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    書き直し中の曦澄「俺の居候がこんなに可愛い訳がない」の途中まで(元々の3話目あたりまで)〜だいぶ変わってるし多分改題する✌️

    【曦澄】俺の居候がこんなに可愛い訳がない(仮)① 江晩吟が寒室の扉を開け放った先にいたのは、真っ白なふわふわだった。そのふわふわは、薄暗くひんやりとした居間の真ん中で、座布団の上に丸まってくんくんと鼻をならしていた。
     江晩吟は、ここが姑蘇藍氏宗主の居住であることを忘れて部屋に飛び込んだ。それほど、そのふわふわ──小さな犬が、もし涙を流せたのなら川を作れるくらいに、哀しげに鳴いていたから。そしてその犬の前に躓いて自分ができる精いっぱいのやさしさで抱き上げると、胸に収めた。

    「大丈夫」

     江晩吟は、犬の被毛に顔を埋めてそう囁いた。またそう間を置かず、もう一度同じ言葉を囁いた。両親の温もりが恋しいと泣く赤子を、夜通し腕に抱いていたときのように。
     腕の中の犬はしばらく震えながら、きゅうきゅうと鳴いていた。江晩吟はその小さな鳴き声を聞くたびに、犬の背を何度も何度も撫でてやった。すっかり冷えてしまっている体が温まるように、手のひらの熱を送り込むように軽く揉んでやった。すると、犬の震えはだんだんと治った。
     そうして少しばかり落ち着いた犬は、江晩吟の胸に体を預けるように力を抜いた。どうやら懐いてくれたようだ。

    「いい子だな」

     江晩吟はその愛らしさに、きゅっと目を細めて微笑んだ。胸にじんわりと広がる安堵を分け与えるように、いい子、いい子、と伝えながら犬の頭や顎を撫でていると、その子は尻尾をゆっくりと振り始めた。

    「うれしいのか? 俺もお前とこうして触れ合えて、うれしい」

     そう言った江晩吟は、犬の濡れた鼻に軽く口付けをした。

     ──ぽふ。

     そう間抜けな破裂音がした瞬間、犬は靄に包まれたかに見えると、真っ裸の藍曦臣になっていた。江晩吟と彼は、お互いに目を普段の二倍くらいにまん丸く見開いて、口をぽっかりと開けたまま向かい合った。小犬を抱いていたはずの腕は、藍曦臣の尻のあたりに回っている。

    「兄上!」

     避塵を掲げた藍忘機と門弟が扉を破ったのも、そのときだった。

    ⭐︎

     犬のさみしげな鳴き声に釣られ、いつの間にやら結界を破って寒室に上がり込んだ挙句に姑蘇藍氏の重大な秘密を暴いてしまった江晩吟は、雅室で茶を出されつつ藍啓仁から説明を受けていた。
     曰く、かの観音廟での事件後、藍曦臣はあまりの精神的苦痛によって、真っ白でふわふわな、小さな犬になる病を患ってしまった、と。

    「なんだそりゃ」

     少年時代の恩師の前で不躾な反応を返した江晩吟を、藍啓仁は気に止めなかった。それどころか、卓を挟んで向かい合う江晩吟の顔を、赤くした目元を柔く緩めて微笑み、見つめている。

    「うむ。私も曦臣が患うまで知らなかったのだが、過去にもいくつか例のある病なのだ。蔵の隅に記録が残っておった」

     自分の目で見ても信じられないほど奇妙な病に、江晩吟は怪訝な顔を隠さず亀首になって頷いた。藍啓仁は続ける。

    「曦臣が閉関修行に入ったとの噂を、貴殿も耳にしたことがあるだろう。事実はご覧になったとおり──奴はかの事件からおよそ半年が経った頃から、ずっと犬だったのだ」

     江晩吟は目を見開いた。ならば、沢蕪君と名の高かった彼は、三年もの間、犬だったということになる。
     江晩吟の驚愕の前で、藍啓仁はもう何度目かわからない安堵のため息を漏らし、目頭を拭った。確かにその指は濡れている。

    「もう、曦臣はずっと犬のままだと思っていた……ありったけの記録をひっくり返しても治療法の記載がなかった上、思いつく限りあらゆる術を試しても、なんの効果もなかったのだ。しかし、しかし江宗主……」

     藍啓仁はうれしくて堪らない、というように顔をくしゃりと歪めて笑った。そんな彼の表情を見ることができるとは想像もしていなかった江晩吟は、彼が多くの心を甥に傾けていることを感じ取って自然と頷いた。そんな藍啓仁は、卓を跨ぐように前のめりになって言った。

    「ようやく戻ったのだ。曦臣が、ようやく。して、江宗主。貴殿は唯一の目撃者だ。どのようにして奴が人間に戻ったのか、教えてくだされ」

     どのようにと言われても、と江澄はひくりと片頬を引き攣らせた。正体がまさか藍宗主だという犬に先ほど自分がしてしまった行動は、大世家を背負う者として相応しい振る舞いでは決してなかった。羞恥に顔に熱が集まったが、嘘をついても仕方がない。江晩吟は結局、偽りなく話すことにした。

    「ええ……もしや犬が虐待されているのかと思わず飛び込んだ寒室で、犬が──いや沢蕪君が……震えていてかわいそうに思ったので、抱き上げて、大丈夫と言って、いい子と褒めて、たくさん撫でて、鼻先に口付けたら、戻りました。はい」

     ほとぼりが冷めるまで、もうしばらくはここに来ない、こいつらとは関わらない、と唇を噛んだ江晩吟は、呆然と見送る藍氏一門を背に御剣して雲夢へ飛んだ。西に滲む夕日に目を細めながら舌打ちをする。

     ──ちくしょう、抱き上げた犬が全裸の大男になるだなんてな! びっくりしすぎて霊脈が閉じるかと思った。なんだありゃ!
     というか藍氏のクソッタレ共、よくもまああんな可愛い犬を寒室にひとり放って置けたもんだな。俺だったら構わずにいられないというのに。あーあ、あのとき、人間に戻ったのはただの偶然だろうが、どうせ戻るならもう少し堪能させてくれてもよかったじゃないか、沢蕪君め。可愛かったな、そんじょそこらじゃお目にかかれない愛らしさとふわふわ加減だったのに……

     そんな江晩吟の小さな願いが叶ったのは、それから何日も経たない頃だった。藍氏から緊急かつ極秘を示す書簡がやってきたのだ。内容は、簡単に言うとこうだ。

     ──拝啓江宗主、またウチの宗主が犬になってしまいました。雲深不知処中の者総出で抱き締めて撫で回して鼻先に口付けても人間の姿に戻りません。しかも、今度は近寄ると逃げ回るようになってしまったのです。ここ数日は、人の通れない洞穴の奥に蹲って出てきません。どうしましょう。何か良い考えはないでしょうか。お忙しいのは重々承知しておりますが、何卒お助けを……

     阿呆かこいつら。
     そういうわけで、江晩吟は再び姑蘇へ向けて飛んだ。それはそれは速く飛んだので、目撃した村人が紫の彗星だと勘違いして騒ぎになるほどだった。
     遠路遥々全速力でやってきた江晩吟を山門まで迎えに来たのは、膝のあたりを土で汚した藍忘機だった。珍しいことに、藍忘機がまず先に丁寧に拱手をしたので、江澄も返してやった。

    「ご多忙中、感謝申し上げる。兄は、こちらに」

     校服を汚した藍忘機、こちらに敬意を示してしゃべる藍忘機、珍しいものを見たなあ、と江澄は彼の後ろで欠伸をしながら山道を行った。なんせ、夜狩で若手の門弟の指導に当たったあと、そのまま飛んできたのだ。つまり久々の休日を投げ打って来たわけだが、あの極上の触り心地と愛らしさ思えばと、藍氏に恩を売りにやってきた。
     そうして道を行き、居住区から離れうねうねと入り組んだ細い道を進んで行った先、霧が立つ林の奥の洞穴に辿り着いた。そこでは、門弟たちが入口を取り囲み、四つん這いで中を伺っていた。藍忘機を追い越した江晩吟はずかずかと歩み寄り、躊躇なく彼らの尻を掻き分けて洞穴を覗き込んだ。その奥で、確かに白いふわふわが震えていた。江晩吟は口元に手のひらを立て、言った。

    「おおい、私だ、江晩吟だ。可愛い貴方のお顔を見に来たぞ」

     すると犬──仮にこの姿の彼を犬曦臣と呼ぶことにする──はぱっと顔を上げると洞穴を一目散に走って飛び出し、尻尾を元気にぶんぶんと振りながら江晩吟の顔にしがみついてきた。おっと声を上げて受け止めた江晩吟は、ひひひ、と笑いながら起き上がって抱き上げた犬曦臣の背に鼻を埋めた。

    「散々追い回されて怖かったろう。もう大丈夫」

     その光景を見た藍忘機は、あにうえ、と舌足らずに呟いた。

    ⭐︎

     江晩吟は、太腿の上で腹に抱きついてくる犬曦臣の背を、くすくすと笑いながら撫でていた。仙子や他の飼い犬に会うときはみっともなくでれでれと頬を緩めたりしないが、目の前でどんよりと肩を落としている藍啓仁と藍忘機には犬曦臣への構い方を知られてしまっているので、誤魔化す方がなんだかなあ、と思って堂々としている。
     ここは雅室。犬曦臣に見向きもされず落ち込むふたりを前にして、江晩吟は喜びを隠さない。犬をはじめとしてなぜだか動物には懐かれやすいたちだが、こうも全身全霊で好意を示されたら、うれしいものはうれしい。

    「数日隠れていたにしては、きれいな毛並みをしている。貴方は毛繕いも得意なようだ」

     そう褒めると、尻尾ふわふわと振った犬曦臣は口を開けて舌を出し、まるで笑っているような顔で見つめてきた。なんて愛らしい。江晩吟は彼を持ち上げると、首元をすう、と吸った。日頃の鬱憤が安らいでいく心地だ。
     江晩吟にとって、犬はこの世で最も素晴らしい生き物だった。この子の正体がかの沢蕪君だとしても、そんなことは大した問題ではなかった。犬は犬、皆愛すべきものなのだ。
     江晩吟は犬曦臣に頬擦りをして言った。

    「可愛い、ああ可愛い。天上天下この可愛さに敵う生き物はいない」

     ──ぽふ。

     頬に当たっていたふわふわは、つるりとした人肌に変わっていた。いつの間にか江晩吟は藍曦臣の裸の脇下を掴みながら、彼と頬と頬を合わせていた。

    「ああ……っ! うっかり満足してしまった……っ!」

     そう悔しそうに呟いた藍曦臣を、江晩吟は悲鳴を上げてどんと突き飛ばした。股を晒してころりと転がった彼を見下ろし、唾を飛ばして叫ぶ。

    「だから戻るな────!!!」

     山中に響き渡った大声のあと校服はすぐに運び込まれ、藍曦臣は身を整えた。抹額を身につければ、そこには記憶にあるよりは痩せ衰えたようだが、まだ照り輝くような美貌を携えた沢蕪君がいる。しかし彼は、きっと今まで誰も一度も目にしたことのないような、照れ照れと頬を染めて笑んだ表情で、眉間に皺を寄せてむっつりと黙る江晩吟に向かい合っていた。

    「曦臣。説明しなさい」

     藍啓仁が持病らしい胃痛に顔を青くしながら催促した。すると、藍曦臣の深い琥珀色の瞳が、真っ直ぐに江晩吟のそれを射抜いた。江晩吟はなぜだか、敵に狙いを定められたような悪寒がして、すぐに視線を逸らしてしまった。
     藍曦臣は言った。

    「私は江宗主にああして構っていただくと、今世界で一番幸福なのはこの私だと確信できるほど、幸せだと感じるのです。そうして天にも昇る心地だと思うと、このように元の姿に戻れるようです。同じような処置をしてくれた忘機や皆には申し訳ないが、江宗主でなければそうならなかった……」

     兄の言葉を聞いた藍忘機の顔が、江晩吟の目にもわかるほどに悲しげに歪んだ。彼の太腿の上に置かれた拳は震えていた。江晩吟は、家族にそのように告げられる気持ちへの想像と、俺だけだ、と言われた喜びを頭の中で少しばかり天秤にかけ、結局後者側が傾いたので口角を上げてしまった。藍曦臣は弟の心持ちをさらに深く読み取ったようで、同じように悲痛な面持ちになりながら続けた。

    「己の精神を制御できず恥じ入るばかりだが、私は犬になるのを止められないし、自力で人間に戻ることも叶いません。実に三年もの間、私は犬のままでした。寒室でただ、座っておりました。何もできず、ただ蹲るしか──」

    「なんだって!?」

     藍曦臣の説明に、江晩吟は思わず叫んだ。藍啓仁と藍忘機がびくりと震える。

    「散歩は?」

     藍曦臣はきょとんと目を丸くした。

    「ごくたまに日には当たりました」

    「撫でるのは? 鞠遊びは?」

    「いいえ。犬になってあんなに撫でられたのは、貴方が初めてです。鞠などは、幼少期以来触れていません」

     江晩吟はもう堪らず立ち上がり、唇を震わせる藍忘機に掴みかかる勢いで迫って見下した。兎は可愛がって育てているらしいくせに、犬に対しては心身の健康を損なう仕打ちをした彼が許せない。飼い犬なら当然享受できる当たり前の習慣を放って置かれ、あの日見たように震えるままにしていたとは! 目尻を釣り上げて睨みつけても抵抗を示さない様子を見るに、酷いことをした自覚はあるらしい。最悪だ。

    「貴様、虐待だぞ……雲夢動物愛護団体に引き渡して最近保護した雪豹の餌にしてやろうか」

     そう低い声で言い放って額に青筋を立てていると、藍曦臣が慌てて駆け寄って怒りに強張る肩に触れてきた。

    「どうか落ち着いてください、江宗主。皆は私を傷つけようと、あのような対応をしたのではないのです」

     その言葉に、江晩吟は表情を緩めずに彼に向き直った。

    「甘い。どのような理由であれ、不遇にはしっかり申し立てをするべきでしょう、藍宗主。貴方にはその権利があるはずです。黙って笑うだけでは理解されない。貴方はもう言葉を話せるんだ」

     藍曦臣は目を丸くし、肩から手を下ろして俯いた。

    「はい……そのとおりですね」

     そんな藍曦臣の耳殻がなぜか赤く染まっているのを見た江晩吟は毒気を抜かれ、萎びたような藍忘機を一瞥して席に戻った。犬を尊ばぬ者に払う敬意はあいにく持ち合わせていないが、姿勢を正して言い分くらいは聞いてやることにした。

    「ふん。まさかとは思うが、魏無羨が犬を怖がるから遠ざけた、なんてことはなかろう」

    「そのようなことは決して……!」

     江晩吟の声に被さるようにして声を荒げた藍忘機の目は潤んでいた。後悔と悲しみが滲んだ、色の薄い瞳が揺れている。

    「犬は犬でも兄だ……! そんな、君のようにあんな、体をむやみに撫でたり抱き上げたりするなど……!」

     はたと江晩吟は唇の裏を噛んだ。そりゃそうだ。構わず撫で繰り回す方がおかしいのでは……
     目の前の相手が表情を変えたのに気づかなかったらしい藍忘機は、普段会議以外では錆びついたように動かない口に油を刺したみたいに、懸命に弁解した。

    「兄が犬の姿になってもなお、精神は、心は兄そのままだと、私たちは承知していた。だから、人の姿であった頃と変わらない対応を心掛けたのだ。それが兄にとって辛い処遇であることに、愚かな私は気づけなかった……」

     そう言ったきり塞ぎ込む藍忘機の背に、隣の藍曦臣が手を添えた。弟を支えるように寄り添っている。

    「いいや、忘機。私はお前の誠意をよくよくわかっていたよ」

    「兄上……」

    「意地を張ったのは、私なのだ……」

     腰を下ろした藍曦臣は、長いまつ毛を悲しげに伏せた。江晩吟はそこに、彼の恥を見た。

    「私はいつだって皆に、本物の子犬のように甘えることができました。そうしなかったのは、私なのです。寒室に閉じ込められていたのではありません。無羨が犬の私に合わせた押し戸を作ってくれましたから、自由に出入りはできました。しかし私は外に出ませんでした。誰かの温もりが欲しいと思っても、皆に尻尾を振りませんでした。恥ずかしかったからです」

     藍曦臣は項垂れ、絹糸のような髪の毛がさらりと床を擦った。しかし、彼はすぐに顔を上げた。その目は白目が充血し、真っ直ぐだった眉が憎たらしげに歪んでいた。その嫌悪が彼自身に向けられていることが、江晩吟はすぐにわかった。

    「いっそ完全に私の自我がなくなって、心も犬のままになったらよかったのかもしれませんね。しかし、私の自意識や記憶はそのままでした。ですから──この私が、沢蕪君と、三尊と皆に讃えられた私が、あ、あのような……」

     そこまで言って、藍曦臣は青くなった唇を覆うように顔に手をやった。吐瀉物を飲み込むようにごくりと嚥下し、続きを話そうとしてまた俯いてしまう。
     かの事件から数年が経ったが、江晩吟はあのときの光景をまだ鮮明に思い出せる。それは藍曦臣も同じだろう。無理に語らせても、彼に掛ける言葉はない。今日はもう下がらせた方がよいのでは、と江晩吟が藍啓仁に目配せをしたとき、藍曦臣は手を下ろして口を開いた。

    「──あのようなことに加担してしまった挙句に犬に姿を変え、その上で厚かましくも構ってほしい、可愛がってほしい、慰めてほしいなどど、皆にまとわりつくなんてしてはならないと、なけなしの自尊心が叫んだのです……!」

     藍曦臣は泣き出す寸前の子どものように声を震わせた。その顔は青褪めるどころか、まるで死にゆくようにどんどん土気色に淀んでいく。

    「私は一族の恥です。この醜聞は絶対に漏れてはいけませんでした。ここは、座学生含め多くの来客があります。万が一にでも犬に堕ちた私を知られたらと思うと、一歩も外に出られませんでした。ですから、愚かなのは私なのです。すべて私が悪いのです。この三年間、なんの役にも立たず蹲っていたのは私──」

     ──ぽふ。

     藍曦臣は校服だけを残して消えてしまった。慌てた藍忘機がその山を掻き分けると、中ならふわふわの犬が出てきた。彼はそっと兄を抱き上げた。

    「いいえ、兄上。いいえ……」

     藍忘機は首元の毛並みに顔を埋めてすりすりと鼻先を擦り付けた。そして犬曦臣を赤子を抱くように仰向けに抱え直すと、丸い頭に口付けた。犬はくんくん、と鼻を鳴らし、彼の顎をぺろりと舐めた。

