東離猫奴世界(2)刑亥は恐れおののいた。
魔界きって術師の姉上に加え、あの凜雪鴉でさえ猫の下僕になってしまった。
刑亥は凜雪鴉を100回殺しても足りないほど憎んでいたが、それ故にあの悪党が如何に煮ても焼いても食えない存在かも理解している。
狡猾な魔族を詐術で謀るほどの抜け目なさには一目置いていると言っていい。
その悪知恵の働く掠風竊塵が猫の手下になってしまった。
猫たちは手強い。
人間界を征服した猫たちは、次は魔界を狙うかもしれない。
至急、この危険を魔界に知らせなければ。
あのお方に頼るしかないのか。
ちらりと殤不患と萬軍破を横目で見た。
この人間達は邪魔だが、まずは猫の危険とこの窮状を魔界に知らせ、助けを呼ぶのが先決だ。
こいつらは、いずれ始末をつければ良い。
しかし、魔界と通信するための水晶球がある刑亥の部屋には、先ほど乱入し姉上を虜にした猫がいるかもしれない。
部屋から猫を追い出さなければ。
刑亥は過去に猫を飼っていた経験を振り返った。
猫の気を引くには、魚か肉か玩具だ。
そうだ良いものがある。
刑亥は大広間の片隅の岩棚を物置代わりにして魔法道具などを収納していた。
蓋をどかして、中を探し小瓶を取り出した。
「何をされておるのだ?
刑亥殿」
「猫に効く薬だ。
猫を惹きつけるのに役立つ」
猫を飼っていた時に、またたびは疲労回復や冷え性の薬になると知って、夜魔の森に生えていた実を乾燥させておいた。
「私の部屋の猫を追い出すつもりだ。
この広い無界閣では、私の部屋以外に猫を防ぐ場所がない」
刑亥は粉にしたまたたびを呪符に振り掛けながら言った。
扉から殤不患と萬軍破を離れさせ、二人が見守る中、刑亥は私室の扉をそっと小さく開けた。
手を伸ばして、入り口に呪符を差し出す。
うにゃん?
部屋の中から猫の鳴き声が聞こえて、こちらに寄ってくる気配がする。
間も無く扉の隙間から、三毛猫が顔を出した。
即座に刑亥は呪符を殤不患と萬軍破に向かって放り投げた。
呪符は宙に舞いまたたびの粉が二人に降りかかった。
猫はまたたびの匂いに目を輝かせて一目散に追いかける。
猫が扉を出た瞬間、刑亥は自分一人が入れる隙間を開いて、身を滑り込ませると内側から鍵をかけた。
「刑亥殿!」
「一人だけ逃げのびるつもりか?」
扉を叩く音を後にして、魔界との通信機のある部屋に急いだ。
「なんだ刑亥か。
協力しないと言ったはずだ」
阿爾貝盧法は不機嫌そうに言い捨てた。
「人間界で緊急の事態が発生しました。
魔界にも危険が及ぶかも知れぬと考え、お知らせいたしたくご連絡しました」
刑亥は手短かに事情を説明した。
阿爾貝盧法は面白そうに「ふぅむ」と頷いた。
「無界閣は因果律を超越した世界だ。
過去の出来事の改竄が重大な結果に結びつく。
何者かが因果律に干渉し、猫の魅了で世界を征服する計画を進めているやも知れぬ」
「ご明察でございます。
おっしゃる通り、そうお考えになると筋が通りましょう。
そこで、時空魔術にお詳しい阿爾貝盧法伯爵のお力を、是非ともお借りしとうございます。
その不届き者を調べていただけませぬか?」
「ふはっはっはっは。
小さく力もなく、魔力もほとんど持たない猫など、取るに足らぬ存在よ。
そんな猫に骨抜きにされる人間を助けて、私に何の利がある?」
にんまりと笑った
「人間どもが猫の奴隷になる姿を見るのも、暇つぶし程度にはなるかもしれん」
阿爾貝盧法は油断していた。
逢魔漏は魔界に通じる道も開く。
通信の最中に、阿爾貝盧法伯爵の後ろに猫が現れ、足音を殺して忍び寄っていた。
獲物にそっと近づいて飛びかかる。
「ぎゃー」
魔宮八位の魔界伯爵の心に、猫への愛が湧き上がってきた。
猫は黒い美しい長毛種で、威厳のある姿に赤く光る瞳はまるで魔界の業火を映したよう。
その絹のようなふさふさの長毛を、毎日櫛で綺麗に梳かして、さらさらに整えてあげよう。
美しく柔らかい命の塊は、力が強い者が守ってやらなければ。
何をしても許せる可愛さだ。
これが父性愛というものか。
刑亥は、映像で魔界で魔力を誇る高位の貴族が、猫の虜になる姿を驚きと恐怖で見つめた。
奸計と策略で人間を弄ぶのを喜びとした魔族の伯爵が、猫を膝に乗せ愛おしそうに撫でている。
阿爾貝盧法伯爵も猫に夢中になってしまった。
魔界も猫に征服されてしまう。
目の前が真っ暗になった。
どうすればいいのか。
全く考えが浮かばない。
しばらくは、ここに一人で籠城するしかないのだろうか。
刑亥は知らなかった。
賢い猫は、上下して開けるノブの扉や軽い引き戸は開けてしまう。
さらに少しの隙間でも、頭とヒゲが通れる間ならすり抜ける。
そして大人の猫よりも子猫はとても小さいということを。
魔脊山の地下は凸凹で隙間だらけだ。
