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    #あんさんぶるスターズ!!
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    #天城燐音
    amagiPhosphorus

    2

     あの頃。僕らが生まれたてみたいに何も知らなくて、それでも赤ん坊とは呼べない程度には傷まみれだった頃。
     17歳の燐音くんはいつだって怒っていた。知識や常識がない故に納得できない事象が多く、それにぶつかるたびに怒った。周りにも、ものを知らなさすぎる自分に対しても。野菜の値段に怒り、電車の優先席に座る若者に怒り、ポイ捨てされているゴミに対して怒った。自分の常識と世間の常識の中でぐらぐらと揺れながら、プライドをすり減らしながら、それでも声を上げた。
     怒るといっても声を荒げて暴れまわるわけではなかった。かたちのいい目をしっかり開いて、青いくらいにひかる白目にぎらっと怒りを宿して、理解の範疇外の対象を見つめた。その様子を見るたびに僕は、彼の心に小さな傷がついていく音が聞こえたような気分になった。失望して、怒って、それでも赦したくて立ち上がり続ける燐音くんに、「きれいごとだけじゃ世の中は回らないっすよ」と言ってあげられたらどれほど良かったんだろう。とはいえ、そんな残酷なことを誰も言えやしなかったに違いない。少なくとも僕には到底無理だった。背筋を伸ばして、透き通った眼で物事を見る彼を曇らせたくなかった。
     つまるところ、僕は彼が怒るところを見るのが、好きだったのだ。

    「ニキ」
     僕が拾ったお兄さんは、時折僕の通学路で待ち伏せをしている。今日も家の近くの電柱の影に立って僕を待っていたようで、僕を見つけると組んでいた長い足をゆるりと解いて現れた。
    「あ、お兄さん。ただいまっす、今日はどこ行ってたんすか?」
    「ん、図書館」
     僕より早く家に帰って寝たり本を読んでいたりすることもあるし、僕が夕飯を終えて皿洗いをするくらいの遅い時間にそっと帰ってくることもあるこの人が、僕の帰りをこうやって待っている日は、お腹が空いて晩御飯を楽しみにしている日だということは数か月一緒に過ごして何となく感じている。ほら、今日も僕の手の中の買い物袋にすっと目線を向けた。きっと中身の予想をしているだろう。
    「またお勉強? 好きっすね~」
    「いや、勉強というか、知らないことを知っていく作業をしてるだけだ」
    「それが勉強でしょ。僕ぁ学校の宿題すら億劫だってのに、毎日よくやるっすよね」
     僕が袋をぶらぶらと揺らしながら歩きだすと、お兄さんはそれを目で追いながら僕に合わせてついてくる。懐いた野良猫のような仕草をする彼を、年上なのにちょっとだけ可愛いと感じてしまう。
    「ニキは知らないことが身近にあるのが怖くないのか?」
    「ん~、そんなもんにいちいち怖がってたら生きていけなくないっすか? この世の全部を知るなんて無理だし、だからいろんな人間がいていろんな技術や知識を分担してるんでしょ。ほら、飛行機に乗る人だって、なんで飛行機が飛んでるのか知らないまま乗ってる人が大半っすよね」
    「……そうか」
     飛行機という単語に反応してか、お兄さんは立ち止まって空を見上げた。僕もつられて上を見るけど、そこには飛行機どころか鳥すら飛んでいない空がただ広がるのみだった。まだ明るい、でも赤く染まった夕焼けの空。紫の煙みたいな雲に紛れながら、ひときわ眩しく見える大きい星に気づいて思わず見とれる。「金星だな」と、僕の目線を拾ってお兄さんが呟いた。