    「曦臣」

     藍啓仁も、藍忘機ごと抱くように腕を回して犬曦臣にそっと触れた。その声色も手付きも、溢れんばかりの愛情に満ちていて、犬の甥を恥じてなどいないとすぐにわかる。顎下を撫でられた犬曦臣は、てろりと小さな舌を出した。尻尾も揺れている。しかし、元には戻らない。
     江晩吟は目の前の光景に細くため息をついた。さっきまで胸を焼くようだった嫌悪はすっかり消えている。

    「藍忘機……さっきは誤解した発言だった。撤回して謝罪する」

     そう素直に伝えると、藍忘機は首を振った。

    「いや。私たちが対応を間違えたのは事実だ。あの日、君が三重の結界を破らなければ、きっと私たちはまだ、兄をあの部屋に独りにしていた」

     江晩吟はうっと息を詰めた。あの時の自分は、ほんとうにどうかしていたと思う。このような結果にならなければ、無事に蓮花塢に帰れなかっただろう。
     あの日、次の清談会に向けた会議の合間、気晴らしに散歩していた庭園で聞こえたか細い鳴き声。普段であれば気のせいかとその場を去るはずなのに、江晩吟はなぜかその声を辿って走っていた。呼ばれている、駆けつけて抱きしめなければと、ただそれだけを思って──
     そのように自分の奇行を反芻しだした江晩吟の思考を遮って、藍忘機がづいと犬曦臣を差し出してきた。

    「そんなことより、兄を抱いて」

     言い方おかしくないか? 首を捻った江晩吟が腰を上げて腕を広げると、犬曦臣はぱたぱたと四肢を動かした。

    「おっと」

     江晩吟は急いで彼を受け取った。お尻から包むように抱き寄せる。手のひらが被毛に沈み、この小さな体で懸命に生きようと巡る血潮があたたかく伝わってきた。早い呼吸や鼓動が腕に響き、江晩吟は犬曦臣が愛おしくて堪らなくなった。

    「よしよし」

     そうとだけ言った江晩吟はただ犬曦臣を撫で、頬擦りをして口付けた。彼はわふわふと嬉しげに鳴き声を漏らして目を瞑っていた。そして、飴がだんだん溶けるようにぐんにゃりと体の力を抜いていき、舌を出しっ放しにしながら腕に身を委ねてきた。

     ──ぽふ。

     いつの間にか、江晩吟は裸の藍曦臣を抱き締めていた。突然何倍にもなった図体に腕が耐えきれず、藍曦臣は床に転がって頭を強かに床に打ちつけた。

    「あうっ」

     藍曦臣は打った頭を摩りながら、長髪を暖簾のようにして裸体を隠して起き上がった。恥ずかしげな表情や鍛え上げられた体が髪の隙間から覗く様子は、それはもう名のある画家によって後世に残せと言わんばかりの美しさだった。が、江晩吟にとって犬よりそうすべき生き物はいなかったので、ため息で流された。

    「戻るときに全裸なのがいただけんな。なあ藍忘機、こう、犬になったときは服を収納して、戻るときは自動的に元通りに着せる巾着とか、そういうのは作れんのか、あいつは」

    「聞いてみる」

     藍忘機がそう返して頷いた頃には、藍曦臣は身なりを整えていた。江晩吟は彼に向き直って問いかけた。

    「藍宗主。恥だか自尊心だかは、もう気にしないことにしたのですか。犬とはいえ、さっきは随分なお顔をしていたが」

     藍曦臣は眉を下げ、へらりと笑った。

    「そのう、犬になっても私は私なのですけれど、思考力や自制心は体に釣られて衰えるのですよ……」

     彼は赤く染まった頬を両手で押さえた。まるで妙齢の恋する乙女のようだった。桃源郷にでも住んでいそうな。

    「あ……っ、貴方に抱かれるの、ほんとうにいい気持ちなんですもん……! そうと知ってしまったから、もう恥や自尊心などと言っている場合ではなくなりました。もう戻れません、知らずに閉じこもっていた頃には……!」

     言い方、おかしくないか? 江晩吟は藍啓仁と藍忘機を見たが、ふたりはなにやら神妙な顔をしていた。江晩吟は気にしないことにした。

    「まあ。雲夢中の犬に触れてきた私の腕は確かですから」

     そう冗談を言ったつもりだったが、藍曦臣は不安げに眉を顰めた。なにか気に障ったかと、江晩吟の顔も歪む。

    「私以外の犬を撫でるのですか」

     その質問の意図はわからなかったが、江晩吟は頷いた。

    「そりゃあ、撫でますよ。私は犬が好きだ」

    「しかし、飼ってはいらっしゃらないではありませんか」

    「犬を怖がるやつが身近にいるので、うちでは飼わないことにしています。その代わり、雲夢の犬は皆、私の犬だと思っている」

    「では、これからも撫でるのですか。私以外の犬を」

    「撫でるでしょうね」

     ──ぽふ。

     藍曦臣はまた犬になってしまった。

    「なぜだ!?」

     一体この会話のどこに気が沈む要素があったのかと江晩吟が驚いていると、今度は藍啓仁が校服を掻き分けて犬曦臣を取り出した。彼は三十年は生きた老犬のように顔をしわしわにさせて俯いていた。人の姿でいるときよりも人らしい表情をするなあ、と江晩吟が感心していると、兄の窶れ具合にむっつりと顔を顰めた藍忘機が言った。

    「君が兄以外を撫でると言うから」

    「だから、それがなんなんだ」

     気落ちする犬曦臣を受け取った江晩吟は、彼の腹をわしわしと掻いてやりながら不機嫌な藍忘機を睨みつけた。

    「兄は、君がむやみやたらに他の犬を構うと精神的苦痛を被るんだ」

     だから、それはなぜ……? 江晩吟ははっきりしないことが嫌いなので、いらいらしながら犬曦臣に触っていたが、すぐにその手触りのおかげで機嫌が良くなった。まだ落ち込んだ様子の犬曦臣を胸に抱き、その小さな頭に頬を付けて柔らかな声色で問う。

    「貴方の気持ちを教えてください、藍宗主」

     すると、犬曦臣は全身を使ってひしと抱きついてきた。たとえ手を離しても、蝉のように引っ付いていられるくらいの四肢の力強さだ。そのとき、江晩吟はふと思い出した。随分と昔に、転んで膝を擦りむいた雲夢の子どもを背負ったあと、それを見た金凌がしばらくの間引っ付いて離れなかったことがあった。

     ──じうじう、どうしてじうじうの抱っこもおんぶもぜんぶ、阿凌のものだってわかってくれないの。

     つまり彼は幼いながらに立派に嫉妬心を覚えたのだが、まさかこの人も同じだとは言うまい……四十路の男が?
     とはいっても、話し合いの最中にこのままでいられるのは困る。江晩吟はわた毛をため息で揺らして言った。

    「なるほど。では、この病が完治するまで、貴方以外の犬は撫でないと約束しましょう。貴方だけを撫でます。どうですか」

     ──ぽふ。

     そして視界が霧に包まれた次の瞬間には、江晩吟は裸の藍曦臣にのし掛かられていた。太腿に尻を付けられ、首元に腕を巻きつけられていた。うるりと涙ぐむ瞳が、至近距離でじっと見つめてくる。少なくともこの大陸で一番美しい男が、目元を赤らめて言い募る。

    「抱っこも、口付けもですよ」

     江晩吟はもう、彼の裸にすっかり慣れていた。

    「わかりました」

    「ここは雲深不知処ですから、嘘をついてはならないのですよ」

    「承知しています」

    「病が完治したら、千歩譲って犬はいいですけれど、人は私だけにしてください」

    「それは了承しかねます」

    「うう……っ」

     ──ぽふ。

     犬曦臣を抱えた江晩吟は青ざめた顔で藍啓仁を見やった。彼は手ぬぐいで額の汗を拭いつつ、肩を丸めて言った。

    「ち、血筋だろうか……」

    「どういった意味でしょう、それは」

     江晩吟は藍忘機を見た。彼は至極真面目な顔で頷いた。

    「兄と約束を」

    「しない。妻のひとりも娶れないではないか」

     腕の中の犬曦臣の体が、びくりと強張った。

    「君に嫁ぎたい女人がいるのか」

     心底びっくり、というように目を丸くされたので、江晩吟は舌打ちをした。

    「黙れ。見合い候補はまだいるんだ。万年能面口下手の貴様にはいないだろうがな」

    「私には魏嬰がいるから、見合いはずっと必要なかった」

    「クソが……」

    「そんなことよりも、兄と約束して。兄以外は生涯抱かないと」

    「その恥知らずな物言いをやめろ! 口を縫い付けるぞ」

    「君は禁言術を使えない」

    「言葉のあやというものを知らんのか」

    「知っている。私は君よりも書を嗜んでいるはずだ」

    「そのあたりでやめなさい、ふたりとも」

     子どものような言い争いに顔色を悪くした藍啓仁が腰を上げてふたりの間に割り込んだので、江晩吟か下唇を噛んで俯いた。ふわふわの犬がいる。

    「ああ、もう、藍宗主……」

     言い争いの元はこの犬の奇妙な心持ちなのだが、江晩吟のささくれた心を癒してくれるのも、彼だった。

    「貴方の弟はひどい。しかし私が責めたところで、奴はそよ風が吹いたくらいにしか思わんのです。悔しいから、兄である貴方が償いなさい」

     江晩吟はそう言って犬曦臣を仰向けに下ろすと、その腹に顔を埋めた。わん、と彼は叫んだが、その小さな体を押さえ付けて息を吸ってやった。

    「ふふ。いつもの檀香に隠れて、しっかり芳ばしい香りがするではないか」

     顔面を目一杯擦り付け、すうはあ、と大袈裟に呼吸をすると、犬曦臣はきゃうきゃう、とか細く鳴いた。

    「こら。文句はなしですよ、藍宗主。貴方は私に他の犬に触れるな、と言ったのですから、私の犬と触れ合いたい欲求はすべて叶える責任があるでしょう」

     そうして江晩吟が犬吸いを堪能している間、犬曦臣は健気にはふはふと息を荒げて耐えていたが、

     ──ぽふ。

     少しも経たないうちに人の姿に戻ってしまった。江晩吟は彼の股に挟まれながら、裸の腹に唇を付けていた。

    「わんわん!!」

     全身を真っ赤に染めた藍曦臣が叫んだ。

    「兄上、もう人の姿に戻っておられます」

     江晩吟は顔を上げた。ふわふわで飛んでいった苦痛の空いた席に、また別の苦痛が座り込んでいる。

    「藍宗主、服を着てください。すぐに、早く」

    「はい、ただいま……」

     そうして、四人は改まって向き合った。

    「で、つまり藍宗主が犬に変化する原因は、それがいかなるものであれ、精神的な苦痛のためと言ってよろしいですか」

    「はい、そうです」

    「そして、心をある程度満たされると人に戻る」

    「はい。しかし満足を覚えるのは、江宗主、貴方が触れてくれたときだけ」

    「それはどうかな。この土地を出れば他にも……ほら、それこそ道侶候補の女人とか」

    「ありえません。そんな方は、この世もあの世もどこを探しても、いません」

     江晩吟は、まるで閃光でも飛び出してきそうな藍曦臣の眼力に、この話は一度止めることにした。これ以上続けたら、藪蛇が出てきそうだ。

    「すぐに病が完治せずとも、制御はできませんか。犬になりそうでも、一時は耐えて安全が確保された場所でなるとか」

    「わかりません。ですが、まずはそうできるようになりたいです。私には三年もの間放っておいた職務がありますから、これ以上皆に迷惑をかけるわけにはいきません。一刻も早く、私は……っ」

     ──ぽふ。

     藍曦臣は犬になっていた。今度は校服から自力で抜け出したが、すぐにへなへなと四肢が緩んで伏せてしまった。ガラス玉のような瞳を瞼に隠し、悲しみに顔を歪めている。江晩吟はため息を飲み込んで、震える体を抱き上げてやった。

    「焦りは禁物か……」

     犬曦臣は、くうん、と泣いた。江晩吟はその顎下をくすぐって言った。

    「ひとまず人に戻れるようになったのだから、今はそれでよしとしましょう。貴方が犬であった三年間、まあ様々事は起こりましたが、姑蘇藍氏は大世家として勤めを果たしていました。ここはまだ門弟や家の者に甘えて、長めの休暇を続けたらよろしい。なあ、藍忘機」

     江晩吟に視線を送られた藍忘機は、その言葉が意外だったようで無表情ながらぱちぱちと目を瞬いていた。早く場を纏めろ、と睨みつけてやると、彼はやっと頷いた。

    「兄上、そのように」

     そして江晩吟は、犬曦臣が人の姿に戻るまであやし続けた。彼はしばらくぺったりと耳と尻尾を伏せ、涙を流すように塞ぎ込んでいたが、撫でられているうちに表情が和らいでいった。
     江晩吟はいくばくか落ち着いた藍曦臣を藍啓仁に任せ、藍忘機と共に部屋を出た。

    「どうしたもんかな」

     江晩吟は綻び始めた梅の蕾を見上げながら言った。ほとんど独り言だったが、藍忘機は反応した。

    「迷惑をかける。すまない」

     藍忘機の苦々しい声色に、江晩吟はハッと軽薄そうに笑った。

    「犬と戯れるだけだろう」

     江晩吟は藍忘機を振り返った。その顔に、小犬を撫でていたときのような柔らかい眼差しはない。険のある表情で顎を上げ、目の前の男を見下している。

    「藍宗主があれほどまでとはな。俺がかの事件後、秩序を取り戻すために四方八方駆けずり回っている間、あの人は……まったく、いいご身分だ」

     藍忘機は、江晩吟の鋭い視線から目を逸さなかった。江晩吟は、口角を上げて言った。

    「だが、復帰する意欲はあると見た。容易にはいかないだろうがな。我々雲夢江氏としても、彼の復帰を望んでいる。無理やりお前たちの秘密を暴いた俺の責任もある……本格的に手を貸そう、姑蘇藍氏。あの人には、回復したらきっちり始末をつけてもらうからな」

     藍忘機は、礼の姿勢を取った。

    「恩に着る」



     藍曦臣の病のため姑蘇藍氏に協力を申し出てからというもの、江晩吟は度々雲深不知処を訪れるようになった。姑蘇へ向けて飛んでいくその姿は瞬く間に世間の噂になって、雲夢江氏はなにか苦境に陥っており、あの江宗主が恥を忍んで援助を要請しているのだ、とかなんとか言われたこともあった。しかし、会合で必ずまず姑蘇藍氏から雲夢江氏に向けて敬意を示すので、まさか真相は逆なのでは、と不躾な視線を送られもしている。

    「まさかってなんだ、まさかって……今の蓮花塢と雲夢の繁栄具合をよく見やがれってんだ」

     そうぶつくさと呟くのは、雲夢と姑蘇の境で挙げられた陳情を担当している女修士だ。垂れ気味の大きな瞳と右目の泣き黒子で一見穏やかそうに見えるが、口を開けば強気で溌剌とした女だ。射日の聖戦後、仕事を求めて蓮花塢の門を叩いた彼女は仙術の「せ」の字も知らない盗賊紛いの少女だったが、血の滲むような努力の末に、今は雲夢江氏きっての実力として前線に立っている。

    「そうだ、欣妍。だからそんなくだらん噂に惑わされるな」

     雲深不知処へ続く山道の先を行く江晩吟はそう言って、ふん、と鼻を鳴らした。欣妍と呼ばれた女修は頬を膨らませて宗主の背後に追いついた。

    「もう、言ってやったらいいんです。江宗主はその慈悲のお心でご病気の沢蕪君のお世話をしているのですよって」

    「言えたらいいがな」

     そうこうしているうちに、ふたりは結界域まで辿り着いた。その山門の前には藍曦臣の第二補佐官だという男が立っていて、江晩吟の姿を認めると拱手をした。片手を上げて応えると、彼は姿勢を戻してやや俯きながら言った。

    「お忙しい中、今回もご足労感謝申し上げます」

    「あの人の様子は?」

    「宗主は……寒室にて今か今かと貴方様を待っております」

     ふうん、と江晩吟は素っ気なく頷いたが、姿を見せた途端に大はしゃぎで駆け寄ってくる白いふわふわのことを思い出して胸を弾ませていた。つまらないとは言わないが、決して楽しいものではない会議のついでにあの子と触れ合えると思えば、初夏の日差しに耐えて長く飛び続けた苦労も晴れる。
     仙府の奥へ奥へ行くほど、霧に包まれたここは静けさを増し、肌をひんやりとした風が撫でるようになる。心を落ち着かせるにはもってこいの場所だが、果たしてあのように気から病を発した藍曦臣にふさわしい場所なのか、江晩吟は口には出さなくても訪れるたびに思うのだった。
     捜査部隊の隊長として指揮を取る欣妍とは途中で別れ、江晩吟はもうすっかり行くに慣れた寒室への道を辿った。寒室を覆っていたが破られた結界は新しく張り直され、藍氏以外には江晩吟が通れるようになっている。

    「阿渙」

     そう呼んで扉を叩くと、すぐにどっと物に打つかる音がした。ずいぶん興奮しているらしいと、江晩吟はにやにやと唇の端を上げた。自分の来訪をこんな風に待ち望むのは、彼くらいだ。扉を開け放ち、膝をついて腕を広げた。

     わん!

