ハルスケッテの殺人 1. 朝食「おはよう」
「おはよう、先生」
恩師たるベレト・アイスナーは山ほどパンが乗ったトレイを両手に持ち、心なしか機嫌よさそうに口元を綻ばせている。
「この辺りは水がいいらしい。かまどで焼いたパンが絶品だと、ヒルダが」
「そうか」
彼は見かけによらない大食らいだ。己の目を楽しませる目的でトレイに山のようなパンを乗せているわけではない。決して行儀がいいとは言えないが、その大量のパンはすべて彼の腹の中にきれいに収まるものだから何も言うまい。
「ローレンツはそれだけか」
「朝はこれでじゅうぶんなんだ」
「昼食までにお腹がすきそうだ」
テーブルの上の先客である紅茶のポットを一瞥すると、目の前の焼き立てらしい香ばしい小麦のかおりを漂わせるパン山からひとつを取り、小さくちぎって口へと運び、咀嚼すると満足げにうなずいた。
「うん、うまい」
「そういえば、今日の午後からの予定なんだが」
カラン
「悪い、拾ってくれ!」
何かがベレトの椅子の間を滑ってテーブルの下へと入っていくのと、見知らぬ男が少し離れた席から声を上げたのはほとんど同時だった。
フォークやナイフといった食器の類ではなさそうだった。テーブルの下に入り込んだそれを手に取って確認すると、銀色に光る鍵に、細長い木製のキーホルダーには丁寧な草花の細工とともに"303"と数字が彫られている。このホテルのルームキー、それも隣室のもののようだ。
こちらに向かって歩いてきた褐色の肌にブルネットをゆるく流した男にルームキーを手渡す。
「ほら、これでいいのか?」
「拾ってくれてありがとう、ローレンツ・ヘルマン・グロスタールさん」
「なぜ僕の名前を……」
「そっちのあんたは探偵なんだってな
俺の知り合いにはいないもんで、興味深いね。よかったら話を聞かせてくれよ
今までどんな事件を解決してきんだ?」
にやにやと笑みを浮かべた男はベレトの肩にのしかかるような姿勢で腕を回した。
初対面にもかかわらずやたらと距離が近い男に絡まれているというのに、ベレトは顔色ひとつ変えずに男を横目でじっと見つめている。一瞬の沈黙にすら焦れたのか、男が話を促すように手をひらりとその眼前で振る。
「ほとんど猫探しだ」
「へえ、猫。あいつらは隠れるのが上手いからな、結構大変なんじゃないか?」
「警戒心も強い。詳しいな」
「特に猫好きってわけじゃないがな」
「……そこではなく」
「なあに、ちょっと宿泊者名簿を見せてもらっただけさ。
ベレト・アイスナーさん
あんたは結構有名人なんだぜ」
「君、いささか失礼ではないかね。僕たちは君とは初対面のはずだが」
「おっと、これは失礼、グロスタール殿。クロード・フォン・リーガンだ。グロスタール殿もご存知のリーガン家の爺さんの孫でね」
男はぱっとベレトから手を離すと、ぴしりと背筋を伸ばして芝居がかった大振りなしぐさで礼をしてから名乗ってみせた。
しかし、リーガン家?
「リーガン家現当主の息子一家は全員、亡くなったと聞いているが」
「賊の襲撃に遭った遺体の状態はひどいものだった。それに複数に分けられた馬車に乗っていたのはリーガン家だけでもない」
「するとなんだ、君はその唯一の生き残りだとでも言うつもりなのか」
「ご想像にお任せするよ。運よく賊の襲撃から逃れた生き残りが今日までおとなしく過ごしてきただとか、もしかしたらあの爺さんの隠し子かもな」
生前のリーガン家嫡子一家を見たことがあるが、彼のことは見たこともなければ、クロードなんて名前を聞いたこともない。ふざけているのだとしても、こちらから振った話に返す情報は妙に事情に詳しく、正確だ。ただ、少なくとも目の前のこの男は隠し事をするのを好む人間なのだろう。結局、クロードという男の素性については明確にされていない。
「君は結局、いったい、なんなんだ」
クロードという男には、たまたま出会ったというだけでは説明のつかない不審な点が多すぎる。詰め寄ってもなお、男の唇は弧を描いたまま動かない。こちらを見上げる夏空の下の青葉の色の瞳からは違和感のような気味悪さを感じる。オズワルドの瞳とちょうど同じ色は、リーガンであることを主張するように存在している。
「ローレンツ」
ほんの数秒の間をもって先生がたしなめるように僕の名前を呼んだ。
「それじゃあ、自己紹介も済んだことだし俺はこれで。探偵とその助手の名推理を拝聴する機会に恵まれるのを楽しみにしてるよ」
「べつに僕は助手では……!」
ひらひらと手を振りながら、クロードは早々にラウンジを出ていく。退室が早い。食事をしにきたのではないのか。
「あ」
「どうした、先生」
何かあの男に対して疑問や気づくことでもあったのだろうか。
「パンが冷めた」
テーブルの上のパンを肩を落として見るベレトに、食事をしにきたのはこちらも同じであることを思い出した。クロード・フォン・リーガンが何者であろうが、それは関係のないことだ。ただ休暇を過ごしにきただけのホテルで出会うには少しばかり奇妙な縁のある男だったというだけ。疑問はあるが紅茶と共に飲み下してしまえばいいのだ。