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「ニキぃ」
「なあんすかぁ、燐音くん」
「お金貸してェ~♡」
「嫌っすよ~……、あっちょっと痛いっ、やめてお財布とらないで!」
「とってねェよ、借りるだけだっつってんだろ。今確変引いちゃって急いでんの、あとで10倍返ししてやっからよ、じゃあなァ!」
こはくちゃんは右手にクッキーの型を持ち、ぽかんと口を開けたまま動かなかった。というか、動けなかったんだろう。当たり前だ、突然背後から燐音くんが現れたかと思うと、こちらに驚く隙すら与えずあっという間に僕の財布から万札だけを抜き取って去っていったんだから。
「ふぅ、ひどい目に遭ったっすね~。んもう、料理してるときは埃立てないでっていつも言ってるのに。さっこはくちゃん、生地が温くなってダレちゃう前にさっさと型抜きしちゃうっすよ。アイスボックスクッキーよりバターは少ないけど、型抜きクッキーだってちゃっちゃと作業しないときれいな形にならないっすからね」
「……いやいや……」
「んぃ? どうしたんすか? あっもしかしてくまちゃんじゃなくてうさちゃんがよかった?」
「そうやなくて、いやいや、ええんかあれは!?」
「ああ、燐音くん? あんなのいつものことじゃないっすか」
我に返ったように怒り出したこはくちゃんの後ろでチンと音が鳴った。僕は怒声を聞き流しながらトースターからナッツを取り出して、冷めやすいように竹のザルの上に広げ、半分には塩を軽くまぶす。残りはキャラメリゼしてしまおう。クッキーに乗せて焼くナッツなのでローストする必要はなかったけど、水分を飛ばしたほうが良い気がしたのでほんの少しだけ温めたのだ。ナッツの焼ける匂いってどうしてこんなにもカンノーテキなんだろうか。
「ニキはんもニキはんやで。律儀に毎回返事して相手するから巻き込まれてるんやないの?」
「なはは。そうかもしれないっすね~」
塩をまとったアーモンドをふたつつまんで、粗熱が取れていることを確認してから自分とこはくちゃんの口にひとつずつひょいと放り込んだ。ナッツの表面は乾いていて、嚙み砕く小気味いい音がこめかみにダイレクトに伝わる。
「いっぺん無視でもしてみたら――、ん、」
「どおすか?」
「んん……、ちっとしょっぱすぎるような気もするけど……」
咀嚼したアーモンドをきちんと飲み込んでから口を開くこはくくんは、お行儀が良くて可愛い。
「塩の粒が大きいから余計塩味が強く感じるのかも? でもキラキラしてきれいだし、単品で食べるんじゃなくて甘い生地に乗せるナッツなんで、このくらい塩気があるほうが良いと思うんすよね」
「確かにそうやなあ。ニキはんはわしの舌よりよっぽど高性能やし信用できるわ。ほなこのまま乗せよか」
「オッケーっす! じゃあこうやって、くまちゃんの体に対してちょっと斜めにナッツを置いて、両腕をそっと折り曲げてくださいね」
サークル活動の次のお題が手作りスイーツになってしまったとこはくちゃんが困った顔をして僕に相談を持ち掛けてきたのは先週末のことだっただろうか。持ち寄った菓子が余ることも考えると日持ちがする焼き菓子がええかと思うんやけど、クッキーは前作ったときに坊にも渡してしもたしなあ、と眉を下げるので、ふと思い出しただっこくまクッキーの画像を見せたのだった。ええなあこれ! と目を輝かせたこはくちゃんは、一人っ子の僕ですら兄姉の気持ちがわかるほど愛おしい。燐音くんが弟くんを溺愛するのはこういう感情なんだな、と思う。
「こんな感じでええやろか?」
「うんうん、いいっすね! 生地が柔らかくなりすぎて難しくなってきたらちょっと冷蔵庫で冷やすといいっすよ。抜くところがなくなってきたら丸めて伸ばしなおして使えば大丈夫っす!」
「わかった」
くまの腕が折れてしまわないように丁寧に扱うこはくちゃんの真剣な目つきは、初めて燐音くんに料理を教えた時のことを僕に思い出させた。
いっぺん無視でもしてみたら、かぁ。こはくちゃんの言葉を反芻すると、じわりと苦い思い出が首をもたげる。こはくちゃんに気付かれないように、嫌な気持を静かな呼吸に乗せて吐き出した。
あの頃の天城燐音の話をしよう。僕の自戒を込めて。