     高らかに一声鳴いた真っ白なふわふわは、途端に一直線にぶつかってきた。ひょいと拾い上げて胸に包むと、小さな体は四肢をばたつかせて会えた喜びを全身で表してくる。こうなると江晩吟もつられて声高々に笑って、被毛に顔を埋めた。

    「あはは、ふふ、俺も会いたかった!」

     そうしてふたりはしばらくその場で戯れると、水を入れた瓢箪を持って山の奥へ行く。伐採以外では門弟も足を踏み入れない場所まで行くと、狭い平地が現れる。そこがふたりの遊び場だった。太陽の光がさんさんと差し込み、犬曦臣の体は被毛が光を通してきらきら輝いている。

    「さあ、なにをしようか、阿渙!」

     犬曦臣が一番気に入っている遊びは鞠遊びだった。江晩吟が彩衣鎮で気まぐれに買って持ってきたそれを彼は一目でいたく気に入って、江晩吟の訪れを待つ間、ひとりでも寒室で一緒にころころ転がって遊んでいるという。

    「いい子だなあ、捕まえるの、かなり速くなったな。えらいぞっ」

     そう褒めて首元をわしわし擽ると、犬曦臣は満足げに目を細めて江晩吟を見つめてくる。その愛らしさに堪らなくなって額をぐりぐりと押し付けると、彼は顔中を舐め回してきた。そうしてまた、鞠を投げて取って来させる。毎回、これを半時辰は繰り返す。
     このように犬曦臣が真の仔犬らしく天真爛漫に振る舞うのも、江晩吟がでれでれと格好を崩して構い尽くすのも、病気を治すためという大義名分に支えられてできることだった。犬曦臣がしたいように振る舞って、江晩吟がそれを受け止めて可愛がってやればやるほど、藍曦臣はより長い間、人の姿でいられるからだ。

    「いい子、いい子……」

     遊び疲れた犬曦臣は、足を投げ出して地べたに座る江晩吟の太腿の上に舌を出して寝そべった。江晩吟はほかほかに温まった毛玉を撫でて、いい子、と何度も囁いた。くわ、と大あくびをした犬曦臣は、いつまでも尻尾を振り続けながら、頭を腹にずっと擦り付けていた。
     次の会議の時間が迫ったため、ふたりは遊びを切り上げて寒室に戻った。犬曦臣は名残惜しいときゅうきゅう鳴いていたが、門弟とすれ違うようになると、腕の中できりっと居住いを正すようになった。ぬいぐるみのような見た目をしているから格好つけたところで可愛いだけなのだが、宗主としての矜持は忘れていないらしい。江晩吟はくすくす笑って彼の顎をくすぐった。犬曦臣はすぐにへんにゃりと胸にもたれかかってきた。

    「さあ、入るんだ。会議が終わったらまた来るから」

     腕に縋り付いてくる犬曦臣を押し戸から中へ押し込んでいると、背後から視線を感じて江晩吟は振り返った。遠くの木の後ろにに黒い影がいる。この雲深不知処でそんな色をしているのはただひとりだ。

    「魏無羨」

     やっと犬曦臣が寒室に入ったのを見るに、魏無羨は駆け寄ってきた。右手に小さな巾着を持っている。依頼したものがようやく完成したらしい。

    「江澄、いいところに。ほら、これ。完成版だ」

     差し出された巾着は白地で、青い糸で花の刺繍が入っている。名前のわからない野花に怪訝な顔をして受け取ると、

    「いや、最初は巻雲紋入れてたんだだけどさあ、お偉い方に止められたんだ。犬に身に付けさせるもんじゃないってさ」

     と魏無羨がため息混じりで言った。江晩吟はなるほど、と頷いた。姑蘇藍氏も一枚岩ではないのは、ここ数ヶ月雲深不知処に通ってとうに知っている。江晩吟と一緒に外に出るようになった犬曦臣を、宗主、と言って嬉しそうに礼をする者もいれば、嫌悪を隠さずに遠巻きにする者もいる。長老と呼ばれている一派は、どうも後者の気が多いようだ。犬の宗主だ、さもあらん……江晩吟は、小さな巾着をぎゅっと握りしめた。

    「それ、沢蕪君の首に掛けてやって。それだけで使えるようにしたから」

    「ほう」

    「変身するときの靄に反応して服の出し入れするんだ。いやあ、大変だったんだぞ、何回沢蕪君を、ひひ、奇抜な格好にさせたか!」

     会議を終えた江晩吟は寒室で犬曦臣を呼び、濡れ縁で「どこでもお着替えくん三号」と名付けられたその巾着を首に掛けてやった。魏無羨と藍忘機が遠くの方で見守る中、江晩吟は跪いて尻尾を振る彼を撫で、顔を両手で包んで額や頬を擦り付けた。

    「どうだ、藍渙。戻れるか」

     ──ぽふ。

     そこには、校服をきちんと身に纏い、抹額を額に巻いた藍曦臣がいた。彼は背筋を伸ばして正座して、頬をほんのり染めている。地面に足を投げ出して座る江晩吟の顔を首を傾げて覗き込み、頬をふっくらと持ち上げた。細まった瞳から砂糖菓子がぽろぽろ溢れるような目つきをしている。

    「江澄……今回も、どうもありがとう。とても楽しかった」

     江晩吟はその顔からふいと視線を逸らし、こくりと頷いた。ならよかった、と弱々しいささやきで彼に返し、腿の上で手を組んでまごまご指を動かしている。
     このような関係になってすぐの頃は、どうも犬と藍曦臣を分け隔てて見ていたのでそれほど気にならなかったのに、最近は天真爛漫に愛を振り撒き、そして愛を求めてくる小犬と隣に座る男がぴったり重なって、だんだん気恥ずかしくなってきていた。小犬を可愛がることは、つまりこの美丈夫を愛でているのと同じなのだと。
     だから江晩吟は藍曦臣の顔をあまり見ないようにして、すべては治療のためで、この男そのものに対しては何もないと言い聞かせている。

    「しばらくは保ちそうか?」

     そう問うと、藍曦臣が俯く気配があった。

    「うん。最近は自力で戻れる回数が増えているから、一ヶ月は大丈夫だと思う」

     藍曦臣はまだ度々犬になってしまうが、その度に江晩吟を呼ぶわけにはいかないので、そのうちの数回は今日のように一緒に遊んだ記憶を思い出して元に戻っているようだ。しかし遊んだ日が遠ざかれば遠ざかるほど、犬になる回数は増えて人でいられる時間は短くなるので、こうして会ってやる必要がある。彼も宗主だから、その負担をよくよくわかっていて、

    「本来は私の方から赴くべきなのに、いつもすまないね」

     と言うのだった。彼のために仕事を調節している江晩吟は首を振って、

    「貴方の秘密がバレる方がもっと面倒だから、いいと言っているだろう。早く治したいなら、そう気に病むんじゃない」

     と言って立ち上がる。

    「じゃあな。無理そうになったらまた呼べ」

    「うん……また」

     藍曦臣に背中を向けた江晩吟は、そそくさと寒室を後にした。木の影で待つ藍忘機と手を振る魏無羨のもとへ、大股で足を運ぶ。藍曦臣の縋るような目線を振り落とすように。

    「江晩吟、兄は……」

     藍忘機はまだ濡れ縁で座り続ける兄を眺めている。

    「しばらくは保ちそうだとよ。まあ、側から見てやばそうだったら連絡くれ。なるべく行く」

    「わかった」

     藍忘機は寒室へ向かい、江晩吟が共の欣妍を拾いに行く道には魏無羨が着いてきた。

    「沢蕪君、最近は頑張ってんだよ。まだ仕事復帰はしてないけどさ、色々情報収集したり鍛錬したり」

     と魏無羨は言った。

    「頑張ってもらわないと困る。なんのために俺が来てやってると」

    「うん、まあ、そうだよな」

     魏無羨の物言いたげな目線を無視して、江晩吟は真っ直ぐに前を見据えて歩いた。藍曦臣彼自身を褒めたり同情したりするほど、江晩吟は彼のことを何も知らないのだ。
     欣妍がいるという棟へ向かうと、彼女は既に庭に出ていて、おそらく趣深いのだろう岩に腰掛けて饅頭か何かを食べていた。片腕には巻物数本の形に角張った包みを抱えていて、それは蔵書閣のとある古書の写しだった。藍曦臣の治療と秘密の守秘の協力の見返りとして、雲夢江氏は欲しいままに雲深不知処の貴重な資料を漁っている。このまま長引けば、蓮花塢に立派な蔵書閣の完成だ。

    「これめっちゃうまい! 麓の村の菓子屋のだって、帰りに寄りたいです」

     欣妍は口に詰め込んだ饅頭で頬を膨らまして言った。子どもの頃から変わらない笑顔に、思わず笑みが漏れる。この女はどんなに厳しく叱っても、その三秒後には鼻水を垂らしてにこにこ後ろを付いてくるような子どもだった。

    「いいぞ。買ってやる」

    「やった! 早く帰りましょう、食べたらもっとお腹空いてきました」

    「じゃあ、飯屋も寄るか。おい魏無羨、近場で良いところ教えろ」

     そう言って魏無羨を振り返ると、彼は眩しいものを見るように目を細めて欣妍を眺めていた。彼女を迎えたのは彼を破門したあとだったから、面識はないはずだが。

    「魏無羨?」

    「ああ……うん。君、好きな食べ物は?」

     示された街の食堂で欣妍にたらふく食べさせたあと、江晩吟は眠そうにしている彼女に気をやりながら御剣して蓮花塢へ飛んだ。ふわふわと空を漂う雲を見て思うのは、やはりあの小犬だった。
     江晩吟は未だかつて、犬曦臣にやるように率直に人を褒めたり甘やかしたりしたことは、赤ん坊の金凌を除いてただひとりもいなかった。金凌が物心ついてからは、次期宗主として蘭陵金氏で身を立てるために厳しく接したし、自身の門弟にだって、どんな苦境にも耐えうる修士に育て上げるため、過酷な鍛錬に心が折れて泣く彼らの尻を蹴り上げてきた。自分は雲夢江氏の宗主として立ち続ける限りそうなのだ、と思っていたが、いざ小犬を愛おしいままに構っていると、まるでとっくの昔に瘡蓋になった傷に温かい手が添えられているような、そんな心地が不思議とするのだった。
     ほんとうは、ずっとこうしたかったのかもしれない。自分の命よりも大切だと、守りたいと望む人々を、抱き締めて甘やかしたかった──しかしそんな考えに辿り着くと、江晩吟は自分の軽薄さに笑ってしまう。犬曦臣をとびきり甘やかせるのは、彼がこの先どうなろうと自分に責任がないからだ。姉夫婦に残された金凌や、焼けた蓮花塢に集ってくれた門弟たちとは違う。
     ただ、藍曦臣だって、傷付いた心を都合よく慰めてくれる相手としてしか江晩吟を求めていないだろう。長年そこまで交流のなかった家同士だ。突飛が重なってこんなことになっているが、すぐに元に戻るに決まっている。余計な思い入れなど、持たない方が後のためだ。

    「宗主、ちょうどいいところにお帰りになって」

    「天佑」

     蓮花塢に戻り、執務室へ向かう江晩吟を引き留めたのは、天佑と呼ばれる主管の男だった。狐のような目と丸い頬をした冴えない見た目をしているが、再建以来支え続けてくれるやり手の腹心だった。

    「これ、纏まったので確認お願いします。署名いただけたらすぐに先方へ送りますので」

    「早いな」

     資料を広げながら執務室へ歩いていくと、半歩後ろに続く天佑が気遣わしげに見つめてきた。紙面から顔を逸らさずになんだと尋ねてやると、彼はいえ、と言って薄い眉を下げた。

    「無理しないでくださいね」

    「してない」

    「犬と遊ぶのは楽しいでしょうけど、疲れは溜まるんですからね」

    「今日は湯に浸かる」

    「そうしてください。家僕に言い付けておきます」

     天佑が本当に言いたいのは、「俺の宗主をこき使いやがって無礼者藍家め、テメエらが来い」なのだろうが、宗主が行くと決めた手前、体の調子を心配することしかしないのだった。
     机に着いた江晩吟は、肘をついて左腕で頭を抱えた。そのまま筆に墨をつけて紙面に走らせる。
     そうとも、いくら犬曦臣が愛らしくても、いつまでも通い続けるわけにはいかない。一年ほど遊んでも病状が回復しなければ、この話は終わりにするつもりだ。

     ──江宗主……あの、どうか私のことを、そう改まって呼ばないでくださいませんか。

     ──……では、なんと?

     ──えっと、ら、藍渙と……

     ──ら……そんな軽々しく貴方を呼ぶなんて……

     ──軽々しく呼んでいただきたいのです。だめですか……?

     ──だ、めというわけでは……ない。うん、わかった……

     ──ではそのようにお願いします、江宗主。

     ──いや、そこは貴方も……

     兄が犬から戻らない、と藍忘機から連絡を受けて尋ねた三度目だったか、江晩吟と藍曦臣は別れ際、そのような会話をした。藍渙、と呼ぶと、彼は頬から耳までを花が綻ぶように染めて、江澄、と艶やかな唇を動かした。
     先の春に裸の彼を抱き締める前、最後に藍曦臣の顔を見たのは封棺大典だった。彼は真っ青な顔でただ佇んでいたのだったが、あのとき江晩吟の関心は金凌の行末のみに向けられていたので、それ以外の記憶はない。もし見放したら、彼はまたああなるのだろうか。

    「……俺には関係ない……」

     江晩吟は書類をまとめて立ち上がった。明日は聶懐桑が、北の国への交易商隊の防衛について話に来る予定だ。気を抜くと負担の比重がいつの間にかこちらに偏る決定になるかもしれないので、準備を怠ってはいけない。藍曦臣について細々考えている暇はないし、義務もないのだ。



    「……なんだと? いや待て、俺の聞き間違えか」

    「兄をそちらで療養させてもらえないか、と言った」

    「馬鹿言え……」

     年少の門弟に夜狩の指導をしたいから助言が欲しい、と金凌に請われて出向いたとある山には藍氏の若者たちもいて、その後ろに藍忘機がいた。隠さずにげっと顔を顰めてやると、すすと寄ってきた彼が言い放ったのは、藍曦臣を蓮花塢で預かってくれ、ということだった。

    「あいにく、ウチには正体が藍宗主の犬を世話できる人員は余っていない」

    「兄は自分で生活できるから、特別なことはいらない」

    「ならそっちにいればいいだろう。宗主はどんな姿であっても家にいるべきだ。それが宗主なんだから……ってついに代替わりか?」

    「いや」

    「ならなぜ。世間にバレるかもしれん危険を犯してまで、こちらに居を移したい理由があるとでも言うのか」

    「兄が今一番安堵できるのは、君の側だから」

     それから、金凌が怪我をした門弟を大焦りで抱きかかえて戻ってくるまで、江晩吟は懸念とこちらの面倒を延々と藍忘機に伝え続けたのだが、なんやかんやで結局は受け入れてしまった。

     ──兄をよく思わない者が増えている。

     三年間もあの有り様で今更なにを、江晩吟とせせら笑って、突然この自分に事が明らかになってしまい、その上積極的に彼を外に連れ出すようになったことで、大世家であり雅正の藍氏と名高い自分たちの現状を突きつけられたからだろう、と想像した。藍曦臣が自ら閉じ籠もっていたことで見えずに済んでいたものを、外からやってきた江晩吟が開け放ってしまったから。
     今このような状態とはいえ、混乱の世の中若くして宗主になり、長年尽くしてきた家の居心地が悪くなるというのは、どんな気分なのだろう。
     それから半月後の新月の夜、犬曦臣は弟に抱えられた檻の中に入って蓮花塢にやってきた。同時に手渡された乾坤袋の中にはいくつか藍曦臣の私物が入っていたが、身支度を整えるためのほんの些細なものだけだった。彼はほとんどその身ひとつで故郷を出てきたのだ。

    「阿渙、出ていいぞ」

     私邸の空き部屋で檻の戸を開くと、犬曦臣は顔を伏せながらおずおずと出てきた。つぶらな目をきょろきょろ彷徨わせて、あたりを見渡している。
     つい今日の午前まで伽藍堂だったこの部屋は、牀榻と文机、姿見、それに空の小さな書架しかない。風雅もなにもない設えだが、仮住まいなら十分だろう。そう思っていたが、いざ小犬が藍曦臣に戻るとどうも彼だけ浮いてこの家が貧相に見えるので、もう少し物を整えてやらねば、と江晩吟は思った。

    「こんな立派な部屋を借りていいのかい。申し訳ないよ」

     当の藍曦臣はそう言った。顔を見れば嫌味を言っている様子もなく、眉を下げてほんとうに困惑した表情をしていたので、江晩吟は思わずはっと笑った。

    「なにを。御殿に住んでたくせにこんな部屋を立派だなんて」

    「ご、御殿?」

    「しかしそう思うなら、まあいいさ。変な遠慮はせず、好きに使え。物を増やしてもいい」

    「そんな……」

     それから江晩吟は、戸惑うままの藍曦臣を連れて私邸を案内した。廁や水場、入浴場、ついでに小腹が空いた際に使う小さな炊事場を見せて、すべて自由にしてくれと言うと、彼は目をきらきらさせて何度も頷いていた。珍しいものはなにもないのに変な人だ、と江晩吟は思って、しかしげんなりされるよりよっぽどいいや、と気を持ち直した。それに、いつもは自分ひとりだけのための住まいで、寝に戻るだけの特別なものはなにもない所だが、彼がいるとやわらかに華やいで見える気がする。

    「じゃあ、また明日。皆を集めたら呼びにくるから、身支度を済ませておいてくれ」

    「はい。おやすみなさい」

    「おやすみ」

     部屋に彼を置いて、江晩吟は執務室へ戻った。今夜は夜狩に出かけた門弟を待ちながら、溜まった事務仕事を片付けるつもりだ。何事もなく皆無事に帰還するように祈りながら筆を取る。

    ⭐︎

     室内で一番大きな講堂に門弟と家令、家僕を朝一番に集めた江晩吟は、足元に小犬を置いた。小犬はぺっしょりと耳と尻尾を伏せて、きょどきょど興味深々の顔を見渡している。

    「これが、昨晩姑蘇藍氏から預かったという犬でございますか」

    「そうだ」

     門弟たちは顔を見合わせてひそひそと笑い出した。

    「可愛い」

    「可愛いな」

    「見えない……見たい……」

    「雲みたい」

    「絵に描き起こして売りましょうぞ」

    「なにが好きかな? マタタビ好き?」

    「それ猫だよ」

    「静まれ!」

     江晩吟が手を二回叩くと、皆一様に口をきゅっと噤んで宗主へ顔を向けた。構内をぐるりと見渡した江晩吟はこくりと頷き、おもむろに犬曦臣を抱き上げてその顔に頬擦りした。あらまあ、と門弟たちが目を見張る前で、頭のてっぺんに口付けもした。しばらくそうしていると犬曦臣の緊張も自然と解れていって、尻尾をふわふわ揺らしたあたりで床に降ろされた。

    「さあ、藍渙。戻ってくれ」

     告げられた名にえっとどよめきが上がる中、犬曦臣は四肢にむんと力を入れて変化した。ぽふ、という間抜けな破裂音がしてあたりが靄に包まれると、次の瞬間にはあの藍曦臣が立っている。雲夢江氏は言葉もなく、皆がっくりと顎を落として突然現れた彼を呆然と眺め、それから忽然と消えた小犬を探し始めた。
     門弟たちの反応に顔を青くして肩を縮こまらせた藍曦臣の隣に、江晩吟は透かさず並び立って肩を組んだ。そして講堂に響き渡る大声で言う。

    「信じられないかもしれんが、今見たものが事実だ。藍渙は今、犬になる病を患っている。人間に戻るための唯一の薬は、この俺と戯れること。そういうわけでしばらくここに住まわせる」

     それから彼は、口を開けたままの門弟たちを前にこれまでの経緯を語っていった。皆は理解しているのかしていないのか、宗主ふたりを凝視して立ち尽くしていたが、江晩吟の口が乗り、犬の藍曦臣がどれほど可愛らしいか語り始めてしまったあたりで早々に事を飲み込んだらしく、にやにやと笑みを浮かべてにじり寄ってきた。

    「──ちなみに、この件が我々と姑蘇藍氏以外に漏れたところで特別咎はないが、回り回って仕事が増えるから吹聴はやめろ。以上だ、解散!」

     解散と同時にどやどやと集まってきた江氏に圧倒された藍曦臣は、きゅう、と喉を鳴らしたと思うと犬になってしまった。ぎゃああ、と悲鳴が上がるのにさらにびっくりして、彼は全身の毛を逆立てて飛び上がると、江晩吟の足に縋り付いた。

