彼は穏やかな声色で言葉を告げる。
「そうなったら、僕は嬉しいなって思うよ」
「はあ? なんでだよ」
またしても予想外の言葉が飛び出してきて、僕は大口を開けてしまった。恋人が女と接触しているというのに、どうして彼が喜ぶのだろう。信じられない気持ちで見つめ返すと、彼は嬉しそうな声色で言葉を続けた。
「だって、一緒に登下校をする相手ができるってことは、ルチアーノに友達ができるってことでしょ。僕以外の人との繋がりができるのは、僕にとってはいいことなんだよ」
またしても彼の口から零れ落ちるのは、僕には理解のできない言葉だった。任務で接触するだけの人間が、どうして友達に当たると思うのだろう。人間という生き物の考えることは、一切理解ができなかった。
「君は、何も分かってないようだな。これは任務であって、ただの暇潰しなんかじゃないんだ。あいつと一緒に帰ってるのだって、目標を達成するために近づいてるだけなんだぞ」
「それは分かってるよ。それでも、その子はルチアーノの友達だって思うんだ」
何度言葉を重ねたとしても、彼は友達という言葉を使ってくる。埒が明かなくなって、僕は鋭い声で言った。
「何回言えば分かるんだよ。僕は、友達なんていらないって言ってるだろ」
しかし、正面に座っている青年は、少しも怯む気配を見せなかった。嬉しそうな表情を保ったまま、独自の理論を展開させる。
「そうだね。ルチアーノはそうかもしれない。でも、その子はルチアーノと友達になりたいって思ってるんだよ。友達になりたいと思ってくれてる子がいたら、いつかは友達になれるんじゃないかな」
結局、彼の言葉を否定するのが面倒になって、僕は乗り出していた身体を引っ込めた。理由はなんであれ、彼が不貞を疑っていないのならば、僕としては十分だったのだ。彼の理解不能な推測も、今回は多目に見てやることにする。どうせ一月も経たないうちに、僕はあの少女の前から姿を消すのだ。
「君って、変なやつだよな」
箸を握り直す青年を眺めながら、僕は小さな声で呟く。唐揚げに手を伸ばしていた彼が、苦笑いを浮かべながらこちらに視線を向けた。