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    #天城燐音
    amagiPhosphorus
    #あんさんぶるスターズ!!
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    4 ぐねぐね道をまっすぐ

    「おい、落としたぞ」
    「……あっ」
     突然かけられた声にびっくりして振り返ると、知らないヤツがぼくのハンカチを差し出して立っていた。
    「あ、ありがとうございます」
    「ん」
     ぼくがハンカチを受け取ると、そいつは頷いて歩き出した。ぼくとすれ違いざまにハンカチを拾ってくれたようで、ぼくとは反対の方向へ進んで行った。平日の朝、ランドセルと黄色い帽子が一方方向へ流れていく中で、薄汚れた格好のそいつは少し目立っていた。背が高いしぼくよりは年上だろうけど、大人には見えない。高校生くらいだろうかというのに私服で手ぶらなことから学校へ行く様子はなかった。
     なんとなくぼうっとその背中を目で追っていたけれど、すぐに人波に揉まれて見失ってしまう。

     ぼくの家から学校へ向かう道はふたつ、大まかにいうと大通り沿いと裏通り沿いがある。裏通りはくねくねと無駄なカーブがあるせいで、まっすぐの大通りに比べて歩くとすこし時間がかかるうえ、前を通ると絶対に吠えてくる大きい犬を飼っている家があってすこし怖い。人通りと街灯が少なくて下校の時間になると薄暗くて心細い気持ちになる。お母さんは裏通りをなるべく通らないようにとぼくが入学したときから口酸っぱく言ってきたけど、わざわざ言われなくたってここを通る生徒は少ない。
     今日もいつものように大通りを歩いて学校の方へ向かう。学校が見えてくるにつれ、泥の中を歩いているように足がどんどん重くなっていくのを感じる。ため息をついてランドセルをゆすって背負い直し、ぼくは何とか足を進めた。

    「本当にひとりで帰れる? 先生がおうちまで送っていこうか?」
    「いえ、大丈夫です」
     先生は連絡帳にぼくの症状を書き込みながら困った顔をした。体調不良で早退するときは基本的に保護者のお迎えが必要だからだ。ぼくは、今日お母さんがお仕事で電話に出られないことを知っている。
    「まだ頭は痛いけど、さっきよりはすこし良くなってきたので。帰って家で寝ます」
    「……わかった。気をつけて帰って、お母さんに連絡帳を読んでもらってね」
    「はい」
     渡されたそれを受け取った瞬間、ぼくの荷物を持って来てくれた日直の子が保健室のドアを開けて入ってきた。
    「あ、ありがとうね。机の中の教科書も入れてくれた?」
    「はい、入れました。図工の作品も今日持ち帰りになってたけど、それは明日でもいいですよね。えっと……、頭痛いの、大丈夫?」
    「……うん、ありがとう」
     ぼくはランドセルをもらうと連絡帳を中にすべりこませ、なにか言いたそうな顔をしているそいつと目を合わせないようにベッドから降りた。
    「じゃあ、さようなら」
     校門まで送ろうとする先生に断って保健室を出た。学校から解放されたはずなのにまだ心は重い。のろのろと歩いたせいで上履きのつま先のゴムの部分が廊下にこすれて、キュっという耳障りな音を立てた。