    「よしよし。うるさくてすまんな」

     江晩吟はさっと小犬を抱き上げて狭い額に口付けた。犬曦臣はぷるぷる震えながら、まるでこの胸の中に入りたいというように顔を押し付けてくる。一方門弟たちは興味深々で、老若男女が壇上に乗り上げて犬曦臣に触ろうと手を伸ばしている。江晩吟はむっと顔を顰めて犬曦臣を高く掲げた。

    「なんだ、お前たちっ! 阿渙が怖がっているだろう、むさ苦しい!」

    「阿渙って呼ぶんですか?」

    「阿渙こっち向いて」

    「鍛錬終わったら一緒に遊ぼうよ」

    「やかましい! さっさと散れ! 持ち場に付け! 仕事だ! 鍛錬だ!」

     あとでもっとよくお顔見せてねえ、と、ある家僕の娘に揉みくちゃにされたのを最後に、犬曦臣は江氏の面々から解放された。彼は仰向けに寝転んで、ぽかんと口を開けて放心している。江晩吟はその丸々とした腹を撫でて苦笑した。

    「貴方が来たのはこういうところだ、阿渙。俺に可愛がってもらいたかったら、早く慣れろ」

     こっくり頷いた犬曦臣を江晩吟は抱き上げて、乱れた毛並みを整えながら全身をやさしく撫でてやった。

    「さあ、朝飯に行こう。うちは食堂で皆同じ大鍋から好きに取って食う。姑蘇藍氏の長だからといって、特別扱いはしないからな」

     人に戻った藍曦臣は、回廊を行きながらすれ違う門弟に指示を出し続ける江晩吟の後ろに着いて行った。彼らは、先ほど自分の変化を見て好奇に笑っていた様子とは打って変わって、引き締まった顔付きで胸を張って宗主の言葉を聞いていた。よく知る雲夢江氏の姿だ。

    「君は、全員の今日の役割を把握しているのかい」

    「ああ。大方は各部署の代表に任せているが、声を掛けてやると皆やる気を出すからな。最近は人が多くなって覚えるのが大変なんだ……秘密にしてくれよ」

     うん、と頷いた藍曦臣は、自分の門弟たちがそれぞれ今なにをしているのか、まったくわからないことに今更気づいた。長らく閉じこもっていたから当然なのだが、宗主として立派に勤めを果たす江晩吟を見ていると、この身の不甲斐なさに肩が縮こまる。最後に一日の報告を主管から聞いたのは、いつだったか。
     犬にならないよう深呼吸をして、いつもやさしく撫でてくれる江晩吟の手を眺めていると、いつの間にか食堂に着いていた。先ほどの講堂と同じくらい広いそこは朝ながらむっと香辛料の匂いに満ちていて、栄えた街中のように話し声でやがやと騒がしい。部屋の壁沿いを見ると、なるほど、一体ひとつ何人前入るのか、という大鍋がいくつも並んでいる。

    「好きに食え」

     そうとだけ言った江晩吟は、盆や皿を手に取ってさっさと行ってしまった。慌てて追いかけて後ろに並んで鍋を覗き込んでみると、どれも今口にするには重いようなものばかりだった。うっと息を飲むと、江晩吟は隅の鍋を指差した。その鍋は、周りのものよりもかなり小さい。寄ってみると、いたって普通の菜粥だった。手を付けられた様子はなく、それに他のものと違ってまだはっきりと湯気が立っている。はっとして江晩吟へ向くと、彼はすでに山盛りの皿を持って空いた卓へ向かっていた。
     粥と、それに鍋の近くにあった根菜の汁物や漬物を取った藍曦臣は、胡座をかいて頬を膨らませる江晩吟の隣に座った。

    「ありがとう」

     そう言うと、焼き魚を頭からばりばり食べていた彼はつんとそっぽを向いた。

    「俺じゃなくて家僕に言え。彼らが勝手にやったんだ」

     やさしい甘さの粥を味わっていると、江氏の皆は遠慮なしにじろじろ眺めてきた。ただの犬が来るとだけと聞かされていたのに、急に他所の宗主がこうして居座り始めたのだから、思うところがあるに違いない。別の場所でひとりで食べた方がいいかもしれない……そう考えていると、ある男が近くの卓に座って言った。

    「ここらではお目にかかれないような特別優美な方がいらっしゃるから、皆どきどきして落ち着きがないのです。不躾ですが、お許しを」

     その男は茶杯を上から鷲掴みして、ごくごく喉を鳴らして飲んでいる。どきどき、なんて可愛らしい衝動は、彼は少しも抱えてはいなそうだった。

    「あ、食事中はお話厳禁でしたっけ。失礼しました」

     藍曦臣は首を振り、口の中を空にしてから言った。

    「いえ、それは雲深不知処内だけの話ですから。ごめんなさい、すぐにお返事できず……主管殿」

    「あら、ご存知で。てっきり私めのことなど眼中にないかと。なんせ雲の上からは、我々なんて豆粒のような存在でしょうから」

    「天佑」

     江晩吟は目を細め、胡散臭い笑みを浮かべる主管を睨みつけた。主管──李天佑だったか、彼はこほんとひとつ咳払いをした。かと見えれば、いじけた子どものように頬を膨らませ、なよなよ肩を揺らし始めた。

    「だってえ宗主、私だって宗主と遊びたかったのに、姑蘇の小犬ちゃんに取られちゃって寂しかったんだもん」

     そしてぞっとする猫撫で声でそう言ったので、藍曦臣は喉から粥が戻りそうになった。

    「気持ち悪いぞ貴様!」

     江晩吟は主管へ腕を伸ばし、容赦なくその頭をぶっ叩いた。藍曦臣が思わずひい、と喉を引き攣らせると、彼は気まずそうにすぐに手を引っ込めた。主管はというと叩かれた脳天を抑えて蹲っていたが、すぐにけろっとした顔で起き上がった。

    「茶番はさておき、例の件に動きがありましたのでご報告をと」

    「そうか」

     江晩吟は残りの食事をさっさと掻っ込むと、空いた皿を持って立ち上がった。

    「では、俺は行く。貴方は取り決めどおり好きにしろ」

     主管と出て行った江晩吟が皿から溢れそうなほどの大盛りの料理を平らげる間に、藍曦臣は腕の半分しか飲み込めていなかった。食べなければとわかっていても、喉がほんの少しずつしか通してくれないのだ。日がな犬でいたときからそうだった。生まれながら豊富な霊力に護られて大事はないが、何もかも思い通りにならない体に嫌気が差す。
     やっとのことで最後の一口を飲み込んだ藍曦臣は、青い顔で盆を下げて食堂を出、それから真っ直ぐ私邸へと続く回廊を行った。仙府には機密保護のため立ち入り不可と提示された場所が多くある。むやみに表にいては、門弟たちが警戒して疲れてしまうだろう。
     なにもないから自由にしていい。そう言われた私邸に逃げ込むように足早に辿り着いた藍曦臣は、強くなってきた日差しに目を細めながら、湖上に張り出した四阿の長椅子に腰を下ろした。ふう、と息をついて、ぼんやりと宙を向く。
     主管──李天佑の嫌味はもっともだ。自身の宗主を何度も何度も遠方へ呼び出した上に、今度は蓮花塢で面倒を見ろと要求する。一体何様なのだと憤って当然だ。最終的には宗主が決めたことだから渋々従っているが、ほんとうは今すぐにも姑蘇に送り返したいのだろう。
     弟とその道侶から蓮花塢で休養してはどうか、と勧められて江晩吟に手紙を送ったら、是、という返事がすぐに返ってきた。曰く、犬は可愛いが苔むした山奥に通うのはもう散々、貴方方からこちらに来たらよろしいとずっと思っていたので、病を治す気があるならどうぞ。そんな調子の内容だった。これを読んだ主管は顔を顰めたが、藍曦臣には彼の気遣いだと、ちゃんと気づいた。
     求めてやまない江晩吟が犬の姿にしか興味のないことは、彼の態度からもう十分わかっている。気遣いや許しのすべては、そのために彼の心に芽生えた情によるものだとも知っている。だから、主管をはじめとした蓮花塢の住人が皆同じように受け止めるとは思っていない。弱く愚かで馬鹿げていると、そのくせに不遜だと詰られるのも覚悟して、彼の側にいたいと願った。
     家の者たちから向けられる、意図さまざまな視線から逃れたいと、願ってしまった。そうしてここにいる。
     自分がこうしてやってきてしまったことで、彼と門弟たちの間に亀裂が生じなければいいが。帰る気もないのに、藍曦臣は今更そんなことを思った。

     ──ぽふ。

     藍曦臣は犬になった。だらりと四肢を投げ出して這いつくばり、くわりと大きなあくびをした。昨夜は蓮花塢の皆に秘密を明かさなければならない緊張でよく眠れなかった。湖上を撫でてから吹きつける風が気持ちよくて、とろとろと眠気がやってくる。
     水の匂いがする。湖に棲むいろいろな生き物たちの匂いだ。蓮花はまだ蕾。青々と葉が茂って、その上に留まった水滴が宝石みたいにきらきらしている。

     ──江澄にあいたいな。

     さっき別れたばかりなのに、犬曦臣はそう思った。いつも思っている。あのあたたかな腕に包まれると、もう怖いものなんてなにもなくて、ただ幸福ばかりがあるような気持ちになるから。見つめてくる彼の瞳は澄んできれいで、あの眼差しの中にいる自分も、とびきり良いものな気がしてくるから。
     犬曦臣はそんなことを考えながら、江晩吟が戻ってくるのを、今か今かと待ち続けた。



     小犬の悲鳴が聞こえたような気がして、試剣堂で邪崇調査へ赴く門弟一行を見送った江晩吟は、ふと顔を上げた。耳を澄ませると、やはりなにか騒がしい。鍛錬の掛け声に紛れて、男女のはしゃいだ声が聞こえる。おそらく業務を終えた事務方だ。
     住人の憩い場になっている広場へ行くと、そこには十人あまりの人集りができていた。終業時刻を過ぎたのだからさっさと飯食って風呂に入らんか、と眉尻を吊り上げた江晩吟だったが、皆の頭の上に突如として真っ白なふわふわが浮かび上がり、そして落ちていったので、仰天して飛び上がった。阿渙が遊ばれている!

    「なにをやっている──!!」

     そうがなり声で叫ぶと、彼らは振り返ってさっと礼をしたかと見えれば、犬曦臣を抱えた女官を先頭にしてわらわらと駆け寄ってきた。

    「宗主! 綿毛ちゃんです、やはり綿毛ちゃんに決めました!」

    「なにがだ! 要領を得ない話はやめろと何度言ったら!」

    「すみません! 藍宗主様の愛称です」

     かわいそうに犬曦臣は、女官の腕の中でぷるぷる震えていた。そして男の指が被毛にずぶりと差し込まれ、彼が「わ、ほんとだ……無限に指が刺さる……」とかなんとか言うのにぎゅうと顔を顰めた。人間に戻そうと躍起になって触ってくる自分の門弟からも逃げた犬曦臣だ、相当嫌に違いない。
     女官はそんな犬曦臣の様子など少しも気にせず、微笑んで言った。

    「私たちも宗主に倣い、犬でいらっしゃる間は阿渙と呼ばせていただこうかと考えていたのですが、やはり恐れ多く、それに来客者や町の者にかのお人のお名前だと怪しまれても大変なので。蓮花塢にご滞在中は、こちら綿毛ちゃんでございます。よろしいですか」

    「綿毛ちゃん……」

     まあ、確かに、見た目そのままの名称だが。そう呼んで犬曦臣の顎を指先でくすぐると、彼は悲しげに瞳を濁らせた。

    「阿渙?」

     その視線にぎゅっと胸が詰まって女官から小犬をひったくると、犬曦臣はぱっと打って変わって瞳を真ん丸く輝かせ、尻尾を振って胸元にもたれかかってきた。

    「名を奪われるのは嫌か、阿渙」

     そう言うと、女官たちははっと眉を下げて肩を落とした。江晩吟は犬曦臣を撫で続ける。

    「しかし、奴らの言うことも一理ある。今日は大門を閉じているから来客も町人もいないが、月に何度かは騒がしい日があるからな。犬の貴方を阿渙と呼んでいるのを聞かれたら、嫌な噂しか立たない」

     当然、姑蘇藍氏は藍曦臣の現状が世間に明らかになるのをひどく恐れている。今回の滞在も、ひとりでも来客がある日、または大門を開けている日は決して奥の私邸より先に人の姿で出ないことが条件だった。

    「だから貴方は綿毛と呼ばすことにする。犬に付ける名前としてはさして不自然ではあるまい」

     犬曦臣はまた、しょんぼりと顔を伏せた。江晩吟はその表情にふっと笑んで、彼を顔の横まで持ち上げた。

    「貴方の本当の名前は、俺だけが呼ぼう──ふたりきりのときに」

     そして、首元に鼻を埋めてすう、と吸ってやると、犬曦臣はわん、と一声高く鳴いた。この条件でいいようだ。

    「ふふ、貴方、朝飯食ったらさっさと私邸に引っ込んだと見えたが、いつの間にこんなところにやってきて……出てきたら絡まれるに決まっているだろう」

    「私が連れて参りました」

     事務官たちの背後からひょっこり顔を出したのは、私邸の掃除を担当する家僕だった。彼女は丸まった背でちょこまかとあちこち歩き回り、しわしわの手でどこもかしこもぴかぴかに磨き上げる掃除の匠だ。

    「裏の四阿で綿毛がなにやら気を伏せっている様子でしたので、ええ、それなら子どもたちと遊んだらよろしいと思ったのです。一緒に散歩がしたいと、探しておりましたから」

     年少の門弟たちは、今日は午前に妖の知識講座が終わったら自由だった。彼らはそのような日は大抵、師兄の修練を覗きに行き真似して遊んでいるが、今日は珍しい居候に目をつけたらしい。どおりで土埃の匂いがする。そして夕飯の時間になって解放されたかと思えば、業務を終えた事務官共にまたもみくちゃにされたというわけだ。
     滞在一日目にしっかり蓮花塢の洗礼を受けた犬曦臣は、大きなあくびをして眠そうに半分目を閉じている。早く風呂に入れて飯を食わせねば。
     江晩吟は犬曦臣の胴を掴み、目の前に掲げた。

    「そうか。ひとりでうじうじ湿っぽくしているよりよっぽどいい。よかったなあ」

     そう言ってにっこり笑ってやると、小犬はひゅうとか細く息を吸って不安げに口を閉じた。

    「なんだ? 裏に閉じ籠り、俺の帰りを待つだけの生活ができるとでも考えていたのか? 甘いな、ここでは働かざる者勉学せず者食うべからず。貴方の当分の仕事は、皆の遊び相手にでもしようか」

     きゅわ、とか細く鳴いた犬曦臣を小脇に抱え、高笑いした江晩吟は事務官たちを引き連れて屋内に戻った。



     食堂の入り口で事務官と分かれた江晩吟と家僕に、腕の中の犬曦臣は首を傾げている。江晩吟は家僕を振り返った。

    「湯桶を用意しろ。丸洗いだ」

    「承知しました」

     途端にばたばた暴れ出した犬曦臣をぎゅっと腹に抱えた江晩吟は、ずかずか大股で急いで私邸へと向かった。

    「おい、人に戻るなよ。校服が汚れたら面倒だからな」

     浴場に犬曦臣を押し込んだ江晩吟は、遅れて湯桶を持ってきた家僕から小さな桶を受け取ると、「どこでもお着替え君三号」を取った犬曦臣を容赦無く湯の中にぶち込んだ。途端に綿毛が溶けるように萎んでいき、ゆらゆらと水中を漂った。小犬は痩せ細り、半分くらいの大きさになってしまったように見える。

    「貴方やっぱりなあ、痩せすぎだぞ。人の姿ではそこそこの体躯を保っているが、犬になるとほんとうのところが出るようだな」

     江晩吟はむっつりと顔を顰め、被毛と地肌を指の腹で擦りながら全身を揉んでやった。犬曦臣は仰向けになって四肢を縮こまらせ、目を丸くして固まっている。人の姿なら、乱暴に服を脱がされて全身を触られているような感覚なのだろうか。
     藍曦臣の裸を思い出した江晩吟は唇を噛み、今触れているか弱い綿毛ちゃんに集中した。

    「貴方、朝は赤ん坊が食うほどの量ですら完食するのに苦しそうだったと聞いたぞ。あいつらが作ったのだから、不味いなんてことはあるまい。何事も食いもんと睡眠を整えてからやる気が出るというものだ。何なら食える?」

     土埃を粗方落とした犬曦臣は、最後に新しい湯で濯がれてから、分厚く大きな手拭いにぐるぐる巻きにされた。江晩吟はふたたび彼を小脇に抱えて行き、彼の部屋へ入った。

    「じっとしてろ。貴方の義弟の発明品だろ」

     符で一気に体を乾かすと、犬曦臣の体は一気に膨れ上がった。丸々として愛らしく、江晩吟は洗いたてでなおさら触り心地のよいふわふわにさっそく顔を埋めた。

    「これで体に肉が付いたら完璧だ。絶対に太らせて姑蘇に返すからな……」

     そうしてしばらく犬曦臣を堪能していると、戸が控えめに叩かれて隙間が開けられた。そこから、畳まれた中衣が差し出される。それを受け取った江晩吟は、彼に見せてやった。この蓮花塢では誰でも着るような、なんの変哲もない紫色の衣だ。

    「白くても見つけやすくていいが、俺たちも貴方も落ち着かない。貸してやるから好きに着ろ。まったく、校服と寝衣しか持たせないとは気の回らん奴らだな」

     食堂で待っている、と言い残して部屋を出た江晩吟が私邸域を出ようとすると、本邸へと続く橋の先に主管が立っていた。礼をされたのに片眉を上げると、彼は苦笑いして歩み寄ってきた。

    「婆やに阿渙を連れ出せと言ったのはお前か」

    「そうです」

     江晩吟はため息をついた。

    「療養目的で預かっているというのに」

    「だからです。来て早々に犬になるんですから、なにか気遣わしいことがあるのではとないかとお見受けしました。うちの元気で可愛い子どもたちと犬らしく遊べば、気分も晴れるのではと思いましてね」

    「ずいぶんな荒治療だな」

    「それが嫌になってお帰りになられたら、私としては万々歳」

     天佑は、宗主が姑蘇に通い始めてからずっとこのような態度をしている。昔から関わりが薄く、こちらに無関心だった姑蘇藍氏が宗主の病状のために擦り寄ってきたと見ているらしい。
     江晩吟とて仙門百家の頂点を担う大世家の連携から漏れ出たせいで負った苦労は忘れもしないが、近年は門弟がたくましく頼りやすくなって心落ち着く時間が増えたこと、それになんと言っても犬曦臣があまりに愛らしいので、夏に雪が降るほど珍しく甘い対応を取ってしまったのは否めない。
     江晩吟は主管を追い越して回廊の先を行った。彼も後ろをついてくる。