そこを改造して作った無界閣は、小さな猫が通り抜けられる穴はいくつもあった。
みゃう
落ち込んで顔を伏せていた刑亥の手を、隙間から入り込んだ茶虎の子猫が近寄って慰めるようにぺろぺろ舐めた。
その体温と小さくて湿った舌の感触に、刑亥の心を温かい気持ちが満たした。
人間の美丈夫を縫い合わせ、好みの美男子を作り奉仕させていたが、この子猫の可愛さには敵わない。
子猫への愛情が心の中に湧き上がる。
やんちゃで悪戯好きなこの子猫は、将来は凛々しく立派な雄猫に育つだろう。
毎日、猫と遊んでご機嫌をとって、この猫の幸せのために尽くそう。
美味しい餌をたくさん食べさせてあげよう。
例え私の食費を削っても。
猫が幸せなら私も幸せ。
「食べてしまいたいくらい可愛いのう」
刑亥も猫に心奪われてしまった。
魔力を持った呪符は空中で殤不患と萬軍破についてまわり、またたびの匂いに釣られた他の猫も集まってきた。
大好物に猫たちは大喜びで二人を追い詰める。
大広間から回廊、牢獄へ、牢屋の壁の突き当たり、もう逃げ場がない。
もはやここまでか。
突然、懐の逢魔漏が光出した。
萬軍破は取り出した逢魔漏を覗いた。
山々に囲まれ草原が続く懐かしい西部の風景に似ていた。
「捕まれ、不患!」
「おう」
無界閣の暗闇に慣れた目には草原の青空が眩しかった。
「危ない所だったな」
ここまでは猫も追って来れないだろう。
萬軍破は安堵のため息をついて、百足の面具を外した。
西幽の果てで不患と二人になってしまっては顔を隠す必要もない。
百足の面具は懐に入れるには少し大きすぎる。
不患が白い袋を差し出した。
「これを使え。
変な人形が入ってるけど気にするな」
「ありたがい」
萬軍破は百足の面具を入れて袋の紐を腰に括りつけけた。
周りを見回すと、荒野の果てには青い山脈が連なり、空はどこまでも広い。
どこか見慣れた風景から、西幽の西部の国境付近だろう。
萬軍破は西部での二人で過ごした日々を思い出した。
不患と旅した胸踊る冒険。
あの頃は、まだ世の中に正義や道徳があると信じていた。
二人で手を組めば、どんな苦難でも立ち向かっていけると思っていた。
「西部の近辺だと思うが、正確な場所は分からねぇな。
高くて見晴らしが良い所があったら、この辺りの地形を確かめよう。
まずは飲み水の確保だな。
次は道を探そう。
道を広い方に辿っていけば、人か家に行き着くだろう」
不患は過酷な環境で生き抜く術に長けた、頼りになる男だ。
二人は草原を丘に向かって歩き始めた。
鳳曦宮は猫に征服されたが、もしかしたら、人里離れた地方はまだ無事かもしれない。
猫の下僕になっていない人間を探して危機を伝え、対策を練ろう。
今まで、猫を防ぐのに精一杯だったが、少しは考える余裕が出てきた。
そうだ、早く螟蝗猊下へ現状の報告をしなければ。
今までは猫の襲撃に加え、魔族の刑亥と殤不患が居たので、螟蝗猊下との連絡はできなかった。
螟蝗猊下ほどの外法の使い手ならば、猫の魅了で正気を失った人々を元に戻す方法をご存知かもしれない。
萬軍破の胸に、淡い希望が湧いた。
なんとか猊下と不患と手を組んで猫に対抗できないだろうか。
世界の覇権を左右する魔剣目録を巡り争っていた猊下と不患だが、猫によって人類と世界の覇権が脅かされるこの状況では、それどころではなくなった。
俺がとりなして、一時だけでも協力できないだろうか。
そのためには、まず隣の頑固者をどうにか説得しなければならない。
そう考えると頭が痛かった。
意を決して口を開こうとした時、「誰か、誰か、」丘の向こうから弱々しい声がした。
腰の曲がった老婦人が、杖を付きながらこちらに歩いてくる。
「ご婦人、どうなされました」
萬軍破は老婦人に近寄って声をかけた。
「猫から逃げてきましてなあ。
周りは皆、猫を拝むようになってしもうた」
「それは大難であったな。
我らも、猫には苦慮しておる。
猫の手の及ばぬ所まで、一緒に行きませぬか」
萬軍破は手を差し出した。
「ありがたいのう。
そこのお連れの方は?」
不患は離れた場所から、二人を見ている。
「待て、軍破。
なぜ、こんなところに杖をついた老婦人がいるんだ?」
不患はじろじろと老婦人を眺めた。
「失礼だぞ、不患」
老婦人はきょとんとした顔をしている。
「こんな見渡す限りの草原のど真ん中に共の者の手を借りずに、歩いて来れる距離じゃねぇ。
それに長く歩いてたのなら、杖も靴ももっと汚れているはずだ」
「殤どのは引っかかりませんでしたな」
老婦人がくるりと回ると姿は鬼鳥に変わった。
「逃げても無駄ですよ。
萬将軍、殤どの」
にゃお
幻術が解けると、周りは猫、雉虎猫、ハチワレ猫、サビ猫、可愛すぎる猫だらけ。
軍破と不患は囲まれていた。
「まずは強敵、殤不患から」
殤不患に、全ての猫が飛びかかった。
「逃げろ!