    「……お兄さんは、星の名前も飛行機が飛ぶ仕組みも知りたいと思っちゃうんすよね、勉強が好きってことっすよね。えらいと思うっすよ、普通に。そんな熱心なお兄さんが知らなくて勉強嫌いな僕が知ってること、いっこだけ教えてあげましょうか?」
    「今夜の献立だろ?」
    「正解っす!」
     お兄さんは少し笑って僕の手から買い物袋を取り上げた。そのまま袋を覗きこんで匂いを嗅ぐ。
    「鶏ももが安く買えたんで唐揚げにしようかなって思ってるっす。お兄さんも好きでしょ、唐揚げ」
    「あぁ、あれは美味いな。何か手伝えることはあるか?」
    「そうっすね~、もうごはんの炊き方はマスターしてましたよね。そしたら今日はお味噌汁一緒にやります?」
    「あぁ、――……おい、あれは?」
     育てている豆苗がそろそろ収穫時期だったのでにんにくと炒めて出そうか、なんて呑気な考えが、すっと萎んだ。お兄さんが顔をゆがめて睨みつけたのは僕たちのアパートだった。外廊下なので部屋のドアが遠くからでも見える。今朝のゴミ出しの前に軽く掃き掃除をしてきれいにしたはずの玄関は、見る影もなかった。
    「あ~……」
     僕の部屋のドアには、パソコン打ちの太い明朝体やフエルトペンの手書きの文字でひどい言葉を書きなぐられた紙やら、何度見たかわからない雑誌の切り抜きやらがべたべたとドアに貼り付けられていた。それだけではない。ドア自体に傷をつけられていたり、チョークで直接文字を書かれていたりなどしてかなり悲惨な状況だった。とりわけ許せないのは生卵をいくつも投げつけた跡があることと、苛立ち紛れに蹴飛ばされたのだろう鉢植えが割れて転がっていたことだ。卵は腐った匂いがしないから食べられるものだったはずだ。なんてもったいない所業だろう。卵にまみれて床に散らばっている植木鉢は、根っこだけになったものを植えて大事に育てていた万能ネギだ。これもだいぶ伸びてきたところだったのに。
     お兄さんは眉間に深くしわを寄せたまましゃがんで、土と卵で手が汚れるのも厭わず鉢の破片をつまみ上げた。今朝このネギに水を撒いたのはお兄さんだったことを思い出す。種からじゃなくても植物は育つんだな、なんて言ってすこし微笑んで、ぴんと尖った先端を撫でるように触れていた。みずみずしかった緑は見る影もない。鉢の欠片がぶつかってからんと音を立てる。乾いたその高音は、世間知らずなお兄さんの耳にも悪意となって響いているのだろうことが察せられた。
    「ひどいな」
    「……そっすね〜」
    「やけに落ち着いてるんだな。心当たりがあるのか」
    「……僕のお父さんがテレビに出ているころ、いろんな人に迷惑をかけた話はしたっすよね。そのことで未だ恨みを持ってる人たちがいて、たまにこうやって発散しにくるんすよ。お兄さんを拾うちょっと前から収まってたから油断してたっす」
    「……お前の父親は海外にいることくらいみんな知ってるだろ? この家には子供のお前しかいないことわかっててこんなことしてくるなんて、都会ではこれが普通なのか?」
     苦しそうにお兄さんは言った。僕はお兄さんの顔を見る。夕焼けの色を反射して、怒りをたたえて、揺れる瞳の色が綺麗だった。ずっとこんなふうに透き通ったままでいてほしいとすら思えるほどに。
    「なはは……、さすがにこれはやりすぎっす。普通じゃないっすよ。でも、お父さんに直接届かないことがわかってても我慢できないくらい恨んでるんですよね、その人たちは」
     一歩ドアに近づくと、スニーカーのつま先がぬるっとしたものを踏んだ。きっと生卵だろう。割れた殻も混じっているのか、わずかにじゃりじゃりしていて殊更不快だ。
    「でも僕に直接危害を加えて来たことはないし、こんなことで発散できるなら良いんじゃないっすかね」
