アーサー爺さんは長生きだ。村に暮らす誰一人として彼が今年で幾つになるのか知らない。
でもアーサー爺さんは俺たちが何年前の何月何日の何時にどのようにして生まれたのかをいつだって暗唱することができた。
たとえば十二年前の五月七日。薄桃色の夕焼けに一番星が現れた頃、初産だった母は奥歯を砕かんばかりに噛み締め、涙を煮え立たせながら俺を生んだ。手伝いに来たままその様子を見届けたアーサー爺さんは、この子は丈夫な子に育つだろうと確信したという。
実際、大病もせず、村の子どもたちと比べて体が大きくなった。水の入った桶も両手に一つずつ持てるし、飼料も大人と同じくらいの量を一度に運べる。
そうやって他の子よりはやく大人に混ざりだした俺を、アーサー爺さんはたまに呼び止め、庭の花壇作りや管理する果樹の収穫を頼んできた。
生まれた瞬間を目撃された大人たちのなかでアーサー爺さんに頭が上がる人はおらず、彼からの頼みごとはいつも優先される。
それで赤レンガを積み上げて建てられた彼の家を幼い弟妹を引き連れ訪ねると、他の子達もこっそりと集まっていた。一緒に花壇を作ったり木登りしたり、剥いてもらった果樹を食べながらアーサー爺さんのする昔話を聞いたりして過ごすのだ。
国の歴史、草花の知識、星の動き、美味しいジャムの煮方、勇者たちの冒険譚、魔法使いの秘話。なんでも知っているアーサー爺さんは揺れる椅子に深く体を預けて、絨毯の上に思い思いの姿勢を取る俺たちひとりひとりと視線を合わせながら、いろんな話をする。俺にはたまに彼が大きくて分厚い一冊の本のように思えた。どこを開いても文字がびっしりと埋まっている。紙面をなぞれば乾いているが、内容は常に瑞々しい。
夕食の時に、アーサー爺さんから聞いた話を話すと、耳にはしっかりはっきり鮮やかに残っているのに、自分の口から出すとめちゃくちゃでこんがらがって色は抜けてしまう。それでも、父も母も懐かしそうに目を細める。そして二人とも、弟と妹が見ていない隙をついて俺の頭を撫でた。子ども扱いするなと言ってはみるものの、声は勝手に気色ばむ。そんな夜は、いつも、薄桃色の夕焼けの夢を見た。
アーサー爺さんの前では誰もが子どもだった。
アーサー爺さんの家にはアーサー爺さんしかいない。彼はもともと流浪の身で、たまたま訪れたこの村に居着いた異邦人だ。親兄弟の話を聞いたことはない。どうして旅をしていたのかも。なぜこの村に居着いたのかも。
なんでも知っている彼自身の話は、なんとなく聞いてはいけないことのような気がした。自分が知っている限りのことをなんでも俺たちに教えてくれる彼は、聞けば快く教えてくれただろうけれど。それを耳にするのは、彼の心の内側まで削いで食べ尽くしてしまうような、奇妙な恐れがあった。
それでも、アーサー爺さんにも大切な人はいる。首から常にぶら下げたロケットペンダントを撫でる指先が、どんな時よりも丁寧なのを、村の誰もが知っている。それだけわかっていれば良かった。
アーサー爺さんは優しくて、気さくで、頭がよくて、村の誰より長生きで、ここにはいないけれど大切な人がいて、その人をずっと想っている。もちろん村の大人も子どももアーサー爺さんは大事にしてくれているし、俺たちもアーサー爺さんが大好きだった。
生まれてから今日までも、明日を迎えて遠い未来に至るまで、アーサー爺さんはずっと村にいてくれるのだと思って疑わなかった。
そんなわけがない。現実をもたらしたのは、アーサー爺さん本人だった。春も馴染んだのどかな日の朝、彼は一軒一軒の家を訪ねてきて、もうじきくるお別れの話をした。
泣き出す人の背を撫で、ひどい冗談だと怒る人を抱き締め、呆気にとられる子どもたちに微笑みかけるアーサー爺さんは、普段とはなにも変わらない。どこか悪いのなら医者のいる村まで連れていくと言う人を、もう潮時なのだとやんわりといなす姿は、これまでどんな無理難題にも答えを導きだしてきたアーサー爺さんの、覆しようのない正解なのだと思った。
そのときから、俺はぼんやりとしていた。
これからアーサー爺さんがいなくなるのにもかかわらず穏やかにふりそそぐ朝日の眩しさを体では感じているのに、頭は置いてけぼりだった。
それでも、これは後で母から聞いたのだが、右手を弟と、左手を妹と繋いだ俺は、アーサー爺さんの話を聞き終わると、肩を寄せあう両親が口を開くよりも先にこう言ったのだそうだ。
「アーサー爺さんは、ペンダントの人に会いに行けるの?」
シワに埋もれた青い目が見開かれる。驚くアーサー爺さんを、父も母も初めて見た。
「だって、俺たちのことを気遣うばかりで、ちっとも寂しそうじゃないもの。それなら、俺はその方がいいんだ」
アーサー爺さんは、にっこり微笑んで、俺の前にしゃがみこみ、弟妹たちごと抱き締めた。この時のことで俺が覚えているのは、抱き締められた瞬間の温もりと息苦しさだけだ。
