冬に添う 春の果て「ネロ兄さん!」
淡い金色の髪をした少年がネロの手を握った。
「ん? どうしたルチル。シャイロックのところに行ってたんじゃなかったのか」
「シャイロック兄様はお客様を迎えに行かれました。あなたは兄さんの手伝いを、と」
「はは、そうか。ありがとな」
まだ身の丈半分ほどにしかならない弟を抱き上げてやる。陽光と花の香りが容赦なく抱きついてきた。
「今日は何をされるんですか?」
「そのシャイロックのお客様に出すためのタルト作りだよ。ルチルが手伝ってくれるなら、とびきり美味いのが出来るさ」
「わぁ、頑張りますね!」
ネロとは似ても似つかない天真爛漫さが懐で輝いている。酒宴と豊穣のふたりの下に誕生した弟は陽光を司ると称されており、全くその名に恥じない。
その末弟を抱き上げて歩むこの風景は、平穏そのもので、ネロにとっては未だ夢のようだった。
何処にいても暖かく、何処にいても花の香りがする。勝手に体が満たされて、冬の国で口にしていた青い花も必要ない。
広く豊かな国内では常に何処かで宴が繰り広げられて、歌や舞踊が披露されている。
何て美しくて、満たされた国なのだろうとネロは思う。
そして、何故こんなにも満ちた国で自分の心は欠けたままなのだろうとも、思ってしまう。答えなど、分かっているのに。
あの日、大橇が春の国と冬の国の国境に到着した時。大橇はオーエンの魔物による襲撃を散々受けた末にネロとシグを芝生の上に放り出して潰えた。
突如として現れた一人と一匹を春の国の門兵は警戒したが、すぐに駆けつけた長兄によって大事には成らずに済んだ。
ネロは火傷に多くの凍傷。シグに至っては身体中にひどい裂傷があり、息も絶え絶えだった。
医療館に運ばれて厚い手当を受けて、ネロが意識を取り戻したのは一週間後のこと。その頃には、既にシグはいなかった。
『俺はボスのところへ戻ります』
傷は回復したが、シグはまだ若干ふらついていた。無理をするなと皆が止めようとする中で、彼は胸を張って『ボスの狼ですから』と尾を振ったのだという。
『ネロさんは、ボスといて幸せそうでした。ボスも、ネロさんといる時は、隠してましたけど幸せそうでした。俺達はお二人が好きです。だから、待ってます』
「あなたの匂いを覚えて待っていますと、そう言ってお帰りになりました」
目を覚ましたネロに、シャイロックは静かにそう告げた。彼にしっかりと握られていた手を見、ネロは「そう、か」と細切れに言葉を吐いた。
「私のことは覚えていますか? ネロ」
「……うん、覚えてるよシャイロック。……あんた、よく俺のことがわかったな。小さかったんだろ? 此処離れた時」
「えぇ、それはもう」
これくらいでしたかね、とシャイロックは手で示す。
……赤子くらいしかなかったのだろうか。
「攫われてしまって以降、あなたの安否は薄い気配でしか分からなかった……それが、冬猟の主人に助力を願う手紙を出した頃から、急激に力強く感じられるようになりました」
成熟したのだと、感じたのだという。
「精霊の身の丈は力の成熟と比例します。あなたが此処に戻られた際に合点がいきましたよ。……ネロ、我々の力が及ばず、助けに行けず、申し訳ありませんでした」
握られた細い指に、僅かに力がこもる。
幼くともネロは春の国で二十余年の月日を過ごしていた。その間一番そばにいてくれたのは、このシャイロックだという記憶もある。
だが記憶にある彼の表情はいつも穏やかで、こんな風に無理に笑っていたことは、あったのかもしれないがネロには見せたことがなかった。
心配をかけたのだと、指を握り返しながら思う。
それもこんな傷だらけになっての帰還だ。さぞかし、負担になったことだろう。
だから、無理に笑うことにした。
「大丈夫、こうして無事に帰ってきたんだから。ほら、図体も大きくなったし、あんたに心配をかけるようなことは……この国にいる限りはないはずだろ?」
「……えぇ、そうですね。本当に逞しくなって。ブラッドリーはあなたを大切に育ててくださったんですね」
