3 花泥棒
深く細く吐いた息は、室温に戻したバターにナイフを入れたときのようなだらしない手ごたえで空を切った。
夜の闇に、俺に怯えて震える男の顔と、骨のない生き物みたいにぐにゃりと俺の腕の中で崩れたニキの顔が順番に浮かんでは消える。ニキ。面倒ごとになる前に病院から逃げてきてしまったが、あいつの怪我はどの程度のものなのだろうか。跡や後遺症が残らないものだと良いのだが。生ぬるい夜の風が指の関節を触り、思わず呻いた。皮が剥けて血が滲んだそこは僅かな空気の揺れですら染みて痛んだ。故郷の稽古で拳を繰り試合をすることはあったが、手をろくに保護せず人を殴ったのは初めてだった。それに、手加減しない人間の暴力を真正面から受け止めるのも。身を護るために構えた拳は乾いた音を立てて肉や骨に何度も当たった。その嫌な感触はまだ消えない。
何も悪いことをしていないニキに理不尽な悪意をぶつけるのをやめてほしかった。悪党であっても、対話をすれば理解を得られるのかもしれないと思った。しかし事態は全く思った方向に進まず、格下に見ている人間が逆らってきたという事実は男たちの怒りをさらに煽ってしまった。主犯格の男が感情をぶちまけるように小さな通信機でどこかへ連絡している様子を見て、俺は失敗したのだと思った。ニキが危ないと察した俺は慌ててその場の男たちを適度に動けなくしたのち急いで家へ戻ったがすべて手遅れだった。
渦巻く後悔と怒りをどう吐き出して良いかわからず、思わず大声をあげそうになって思わず道の端に蹲った。周りを行く人間の冷たい視線が背中に突き刺さるのが、顔を伏せていてもわかった。さっきと同じだ。俺がニキを抱えて周りに助けを求めていたときの、怪訝そうに向けられた視線。
この視線は知っている。ニキと出会う直前、食うものも金も尽きて路地に座り込んでいた時にさんざん浴びせられた。射してくる視線の重さに追い打ちをかけるように弱い雨が降ってきた。肩を後頭部をぱたぱたと雫が叩くのを感じて、いっそう目を強く瞑った。
「キミ、どうしたの? 体調でも悪い?」
その時、蹲って唸る俺の背中に凍った視線でもぬるい雨でもない柔らかな声が触れた。突然かけられた声にびくりと体が跳ねた。
あの頃より都会のこと、村以外のことを学んだはずなのに、まるで時間が全て巻き戻ってあの頃の自分に戻ってしまったような気がした。見られたくない。触れられたくないと思ってしまった。
かけられた声から逃げるように身を縮めるが、その声の主は構わず俺の肩に手を置いた。そのまま無理やり体を起こされて顔を覗きこまれる。顔を上げた先に立っていたのは若い女だった。俺よりすこし年上だろうか。あどけない顔つきと人懐こい丸い瞳に似合わないほどの強い力を宿したその女は、肩口で切りそろえられた髪をさらりと揺らして笑顔を作りかけ、しかし、俺の傷を見るとその笑みを強張らせた。
「ちょっと、ヤダ、めちゃくちゃ怪我してるじゃん!」
「……大した事ない」
「どこが? 顔だけじゃなくて手も血が出てる、……ね、ウチすぐそこなの。ちょっと上がっていきなよ。手当てしないとでしょ」
眉を寄せてそう言う女からは少しも悪意が読み取れず、やわらかく解すようなその声色に自分の心がぐらりと傾いだのを感じる。痛む体、先への不安を癒す場所を本能が欲していたからだ。おにーさん、都会は怖い人間がいっぱいなんすからね、簡単に信用しちゃだめっすよ、と心の中のニキが騒いだので甘い誘惑に頭を振って応えた。
「……いや、家には、ちょっと」
女は面食らったように一瞬固まり、噴き出して笑った。
「いくら君が綺麗な顔だからって子供を取って食いやしないって! でもわかった、玄関で手当てするのはどう? ドア開けっぱなしで良いから。私が良からぬことをしそうになったらそのまま走って逃げなよ」
「……何でそこまで構うんだ」
「そんな血を流して歩いてる子供見かけたら普通に放っておけないでしょ」
女は強引に俺の手を取った。悪意は感じなかったが、都会の人間が何を考えているかが未だに読み取れないので信用していいものか迷う。とくに、対価を求められない行為は怪しく見えてしまう。
「ね!」
俺の手を引いて振り返る彼女の笑顔からは、あの日のニキに似たものを感じた。ニキの顔を思い出して言葉が詰まり、それ以上抗えず、俺は女に引かれるままついていった。