    「俺もさっきな、ここでの貴方の仕事は皆の遊び相手だと言ってやった。しばらく放っておいて様子を見るつもりだったが、まあ、お前の方法も悪くない」

    「久々にお褒めいただき光栄です」

    「腑抜けでもできることがあると知れば、また別の薬になるやもしれん。毒になったら向こうに帰してやろう」

     前々から事情を知る主管や大師兄をはじめとした一部の師兄、師姉たちは、宗主が犬曦臣のもとへ駆けつけるため、またここへ迎え入れるために予定をかなり調整してくれていた。自分も彼らに甘え切って労いが不十分だったと、江晩吟は下唇を噛んだ。
     すると、主管は江晩吟の右肩にすっと寄って言った。

    「私たちとしては、宗主……あの方がここにいることで、貴方の心が少しでもより良く休まる時間があれば、まったく構わないのです。どうか気負わずに」

     食堂へ行くと、もうそこは業務や鍛錬を終えた門弟たちがにぎやかに夕食を取っていた。そのいつもどおりの光景に満足してあたりを見渡すと、ある一角で卓を囲む少年少女が一気にこちらを向いた。その目は期待で輝いて、宗主と主管の足元を探っている。彼らの近くの卓がちょうど空いていたので、主管に顎をしゃくって江晩吟はそちらへ向かった。

    「あの、宗主、綿毛ちゃんは……」

     少年はおずおずとやってきた宗主を見上げた。彼は鍛錬中にもかかわらず、あらゆる動物に目をやっては転んで師兄に怒鳴られていた問題児なので、小犬のことが特別気になるのだろう。

    「もうじき来る」

     そうかえすと、子供たちは目を見合わせて喜んだ。そわそわと浮き足立って入り口を見つめながら汁物を啜っている。

    「俺が来るようになったときより嬉しそうだな、コイツらめ」

     江晩吟はどっかりと腰を下ろしてそう言った。その向かいに座った主管はくすくす笑っている。

    「そりゃあ貴方が顰めっ面で飯を食ってたからじゃないですか」

     数年前、それまで私邸でひとり食事を取っていた江晩吟は、大師兄に請われて食堂に来るようになった。はじめの頃は、それはもう双方気まずくてしんと静まり返ったものだが、一ヶ月も経てば門弟が勇気を出して話しかけてくれたので、今ではこうして気楽に食事を共にできている。

    「うふふ、宗主ねえ、お肉食べながらこんな顔してたよ」

     ひとりが指で目尻を引っ張り上げて白目を剥いたので、江晩吟はそっくりそのまま真似してやった。

    「誰がだって!?」

    「んふふ、ふふ。ほんとにそんな顔だったよぉ」

     そうして戯れていると、江晩吟はふと視線を感じて振り返った。藍曦臣が所在なさげに入り口に立っている。目が合うと彼はほっと安堵して微笑み、主管を見て一転唇を元に戻した。

    「くくく、お前、嫌われたな」

    「結構です」

     昔の藍曦臣は、たとえば清談会で誰が何を言おうと不気味なほど笑みを崩さず、おおらかな態度を変えなかった。しかし今は、皆の視線に不安げに顔を下げ、そそくさとこちらに向かってくる。これを、彼が衰えたと表現するべきか、素直な感情が表に出ていてこれはこれでいい、と頷くべきか。
     袖がすっきりと窄まった濃い色の服を着ている彼は物珍しい。それに加えて額に抹額が巻かれ、色が浮いているような状態は、主管の笑いを誘うには十分だった。

    「あれ、絶対外せないんですね。難儀なもんだ」

     やってきた藍曦臣は、子どもたちがぽかんと口を開けているのに気づいて、おろおろ戸惑った。そのうち、ひとりの少女が言った。

    「綿毛ちゃんは?」
     
    「……え?」

    「綿毛ちゃんがいいです」

     江晩吟もぶっと吹き出してしまった。元天下の沢蕪君よりも小さな犬を迷いなく所望する子どもがおかしくて堪らない。

    「あの、でも、ここは食堂ですから」

     藍曦臣は、裾を引っ張った少女の前に膝をついてそう返した。

    「食堂に犬いちゃだめって規則はないです」

    「ではお食事をいただいたら、なります」

    「えー、ぼく、綿毛ちゃんにご飯あげたいな」

    「綿毛ちゃんになってください」

     子どもたちの要求に戸惑った藍曦臣は、ごめんなさい、と繰り返すと、とうとう江晩吟の隣の席に逃げ込んだ。主管はというと、「ねー、綿毛ちゃんのこと、ずっと待ってたのにねえ」と彼らににこにこ笑いかけている。江晩吟は卓の下で主管の脛を軽く蹴りつつ、藍曦臣の背中に手をやった。

    「だめだ。ここで犬になるのは俺が許さん。藍渙は飯を食う練習をしなければいけないんだ」

     そう言うと、子どもたちは、えー、と叫んで藍曦臣を丸い目で見た。

    「こんなに大きいのに、食べ方知らないの!?」

     主管が、ひい、と引き笑いをして口を抑えた。

    「知っていたが、忘れてしまったんだ。な、藍渙」

     藍曦臣は首を傾げつつ、こくりと頷いた。

    「食べ方忘れちゃうなんてこと、あるんだ」

     ひとりがそう言うと、江晩吟は頷いた。

    「そうだ。生きていれば、誰しもそういうことはある。反対に、食べられる適切な量がわからなくて、食べ過ぎてしまうこともある。きちんと物を食うというのは、実は難しいんだ」

     子どもたちは、わかったようなわからないような顔をして頷いた。

    「お前たちも、もし食事が難しいと感じるようになったら、必ず誰かに言うんだ。わかったな」

     はあい、と揃って返事が返ってきたので、宗主の即席講義は終わった。藍曦臣を振り返りながら、江晩吟は立ち上がる。

    「ほら、飯を取りに行くぞ」

     立ち上がった藍曦臣は、子どもたちの盆を見下ろして言った。

    「私、忘れてるだけなんだね。思い出したら、君とたくさんご飯が食べられるかな」

    「食べられるさ……俺だって、思い出せたんだから」

     はっと顔を上げた藍曦臣に背を向け、江晩吟は列を成す大鍋へ向かった。彼はさっと横に並んできた。その後ろから主管も付いてくる。

    「腹は減っているか」

    「まだ、あまり」

    「そうか。何か口に入れたら食欲が湧いてくるときもある。どれか取ってみろ」

     江晩吟と主管がいつもどおり、ためらいなくひょいひょい皿に盛り付けている間、藍曦臣は大鍋の間を行ったり来たりして悩んでいた。そこに、食事を終えて膳を下げにきた子どもたちがわらわらと寄って行った。

    「食べたい物、わからない?」

     少年が見上げて尋ねると、藍曦臣は気弱に微笑んだ。

    「うん、そうなんだ」

    「全部おいしいから、どれ選んでも大丈夫だよ」

    「そうだよね……」

     藍曦臣が俯くと、少年の後ろからぬっと少女が顔を出し、手を伸ばして彼の盆を引ったくった。

    「貸して! あたしが選んであげる!」

    「あ! ぼくも!」

     子どもたちは競い合って盆を取り合ったが、少しの話し合いの末に盆を卓の上に置くと、それぞれが小皿を持ち好きな大鍋に寄って中身を掬った。そうしてあっという間に、藍曦臣の手にはたくさんの種類の料理が少しずつ載せられた盆が戻ってきたのだった。

    「これねえ、今日一番おいしいやつ」

    「ちがうよ、これだよ」

    「どれがなんて、藍宗主様が食べてから決めるのよ。はやく行きましょう」

     席に着いた藍曦臣は、さっさと食べ出した江晩吟の隣で箸を持ったが、また何かに迷い出して食べようとしない。ここまで世話を焼かれておいて、と江晩吟はその様子に苛立ちそうになったが、細く息を吐き出して堪えた。主管も、ちらちらと彼を見ている。

    「どうしたの?」

     子どもたちが不思議そうに顔を覗き込むと、藍曦臣はおずおずと言った。

    「全部食べてみたいのだけど、きっと完食はできないから、どれに箸を付けていいか迷ってしまって」

     すると、少年が言った。

    「食えなかったら、俺が残り食うからいいよ。全部一口食ってみたらいいじゃん」

     藍曦臣は目を丸くした。

    「私の食べかけを?」

    「おう。別に気にしねえよ、そんなもん」

    「私もまだ食えるよ!」

     ほんとうにいいの、という顔で藍曦臣が見てきたので、江晩吟は言った。

    「いい。甘えておけ」

     そうしてようやく、藍曦臣は右端の皿から順に口をつけ始めた。それは小さな小さな一口だったが、進むごとに彼の瞳が明るくなり、頬がほんのりと赤く染まった。

    「おいしい……ぜんぶ、おいしいよ」

     やったあ、と子どもたちが自分事のように喜ぶ前で、藍曦臣は黙々と食べ進めた。だんだん箸の進みは速くなり、頬を膨らませてはよく噛んで飲み込んでいった。結局、左端のいくつかの小皿を残した状態で手は止まってしまったが、待ってましたと言わんばかりに子どもたちが奪い合って食べ切ったので、盆の上はすっかり綺麗になった。

    「よし。完食だな、藍渙」

     藍曦臣の四倍は平らげて食後の茶を啜る江晩吟は、彼ににっと笑いかけてやった。

    「うんっ」

     頷いた藍曦臣は、にっこりと笑った。細まった瞳から感情が光になってきらきらと落ちて、丸く持ち上げられた頬に花でも咲きそうな、ほんとうの嬉しさに溢れた笑みだった。彼は跳ねるように振り返って子どもたちにも目を合わせ、ありがとう、と何度も言っては彼らの手を次々に握っていった。彼の笑顔が伝播して、子どもたちも頬を染めてはしゃいでいる。
     その光景に急に胸がどっと痛んで、江晩吟は襟を掴むように抑えた。古傷が痛んだかと思えば、そうではなく内臓が締め付けられているようだった。しかし、そのうちに痛みは過ぎていって、あとはもったりと何かが胸に残る感覚だけが残る。
     江晩吟は深く息を吸い、そしてすべてを吐き切った。

    「……あらあらあらあら」

     主管が両手で口元を押さえてぶつぶつ呟いている。江晩吟はがっくりと項垂れ、肘を卓について手のひらで顔を覆った。
     この胸の痛みはなに、と無垢に戸惑う季節は、もうとっくのとうに過ぎてしまった。ただ今は、この感情を決して喜べない中年だけがいる──ああ、見ないふりをしていたのに。

    「どうするんですか」

    「どうもしない」

    「どうもせずに済むんですか」

    「済ませる。案ずるな」

     食事を終えた江晩吟は、それから少しだけ執務をしたあと、風呂に入って寝室に下がった。行燈を灯し、おぼろげに広がる明かりの中で短い日誌を付け、牀榻に入って天井を見上げた。

    「んああぁあ……っ」

     こりゃあまずいぞ、案ずるなとはなんだ、と布団を拳で叩いたところで、この感情に蓋をして何食わぬ顔で犬を可愛がり、そして人の姿でい続けられる彼を姑蘇に送り返すしか道はない。
     しかしその終着点に至るまで、この体がどれほど痛みを抱え、最後には喪失に虚しくなるのかと想像したら、背筋がぞっとして敵わない。
     もう懲り懲りだ。誰かに大きな感情を抱いて、報われずに苦しむのは。喪失を確かに予感しながら、それでも情を捨てきれずに持て余すのは。

    「……落ち着け」

     江晩吟は深呼吸を繰り返し、体の力を抜いていった。明日失敗したら門弟諸共露頭に迷う夜を、これまで何度も乗り越えてきた。その恐怖や不安を飼い慣らし、明日のために眠る力をもう持っている。だから、芽生えたばかりの些細な感情に逐一惑わされはしない。
     こういうものは無視するのではなく、あると認めて自然とこの身に寄り添わせるのがいい。思ってしまったものは仕方がないからだ。そうしてただ事象が過ぎるのを待つのだ。



     街で発生した商売敵同士の乱闘を収めたり、豪雨と土砂崩れによって発生した諸々の問題を解決するために奔走している間に、雲夢は夏本番を迎えた。蓮花塢では皆疲れを隠せない顔で業務に当たっており、ただ蓮花だけが変わらず清らかに花弁を開いては閉じている。
     久々にまとまった睡眠を取った江晩吟は、寝衣姿のまま目と口を半開きにして寝室前の縁側で陽の光に当たっていた。
     今日は仕事をしない。主管と師兄が休め休めとねちねちうるさいからだ。昔はすべて自分の采配で仕事をしていたのに、今はもう皆、これは自分の仕事だから任せろと言って聞かない。休んだところでやることもないのに──と、きゅわ、と甲高い鳴き声が聞こえて、真っ白なふわふわが回廊を突っ走ってきた。

    「阿渙……っ」

     江晩吟は犬曦臣をひしと抱き止め、そのまま後ろにひっくり返るように寝そべった。小犬は胸をよじ登り、顎をぺろぺろと舐めてくる。

    「阿渙……阿渙……」

     江晩吟はされるがまま、犬曦臣が体臭を擦り付けるように顔や寝衣の上でころころ転がるのを受け止めた。まるで全身に蟠っていた鬱憤や疲れが綿毛に吸い込まれていくような心地に、危うく意識が飛びかける。それでも、せっかく彼が頑張って癒そうとしてくれているのだからと、江晩吟は眠気を堪えて起き上がり、犬曦臣をきゅっと抱きしめた。

    「貴方、ふふ、焼き魚の匂いがする……朝飯、うまかったか?」

     昼夜問わず働き続けた宗主と、藍氏らしく規則正しい生活を続けたらしい居候が顔を合わせる時間は少なかった。すれ違いざまに人と犬が抱き合い、匂いを嗅ぎ合ってすぐに離れていく、そんな関係をもう何週間も続けていた。犬曦臣は久々の濃い触れ合いにすっかり興奮しきって、尻尾が残像になるほどぶんぶん振り、目を爛々と輝かせて江晩吟を見つめている。

    「なにがそんなに楽しいんだ」

     そう言って目を細めた江晩吟に、犬曦臣は一声鳴いた。その眉間に口付け、また胸に抱き寄せる。小さな体のあたたかさに、ほっと息をついた。いくら気温が高くなっても、この体温だけは心地良い。
     江晩吟は犬曦臣に足に纏わりつかれながら顔を洗い、髭を剃り、髪を頸に緩く結った。そして彼を無理やり引き離して衣装部屋に入り、青紫の中衣を着てから抱えて祠堂へ行った。入り口に佇む小犬に見守られながら掃除をし、懺悔し、祈り、また抱えて耳の後ろを吸い、私室に戻った。ふわふわを擽りながら縁側でぼんやり座っていると、家僕が食堂から汁物と饅頭を持ってきた。一口か二口食べてはうつらうつらと船を漕ぐ江晩吟を、犬曦臣は控えめに鳴いて起こしてくれた。そうしている間に、陽は真南を回っていた。

    「暑いなあ……」

     江晩吟は牀榻に寝そべって冷気を発する符に頬を付け、隣ですやすや眠る犬曦臣を扇子で仰いでいた。なにもすることがない、最高じゃないか。
     藍曦臣は、実務に携わる門弟が忙しくしている間、代わりに子どもたちの面倒を見てくれていた。講義を取り、修練の基礎を教え、それらが終われば人の姿でも犬の姿でも遊び相手になった。皆は彼にすっかり懐いて、綿毛先生と呼んで慕っている。子どもたちから良い評判が広がり、蓮花塢の多くの者と打ち解けている……と、主管がつまらなそうな顔で言っていた。
     つまり彼も慣れない環境でそれなりにやっているのだが、犬でいる時間はまだ長い。忙しくて短時間の触れ合いで済ませてしまったせいで、人の姿を維持するための幸福が足りないらしい。
     ならまだまだここにいないとなあ、と江晩吟は微笑んでから、病が治らないことを嬉しがるなんて、と唇を噛んだ。幸福の器がいつまでも埋まらなかったら、彼はずっとこうして蓮花塢に居続けるだろうかなんて、考えてはいけない。
     一眠りしたあと、一日私邸から出ないのも味気ないと思った江晩吟は、犬曦臣を抱えて裏口から外に出た。

    「近くに小川がある。冷たくて気持ちいいぞ」

     その小川は原っぱの中心を流れていて、河原の石に薄い膜を張るようにして穏やかに流れている。裸足になって裾を捲った江晩吟は、犬曦臣の胴を掴んで水に浸けてやった。彼はぷるっと軽く体を震わせると、犬掻きをするようにぱたぱた四肢を動かした。口を開けて舌を出すその顔は無邪気に笑っているようで、ほんとうの仔犬そのものに見える。

    「上手だなあ、この調子なら来週には海を渡れそうだな」

     もちろん犬曦臣を海に連れて行く気はさらさらないし、今ここで手を離すつもりもない。このか弱い犬が万が一にでも流されて怖い思いをしないように、中腰のまま彼を支えて歩き続ける。

    「見ろ、阿渙。小魚が泳いでいる。なんという魚だろう、初めて見るな。貴方なら、知っているかな」

     犬曦臣は小さな鼻をぴくぴく動かして魚を追った。

    「魚、好きか? 雲深不知処では、魚を追ったり食ったりというのは禁止だものな。今はいいぞ。日が暮れるまで追いかけていいんだ。俺も幼い頃は、仲間とそうして遊んだものだ……」

     しばらく川に浸かったふたりは原に上がって木陰に敷布を敷き、竹筒から水を飲んだり草原の商人がくれた羊の干し肉を食べたりした。食事を手ずから与えるのも彼にとってはよい触れ合いのようで、尻尾を振って欠片に食らいついている。

    「貴方、向こうでは犬のとき何を食っていたんだ? まさか穀物や野菜だけではあるまい……え? それだけ? おいおい、あいつら……」

     休憩後、水遊びを再開して今度は水面に浮かぶウキを追いかける遊びなどをした。もちろん、江晩吟はずっと中腰のまま犬曦臣を支え続けていた。
     日が西にずいぶん傾傾いて橙色に空が染まり始めた頃、ふたりは川から上がった。江晩吟はたいそう満足げな犬曦臣の体を手拭いで拭い、腹をくすぐった。

    「順調に肉が付いているじゃないか。うちの飯はうまいだろ……ん?」

     犬曦臣の首にかかった巾着がわずかに光ったように見えて、江晩吟はそれを持ち上げた。顔を近づけてよく見てみると、

    「はは、あいつも粋なことをする」

     花の刺繍にはわずかに銀糸が使われていて、それを繋げると巻雲になっているとわかる。長老に注意されたくらいで大人しく模様を変えるなんて彼らしくないと思っていたが、なるほど、これならこの小犬から目を背ける者たちにはわからないまま家紋を纏える。