軍破!
うわー」
猫に集られて、倒れた殤不患の心の中に、猫への愛と日々の疲れが広がった。
体の上に猫が乗り胸の上で丸くなり、腕は他の猫が頭を乗せて枕にして、開いた足の間には別の猫がうずくまった。
今、動くと寝ている猫を起こしてしまって可哀想だ。
猫の温かい体温が体に伝わり心地よい。
草原の温かい太陽の日差しの中で、このまま猫と一緒にお昼寝しよう。
魔剣目録も、東離と西幽の未来も、今の俺には関係ない。
「不患…」
猫と一緒に気持ちよさそうに寝息をたて始めた殤不患を、萬軍破は悲しみと憐れみの眼差しで見つめた。
萬軍破が憧れた天衣無縫のその矜持。
それも猫の可愛さの前では脆くも崩れ去った。
残されたのは萬軍破一人のみ。
たった一人でも、西幽と東離と人類を猫の支配から救わなければ。
萬軍破は、幸せそうに目を閉じた旧友の姿から目を背け、不患への思いを振り切り駆け出した。
待ってろ、不患、俺が猫の支配から必ず助け出してやるからな。
啖劍太歳の殤不患も猫の魔手に落ちた。
もはや螟蝗猊下の外法の力を借りるしかないのか。
猊下なら外法の力で、猫の魅了を無効にする方法をご存知かもしれない。
森の中に逃げ込み、猫が追ってこないことを確かめ、謁見の儀を行うために、令牌を取り出した。
周囲が暗くなり石柱が蜂や蜘蛛の虫の紋章を映し出す。
中央に映ったのは、蝗の紋章の代わりに楕円の顔に三角の耳が二つの猫のマークだった。
「螟蝗猊下は我らの軍門に降りました」
暗闇の中から姿を表したのは。
「異飄渺!」
頭には大きな猫の耳が付いている。
『イピョウミョウ』という猫の鳴き声のような発音の名前の同僚は、猫のような謎めいた微笑を浮かべている。
「私は組織に紛れ込み、世界を征服する機会を狙っていました。
まずは手始めに東離を手中に収めましたが、思いの外、早くに西幽も落ちましたね」
「猊下が…」
萬軍破はがくりと膝をついた。
ついに人類の希望の灯火は消え去った。
猫耳の異飄渺は、萬軍破の頬を両手で挟んで顔を近づけた。
「我らの魅力の虜になりなさい。
萬将軍!
私たちの可愛さに平伏して下僕になるのですよ。
生涯、奉仕すると忠誠を誓いなさい」
『ネコと和解せよ』
猫の可愛さが心の中に押し寄せる。
綺麗な瞳、大きな耳、モフモフでなめらかな被毛、温かい柔らかさ、ぷにぷにの肉球、愛らしくて素晴らしい生き物。
猫の支配が世界に及べば、西幽も東離も夷狄も人界も魔界も、猫に隷属し全て一つになる。
そんな平和で幸せな理想の世界。
萬軍破は瞳を閉じた。
その時、腰に下げた袋が動いて鬼鳥の声が聞こえたような気がしたが、そのまま意識が遠のいていった。
「何やってんですか?
軍破殿!」
萬軍破は、異飄渺の怒鳴り声で目を開けた。
怒った顔の異飄渺が睨みつけている。
頭に猫耳は…ない。
「いくら将軍の仕事が忙しいとはいえ、居眠りとは職務怠慢ですよ。
神蝗盟の仕事をきちんとなさってください!」
異飄渺の後から離れたところで鬼鳥殿がこちらを見て微笑みを浮かべている。
あの世界は夢だったのか?
機嫌の悪そうな異飄渺に叱られながら、猫のままなら可愛かったのに、と萬軍破は思った。
猫のふかふかな絹の被毛に包まれながら、ぐっすりと安らかに眠りたい。
(終わり)