女の家は集合住宅だった。ニキの家も集合住宅だが、そこより位が高いことがひとめでわかった。女の家にたどり着くまでに何回かガラスのドアを通らなければならなかったし、そのどれもが家の鍵を差し込まないと開かないものだったからだ。防犯に金がかかっている。これなら家のドアに生卵をぶつけられることなどないだろう。どんな仕事をしたら、ニキをこれくらいの家に住まわせてやれるのだろうかとすこし考えた。
さぞ部屋も豪奢なのだろうと思ったが、「ここがうち」と女が玄関の扉を開けたそこは拍子抜けするほど狭く、女の靴が2足と、出す予定であろうごみの袋がひとつ置いてあるだけでいっぱいだった。女は少し待っててと言い残して三和土から伸びる廊下からその奥の部屋へ小走りで向かう。薬箱を取ってくるのだろう。物音でなんとなくわかるが、この家の部屋数は多くなさそうだ。おそらく今女がいる部屋と、この廊下の脇に便所と風呂、それだけで成り立っている家だ。面積でいえばニキの家よりも狭いのかもしれない。そこまで考えたところであまり人の部屋を見るのも悪いかと思い、式台に腰を下ろしてドアのほうを向いた。ほどなくして女が薬箱を抱えて戻ってくる。俺の実家にあった薬箱とはかけ離れた、子供の玩具のような箱を開けて俺の横に座り、脱脂綿に消毒液を含ませると俺の腕を触った。
「消毒するからちょっと痛いかも、覚悟してね」
「……ああ」
幸い出血を伴う傷はそう多くなかった。刃物を使われたわけでも転んだわけでもないので、殴打を受けたところの皮が少し剥けた程度だったが、女は脱脂綿を傷口に当てるたびに自分が痛みを受けているかのような顔をしかめた。いちいち大げさなその表情がおもしろくて、つい笑ってしまった。
「えっ、なんで笑うの」
「いや、悪い……、だって俺より痛そうな顔してるから」
「し、してないよ!」
「してるだろ」
「してないって! まあいいか、やっと笑ったねぇ」
赤く染まった脱脂綿を袋に入れて、女は軟膏の入った容器を取り出した。長い爪でよく器用に作業するものだと感心しながら見ていると、案の定手の中で容器をつるりと滑らして取り落とす。慌てて拾おうとした女は体勢を崩し、膝に載せていた薬箱も滑り落してしまった。派手な音を立てて中身が散らばる。俺はとっさに女が転ばないよう手を伸ばして彼女の手首を掴む。
「――ッぶねェ」
薄い長そでの服越しに触れたそれは、幼いニキと比較しても遥かに細く今にも折れそうで、驚いた俺はすぐに手を放した。その瞬間になにかざらりとしたものに触れたのがわかった。女は焦ったように左手首を右手で抑えて俺から身を放し、誤魔化すように微笑んだ。
「あ、ご、ごめん……、ありがと」
「……あァ」
床に落ちた軟膏を拾って手渡すと、女は気まずそうな顔で受け取った。今度は落とさないように慎重に蓋を開け、指先で中身を掬って俺の傷にそっと塗り込む。半透明の軟膏は故郷の湿布とは大分見た目が違ったが、仄かに匂う薬草の香りがどこか懐かしく思えた。
「……わたしね、君と同じくらいの年齢の弟がいるんだよね」
妙な沈黙を気まずげに破って女が呟いた。
「……へェ」
「就職で実家出てからしばらく会ってないんだけど、歳が離れてるせいかすっごく可愛いの。キミに声かけちゃったのは弟とかぶって見えたからかもね」
「都会に出稼ぎにきたのか。休みの日に帰ったりはしないのか?」
「……ううん、忙しくてちょっと余裕なくて」
目を伏せて口の端を持ち上げた表情は今日初めて見るものだなと思った。
女が黙ってしまったのでまた少し気まずくなり、目線をうろつかせると、さっき女が薬箱を取りに行った部屋の扉が少しだけ開いていてその隙間から人間の視線を感じた。驚いて少し体がこわばった俺を女は不思議そうに見た。
「なァ、誰かいんのか」
「え? あぁ……!」
女は一瞬不思議そうな顔をして俺が指さした方を振り返り、そして噴き出して笑った。
「違うよぉ~……!」
ひいひいと体を折ってしばらく笑う。笑いすぎて目じりに浮かんだ涙を拭うと、立ち上がって部屋の奥へ行き、なにかを持って戻ってきた。男の写真が印刷された丸い紙に持ち手がついている奇怪な物体だ。
「アイドルのうちわだよ、確かにここから見切れてると人間に見えるかもね」
「アイドル……?」
「そう、新進気鋭の4人組! まだあんまりテレビ出演はしてないから知らないかな?」
「……アイドルって、歌って踊る、あの?」
「そうそう、って、あんまりアイドル詳しくない?」
「いや、何度か見かけたことがある。俺が見たアイドルは道端で演奏してたが、こんなうちわを持ってる観客はいなかったな」