    「お前は何もしてないのに一方的にやられて黙ってるのかよ」
    「何もしてなくないっすよ? 僕は生まれてきちゃったから。この国に、このお父さんの息子に」
     お兄さんは睨むような目つきは変えず、それでも困ったように眉尻だけを少し下げた。
    「たまに掃除させられるくらい我慢しなきゃ。さ、先にお肉に味付けちゃいましょ。浸みこませてる間に掃除するっすよ」
    「……ああ」
     丁寧に蜂植えの欠片を地面に置いて、お兄さんは無言で小さく頷いた。

     僕は甘く見すぎていた。人の怒りのちからを。美味しいものをお腹いっぱい食べればだいたいのことを忘れてしまえる僕が異端であり、他の人間の感情はその限りではないという事実を。その夜のお兄さんは唐揚げを美味しそうに8個も食べたし、朝の掃除より何倍も玄関をきれいに磨いて何事もなかったかのようにその日を終えたから、すっかりリセットされたと思い込んでしまったのだ。

     吐く息は熱いのに指先は痺れるくらい冷たかった。せめて立ち上がって家まで帰ろうと思ったけれど、少しでも体を動かすとその箇所がびりびりと痛んでとてもじゃないけど無理だった。諦めて冷たいコンクリートに体を預ける。目は開けているのに、太陽を透かして瞼の裏を見ているときくらいに視界が真っ赤だ。燃えるような赤はあの日お兄さんと見た夕焼けにそっくりだったけど、視界の端にきらっとひかって飛び込んできたのは金星じゃなくってお兄さんの目の色だった。
    「おい、ニキ? しっかりしろ」
     彗星のように視界を横切ったそれは僕の目をしかと捉える。ひかりは焦ったように揺れて、僕の体を抱き起こした。触れられた部分が焼けたみたいに痛む。呻き声が漏れた。お兄さんは僕に意識があることにほっとしたように眉を少し下げた。
    「うぅ、めちゃくちゃ痛いっす~……」
    「クソ……、何でだよ、殴るなら俺だろ。俺があいつらんとこに乗り込んで行ったんだぞ」
     その一言で、お兄さんが何をしてきたのかがわかった。よく見るとお兄さんもあちこち傷を負っている。僕の怪我に比べればかなりマシだけど、それでも綺麗な顔に血が滲んでいるのを見ると僕の胸がきゅっと酸っぱくなる。
    「なはは……、僕が狙われるのはあたりまえじゃないっすか、誰から見ても僕のほうが弱そうなんだから」
     弱い部分を見極めて突いて崩すのが戦争の鉄則なんでしょう? いつかお兄さんが教えてくれたことっすよね。そこまでの言葉は出なかった。息をするたびに骨と骨の隙間に熱い刃が刺さるみたいだった。胃がひっくりかえったように激しく痙攣する。それが殴られたショックのせいなのか、空腹のせいなのかはもうわからなかった。僕はお兄さんの腕に全体重を預けたまま、顔を少し動かしてお兄さんを見上げた。彼は目を大きく開いて僕を見ていた。剝きたての新たまねぎみたいに白くひかる白目が、みるみるうちに水分の膜で覆われるのが見えた。とても綺麗だった。お兄さんが泣くところを見るのは初めてだな、と思った。
    「……ニキ……」
     けれど、瞳にうすく張り詰めた涙が雫になって目のふちからこぼれる前に、お兄さんはぎゅっと目を閉じた。「ニキ、」小さく僕の名前を呼ぶ姿が、いつだったか懐いた野良猫に重なった。状況に似つかわしくない妙な愛おしさがこみあげて、彼を撫でたくなって腕を持ち上げようとした。その瞬間、腕に感覚があまりないことにやっと気づく。驚いて鋭く息を吸い込んだせいで喉の奥がひゅうっと音を立てた。妙に落ち着いていた心臓がどくどくと動き出す。急に痛みと焦りが僕の体を埋め尽くした。これは、かなりまずい。
    「……ニキ! おい、ゆっくり呼吸しろ、返事しなくて良いから」