     ついさっき歩いた大通りを、さっきとは逆方向に歩く。朝よりかなり人通りは減っていたけれど、それでもまだにぎわっている。陽が高いうちから外をひとりで歩いている小学生は目立つんだろう。すれ違う人がちらちらとぼくを見ているような気がして緊張した。すこしでも見られないようにしようと帽子を脱いでランドセルにしまったけれど気休めにもならない。歩きながら、道の向かいにある建物をちらと見る。デジタル数字で気温と時間を表示している建物で、その数字はまだ11時を少し回ったところだった。今日は学校の後塾に行く予定だ。塾が始まるまでまだ5時間以上もある。家に帰る気にはなれなかったけれど、どこへ行って良いかもわからなかった。このまま少し進んだところに交番があることを思い出し、おまわりさんに見られながら通り過ぎなければならないと思うとさらにぐっと胃が重たくなったような気がした。
     交番に差し掛かる前、大通りと裏通りをつなぐ細い曲がり道の横を通ったとき、そういえばこちらから帰るのはどうだろうと思いついた。人があまり通らないのでぼくが歩いていてもここよりは目立たないだろう。とにかくこの居心地の悪さをどうにかしたかった。なんとなく前後を見まわして誰もこちらを見ていないことを確認する。大きく息を吸い込んで裏通りへ足を踏み入れた。
     最後にここを通ったのは、友達と度胸試しをした1年生のころ以来だ。あの頃は友達と学校帰りに駄菓子屋や公園に寄って遊んでいた。新しいゲームが出れば貸しっこして暗くなるまで遊んだり、わざと遠回りして隣町の学校の可愛い子を見に行ったりした。度胸試しはそんな色んな遊び方のうちのひとつだった。犬に吠えられるわ、今にもオバケが出てきそうな小さな竹やぶが風もないのにガサガサと揺れる音を出すわ、なぜか大量のカラスがぐるぐると旋回している場所があるわで今思い出してもかなり怖い経験だった。でも、悲鳴を上げながら友達と走ったこと自体は楽しかったなと思う。ぼくの習い事と塾が始まってからはそんなことできなくなってしまったけど。
     昼間だからか、記憶よりかは明るい雰囲気の裏通りをおそるおそる歩いた。あの時と変わらず大きい犬がいるけど、小屋に入り込んで動かない。どうやら寝ているようだった。起きませんようにと祈りながらその家の前を通り過ぎると、竹やぶに差し掛かる。度胸試しのときはもうここの時点で走り出していたので気付いていなかったけど、竹やぶの横には公園があった。ブランコと富士山の形の大きな滑り台があるだけの小さな公園だ。うら寂しい雰囲気に思わず立ち止まると、ざあっと風が吹いて竹やぶを揺らした。さらさらともがさがさとも聞こえる葉の擦れる音に心臓を撫でられ、あの頃の恐怖心を思い出して首筋が泡立った。はやく立ち去ってしまおうとした瞬間、鼻先に雨がぽたりと落ちてきた。いつの間にか空は曇っていて、アスファルトに点々と染みを作り出している。しまった、今日はにわか雨が降るってテレビが言っていたのに。折り畳み傘――は、教室の机の横にかけっぱなしだ。強い雨ではないけど、傘なしで歩けるほどでもなかった。雨が止むまでの間だけだ、仕方がない。ぼくは腹をくくって公園に入った。山の形の滑り台は中に入れるようになっているはずだ。小走りで駆け込んで、そして、ぼくは悲鳴を上げた。
    「うわっ……!」
    「あ? うるせェなァ」
     飛び込んだ薄暗い滑り台の中には先客がいたからだ。ぼくの大声で、そいつは横になっていた身体をむくりと起こした。その顔には見覚えがあったので、ぼくはもう一度驚いた。
    「あ……えっと、朝の」
    「ああ。ハンカチ落としたヤツ」
    「そ、そうです、あの、拾ってくれてありがとうございました」
    「別に礼を言われるようなことしてねェよ」
     機嫌が悪そうに頭を掻いたそいつは、よく見るとあちこち怪我をしていた。もしかして、不良だろうか。喧嘩でできた傷なのかもしれない。目つきが鋭くて顔つきもちょっと怖いかんじだし、学校に行っていない若い男というだけでワルいような気がする。ぼくが普段関わりがある人間にはいないタイプで、どぎまぎした。袖口やひじが汚れた服を着ているのに、怪我に貼られている絆創膏やガーゼが清潔なのが変なかんじだった。このままここにいると、財布出せよとか喧嘩売ってんのかとか言われそうな予感がして、慌てて滑り台から出ようと振り返った。けれど、ついさっきより雨足が格段に強くなっていて絶望した。どうせここを出たところで行く場所がなくてうろうろするだけなのだと思うと、どうするのが正解なのかがわからなくなる。
     ちらりと男を見ると、さっきまで投げ出していた脚を折りたたんで体操座りをするところだった。ぼくが座るスペースを空けてくれたんだろうか。今朝、わざわざぼくが落としたものを拾って声をかけてくれた人なのだから、見た目とは違って優しいのかもしれない。
    「あの、雨が止むまでここにいていいですか」
    「好きにしろよ。俺の場所でもねェし」
    「……はい」
     顎をしゃくって空けた場所を指されたのでぼくは観念してそこに腰を下ろした。男はクラスの女子が見たらきゃあきゃあ言いそうなイケメンではあったけれど、目を眇めてぼくを見るのでやっぱり怖かった。ぺとりとおしりが触れた場所は生温かくって、さっきまでこの人がここに寝転んでたことがよくわかる。
     穴から空を見上げるが、しばらく雨は止みそうにはない。ぼくは気まずさから男に背を向けて座り、ランドセルを下ろして連絡帳を取り出した。そして先生が書いてくれたページを切り取りにかかる。これをお母さんに読まれるわけにはいかないからだ。仮病で早退したことがばれてはいけない。ほんとうは、頭は痛くもなんともない。罪悪感に押しつぶされそうに苦しくなった。指先に力が入り変なふうにページが破れ、「あっ」と小さく声が出てしまった。
    「おい、何してんだ」
    「あっ、いえ、なんでもな……」
     いつの間にか男がめちゃくちゃ近くにいて背後からぼくの手元を覗き込んでいたので、驚きすぎて体が跳ねたのがわかった。「熱はありませんが頭痛がひどいとのことで早退させました。最近保健室で休むことが多いので一度病院へ行かれてはいかがでしょうか」と男はぼくの肩ごしに文章を読み上げた。その平坦な読みかたは国語の授業の音読を思い起こさせたけれど、眠たくなるようなそれとは違って少しかすれた声は耳に気持ち良かった。男は片眉を上げてぼくの顔を見る。
    「何で破んだよ」
    「ええと……」
    「頭痛がひどいわりに随分顔色良いもんなァ、お前」
     戸惑っているぼくの手の中から連絡帳をとりあげて男はぱらぱらと中を見た。表紙の裏には個人情報が書いてあるし、人に見せるものではないのでぼくは慌てて手を伸ばす。
    「か、返してください」
    「悪い。初めて見たからついな。これは学校の先生から親への文に使う手帳か?」
    「ふみ、ああ、お手紙ですか。基本的には自分で書いて親に渡すんですけど、用事があるときは先生が書くんです。……お兄さんの学校は連絡帳なかったんですか」
     あっさりと連絡帳をぼくに返して、そいつは体育座りをしていた脚をストレッチのようにぐぐっと伸ばした。ジーンズの膝小僧までもが砂っぽく汚れているのが見える。その長い脚をゆったりと組んで、「俺、学校行ったことねエからな」とつぶやいた。
    「えっ……、中学校にですか?」
    「んや、小学校も」