    「……帰ったら大変だな? その肥えた舌で向こうのもんを食ってみろ、座学生の気持ちがわかるだろうよ」

     私邸に戻った江晩吟は彼に貸し出している部屋へ入り、彼を床に下ろした。

    「どうだ、藍渙。戻れるか」

     ──ぽふ。

     犬は失せ、代わりに藍曦臣が背筋を伸ばして立っていた。相変わらず貸し出した紫色の衣を纏いながら、額に抹額をきっちり巻いている。江晩吟は目を逸らし、文机の足元に置いてある行燈を灯した。

    「ありがとう、江澄。とっても良い気持ちだった」

     行燈を掲げると、彼は淡い光に照らされて微笑んでいた。頬は以前よりふっくらして柔らかで、張りのある肌が艶やかだ。瞳は光を反射して、琥珀色に甘さが滲んで江晩吟を見つめている。薄紅の唇が言葉を紡ぐ。

    「毎日会っていたのに、なんだか久しぶりだ。目線が近いからだろうか」

    「ああ……そうかもな」

     江晩吟は藍曦臣の足元を見たまま、ずいと行燈を差し出した。彼が受け取ると、すぐに踵を返して戸を開いた。

    「このあとは、夕飯でも風呂でも好きにしろ。俺は仕事を片付ける」

    「え……今日は一日休みではないの」

    「面倒なやつを思い出した。やらないと気が休まらないから、やった方がマシなんだ」

    「そう……では、また明日」

    「じゃあな」

     戸を閉じた江晩吟は唇を噛み、俯いて大股で廊下を歩いて行ったが、そのうち腕を大きく振って駆け出していた。そうして息を荒げ、寝室の戸を外してしまうくらい激しく引き、牀榻に飛び込んだ。丸まった布団に顔を埋めて叫ぶ。
     わあああああ、だか、うがあぁぁぁあ、だか、口から出てくるに任せて一通りの雄叫びを上げた江晩吟は、息苦しさに顔を上げ、垂れた涎をそのままにまた突っ伏した。それから地面を這う虫のように四肢を動かし、勢い余って牀榻から上半身が落ちた。ごん、と頭と床の衝突音が部屋に響き、そして江晩吟の荒い呼吸だけが残った。

    「うっ、うっ、う……っ、胸が痛い……っ」

     ああ、しばらく会わなかったら、綺麗さっぱりこの感情が消え去っているのではないかと──希望的観測が当たりっこないことなんて、何十年生きてきて身に染みて知っているはずだったのに。
     小犬のふわふわ柔らかな毛の触り心地や濡れた鼻先、顔中を舐める小さな舌の感触を思い出す度に、彼の真っ直ぐ伸びた髪や滑らかな肌触り、低く穏やかな声が共に蘇ってざわざわと全身を撫でていく。
     小犬が飛び跳ねて駆け寄ってきて、大好き、愛してくれと言わんばかりに戯れてくる姿が、藍曦臣の甘く、縋るような目付きに重なってしまう。さっきだってもう少し自制心がなかったら、おおヨシヨシ、夕飯一緒に食べような、風呂も一緒に入るかぁ、と上擦った気色悪い声を発しながら頭を撫でくりまわしてしまうところだった。四十路の男が四十路の男に──この世の地獄か?

    「……クソッタレ……」

     この感情が勝手に過ぎていかないのなら、彼がはやくここから去ったらいい。ふとしたとき顔を上げたら、小さなお尻をぷりぷり振って歩いていたらいいのにとか、どちらの姿でも変わらない上機嫌な笑顔を毎日見せてくれたらいいのにとか──そんな思いでこの胸が押しつぶされる前に、はやく。
     ああ、もう、感情を受け入れて事態が過ぎ去るのをただ待つだなんて、それがものすごく苦行なんじゃないか!



    「ああ……蓮花塢のみなさまには、とてもよくしていただいている。体調も順調に回復している……と思う。しかし、その、復帰の時期など、具体的なことは、まだ……皆にはほんとうに申し訳ないが、もうしばらく、ここに居させてほしい……」

     藍曦臣は、数週間ぶりに会った弟と目を合わせられなかった。請け負うべき職務を弟に放り投げながら、まだここでのうのうと暮らしていたいと乞う自分があまりにも情けなかった。それに比べて、小さな皺や汚れひとつない校服と抹額を身に纏い、背筋を伸ばして前に佇む弟の清らかさと言ったら。

    「ところで……そちらの様子はどうだい」

     直近の報告を一通り聞いたところで時間になり、客間から弟を見送って主管に預けた。彼らが去るまで聞き耳を立てていると、主管は、藍曦臣が年少の門弟の面倒をみたり、薬草の講義で教鞭を取ったりしている旨を話し、負担なんてとんでもない、病が完治するまでお預かりいたしますとかなんとか、よそ行きの声で話していた。弟の声は聞こえないが、きっと「それなら雲深不知処で過ごしてくれたらいいのに」と言いたげな顔をしているのだろう。
     すまないね、と藍曦臣はまた弟に心の中で謝って、それから犬になった。江澄の私邸にある自室へ行き、人に戻って藍氏の校服を脱ぐ。そして紫色の衣を纏い、ほっと息をついた。腕を天井に突き上げてぐっと背伸びをしたら、気分が落ち着いてあくびが出てきた。
     今日は蓮花塢の大門が開いていて、街の商人や弟のような来客が外に大勢いる。このような日は、藍曦臣は人の姿で表に出ず、私邸で送られてきた仕事を片付けたり、後日行う指導や講義のための準備をしたりする。今日は小春日和で日に当たると気持ち良いから、外に机を出してもいいかもしれない。

    「綿毛ちゃ〜ん、綿毛ちゃ〜ん」

     資料を増設した書架から出していると、皆から婆やと呼ばれている最古参の家僕の声がした。戸を開け、まだ姿が見えない彼女を迎えに回廊を行くと、本邸に続く橋を歩いているところだった。手には菓子箱らしいものを持っている。

    「婆や」

    「まあ、相変わらず耳がいいわねえ。ほれ、お菓子をいただいたから、お茶を淹れてちょうだい」

     茶器を一式四阿に持ち入れると、婆やとのお茶会が始まった。菓子は雲夢の小さな商家が差し入れたという栗の餡入りの饅頭だった。江澄がひとつ取ったあと、他の家僕や藍渙と分けて食べるようにと婆やに持たせてくれたそうだ。今日、彼は一日会合や挨拶で忙しい。触れ合えないのは寂しいけれど、彼の心遣いに胸が温まる。

    「弟さんが来たんだって?」

     饅頭を少しずつ千切って口に運ぶ婆やが言った。

    「うん。お互いにね、最近のことを話したよ」

    「あらそう。寂しがってなかった?」

    「寂しがってた……かな。悪い話は聞かなかったけど」

    「そりゃあ貴方、病気のお兄ちゃんには聞かせないでしょうよ」

    「そうか……でも、忘機は私なんかよりずっと優秀だから。良い旦那さんもいるし、ほんとうに大丈夫じゃないかな」

    「良い旦那、ねえ……」

     ふたりは、どれどこの菓子屋の餅がうまいとか、あの門弟の嫁が三つ子を産んだとかたわいない世間話を茶が冷めるまでした。それから、藍曦臣は文机と資料を日当たりのよい書斎前の濡れ縁まで運び、ようやく仕事に取り掛かった。
     雲深不知処から送られてくる仕事は、姑蘇藍氏宗主としての立場が消えないようにと、叔父が苦心して選んでくれたものだ。かつて携わっていたような責任の重いものではないが、向こうで働く者が、ふとしたときに自分の存在をしかと意識するような。向こうはなにも言わないが、藍曦臣はそうとわかっている。

     ──いっそ、こんな自分なんか捨て置いてくれたらいいものを。

     藍曦臣はそう思って、こんな自分なんかを見捨てずに何年も支え続け、見守ってくれている家族へのひどい気持ちに吐き気がした。彼らの気持ちに応えるべく、早く元どおりにならなければならないのに──しかしそう思えば思うほど、理想と乖離した自分に嫌気が差してどうにもならなくなる。
     この簡単な仕事だって、私はきちんとこなせているのだろうか? よもや、いろんなことを見落としてひどい仕上がりになっていて、向こうで叔父がため息をついて直しているのではあるまいか? 宗主の不出来さを嘆いて、門弟が恥じているのではあるまいか──あっと思ったときには墨を垂らしていて、藍曦臣は顔を歪めて紙をくしゃくしゃに丸めた。床に放り捨て、また新しい紙を机に乗せる。
     そうしてなんとかひとつの仕事を終えたときには、もう西の空が赤く染まっていた。吹きつける冷たい風に藍曦臣は身震いして、慌てて文机と資料を私室に戻した。
     悴んだ手を擦り合わせて、ため息をつく。気温が下がったことにも気づかず、自分の不出来を嘆き続けていたのか、私は。陽が落ちる前に完成させようと計画していた講義用の資料に手も着けられなかった。

    「この阿呆め……」

     そう呟いたところで時間は戻らない。藍曦臣はため息を何度も吐きながら、再び仕事を文机に広げた。江澄からは、必ず向こうの仕事を片付けてからこちらの仕事をすること、と言い付けられている。講義のための仕事は好きだが、優先することは許されない。
     やっとのことで期限が迫った仕事を終わらせると、もう夜は更けていた。目の奥が痛くて、肩が重くて、腰が痺れていた。藍曦臣は机上のすべてを書架や箱に押し込み、行燈を持って外に出た。そしてまだ本邸の方がいつもと違う声で騒がしいのに気づいて、明かりを置いて犬になった。
     回廊を歩いていくと、やはり人通りは多く、運河にもたくさんの船が浮いていた。灯篭があちこちで強い光を放ち、江澄への面会が済んだ者たちの疲れた顔を煌々と照らしている。
     犬曦臣は隅の影になっているところを渡り歩いたので、小さな毛むくじゃらに気づく者はほとんどいなかった。犬一匹いたところで皆なんとも思わないだろうが、このような日は見つからないように息を殺して歩くのが癖になっている。
     犬曦臣は江澄を探している。彼が仕事をしているのを眺めるのが好きだった。大門が開いていない日でも、犬曦臣は度々わざと犬になって物陰から彼を観察していた。

     ──江澄。

     試剣堂に彼はいた。蓮花の意匠の椅子に根を張るようにどっかりと座り、商人らしい団体と面会している。彼らは江澄に何か懇願しているようで、手を振り足を踏み込み、必死に熱弁している。江澄は不機嫌そうに眉間にむっつりと皺を寄せ、しゃべる商人を睨みつけていた。
     そのうち言い終わった商人たちは、そんな江澄の様子に、花が萎むように肩を丸めて口を噤んだ。すると、江澄は顎に手を当ててほんの数秒思案すると、彼らにいくつか質問をしだした。商人はときおり詰まりながら答えていった。彼らの緊張が、床を這って犬曦臣に伝わってくるようだった。
     結果から言うと、商人たちは満面の笑みで試剣堂を出ていった。要望が通ったようだ。
     江澄に対してはったりをかまそうとしたり、無茶な要求を平然と通そうとする者を彼は容赦なく追い出すが、彼らのように正直で誠意ある者たちには厳しくも優しく、ときには寛大な対応を取る。雲夢における秩序が保たれた発展の礎だ。
     犬曦臣は商人たちの足元をすり抜け、堂内へ入った。

    「……終わりか?」

    「終わりです」

     端に控える書記官が答えた途端、江澄は深いため息を吐いてかっくりと頭を落とした。尻がどんどん前に滑り、長い足が大股に開かれて投げ出されている。犬曦臣はその足を橋にして駆け上がり、江澄の懐に収まった。彼はすぐに両腕で持ち上げて、頭に頬擦りをしてくれた。

    「阿渙……長い一日だった……」

     私にとっても、と犬曦臣は彼顎下を舐めた。朝に抱擁を交わしたばかりなのに、こうして嗅ぎ取る江澄の香りは懐かしい。心が安らいでいく。自分に対する失望が、彼の手のひらによって削ぎ落とされていく心地がする。
     そうして江澄の胸に体を預けていると、彼はぐうっと腹を鳴らした。

    「よし、飯だ。阿渙、貴方は?」

     来訪者のすべてが大門の外へ出たのを確認して、犬曦臣は人に戻った。ぐっと背伸びをしてから腕を下ろすと、江澄に見られていた。みっともない仕草だったかと藍曦臣が袖を整えると、彼は言った。

    「息苦しくないか」

     江澄の顔は背後の灯篭の逆光になっていて、その表情はよく窺い知れない。それに問いの意図がわからなくて、藍曦臣は首を傾げた。

    「苦しくないよ」

     そうか、と曖昧に頷いた江澄は食堂へ歩いて行った。藍曦臣もそのあとを付いていく。漂ってきた食事の匂いで、昼食を食べ損ねたこと、腹は鳴らずとも減っていることを思い出した。ひとりでいると、感情や体の感覚に鈍感になっていけない。
     斜め前を行く江澄に目をやると、彼も夕食の匂いを嗅ぎ取ってほんの少しだけ口角を上げていた。今日は特段に来訪者が多くて忙しかっただろう彼は、きちんと食事をし、少しでも休息を取れただろうか? これからの夕食は何をたくさん食べたい? 藍曦臣は彼の隣に並び立ったり、食堂の卓で向かい合わせで座ったりして、江澄とたくさん話をしたかった。しかし、藍曦臣が人の姿でそうした途端、彼の上機嫌な唇は、錘を先に付けられた木の枝がしなるように曲がってしまうだろう。彼が好きなのは犬の阿渙で、責務から逃げている藍渙ではないからだ。
     食堂は賑わっていたが、いつも一緒に食事をしてくれる子どもたちはもういなかった。江澄は一番弟子たちの姿を認めてそちらへ向かっていた。藍曦臣はまだ彼に付いていくか迷い、そしてやめた。彼らの楽しい時間を邪魔したくなかった。ひとりで座れそうな卓を探して視線を彷徨わせる。

    「藍渙!」

     突然、江澄が食堂中に響き渡るくらいにそう叫んだので、藍曦臣はびくっと肩を震わせた。声の方を見ると、彼は腕を組んでこちらを睨みつけていた。まるで、おてんばの子どもたちを叱るような顔つきをしている。

    「そんなところで立ち往生するんじゃない。邪魔だろうが。さっさとこっちに来るんだ」

     藍曦臣は顔を上げ、さっと卓の間を通り抜けて江澄のもとへ急いだ。彼と一緒に食事だなんて、いつぶりだろうか。きっと彼は門弟とおしゃべりしながら食べるだろう。そんな彼の楽しげな声を聞きながら美味しいものを食べられるなんて、まったく良い気分だ。
     江澄に追いつくまで、彼はそこで待っていた。そして、藍曦臣がすまない、と謝ると、江澄は表情を緩めた。

    「貴方がどれだけ食うようになったか、見てやる」

     そう言われたので、藍曦臣は張り切って皿に料理を盛った。水以外のものが喉を通ることすらどこか不快に感じていた日々はもう遠く、「食べる練習」に根気強く付き合ってくれた子どもたちのおかげで体格に見合う量を食べられるようになっている。それに今日は、特に気に入っている料理がいくつも並んでいて、あれもこれもと手が伸びた。
     卓に着くと、さっそく江澄と門弟のおしゃべりが始まった。彼らの会話は早口で応酬も忙しないので、今の藍曦臣には聞き取るだけで精一杯だ。調子に乗って盛り過ぎてしまった料理を口へ運びながら、聞き耳を立てている。

    「だからつまり、校舎をどうする」

    「思い切ってまとまった土地買います? 空き家空き地じゃ足りないでしょう」

    「利益が出るまで何年かかる? 五十年か」

     今彼らが話しているのは、市井の民へ向けた学舎建設についてだった。仙術の才がある者や、裕福な生まれの者のみが学や武術を持つ状態では雲夢の発展に限界が見えるために、まずは雲夢に住まうあらゆる若者に教育を授ける計画を立てているという。教鞭を取るのは、怪我や病気のために前線を降りた門弟や馴染みの僧侶らしい。
     江澄が率いる雲夢江氏の仕事は、一世家とは思えないほど多岐に渡る。雲夢の発展のために、できることはすべてやる気概だ。陳情解決と夜狩、それに学問の研究が主な生業の姑蘇藍氏とは、民との関わり方がまったく違う。話を聞いていると、いつも興味深いことばかりだ。
     この会話は座学の参考にさせてもらおう、と藍曦臣は彼らの一語一句を記憶しながら柿を頬張っている。多過ぎたように見えた料理も、食べたいままに食べていたらすっかりなくなった。少食に悩むどころか、これからは過食に気をつけなければならなそうだ……と、ふと左から視線を感じて、藍曦臣は頬を膨らませたままそちらを向いた。
     江澄は気だるく頬杖をつきながら、食後の茶を飲んでいた。目が合うと、彼はぎくりと肩を揺らして姿勢を正した。

    「あー、んー、よく食べるようになったな。うまいか」

     江澄の眉間には深い皺があって、口元は歪んでいた。小犬の可愛い阿渙でいるときには見ない表情に、藍曦臣の胸はやはり冷たく強張るが、それでも気遣ってもらえることが嬉しかった。

    「うん、おいしい」

     藍曦臣は笑った。ここにいることが、江澄のそばにいられることが、どれだけ自分にとって幸福か示すために。彼にとっても私がそうだったらいいのに、と藍曦臣は思う。

    「そうか。なら、いい」

     そうとだけ言って、江澄は盆を持って行ってしまった。藍曦臣は俯き、残りの柿を口に放り込んだ。果肉の中に紛れ込んでいた小さな種が歯に当たり、もごもご頬を動かしている。

    「綿毛センセ」

     そう呼んだのは、陳欣妍という女修だった。彼女には、出先で使えるような簡単な薬草学を請われて教えたことがあった。

    「ウチの宗主、ほんとどうしようもないね」

     と、陳は眉を下げてへらりと笑った。元々垂れた目尻がさらに落ちている。彼女の言うどうしようもない、が一体彼の何を指しているのか藍曦臣はまったくわからなくて、いいえ、と返した。

    「いいんすよ、別に。失礼なやつって怒ってくださっても」

    「えっと、あの、なぜですか」

    「え? いや、だって……」

     と、彼女は首を傾げると、今し方食堂を出て行った宗主の背中を目で追い、そして藍曦臣へ戻した。その丸く見開かれた目に居心地の悪さを感じて顔を卓に戻すと、なんと陳は卓に這いつくばって顔を見上げてきた。思わずわっと声を出すと、彼女は目を狐のように細めてにんまり笑った。