それからしばらくして、アーサー爺さんは棺におさめられた。
その日は無性に眠たくなって、俺は誰よりも先に床につき、そのおかげか次の日、誰よりもはやくに目が覚めた。見た夢も思い出せない重い頭にふとよぎる。アーサー爺さんのところに行こう。その思いつき自体になにも疑問を持たず、服を着替え、両親を起こさないように顔を洗い、家を出た。
日の出前。忍び寄る初夏の気配を受け、あたりはそこそこ明るく、温む空気が肌を撫でる。清々しさすらあった。足取りは軽く、墓場まで、不思議と誰とも会わない。見とがめられることなく無事にたどり着き、俺はそれを見た。
アーサー爺さんを埋めたところに、ぽこっと穴があき、腕が生える。そのまま土の下から、アーサー爺さんがずるずるずるっと這い出た。すくっと立って、体の土をはらい、地面をならす。
俺は、他の人の墓石の影から目撃し、声もでなかった。緊張していた。アーサー爺さんは、これから会いに行くのだ。ペンダントのその人に。
アーサー爺さんは生前となにも変わらないまま歩きだす。その後ろをそうっと着いて歩く。早朝の散歩をするかのような爺さんは、村のなかをぐるりと一周し、柵を越えて街道に出た。
思わず目を擦る。アーサー爺さんの背が急に伸びたように思えた。けれど眠気の吹き飛んだ目をよくよく凝らすと、背が伸びたのではなく、老人らしく曲がっていた背を正したのだとわかった。すこし薄かった後ろ頭もふんわりと丸みを帯び、白髪はきらきらと朝日に輝く。一歩一歩の間隔が広くなり、次第に走りだし、俺はあわてて追いかけた。
背中だけでもわかる。きつく編んだセーターがほどけるように、アーサー爺さんが若返っていく。大地を強く蹴りあげ、高く飛んだ。見上げた青さに目が眩む。ようやく視界が戻った時、青空を切り取るようにして白い鳥が大きく翼を広げていた。まだ夜がわずかに残る北に向かう。ぐんぐんと速度をあげるその姿が見えなくなるまで、俺はその場に立って影を長くのばしていた。
「アーサー爺さんは魔法使いだったんだろう」
断定した俺に、目の前の少年は照れ臭そうに笑った。銀髪がきれいにそろう丸い頭をかすかに揺らし、青い瞳を細める。眼差しが親しげで、懐かしくて、胸にぐっと迫ってきた。彼の前では、誰もが子どもになる。
「人間のふりをして、徐々に年を取ったように見せかけて、最後はまた旅に出た。……ずっと村にいたって良かったのに」
「そう振る舞うのは百年だけと決めている。それ以上は、お別れが寂しくなるから」
そういいつつ、彼は小さな手で首から下げたロケットペンダントを握りしめた。
「でもまた数奇な縁でおまえに会えた。どうしてこの街に?」
「医者を探しにきた。俺、父親になるんだ。だけど彼女の体調が日に日に悪くなってて……」
「心配だな。そういうことなら私が良い医者を紹介しよう」
「今は子どもなのに?」
「見た目は。でも中身はおまえの頼れるアーサー爺さんだよ」
そういうと懐から取り出した紙にさらさらっとなにかを書き付けて手渡される。住所と名前。さらに署名がされていた。アーサー爺さんの家名を、俺は初めて知った。
「その者も魔法使いだが、信頼できる。きっと力になってくれる」
「……ありがとう。正直、困ってたんだ。大きい街まできたはいいけど、知り合いもいなくて……なあ、アーサー爺さん」
「なんだ? なんでも言ってくれ」
「子どもの姿で人間に紛れるのは難しくないか? もし、よければなんだが」
「気持ちはありがたいが、実は今は人として生きている最中ではないのだ。百年は人として生き、次の百年は魔法使いの弟子として研鑽している。この姿は原点回帰の意思表示なのだ」
「はあ。そういうものなんだな」
「ああ。建前としては」
「建前?」
「この姿のほうが、師が私を甘やかしやすいらしいのだ。私もこの年になると子ども扱いされるほうが新鮮でな。それに、自らの意思とはいえ百年も離れていると、いろいろある」
「いろいろ」
アーサーはにこっと笑った。どこか艶っぽい笑みに誤魔化された気もするが、同時に、子供の時には見られなかったその表情に絆される。
けれど顔つきが一度あらたまれば、そこにいるのはアーサー爺さんだ。
「おまえの妻と子であれば、私の子と孫も同然だ。師に話して、近いうちに村に寄るよ」
「ありがとう。俺のできる範囲でにはなるが、歓迎するよ」
「気にしなくていい。好きでしていることだ。私が別れを告げに家々を回ったとき、私が会いたい人に会えるのなら寂しくないと言ってくれたのも、飛び立つ私を静かに見送ってくれたのも、おまえだけだった。だから私も、おまえが会いたい者におまえを会わせてやりたい」
気づいていたのか。とたんに気恥ずかしくなって、俺は十二歳の頃の気持ちに戻る。その肩を、その時の俺より小さな手が優しく撫でてくれた。