「……うん」
冬の国で生きる春の国の精霊なんて、吹けば潰えるような存在だったろうに。事実、そうに違いなかった。だがブラッドリーはネロを抱え上げて(そりゃ、一時的に託児しようとはしていたが)、結局はこうして成熟するまで見守ってくれていた。
冬の国の知恵、狩猟の意味、護身術。
どれも春の国では役に立たねえぞ、と念を押されたのにネロが乞うたから教示してくれたものだ。どれも興味深くて、もっと、と強請ると早く寝なと髪をくしゃくしゃに撫でられた。魔力の扱い方も、彼が教えてくれた。
それに、いつか見た狼への転身の仕方も。
流石にブラッドリーほどの体躯がある狼にはなれなかったけども、巨狼たちとは遜色ないくらいの狼になることはできた。彼らと雪原を駆けるのは、楽しかった。
二年と、半年余り。春の国で過ごした月日と比べれば、遥かに短い年月ではあった。だがどちらが色濃く残っているのかと問われれば、ネロは迷うことなくあちらだと答える。
だが散々言われたのだ。
お前はいずれ、春の国に帰ることになると。
自分は宝物の交換材料なのだと。
「なぁ、シャイロック……その、ブラッド……リーから、何か要求はされてたのか?」
「……いいえ。双王から、豊穣の子を返すからそのつもりでいろ、とそれだけ通達がありました。彼からの連絡はそれだけでしたよ。脅しも何も」
「……そうか」
やはり、方便だったのか。引き換えの材料だと言い聞かせられてはいたが、ブラッドリーはそも何も要求していなかった。それが、ただの気紛れだったのか、そもそもそのような気などなかったのか。
詰まるところ、ネロをこちらに返すための、そしてネロが冬の国に執着出来ないようにするための、嘘だった。
脳裏に、浅葱色の外套が翻る。こちらを振り返りもしない冬猟の主人の背。それが遥かに遠い。
「……ネロ」
シャイロックが力の抜けたネロの手を優しく叩く。
「とりあえずお休みなさい。本当に、よく帰ってきてくれました」
ネロは、曖昧に頷く。促されて身を横たえると、窓辺から漏れる陽光に気がついた。
その奥には、雪の一欠片も存在しなかった。
春の国の庭園、その一角にネロは居を与えられた。
そうは言っても、その辺の草の上で寝ても構わない国であるから、東屋といっても差し支えのない建物だ。居の周りには菜園があり、季節ごとに豊かに果物や野菜を実らせていた。
自らの力の影響か、特段手入れするまでもなく植物は育ち、実は大きく育つ。それに惹かれて小動物が遊びに来るので、初めの頃は彼らを話し相手にしていた。残念ながら、誰も口は利かなかったが。
回復した後に、ネロは東屋に行く前に冬の国に繋がる境へ足を運んだ。
そこで、愕然とする羽目になる。
国境と思しき境目には春の国には似つかわしくないくらい、冷たく重い格子が降りていたからだ。
シャイロックは言っていた。冬の国が戦の時期に突入するとこうして格子が降りると。元より行き来のない国ではあったが、春の国に万が一のことがあってはならない。だからネロが帰還するのを待って、降ろされたのだ、と。
そしてこれは春の国の意思なのだという。
「いつ、開くんだ?」
「そればかりは。あちらの国で、戦が終われば、と言ったところでしょうか」
短くて五十年、長くて二百年。この格子は降りていたという。この道以外に冬の国に通ずるものはない。
国の意思を前に、ネロは冬の国と完全に分たれてしまった。もう、百年も前の出来事である。
その百年の間にルチルが陽光をたっぷり浴びた花畑で生まれた。硬く閉ざされた格子前に通うだけの毎日を過ごしていたネロにとっては、これが一番の出来事だった。
故にルチルが今こうしてタルト作りを手伝ってくれている現状も、どこか判然としない。
弟が立つたび、話すたび、そうか、それだけ月日が経ったのか、と思う。
時が経っても冬の国の様子は全く分からない。
ただ、まだやり合っているらしい、というのは分かる。