    「ね、綿毛センセ。あたし今日いいもんもらったんです。ちょっと付き合ってくださいよ」

    ⭐︎

     入浴場から出た江晩吟は、濡れた髪を布巾で拭いながら回廊を歩いていた。酒を飲みたい気分だった。おそらくもう寝床に入っているだろう李天佑でも叩き起こして付き合わせようか、と考える。すると、私邸前の橋で彼は樽と杯を持って待っていた。

    「気分かと思いまして」

     彼のそういうところが好ましかった。
     江澄は李天佑を寝室前まで連れ、濡れ縁に座らせた。そして牀榻の下から魚の干物を取り出して投げてやると、彼は、やりい、と言ってすぐにしゃぶり出した。年々遠慮がなくなっている。江澄はすでに注いであった酒を、我慢できずに座るより前に啜った。美味だ。

    「そんなにままならないですか、恋って」

     と、柱に寄りかかって片膝を立てる李天佑が言ったので、江晩吟は二口目の酒をぶっと吐き出した。口元と床を布巾で拭いながら彼を睨みつけるが、彼はまったく気にしない様子で蓮花湖を眺めている。

    「私には知らん感情なもんですから。貴方だってそんなふうになっちゃうんだって、不思議なんです」

    「そ、んなふう……っ?」

     江晩吟は吃りながら布巾をくしゃくしゃに丸めた。李天佑は干し魚の頭を噛み砕いている。

    「いつでもどこでも気になってしまうとか、近くにいたら姿を見ずにいられないとか、なのに面と向かって顔が見れなくて露骨に嫌な態度を取るとか」

     果たして、俺はそんなふうだったのだろうか? 江晩吟はここしばらくの自分の様子を思い出し、さらに李天佑が心底不思議に思ってどうしようもない男の姿を羅列しているような表情を見て、そうなのだろうな、とあぐらをかいて項垂れた。

    「どうにかするって息巻いてた宗主がどうにかできないの、初めてじゃないですか。綿毛ちゃんって、そんなにすごいんですか」

     江晩吟は杯の酒を一気に煽り、口に含んだまま二杯目を注いだ。口の中身を飲み込んで杯を煽る。それを何度か繰り返すと、李天佑が呆れた声で言った。

    「これ、めちゃくちゃ良い酒ですよ。出回る前のを、くれたんですよ」

    「あの人がすごいんじゃない。俺がおかしいんだ」

     李天佑は少しずつ酒を舐めながら、宗主の干し魚も平然と手に取って食べ始めた。彼は酒よりも、共に食べるつまみを好む性だった。

    「でしょうね」

     と言って李天佑が笑ったので、江晩吟は彼が咥えていた魚を折って取り返した。

    「俺が聞きたい。なんでだ? 現実から逃げて犬になるような男だぞ。ほとんどの仕事を放り投げて構えとまとわりついてくるような男だぞ。どこに好きになる要素があるってんだ?」

    「顔?」

    「男に顔もクソもあるか」

    「あるから顔がろくに見られないんでしょ」

    「くそったれ……」

     江晩吟は酒樽を抱え、丸まって寝転んだ。目をぎゅうと瞑ると、抱き上げてやった小犬の安心しきった顔や、好みの料理を口いっぱいに詰め込んで微笑む横顔、おいしいと言う満面の笑みが巡り、そしていつか物陰から見えた、寂しそうに俯いて、涙を流すように細いため息をつく彼の姿が思い起こされた。
     目をかっ開いて起き上がり、酒樽に直接口を付けると、あーあーと呆れた李天佑が片肘を付き、頭を支えて寝そべった。いつの間にか新しい干し魚を取ってしゃぶっている。
     江晩吟は股の間に酒樽を抱え、月明かりを映す水面を眺めている。

    「あの人は一体なんなんだ? どうして類い稀なる才能を持ちながら、あそこまでぐずったれになれる?」

    「貴方が何も言わずに可愛がるからでは?」

    「なんで俺はあんなぐずったれを可愛がってる?」

    「好きだからでしょう」

    「どうして俺はあんなやつ」

    「恋って不思議ですね」

     江晩吟は干し魚の尻尾までバリバリ音を立てて噛み砕き、そして飲み込んだ。細かい骨の粒が喉を滑っていく感覚に顔を顰める。

    「別に、いいんじゃないですか」

     と、李天佑は腹を掻きながら言った。

    「綿毛ちゃんのこと可愛がるのは楽しいんでしょう。可愛がってたらいいじゃないですか」

    「はあ?」

    「綿毛ちゃんがいると機嫌良いし、貴方。好きでいたらいいじゃないですか、どうとでも」
     
    「テキトウなこと言いやがる」

    「貴方が蓮花塢と金凌坊ちゃん第一なのは、何があっても変わらんでしょう。好きになるものくらい、自由にしてください。ふふ、これが正妻の余裕ってやつか」

     好きでいたところでいつか彼は故郷に帰り、それなりに名のある家の宗主同士として付き合うだけなのだが、と江晩吟は思った。
     李天佑は大きなあくびをして、涙が滲んだ目を擦っている。

    「他に生涯の良人が欲しいなら、私が貴方にもっとふさわしい美人を探してきます。きっと貴方の理想どおりの、綿毛ちゃんなんかすぐに忘れちゃうくらいの良い人」

    「おいおい、言ったな?」

    「ええ、東西南北駆けずり回って差し上げましょうね。近場で探してるからだめなんです、きっと」

     それもいいかもしれんな、と江晩吟は思った。好きでいても仕方のない人を忘れるには、好きでいていい人をまた好きになればいい。そんなにすぐ人やものを好きになる性でもないのだが、そう思えばあの人を心行くままに適当に可愛がって、別れのときが来たら、誰か別の人を──

    「宗主」

     気づくと、起き上がった李天佑が微笑んであぐらをかいていた。

    「ふふ、貴方が恋だって……すてきじゃないですか。大事にしてください」

    「するだけ無駄だ」

    「そんなことありません。やりようはいくらでもありますよ」

     やりようをいくらでも思いつけるような、好きになったらだめな人はすぐに心から追い出せるような、そんな器用な頭があったらなあ、と江晩吟は樽に口をつけた。たぶん俺はこうなってしまったら、あの人が帰ったあとも気にし続ける。あの人がこの腕を必要としなくなっても、いつまでも。
     そう、多少は酔いが回ってきた頭でつらつら予感した江晩吟は、まだ自分の心に柔らかい部分が残っていることを不思議に思った。伴侶は然るべき人物と契約して得るものだと考えていても、これ以上大切なものを抱えるなんてごめんだと思っていても、この心はまだ恋をするのだ。

    「綿毛ちゃんがいつまでも回復しないようだったら、うちの子どもたちの教育係兼宗主の飼い犬として正式に引き抜いてもいいし。あちらさんも喜ぶのでは」

    「くっく、いいのか。あの人のこと嫌ってただろう」

    「役に立つものは好きです」

    「馬鹿野郎、よその宗主だ」

    「じゃ、貴方もちゃんと面と向かってお話ししてあげなきゃ。この調子じゃ綿毛ちゃん、悲しくていつまでも小犬のままでしょうね」

    「だが胸が痛くて」

    「恋の痛みって鎮痛剤効くんですかね」

     そのようなことをつらつら話していると、本邸の方がなにやら騒がしくなっていた。どこかの馬鹿どもが喧嘩でも始めたか、と江晩吟は酔いを含んだ頭を振って叱りつける準備を始めたが、

    「江澄! 江澄どこ──!!」

     と、例のあの人の大声が聞こえたので、空になった酒樽を蹴っ飛ばしてそちらへ走った。悪い予感がした。

    「あっ! 江澄っ! 江澄っ!」

     橋の向こう側の回廊を、藍曦臣が灯篭の火を掻き消しそうなほどのものすごい速さで走っていた。両手を上げ、跳ねるように足を動かしながら満面の笑みでこちらにやってくる姿は、まるで精神だけ幼児に戻ってしまったみたいで不気味だった。その後ろを、門弟がひとり──陳欣妍が追いかけている。

    「なんだってんだ……」

     江晩吟は足を止めて振り返り、元来た道を戻ろうとした。もし捕まったらとんでもない目に遭う確信があった。心地よかった酔いはとっくに覚めている。宗主を追いかけてきた李天佑の顔も青ざめて引き攣っていて、お互い目が合うなり一緒に駆け出した。

    「ごめんなさい、宗主、ごめんなさい! あたしのせいなんです!」

     と、陳欣妍の叫び声を聞いたときには、江晩吟は藍曦臣に飛びかかられ、押し倒されていた。尻を彼の膝に押さえつけられ、背中には両手が乗っている。

    「うふっ! 捕まえたっ! えへへ江澄、追いかけっこなんて久しぶりだねっ」

     宗主──! と門弟の悲鳴を聞きながら、江晩吟は頭の血管が何本もぶちぶち切れていくような錯覚を味わっていた。呑気に恋を語っていた自分への恥ずかしさと怒りで、目の前が赤く染まっている。

    「クソ野郎がッ!」

     江晩吟は起き上がって藍曦臣の足を払うと、その腕を掴み、喉に腕を押し当て、仰向けに押し倒した。腹に乗り上げて動きを封じ、ぽかんと口を開ける彼をキッと睨みつけて見下す。

    「おい藍曦臣、貴様、よほど手錠付きで姑蘇に帰りたいようだな──」

     そう言ったのと、藍曦臣が真っ赤な顔を歪めてひっく、と喉を鳴らしたのは同時だった。彼はもう一度ひゃっくりをすると、みるみるうちに瞳に涙の膜を張り、そして「ふええ」だか「ふいい」だか声を漏らして泣き出してしまった。

    「ひっく、ごめんなさい、いい子にするからいっしょにいて……」

     その藍曦臣にあるまじきくしゃくしゃの顔に呆気に取られた江晩吟はしかし、彼の奇行を警戒して力は緩めなかった。何かに取り憑かれている可能性がある。
     そして江晩吟は紫電をぱちりと瞬かせたが、その手を止めたのは陳欣妍だった。

    「あたしが酒を飲ませたんですっ」

     ──酒? 江晩吟はぽろぽろ涙を流す藍曦臣に視線を戻した。彼の頬は内側から血が滲むように赤く、目は潤んでいる。普段はまっすぐな眉が、いじらしく歪んでいる。

    「江澄……ごめんなさい、阿渙もきらいになってしまった……?」

     その声はまるで庇護者から突き放された哀れな幼子のようで、謂れのない罪悪感に気分を悪くした江晩吟はその体から離れた。しかし藍曦臣は寝転がったまま、両腕を上げてこちらを見つめ続けている。すん、すん、と鼻を啜りながら、くっと腰を反らせて腹を晒している。
     腹の奥底が急に熱くなった江晩吟は、思わず背後の陳欣妍を押すようにして後退りした。きょとんと目を丸くした藍曦臣が身動きする。

    「な、貴方、一体どうした──」

    「やだ、きらいにならないで……っ」

     そう言って起き上がった藍曦臣は、四つ足をついて江晩吟を追いかけてきた。そして足に縋りつき、膝を爪先で引っ掻いてくる。その仕草に既視感があった。彼が、もっとずっと小さな体で──

    「ね、宗主。いつもみたいに撫でてあげてください。今、彼は綿毛ちゃんなんです」

     陳欣妍は苦笑いしてそう言った。いつもみたいに。江晩吟は彼女の言葉の意味を再三考えて、そしてとうとう腰に抱きついてきた藍曦臣を見た。尾てい骨に指先が触れたせいで腰が抜けそうになる。

    「江澄」

     溶かして熱した砂糖みたいな色をした瞳が、川の水面のように揺れている。そこを縁取る長いまつ毛から涙が滴って、艶やかに火照る頬に垂れていく。ほの赤い唇が、触れるのを乞うようにふっくらと歪んでいる──こんな男を、いつもみたいに?

    「江澄……おねがい、阿渙のことはすきでいて」

     濡羽色の髪がさらりと肩を滑っている。江晩吟は気づくと、その髪を一房掬っていた。見た目よりも太く、硬い毛質をしている。綿毛とは到底表現しない髪だ。

    「……いいか、阿渙」

     そう呼ぶと、藍曦臣の瞳がきらりと光った。江晩吟は、その前に彼の髪を持ち上げてやった。

    「これは貴方の髪の毛だ。黒くて真っ直ぐだな」

    「うん」

     江晩吟は腰に巻き付いた右腕を外し、同じように彼に見せてやった。

    「これは貴方の手だ。五本指で、肉球はないし、毛むくじゃらでもない」

    「うん」

    「下を見ろ。ほら、服を着ている」

    「うん」

    「尻を触ってみろ──そうだ、尻尾はないな」

    「うん」

    「で、貴方は今、言葉を喋っている。とどのつまり、貴方は今人間なんだ。犬の阿渙じゃない」

     そう言い切って藍曦臣から離れると、彼は目をぱちぱちと瞬きながら首を傾げた。その顔は、小さな綿毛の阿渙がまだ姑蘇にいた頃、今日の遊びはおしまいだ、と伝えたときとそっくりな顔をしている。小犬は何度そう伝えても、同じ顔をして足元にじゃれついてきた。

    「藍渙、わかるだろ」

     藍曦臣はにっこりと笑った。

    「うん、あのね、もっとさわってほしい」

     とどのつまり、酒に酔った彼の中では、人の姿でいることも言葉を話せることも、犬の阿渙であることとまったく矛盾がないのだった。

    「藍渙……」

    「だっこ」

     触られたのに気分をよくしたらしい単純な藍曦臣は、両手を広げて目を細めた。こんなに大きな図体でも飼い主の胸に簡単に収まると、信じて疑わない顔をしている。そんなこと、できるはずがない。
     と、江晩吟の肩に李天佑の手が乗せられた。

    「宗主、そんなに鼻息荒くして耐えんでも」

     は、と彼の方を向くと、李天佑は生ぬるい目付きに無理やり口角を上げた顔でこちらの顔を見上げていた。

    「私らはもう戻りますんで、あとはおふたりでどうぞ──ね、今、やつは貴方のお気に入りの綿毛ちゃんですよ。気落ちした成人男性じゃない。いつもみたいにしてやったらよろしい」

     そして江晩吟は、やけにうるさいと煩わしかった雑音が自分の荒い鼻息であり、そして胸の鼓動だとやっと気づいた。息苦しいのは、胸が締め付けられているからだ。
     重症だ、と江晩吟は思った。自分をいたいけな小犬だと思い込んでいる男を見て、気持ち悪くならない自分が。そうだ、どうせ終わるとわかっているならもうめちゃくちゃにしてやろうじゃないかと、自棄になりかけている自分が。

    「江澄……やっぱりだめ……?」

     藍曦臣の瞳から、先ほどの名残りのような涙がほろりと頬へ転がった。小さく震える唇が、もう一度名前を呼んで自分を乞う。
     江晩吟の右手の人差し指はその雫をそっと掬い、指の腹で熱い頬に擦り付けていた。藍曦臣はほうっとため息をつくと、目尻をもっと濃く染めて頬を持ち上げた。そして首を傾げて手に擦り寄ってくる仕草は、愛されるに慣れた者そのものだった。
     江晩吟は、それが幼少からの彼の人生を表しているのか、それとも自分がこの胸に抱き、甘やかし続けたからこそ現れたものなのか考えて、後者であったらどんなにたまらないだろうかと、口角を歪に持ち上げた。
     ああ、せっかくの酔いが覚めてしまった、きみは一体なにを飲ませたんだ、という主管の声を背後に、江晩吟は膝をついた。そうさ、やつの言うとおり、好きにしたらいい。この子は阿渙だ。

    「阿渙」

     ごくり、と唾を飲み込む音がやけに耳についた。両手を持ち上げて目の前の男の顎下をくすぐり、そして髪に指を差し込むようにして後頭部に手のひらを当て、軽く擦った。触れた地肌は犬よりもぬるく、そして厚くて柔らかい。阿渙は顎を上げ、くく、と鳴らした。笑っている。

    「江澄、すき」

     阿渙の言葉に、江晩吟の腰から脳天までが一気に痺れた。その痺れが伝わって震えるような手は、阿渙の肌を滑って首に触れ、そして頬に触れた。
     自分自身に「好き」という感情を向けられたのは、阿凌に五歳と三ヶ月と十二日目の夜に「じうじう大好き」と言われたのが最後だった。それがまさか、この人に更新されるとは、この世の誰も思うまい。

    「もっとして、ぎゅってして」

     彼のそれがいつか意味のないものに──それどころかお互いの立場にとって有害なものになっても構わない、と江晩吟は思った。太ももに乗り上げてきた尻の重さも、首に巻き付いてきた腕の太さも、それらがただ今だけは、自分のものであったから。

    「いいこってして」

     阿渙の顔は、もう鼻先どうしがくっついてしまいそうなほど近くにあった。頬は涙と汗で湿っていて、両手で包むとしっとりと吸い付いてくる。へへ、と彼が笑った振動が伝わって、手のひらがいっしょに揺れている。

    「俺に飛びかかって押し倒した犬がいいこだって……?」

     そう囁きながら耳を指で挟むと、阿渙はぴくりと肩を揺らした。下唇を噛んでわずかに俯き、ふう、ふう、と鼻息を荒くしている。くすぐったがりだ。耳たぶを軽く引っ張ると、ようやく口を開いた。

    「ぁう、ごめんなさい、だって……っ」

    「だって……?」

    「きみがすき」

     阿渙がいつ正気に戻るのか、それとも眠ってしまうのか、江晩吟の頭の隅に懸念はもちろんあった。それでも、それまでに何度、彼から自分への好意を示す言葉を聞けるのか、ただそればかりを考えている。翌日絶対に後悔すると確信していても、今の快楽を優先して酒を浴びるのと同じように、彼の声が鼓膜を揺らして、この胸の感情と共鳴することを望んでいる。

    「がまんできない……したくない、江澄」

     阿渙はそう言って江晩吟に抱きつき、鼻をすんすんと鳴らして首元の匂いを吸ってきた。息が肌を撫で、それに唇らしい感触がさっと擦り付けられるものだから、江晩吟はあっと声を漏らして彼の胴に腕を回して縋り付いてしまった。

    「江澄……江澄、きみってば、いつもいいかおり……」

     そう言ってから、ぐるる、とまるで獣のように鳴った喉の音が気のせいだったのかそうではないのか、江晩吟がほんの少し気を取られているうちに、阿渙はその身を床に押し付けていた。体をひどく打ち付けるように押し倒して怒鳴られたのが効いたのか、彼は抱き寄せたままそっと横たえたので、江晩吟は冷たい床が背に付くまでちっとも気づかなかった。そうしてぽかんと口を開けているうちに、阿渙は腰に跨って胸に両手を置いてきた。感触を確かめるようにぐっと手のひらが押し込まれ、息が詰まる。阿渙は満足げに笑っている。

    「江澄、江澄、すきだ」

     阿渙は覆い被さってきた。頬や額を胸に擦り、押し付けてくる。江晩吟はそのたびに呼吸が荒くなって、衝動のままに彼を掻き抱いた。
     好意を持ち合ったふたりでこのような体勢を取ることが一般的になにを指すのか、江晩吟はもうわかっていた。少年時代に仲間たちと方法と作法について話し合ったとき、姉とその夫の佇まいがあきらかに変わったと気づいたとき、元義兄が雑談に交えてそれとなく自慢げに仄めかすとき、いつか自分も誰かとそうなるのだと信じながら、一方でこんな自分なんかにそんな「すばらしい体験」を分かち合える人など現れるはずがないと諦めている行為の、はじまり。

    「阿渙、あ……っ」

     阿渙は、ついに首を舐めてきた。熱くて唾液で滑っているそれは、首の筋をなぞって喉仏にぴったりとくっついた。江晩吟は、その舌が肌に付き、そして離れるたびに啜り泣くような声を漏らして背中を浮かせた。どれも、体が勝手にそうするのだった。阿渙が痕が付きそうなほど歯を立てても、江晩吟はそのままでいた。鳥肌が立つほど気持ち良い。
     小さな小犬も、舐めたり噛んだりするのが好きだった。躾なければとわかっていても放置していたのは、もしかしたら彼に歯を立ててもらいたかったからかもしれない。小犬とこの男は別だと自分に言い聞かせなければならないほどずっと前から、とっくに彼とこういう触れ合いがしたかったのか。一体いつから?