     ぼくは何て言って良いのかわからなくて、急に口の中にたまったつばをごくりと飲み込んだ。行かなかったのか、行けなかったのか、どちらなのかはそいつの表情から読めなかったからだ。いまどきの日本で義務教育を受けていない人間がいるなんてぼくは考えたことがなかった。何かが起こって不登校になったのであれば「行ったことない」という言い方はしないだろう。そもそも入学前に用意するリストの中には連絡帳は必ず入っていたはずだ。そうするとヤンキー過ぎて入学式からずっとサボっているとか、体が弱くてずっと入院していたとか、それくらいしか思いつかない。そいつの見た目だけでいうとおよそ病弱そうに見えないけれど、それだけで判断はできないことだった。
    「今中学校に通ってる知り合いはいるけど、中学校はこんな手帳無いっぽいな。見たことねェ」
    「……そう、ですか」
    「うん。だからちょっと興味あったンだよ、小学校に。なァ、中学校と小学校って何が違うんだ?」
    「ぼくはまだ小学生なので、中学校のことはわからないですけど……」
    「はは、そりゃそうだよなァ」
     そいつはランドセルの表面にそっと触れて笑った。笑うと目の下にシワが寄ってすこし幼い顔になって、怖い印象ががらりと変わった。
    「その中学生の知り合いに聞いたらいいんじゃないでしょうか」
    「まァな」
     ぼくのものをを勝手に触られているのに嫌な感じがしないのは、その手つきが妙に優しいように見えたからだ。男は宝物を扱うように恐々とランドセルを持ち上げて不思議そうな顔をしているので、ぼくは手をのばして底の金具を外した。かちんと音を立てて蓋が開くとそいつは感心したように頷いて「こんな仕組みだったんだな」と言った。
    「んで、お前は仮病使ってまで何で学校サボってんだよ」
    「……」
    「俺には関係ないし、言いたくねェなら別に良いんだけどな」
     ひときわ風が強く吹いた。それはぼくたちがいるところまで吹き込んできて、霧のように小粒な雨がさあっと体を濡らした。『最近元気ないように見えるけど大丈夫?』『今日も習い事だろお前。いや、塾だっけ? ちょっと忙しすぎじゃねぇ?』、先生や友達が何かを含んでぼくに向ける目。『本当に無理しないで、つらかったらいつでも辞めていいんだからね』、お母さんが心配と、それよりはるかに強い期待を込めてぼくに向けるあの目。今ぼくを見ている男の鋭い瞳はそのどれとも違った。他人だからぼくに何の感情もないんだろう。でもなんだかそれだけじゃない気がした。必要以上に心配することも窘めることも叱ることもなさそうに思えるのがどうしてなのかを考えるのと同時に、するっと口から言葉が出た。「疲れたって言いたくないんです」、とこぼれた言葉は、そこから止まらなかった。
    「将来の夢をお母さんに話したら、絶対応援するねって言ってくれて、いい塾に行かせてもらえたんです。すごく高いところ。いい学校に行くために、夢を叶える可能性を少しでも高くするために、習い事も行くようになりました。ぼくは歌と運動が苦手なんですけど、テスト以外の成績も良くなれば、行きたい学校へ優先的に推薦してもらえるかもしれないんですって」
     男はなにも言わずにぼくを見たままだった。
    「だから毎日習い事があって、塾があって、試験があって、宿題もあって、前みたいにテレビやゲームに使える時間が無くなっちゃって。友達が盛り上がってる最近売れてるアイドルの話とか、全然、わかんなくって……。ぼくは望んだとおりにやりたいことをやらせてもらってるのに、遊べないのが不満だって思いたくなくて、どうしたらいいのかわからなくなっちゃいました」
    「ふゥん。何になりたいの、お前」
    「……パイロット」
    「飛行機の?」
    「はい」
    「へェ……」
     興味があるのかないのかわからないこの相槌が妙に居心地良く感じるのはなんでなんだろう。すごいねとか立派だねっていう聞き飽きた感想が飛んで来るのかと思ったがその逆で、むしろ何も言われなかったので拍子抜けした。
     そんなことより、という感じで男は目をきらっとひからせて上を指さした。
    「なァ、飛行機が何で飛ぶか教えてくれよ」
    「え?」
     予想外の質問に驚くぼくを気にするふうもなく、男は続けて言った。
    「気になってたんだよなァ。運転士になりたいなら知ってンだろ」
    「はあ、一応は。ええと……、簡単に言うと、飛行機が飛んでいるときって4つの力が作用しあってるんです。重力と推力と抗力と揚力っていう」
    「ようりょく?」
    「揚げる力って書くんですけど……、えっと、説明が難しいので書きますね」
     本当に純粋に興味があったんだろう。男のわくわくした表情は適当な説明ではごまかせない気がした。仕方がなくさっき破った連絡帳のページを裏返して、ぼくは飛行機と矢印を描いた。男はそれを覗き込んでぷっと吹き出した。
    「お前、歌と運動だけじゃなくて絵も下手なんだな……。マジで飛行機好きなのか疑いたくなるぜ、ヒトデみてェじゃねーか」
    「言わないでくださいよ……、お絵かき教室まで通わないといけなくなるじゃないですか。とにかく機体に対して力がこう、四方向にかかっていて」
    「重力はわかる。推力も。要するにエンジンだろ、前に進む力。浮く仕組みに関係あんの?」
     推力、の文字を指さして男は少し得意げな顔をしたあと、小さく「おし」と呟いた。たしかに推すとも読むことから推力の意味をはかったのだろうとぼくは思った。
    「あります。浮き上がる力がこの揚力なんですけど、揚力は水とか空気の中で動くものに発生する力なので、進まないと生まれないんです」
    「ん? 揚力は上からも下からもかかるのか?」
    「はい。下からの揚力が上よりも強ければ浮くんですよ」
    「どうやって調節すんだ、それは」
    「翼のかたちで……ええと……主翼は輪切りにするとカーブになってて、翼の上と下で圧力が変わるようになっているのが関係しているらしくて……、すみません、よくわかりません……」
     尻すぼみに小さくなるぼくの説明は情けなく語尾が揺れた。ぼくの説明の意味はわかってくれたのだろうが、いまいち納得しきれていない顔で男は頷いた。
    「知らねェことばっかだなァ……」
    「……ぼくもです。知ってるつもりだったけど」
     何度も本を読んで、インターネットでも調べて、わかっているつもりだったけれど、改めて質問をされると説明ができない穴があることに気づいてしまった。ぼくの夢を誰よりも応援してくれるお母さんにだって何度も説明したことがあるのに、今初めてそれに気づくことで、お母さんはぼくの調子に合わせた優しい質問をしてくれていただけなのかもしれないと思ってしまった。
     男が空を見上げたのでぼくもつられて上を見る。なにか飛行機が通れば機体を見て知識を披露できるかと期待したが、曇り霞に覆われた空では望めない。
    「お前は偉いな」
    「偉くないです、自分のやりたいことをやってるくせに弱音吐いて逃げてるだけなので」
    「一生逃げるわけじゃないなら、逃げじゃなくて小休止じゃねーの?」
    「……」
    「逃げないことが一番偉いとは、俺は思わねェよ。つーか、状況を的確に把握して逃げるのは、意地張ってつぶれるより何倍もマシだろ」
    「お兄さんも、逃げてるところですか?」
    「そう見えるか?」
    「……はい……」
     男が黙ったので、調子に乗って言い過ぎてしまったかと思ったけど、苦笑して「そうかァ」と漏らしたので怒ってはいないようだった。男のさっきの言葉はぼくを肯定するようでいて、自分を正当化しているような、すこしだけ言い訳のような印象があったからだ。