「キミが見たのは、まだデビュー前の下積みしてるアイドルだったのかもね。私の推しも路上とか地下ライブハウスから活動を始めて、ようやくホールでライブできるくらいになったんだよ。うちわが出たのは今回が初めてなの。かっこいいでしょ」
「おし?」
「うん。推し」
一番応援している人ってこと、と女は声を弾ませて言って、うちわと一緒に持ってきたらしい写真やらなにやらをその場に広げた。俺の目から見てもそこに映っている男が輝いているのがわかる。愛を一身に受け、同じくらい振りまいている眩しい存在であること。こいつの声も歌も知らなくても、目の前の女にひかりを射すことができていることが、わかる。
「仕事でメンタル終わってるときに見るとほんとに沁みるんだよねー……」
「そんなに精神やられる仕事してンのか。失敗すると殴られたりするのか?」
「まさか、さすがに殴られることはないよ! っていうか私がミスしても誰も怒らない。心配して声をかけてくれて、解決のためにみんなが動いてくれる」
「優しいじゃねェか」
「そうなの、優しいの。すごく。みんな私よりずっと仕事ができるのに私のことを気にかけてくれるの。そのたびに私はその人たちの足を引っ張ってるような気分になって、情けなくなっちゃう」
「……」
「こんなにできる人たちの手を無駄にかけさせて、私って何のために働いてるんだろう、意味はあるのかなって……。きっと誰もそんなこと思ってないのにね。被害妄想なんだって、そんなこと考える暇があったらすこしでも成長して貢献しなきゃって、わかってるんだけど……」
普通に怒られるよりも何倍も情けなくって辛いんだ、わたしはね。そう呟いてわずかに震わせた女の肩は薄くて細い。励ましてやりたい気持ちに駆られたが、触れることが正解ではないんだろうと思った。優しいらしい職場の同僚でも、目の前の俺でも、きっと彼女の友人ですら届かない部分の傷を撫でられるのは、今この偶像しかいないのだろう。手の届かない距離から光って照らして、強い力で彼女の心を抱くのだ。浮かせた右手の行き場を失って、ただ拳を握ることしかできなかった。
「でも彼はそんな私でも素敵だよって、生きてて良いんだって、私に愛してほしいって言ってくれるから。アイドルにこんなに入れこむのが馬鹿みたいってわかってる。でも今の私には必要なんだ」
女は、アイドルの印刷された透明の板をぎゅっと両手で握った。顔は少し赤らんで、何かに酔ったような視線でうちわを見つめた。その表情は珍しいものではなかった。村民が俺や父上を見る目。父上が儀式のときに村の祀り神を見る目。俺はそれを知っている。形のない何かに心を預ける人間の瞳の色。とろりと潤んで熱を持ったそれを。
「そうか、すごいんだな」
当たり障りのない言葉しか吐けない自分が恥ずかしいと思った。きっと女には響かない言葉に違いなかったが、女は俺の薄っぺらさをさして気にした様子もなく無邪気に笑って、一曲だけ聴いてと言って俺の耳にイヤホンを突っ込んできた。ありきたりな言葉で愛を語り、ゆったりと水面を揺らすような曲調は好みではなかったが、それでも感じるものがそこには確実にあった。アイドルの、女の、甘やかな溜息は、俺の知らない場所を掴んで揺さぶった。
いつの間にか体のあちこちにはいつの間にかあて布と包帯が綺麗に巻かれていた。雨音も止んでいる。沈黙を破って俺が立ち上がると、女は「もう行く?」と小さな声で呟いた。
「もし行くところが無かったら頼ってね」
「あァ」
「あと、年上の女性にはお前じゃなくてお姉さんって呼びかけなよね」
「何だそれは」
「処世術ってやつだよ。あっ待って、何か食べるもの持ってくるから」
女はまた部屋に慌てて出入りし、握り飯が入った袋を持ってくると、俺の手に握らせて少し寂しそうに笑った。俺は今一度感謝を伝えて女と別れ、いくつもの扉をくぐって、部屋を後にした。マンションから出たところで先ほどまでいた部屋を外から見上げる。まばらにあかりの灯る窓のなかでも、その部屋だけがなぜかすこしひかりが柔らかいように見えた。
あの部屋で、泣きながら、アイドルを応援しながら、女……オネーサンは生きていくんだろう。玄関の隅に積まれた夥しい量の酒の空き缶と、薬箱から覗いた常備薬とは思えない量の錠剤と、一人暮らしに似つかわしくない量の消毒液と、細い手首をつかんだ時のざらついた感触を思い出し、彼女が祀る男が邪神とならないことを願う。点いたり消えたり夜空の星みたいにまたたく窓が並んでいるのを眺めながら、ただ、願った。