    「ん、ん、阿渙、こら、阿渙……ああ!」

     阿渙は右耳を噛んだ。耳から脳みそまで直接舐められたような感覚に襲われた江晩吟は、一際大きな声を出して仰け反った。

    「ふふ、ふふ、江澄、なんでだろう、きみにこうするといつも、くちがきもちいんだよ」

     そう言う阿渙は上機嫌で楽しそうに、大きな口を開けて顎をがぶりと噛んできた。そして傷を労わるようにぺろぺろ舐めてきたと思えば、くすくす笑いながら体重をかけてのしかかってくる。自分の図体をとんと気にしない阿渙は、江澄、江澄、と呼びながら、頬を江晩吟のそれに擦り付けた。
     阿渙の笑い声は、小犬が遊ぶときに興奮して鳴くかふかふ、という声の調子にそっくりだった。江晩吟は下衣のあらぬところをすでにほんの少し濡らしていたが、それですうっと体の熱が冷めていった。気づけば、阿渙の手つきや唇、舌先は小犬のじゃれあいとまったく同じ意味を持ってこの体に降り注いでいるのだと、ありありと感じ取れる。
     江晩吟の体は欲情が立ち消えたせいでぽっかりと穴が空いていた。その穴がいま、自分ただひとりに空いているという虚しさは、阿渙を抱いた腕を床に落とすには十分だった。
     消えたぬくもりを探して阿渙は起き上がった。なにも考えていないような瞳が、きょとんと丸くなって江晩吟を見つめている。

    「江澄? さんぽいく?」

     江晩吟は目を瞑って深いため息をついた。体の中の空気が一切なくなるくらいに細々と吐き切って、阿渙から顔を背ける。その視界に、なぜか小さな紫色の鞠が転がっていた。阿渙が持ち歩いていて、なにかの拍子に転がり出たのだろう。ずいぶん気に入っているとは知っていたが、人の姿でも懐に忍ばせているとは。

    「いや。もう遅いから散歩はしない。これを投げてやろう」

     そう言って鞠を手に取ると、阿渙はわっと声を上げて起き上がった。そのとびきりの笑顔を追い越すように、江晩吟は鞠を放った。翻った阿渙が廊下を駆けていく。大きな男がどんどんと足を踏み鳴らして鞠を追いかけ、最後は床に手を付いて飛びついた。そして両手で掬い上げて丁寧に口に咥えると、目を細めて戻ってきた。

    「ふへ」

     と、江晩吟は笑った。阿渙に掴まれたせいで寄れた胸襟をそのままに突っ立っている。

    「ふへへ」

     あんなやつに触られたり舐められたりしても、もう二度と気持ちよくなったりするもんか、と江晩吟は思った。そう思いながら阿渙から鞠を受け取り、また投げてやる。飛び上がって鞠を追いかける彼の背中をじっと見つめた。あの滑稽な様子をあと何度か目に焼き付けたら、きっともう彼のことをそういうふうに好きだなんて思わないだろう。

    「そら阿渙、今度はこっちだっ」

     そういうわけで、江晩吟は私邸のそこらかしこで鞠を放ったり、阿渙の前を走って追いかけさせたりした。彼は久々に遊べたのが心の底からうれしかったのか、男の声で構わずきゃあきゃあ声を上げてはしゃぎ続けた。鞠が扉に当たれば、阿渙は怯まずに突っ込んで縁ごと部屋の中に押し倒して破壊したし、湖の方へ転がれば、追いかけて勢い余って落下してびしょ濡れになった。

    「ぎゃはは!」

     江晩吟が腹を抱え、阿渙を指差して大笑いすると、彼も声高々に笑いながら濡れ縁に這い上がった。そしてそのまま走ってきて腰に抱きつかれる。冷てえこの馬鹿、と江晩吟が怒鳴ると、阿渙はうふふ、うふふ、と笑って水草が付いた頭を腹に擦り付けてきた。江晩吟の寝衣もすっかり濡れて肌にへばり付き、所々白地の布に肌色が透けている。阿渙の歯が横腹に刺さった。

    「こらっ、この駄犬め!」

    「んふ、おいしそう」

    「何がだ」

     江晩吟は阿渙の髪を掴んで引き離した。くうん、と鼻を鳴らしそうに床に座り込んでいる阿渙を見下ろして、噛まれた腹を摩る。そこまでひどく力を込められたわけではないのに、じんじんと脈打って熱かった。

    「……俺はもう寝る」

    「ヤダッ」

     いやあ、まだ遊んで、と床に転がって駄々をこねる阿渙を放って、江晩吟は新しい寝衣に着替えた。阿渙は床に水を擦り付けるように暴れていたが、江晩吟が無視して寝室に入ると、すんすんと鼻を啜りながら当然のように敷居を跨いできた。

    「おい、自分の部屋で寝ろ」

     阿渙はきょとんと首を傾げていた。小犬のときに何度かここで昼寝をしたことがあったから、今も許されると思い込んでいる。彼はえへへ、と笑って牀榻に乗り上げた。

    「おい! 濡らすな!」

     果たして江晩吟は牀榻の上で、全裸になった藍曦臣の丸まった体に沿うように、体を曲げながら仰向けに横たわっていた。窓から差し込む月明かりは、藍曦臣の安らかな寝顔と、くしゃくしゃに脱ぎ捨てられた衣服や抹額を青白く照らしている。彼の寝息がやけに耳について、江晩吟は一向に眠れない。

    「くそったれ……」

     江晩吟は両手で顔を覆った。酔っていた、で済まされる惨事だろうか、これは。自分を犬だと思い込む藍曦臣を一目見たときにはもう酔いは覚めていたと思い込んでいたが、そうでもなかったらしい。それとも、酒などと理由をつけなくても、そもそもふたりそろって頭がおかしいのか……しばらく考えたあと、今考えたところで無駄だと気づいた江晩吟は、腹の上で祈るように手を組んだ。

    「じゃんちょん……」

     藍曦臣の囁きに、なんだ、と返そうとした江晩吟は、眠り続ける彼にぎゅうと抱き寄せられた。彼の片足と片腕が体に跨っている。くふ、くふ、と笑う藍曦臣は、夢の中でまだ飼い主と遊んでいるらしい。
     太ももに彼の性器らしいものが当たっている。首元が寝息に吹かれている。腕と足はずっしりと重い。江晩吟の背筋にぞくぞくと悪寒みたいなものが走って、そしてそれは体の奥底で熱になった。

    「くそったれ」

     江晩吟は目を閉じて首を傾け、藍曦臣の濡れた頭に頬を付けた。動き回ったせいで熱っていた体の体温はゆっくりと下がっていて、今は心地良い人肌がそこにある。
     心地良いと感じることを、そしてまた下衣を少しだけ濡らしたことを、江晩吟は情けなく思って目の奥をつんと熱くした。すんと息を吸い込むと、蓮花塢で皆が使う焚き染めの香のあとに、強く藍曦臣の体臭を嗅ぎ取った。それがよい香りなのか臭いのか、江晩吟は判断がつかなかったが、代わりに何度も嗅いでやった。小犬にするのと同じように。
     彼とこんなふうに下品に共寝をして欲情する人間なんか、後にも先にも自分だたひとりに違いない。そして、こんな自分に堂々と抱きついて安らかでいられる人間も、世界でたったひとり、きっと彼だけだ。
     きっとはやく向こうに帰してやろう。江晩吟はもう何度目かわからない決心をもう一度した。

    ⭐︎

     なんだかとびきり愉快な気がする、と思って藍曦臣は目を覚ました。胸に心地よく重たいものが残っていて、口角が自然と上がってしまうような、そんな気持ちだった。そしてあくびをして目を開けると、そこには江澄の寝顔があった。
     ひゃっと詰まった喉に息を吸い込んだ藍曦臣は驚いて飛び上がり、そしてそのまま牀榻から落ちた。ごろりと後転した体は全裸で、またひゃっと悲鳴を上げて近くに丸まっていた衣を体に巻き付けた。なぜか生臭い。
     これは、いったい、どういうこと? 藍曦臣はずきずき鈍く痛む頭を捻って思い出そうとした。しかし蘇るのは、楽しかった、という感情だけで、具体的なことは何もわからない。
     なにが楽しかったのだろう? 藍曦臣は考えた。ここ最近で楽しいことと言えば、子どもたちに勉学を教えること、子どもたちとご飯を食べること、雲夢江氏の皆と打ち解けて話ができるようになったこと、江澄を見つめること、江澄に抱き上げてもらうこと、江澄に頬擦りしてもらうこと、江澄に可愛いと言ってもらうこと、江澄と鞠で遊ぶこと、江澄を追いかけること、それに江澄と──そうだ、この楽しさの感覚は、きっと江澄がくれたものだ。藍曦臣はそう結論付けた。問題は、なにが起こりどうやって、江澄の牀榻で全裸で眠ることを彼に許されたのか、ということだった。

    「あ──……くそ、あなた、うるさい……」

     考えごとがすべて口に出ていたらしい。江澄が唸るようにそう言って、手の甲で目を擦った。そして大きなあくびをし、猫のようにうんと腕を突き上げて背伸びをして起き上がった。浮腫んだ顔を不機嫌に歪めた彼は、思わず部屋の隅に逃げた藍曦臣の背中をじっと見つめている。

    「おい、なにか、俺に言うことは?」

     藍曦臣は壁面したまま何も思い浮かばなかった。とにかく謝罪をすればいいのか、しかし彼が理由もわからずされる謝罪を心底嫌っていると知っている。

    「覚えていることは?」

     なにもありません、と藍曦臣は返そうとして、しかしただひとつ覚えていることを正直に言った。

    「楽しかった……なにが楽しかったかは、覚えてない、けど……」

     江澄は深いため息を吐いた。

    「服を着ろ。付いてこい」

     藍曦臣は表の惨状にがっくりと顎を落とした。壁になにかが激突した跡や引っ掻き傷がある。部屋の扉が抜けている。庭の草木が薙ぎ倒されている。まるで、大きな獣が一晩中嵐のように暴れ回った跡のようだった。

    「貴方がやった」

     と、江澄が平然と言った。

    「貴方、酔っ払ってな、自分を犬だと思い込んでな」

     衝撃のあまり、あ、あう、としか喋れなくなった藍曦臣は、宿舎で湯を浴びてこいと私邸を追い出された。ろくに思考が働かないまま頭に湯をかけると、水草が流れ出した。藍曦臣は半刻は蹲って頭を抱えてから、掃除をしたい家僕にまた追い出されるようにして私邸に戻った。
     もう蓮花塢からも追い出されるだろう。藍曦臣は確信した。そして雲深不知処にも役立たずの居場所はなく、これからは本格的に路頭に迷って生きていくしかないのかもしれない──そううじうじ考えて江澄のもとに向かうと、彼は金槌を二挺持っていて、藍曦臣は追い出される前にボコボコに殴られるのだと確信した。
     が、よく見ると額にタンコブを拵えた江澄は金槌を一挺、藍曦臣に差し出して言った。

    「全部直さないと飯抜きだって、ばあやが……」

     作業用の着古した衣に着替えた藍曦臣は、同じ姿の江澄と倉庫から板材や釘、それに漆喰を持ち出して家の修理を始めた。このようなことは経験がなかったので、藍曦臣はいちいち江澄にやり方を尋ねなければいけなかった。彼は妙に手慣れていて、恐る恐る理由を尋ねると、ここの再建時の仮住まいは自分たちで作ったから、と返ってきた。彼は、いわゆる仙師としての仕事や研究、それに執務以外はからっきしな自分とちがって、なんでもできる。

    「あの、ほんとうに、すまない……」

     抜けた扉を嵌め直しながら何度目かの謝罪をすると、木枠に釘を打つ江澄は、もういいと言っている、と同じ答えを返してきた。

    「しかし、貴方は以後禁酒だ。貴方に酒を飲ませてはならない、という規則も作る。壁にでも刻んでおこう。わかりやすいように」

    「はい……」

     家の修理は昼までかかった。ばあやの厳しい見回り確認のあと、ふたりはやっと食事にありつくのを許された。藍曦臣は慣れない作業に汗をびっしょり掻いてしまったので、また水浴びをしなければならなそうだった。あつい、と呟いて頬を手の甲で拭うと、江澄のふ、という笑い声がする。

    「汚れてる」

     笑ってる。藍曦臣は目を見開いて彼の唇を見つめた。その間に、彼の手が顔に伸びて頬を拭われ、そして顎下を指先でくすぐられる。ぞわぞわっと腰から頭のてっぺんまで痺れたような藍曦臣は、あっと声を出して彼が触れた場所に手をやった。顔の血が沸騰しているみたいに、熱い。

    「さ、飯行くぞ」

     食堂では、江澄と向かい合って昼食を食べた。彼の顔はやはり顰めっ面をしていたが、それは何かに対する嫌悪の表れではなく、ただ彼の日常における表情の作りによるものだった。

    「貴方はやはり、香辛料が強いものより、出汁がよく効いたものが好きだな」

    「うん。昆布とか、魚介の出汁が好きみたいだ。君は、なんでもよく食べるね」

    「そうだなあ。必要なら虫も食えるし」

    「え?」

     そしてこんなふうに、顔を見て会話だってしてくれた。藍曦臣は彼の膨らんだ可愛いほっぺたをいくらでも眺めることができたし、見過ぎだなんなんだ、と耳殻を赤くする江澄から煮物の海老を奪われたりした。まるで、友だちどうしみたいに。
     追い出される前の情けかもしれない、と藍曦臣は思い止まったが、結局出入り禁止は宣告されなかった。子どもたちの試験監督をしている間、昨夜に一体何があって彼との距離が変化したのか、解答する子どもたちよりも必死になってうんうん考えたりもしたが、やはり思い出せない。
     夜になり、疲れたよう、でも今回は綿毛先生のおかげで赤点ない、と騒ぐ子どもたちと食事をし、湯浴みを終えて私邸に戻ると、髪を濡らした江澄がとある渡り廊下で涼んでいた。灯籠の明かりで、髪も頬も輝いている。
     こちらに気づいた江澄が手招きをしたので、藍曦臣は妙な緊張に身を包んで彼のもとへ駆け寄った。すると江澄は、首に掛けた「どこでもお着替えくん三号」を人差し指でつんと突いてきた。

    「綿毛になれ。一緒に寝よう」

     犬曦臣は江澄の胸の上に寝そべって、はふはふと荒く呼吸をしていた。彼の手は背中をよしよしと撫でてくれている。
     彼が言うに、忙しくてあまり構ってやれないから、夜こうするのがいいと思って、だそうだ。代わりに日中は犬になるのを控え、人でいる時間を長くしていく、そのような治療計画だと。

    「阿渙、落ち着け、な……また明日……」

     もう半分寝入っている江澄は、にゃむにゃむと不明瞭に話しかけてきたが、犬曦臣は彼の体臭を体いっぱいに吸い込んで興奮が収まらなかった。衝動のままに江澄の襟を引っ掻いたり、首や顎を舐めたり、ほんの軽く歯を立てたりしなければ、今すぐ蓮花塢中を走り回らなければならないほど、不思議な熱に浮かされている。

    「あ……っ、阿渙、もうおやすみしろ、あっ、こら……」

     そして江澄のそんなふうな声を聞くと、もっといてもたってもいられなくなる。今の感情を下手でも表そうとするなら──もっと大きな犬になって、江澄をぎゅうっと抱きしめて押し潰して、全身を舐め回して口の中に入れてしまいたい、そんな感じだった。それは化け物がすることだ。
     犬曦臣は江澄に可愛いと思ってほしいので、化け物にはなりたくなかった。代わりに、夜の間は我慢して、明日になったら人の姿で組み手でも頼んでみようか。それでどうにか、わけのわからない欲が発散できたら……
     その夜は、先に寝落ちた江澄の脇に鼻先を突っ込んで眠った。熱くて気持ちよくて幸せな心地だった。こんな病気なんか一生治らないで、毎晩こうしていたいと、犬曦臣は本気で思った。家族になんて伝えよう。
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    PROGRESS書き直し中の曦澄「俺の居候がこんなに可愛い訳がない」の途中まで(元々の3話目あたりまで)〜だいぶ変わってるし多分改題する✌️
    【曦澄】俺の居候がこんなに可愛い訳がない(仮)① 江晩吟が寒室の扉を開け放った先にいたのは、真っ白なふわふわだった。そのふわふわは、薄暗くひんやりとした居間の真ん中で、座布団の上に丸まってくんくんと鼻をならしていた。
     江晩吟は、ここが姑蘇藍氏宗主の居住であることを忘れて部屋に飛び込んだ。それほど、そのふわふわ──小さな犬が、もし涙を流せたのなら川を作れるくらいに、哀しげに鳴いていたから。そしてその犬の前に躓いて自分ができる精いっぱいのやさしさで抱き上げると、胸に収めた。

    「大丈夫」

     江晩吟は、犬の被毛に顔を埋めてそう囁いた。またそう間を置かず、もう一度同じ言葉を囁いた。両親の温もりが恋しいと泣く赤子を、夜通し腕に抱いていたときのように。
     腕の中の犬はしばらく震えながら、きゅうきゅうと鳴いていた。江晩吟はその小さな鳴き声を聞くたびに、犬の背を何度も何度も撫でてやった。すっかり冷えてしまっている体が温まるように、手のひらの熱を送り込むように軽く揉んでやった。すると、犬の震えはだんだんと治った。
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