     雨は上がらず、飛行機はそれからも見えないままだった。男はポケットから駄菓子を取り出して、半分ぼくにくれた。給食を食べずに早退してしまったのでお腹がすいていたぼくは、ありがたくもらって、黙ったまま二人でそれを食べた。こんなに何もしない時間は久々だった。

     チャイムの音ではっと気づく。ぼくはどうやら眠ってしまっていたようだった。薄く目を開けると男はまだそこにいて、ぼくの教科書やさっき飛行機の説明を描いた紙をぱらぱらと捲っている。床にくっついていたほっぺは冷えて感覚がなくなっていて、床は逆にぼくの体温を吸ってぬるくなっている。雨はかなり弱くなっていて、まばらに地面をたたく音が聞こえた。そして雨音に混じって男の鼻歌も。それは聞いたことがあるようなないような歌だった。うろ覚えで歌っているのか途切れ途切れのその歌に耳を澄ませた。もうすこし横になったまま聞いていたい気もしたけれど、さっきのチャイムは17時を報せるもののはずだ。そろそろ塾へ向かわないといけない時間だった。
    「お、起きたァ?」
     体を起こすと、男の上着がずるっと体から滑り落ちたので、寝ている僕に脱いだ上着をかけてくれていたことにようやく気付いた。
    「寝ちゃいました……。そろそろ塾いかなくちゃ。上着、ありがとうございました」
    「あァ。もう大丈夫なのか?」
    「はい」
     上着をたたもうとすると、男は手をひらひらを振って遮った。「そのままでいーから」と差し出された手に上着を渡す。指の先が少しだけ触れて、その瞬間なぜだかさみしいような気分になった。
    「……また会えますか?」
    「そうだなァ、ま、どっかで会えるンじゃね」
     男は、お兄さんは、富士山の穴の中で胡坐をかいたまま、大きく手を振ってぼくを見送ってくれた。ぼくたちはもう会うことはないだろうとわかっていた。だからこその質問だった。ぐずついた雨の天気に似合わない笑顔で、お兄さんはうなずいた。