     お兄さんは悪くない。ただ無知だっただけ。世の中はお兄さんが思うよりもっとずっとどうしようもなくて、汚くて、ちからを持たない僕らが声を上げたって報われるどころか損をすることばかりで。黙ってじっと人生が終わるまで待つのが一番賢い方法だってことを知らなかっただけ。馬鹿のふりをして笑ってやりすごしていれば、見下されつづけるかもしれないけど攻撃はされない。痛い思いをするよりましだ。余計なことをしないでほしかった。僕の腕はどうなっちゃったんだろうか。血が出ている様子はないけど、骨とか筋がだめになっちゃったんだとしたら……、ごはんが作れなくなっちゃう、そうしたらもうどうやって生きていったらいいのかわからない。僕には大金持ちになりたいとか、有名人になりたいなんて望みはなくって、ただ毎日美味しいごはんを食べて生きていければと思っていたけれど、それすら高望みだったんだろうか。
     パニックになり浅い呼吸を繰り返しながらお兄さんのシャツの端をぎゅうと握りしめた、その僕の手をお兄さんの手が包むように覆った。僕よりずいぶん大きくて、でもお父さんよりは小さい掌。その熱を感じて、お兄さんは悪くない、と再度思う。それでも彼が何もしなければ、僕は路地に引きずり込まれてひどく殴られることはなかった、とも思った。「ガキのくせに反抗しやがって」「お前が、俺らにやり返す権利があるのか」と口々に言いながら、彼らは泣きそうな顔で僕を踏みつけ、引きずり、価値のないがらくたみたいに扱った。反抗って何のことだろうと思ったけど僕は何も言わずされるがままにした。彼らの気が済むまで時が過ぎるのを、買い物袋から転がった卵が踏み潰されるのを、目の端で見ながら待った。だって、僕はそうするのが1番だって知っていたから。
    「ニキ」
     変わり果てた玄関のドアから感じ取った悪意はお兄さんの心に刺さって、腫れ上がって、膿んで、無視ができない痛みになった。日が経つにつれそれは治まるどころか、原因を排除しないといてもたってもいられない存在になってしまったのだろう。僕の家にいたずらを仕掛けたやつらの居場所を突き止めるほどの衝動に化けてしまったのだ。「返事してくれよ、ニキ。……悪かった、もうしねェから」、お兄さんが小さく呟いた声は聞こえていた。でも僕は返事をしなかった。できなかったのか、したくなかったのか、あるいはどちらもだったのかを認識する前に、僕は意識を手放した。ぬるく不快な痛みの沼に逃げるように。視界が暗闇に落ちる直前、僕を見るお兄さんの目の色がざらっとした曇りガラスみたいになったのが、見えた。

     目を覚ますと僕は病院のベッドに寝かされていた。鼻の奥にツンと刺さる消毒液の強い匂いに思わず顔をしかめながら記憶をたどる。学校の帰りに突然知らない人たちに路地裏に連れ込まれて、殴られて、お兄さんが助けにきて、野良猫の顔したお兄さんを撫でようとして、そうだ。腕が。そうっと顔を傾けて見ると、腕にはギプスが嵌められ、殴られて傷となった場所にはガーゼや包帯が巻かれていた。恐る恐る腕を動かしてみる。痛みはあるものの、指先は痺れもなく思ったとおりに曲がった。どうやら神経が駄目になったなんてことはなさそうだ。ほっと息を吐いて体を起こすと、僕が目を覚ましたことに気づいた看護師さんが慌てたように駆け寄ってきた。名前や住所を尋ねられ、ぐらぐらする頭を抱えながらなんとか答えているうちに病室の入り口に紺色の制服の男の人が何人か現れる。「椎名ニキくんだね」と彼らが発したところでようやくこれが事件なのだと気づく。
     僕が状況を飲み込むのを待って、強面の、それでも優しく落ち着いた声で話してくれる警察の人から、赤い髪の男性が僕を抱えて夜間の緊急外来へ駆け込んできたと聞かされた。そういえば彼に救急車の存在は教えてなかったことに気づく。息を切らして僕を運ぶお兄さんの様子を想像し、それとともに絞り出すような最後の声も思い出す。『悪かった』、確かにそう言っていた。