ネロにとって重要なのは、ブラッドリーが無事なのかということだったが、それは露ほども分からなかった。春の国においては戦の話など、噂の種にもならない。所詮は他国で、関わりのない国だ。
それが痛いほどに分かった月日でも、あった。
「……よし、出来た。ルチルが飾り付けを手伝ってくれたおかげだな。見てみな、宝石箱みたいだ」
小さな手が慎重に苺を乗せるのを見守り終え、ネロはルチルを抱き上げて全体図を見せてやる。耳元で「綺麗!」と歓声が聞こえた。
擦り付いてくる柔い頬を撫でてやりながら、ネロはそれをルチルに持たせ、自分は茶器を持ってシャイロックの元へ向かった。
菓子の類は春の国の連中も好んでいるが、これだけふんだんに苺や柘榴を盛ったものは初めてだ。
赤すぎやしないかと思ったが、そうリクエストされたのだから仕方ない。
ルチルが転けないか冷や冷やしながら着いた南の客殿で、ネロはシャイロックと相対する者を見た。
真っ赤な髪に、翡翠の目。
華奢な椅子の上でぞんざいな座り方をした大柄の男が、じろりとこちらを見やる。
ネロの背がぞくりとした。
「なんだ。本当に赤いもので作れるんですね」
気怠そうに首を鳴らし、男がネロのそばにやってくる。正確には、タルトを持ったまま硬直しているルチルの前に。
「臓物みたいだ」
こちらは大男の言葉。
「……大きいですね。まるで紅葉の大木のよう」
こちらは何故か目をキラキラさせているルチルの言。全く話が噛み合っていない。
「あー……お二人さん。とりあえずタルトは切り分けるから、席戻ろうぜ? 茶も用意してきたから」
「切り分ける? 必要ありませんよ」
あ、と止める間も無くホールのタルトが掴み上げられる。ルチルとネロがぽかんと見上げる中で、タルトは見事に姿を欠き、男の衣装を存分に汚していった。
「……すげぇな。シャイロック、これ本当に客か?」
「ふふ、ネロ。そうですよ。……こちらへ」
まだぽかんとしているルチルは手引いても動かなかったため、タルトに夢中になっている間は男の前に置き去りにすることにした。何かあったら魔法で引き寄せよう。
シャイロックは静かに赤い頭の男を見やって、そして対面に掛けたネロに目を合わせた。
「彼が、今期の戦の勝者です」
「……え?」
戦、とネロは繰り返した。そういえば、あの衣服。あの王冠。見たことがある。
いや、待て。いま、勝者と言ったか。
「冬の国は戦を終えました。今格子は開いています」
「待ってくれ、じゃあ、ブラッドリーは……」
「ブラッドリー、と言いましたか」
口周りを真っ赤に汚した赤髪の男が胡乱げな視線をこちらに向けた。
「一番しぶとかったですね。まぁ、俺の敵ではありませんでしたが」
「まさか、てめぇ、ブラッドを……!」
思わず携えていた霊刀に手をかけた。
「ネロ」
それを止めたのは、シャイロックだった。
「彼は冬の国の使者です。大切な客人に対し刃傷沙汰は許されません」
「シャイロック!」
「ですから、お行きなさい」
叫んだ口のまま、ネロは「は?」と拍子抜けした声を出してしまった。
「春の国の精霊は平穏の次に自由を尊びます。もう何もあなたを縛るのはありません。人質でもありませんし、守られなくてはいけない存在でもない」
「……良いのか、冬の国に行っても」
「えぇ。……私はあなたの幸せを望んでいますから。冬の国、北の山麓。その谷にお行きなさい」
無駄足にはなりませんよ、と長兄は艶やかに笑った。その言葉にネロは椅子を蹴倒して、走っていた。
ルチルが赤髪の男の手を握りながら、ハッとしてネロを見る。
「ネロ兄さん、行ってらっしゃい!」
深くを知らない言葉に押されるように、ネロは駆けた。
シャイロックは無駄足にはならないと言った。
あの赤髪の男から何を聞きだしたのかは分からないが、その言葉を信じるしかない。
息切らして到着した国境には、あの冷たい格子は確かに存在しなかった。
薄曇りの雲の向こう。
雷雲が唸って、光り輝いている。その中にネロは迷うことなく、足を踏み出した。