     塾への道を歩いていると、ふいにお兄さんのさっきの鼻歌がなんの曲だったのかを思い出した。あれは教室で友達が歌って踊る真似をしていたアイドルの曲だ。デビュー曲がいきなりドラマの主題歌になったと言っていたような気がする。
     裏通りはこの時間も人がいない。念のため周りを見回して誰もいないことを確認して、ぼくもうろ覚えながら歌ってみた。数音節歌ったところではやくもわからなくなったけど、かまわず続きはでたらめにつくって歌った。下手くそなぼくの歌は竹やぶが吸い込む。しんと静かで暗い竹やぶはもう怖くなく、ぼくの歌に耳を傾けてくれているようにすら感じた。

     いつかまたお兄さんに会えることがあれば、今度は完ぺきに飛行機が飛ぶ仕組みを説明したい。途方もない長い道に、道しるべがひとつできたような気がした。


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     あの頃。僕らが生まれたてみたいに何も知らなくて、それでも赤ん坊とは呼べない程度には傷まみれだった頃。
     17歳の燐音くんはいつだって怒っていた。知識や常識がない故に納得できない事象が多く、それにぶつかるたびに怒った。周りにも、ものを知らなさすぎる自分に対しても。野菜の値段に怒り、電車の優先席に座る若者に怒り、ポイ捨てされているゴミに対して怒った。自分の常識と世間の常識の中でぐらぐらと揺れながら、プライドをすり減らしながら、それでも声を上げた。
     怒るといっても声を荒げて暴れまわるわけではなかった。かたちのいい目をしっかり開いて、青いくらいにひかる白目にぎらっと怒りを宿して、理解の範疇外の対象を見つめた。その様子を見るたびに僕は、彼の心に小さな傷がついていく音が聞こえたような気分になった。失望して、怒って、それでも赦したくて立ち上がり続ける燐音くんに、「きれいごとだけじゃ世の中は回らないっすよ」と言ってあげられたらどれほど良かったんだろう。とはいえ、そんな残酷なことを誰も言えやしなかったに違いない。少なくとも僕には到底無理だった。背筋を伸ばして、透き通った眼で物事を見る彼を曇らせたくなかった。
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