    「……あの、お兄さんはどこへ行ったんすか?」
    「それが君を置いてすぐ居なくなってしまったそうだ。犯人に繋がる証言が欲しくて僕たちも探しているんだけどね。君は本当にその男性も、君を酷い目に遭わせたやつらのことも、何も知らないんだね?」
    「……はい」
     どちらの人物に関しても説明をすることが躊躇われた。見知らぬ人を拾って家に住まわせてるなんて言ったらさらに面倒になりそうだったし、僕を暴行したやつらが逮捕されたらお兄さんが彼らにした『反抗』とやらが明るみに出かねない。きっとお兄さんにとってもまずい状態になるだろうと思った。何も知らないという僕の返事に警察の人は小さくため息をついて首を振った。その後淡々と事務的な聴取を終えて警察の人は出て行った。病院側から面会時間の制限を決められていたらしく、詳しくは退院後ということだった。入れ替わりでやってきたお医者さんからは怪我の説明をされる。右腕とあばらが骨折しているものの入院の必要はなく、今日は夜遅いから一泊だけ宿泊となるが明日すぐに帰宅して良いこと。ふいにお医者さんの顔が滲んで見え、胃がぎゅうと縮んだことで空腹に気が付く。そういえばいつから食べ物を口にしていなかったんだろう。なにかないかとポケットを探ると、入れた覚えがない飴がたくさん入っていた。はちみつの飴。お兄さんが入れてくれたのだろうか。ぼやけた視界のまま慌てて袋を剥いて口に放り込む。舌の付け根が痛くなるくらいの甘さをじわりと口の中で溶かし、ようやく息をついた。とろりと唾液に混ざったはちみつが喉を、食道を下って沁みていく。

     今すぐお兄さんに会いたい、と思った。でも、顔を合わせたとして何を言うべきかはわからなかった。怒ったら良いのか、謝ったら良いのか、赦したら良いのか。わからないけどとりあえず僕と彼の好物をたくさん作って、美味しいねって言い合いながら食べたかった。お兄さんは口の端を怪我していたから、食事に差し障りがないか心配だ。熱いものや辛いものは避けた方が良いだろうか。
     けれど、そんな心配は杞憂だった。翌日帰宅した僕を迎えたのはお兄さんの荷物がすっかり消えた部屋で、その日も次の日も彼が帰ってくることはなかったから。

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     あの頃。僕らが生まれたてみたいに何も知らなくて、それでも赤ん坊とは呼べない程度には傷まみれだった頃。
     17歳の燐音くんはいつだって怒っていた。知識や常識がない故に納得できない事象が多く、それにぶつかるたびに怒った。周りにも、ものを知らなさすぎる自分に対しても。野菜の値段に怒り、電車の優先席に座る若者に怒り、ポイ捨てされているゴミに対して怒った。自分の常識と世間の常識の中でぐらぐらと揺れながら、プライドをすり減らしながら、それでも声を上げた。
     怒るといっても声を荒げて暴れまわるわけではなかった。かたちのいい目をしっかり開いて、青いくらいにひかる白目にぎらっと怒りを宿して、理解の範疇外の対象を見つめた。その様子を見るたびに僕は、彼の心に小さな傷がついていく音が聞こえたような気分になった。失望して、怒って、それでも赦したくて立ち上がり続ける燐音くんに、「きれいごとだけじゃ世の中は回らないっすよ」と言ってあげられたらどれほど良かったんだろう。とはいえ、そんな残酷なことを誰も言えやしなかったに違いない。少なくとも僕には到底無理だった。背筋を伸ばして、透き通った眼で物事を見る彼を曇らせたくなかった。
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