羅針盤の行き先は 萌黄色の瞳を輝かせながら「もういっかい! もういっかいやろう」と小さな塊にせがまれる。このやりとりも、数にすればもう片手分をゆうに超えていた。未だ冷めやらない視線を向けられ、面倒だな……という気持ちをなんとか抑え込むこと数十回。母親と同じ色をした瞳に見つめられるたびに、ああ、この人の血が流れているんだなということを嫌というほど実感する。
それでも、この純粋無垢な眼差しを向けられるのは悪くない気分だった。ままごとのような遊びに付き合ってやるたび「ミスラおじさん、ミスラおじさん」と引っ付いてくるこの小さな塊を鬱陶しく思う。それなのに、引き剥がすことが出来ないのは何故だろうか。ミスラが気もそぞろに目を落とすと、なにやら服の裾を引っ張られる気配がした。
「たからのちずをもって、おたからさがしにいくぞー! ミスラおじさん、じゅんびはいい?」
「…………アイアイサー」
「もっとげんきよく! ほかのかいぞくにおたから、とられちゃうよ?」
「はあ……はい。アイアイサー」
「よし! しゅっぱーつ! あっ、ミスラおじさん、たいへん! あっちのうみからかいじゅうさんがきてる」
小さな塊……改め、ルチルは両手を筒の形に丸めて中を覗き込んでいる。どうやら望遠鏡に見立てているらしい。そんなもの、出船してしまえばすぐに潮風で吹き飛ばされてしまうというのに、真剣な眼差しで筒の奥底を覗き込んでいる。しかも筒の向こうには怪獣がいると言うのだから驚きだ。もし本当に怪物が現れたのなら、こんな小さな毛玉、一口で食われてしまいだろう。本当に、この小さな彼の考えることは全く分からない。
「あなた弱いんですから、怪物なんか現れたら食われますよ」
「……? だって、ミスラおじさんがかいじゅうさんからルチルをまもってくれるんでしょ?」
「はあ……まあ、俺にかかればこんなの一瞬で消し炭にしてやりますよ。ほら、俺の後ろに来て、守ってやります」
頼られるのは悪くない。ルチルの一言で、一瞬にして心が浮き立つような高揚感に包まれる。ペットのクラーケンを呼び出して墨を吐かせ、怪獣を退治する真似をしてやる。するとルチルは飛び上がり、はしゃいだように両手を広げて「ミスラおじさんすごーい!」と足元へ絡みついてくる。得意げな気分になった。
島の人間も、海賊連中も、クラーケンを一目見るたび血相を変えて踵を返すと言うのに。彼だけは違った。予想をゆうに超えてくる齢五歳の幼子に、今日は随分と気分を振り回されている。もう二十歳も超えた、良い大人だというのに。
「あっ、ちょっとミスラ! まーたクラーケンに墨吐かせたでしょ? 床と壁掃除、やってから帰ってよね」
「はあ……怪物やっつけろってねだられたから墨吐かせたんですけど」
「いや、わざわざ墨吐かせなくたって他に方法なんていくらでもあるでしょ」
「でもほら、あの人喜んでますよ?」
「まあ、ルチルはあんたに懐いてるからね」
視線を横目に移すと、ルチルは椅子の上に立ち上がり、紙で作られた海賊帽を被っていた。よく見ると帽子には長い棒のような物体と、それに連なる円が描かれていた。海賊帽とは思えないくらいの不思議な絵。チレッタに聞いてみると「連なる円は私と父親とあの子。あの長い棒みたいなのはミスラらしいよ」と教えられた。どう見ても、強めに呪われた木の棒にしか見えなかったが。不思議なセンスをしている子供だと思った。そのままごっこ遊びを続けるルチルは、空想の大海賊時代に舞い戻っているのだろう。
「大体、このやりとり何度目だと思ってるんですか? もう七回目ですよ。さすがに俺も疲れます」
「あははっ! あのミスラがうちの子のごっこ遊びに七回も付き合ってくれるなんてね」
「全く、クラーケン見せても全然怯まないし……何を考えてるのか分かりませんよ」
「でも可愛いでしょ? うちの子。案外ミスラみたいなタイプには、物怖じしないうちの子みたいなのが性に合うかもね」
再度視線を移してみるも、先程と変わらず、ルチルはごっこ遊びを楽しんでいるようだった。何度もせがまれ、面倒くさいと思っていたはずなのに、特段嫌だという気持ちが湧き上がらないのが不思議だった。
チレッタは「また気が向いたらうちの息子に会いに来てよ」と、豪胆な笑みを浮かべてくる。船上で何度も見てきた、何事にも動じない表情。そんなチレッタの表情は、ルチルと似ているようで、少しばかり違うようにも思えた。
「俺がオズを倒して、気が向いたらまた会いに来てやりますよ」
そう宣言してから口端を上げる。宿敵であるオズを倒したら、彼女に自慢しにまた来てやってもいいかと思った。伝説の大海賊になるまで、そう遅くはならないだろう。その時には、この小さな塊も成長しているのだろうか。
窓の隙間から入り込む潮風が、燃え盛る赤髪を揺らしていた。
◆
海賊船に乗り込んだのは、偶然だったのか、それとも必然だったのかは分からない。
けれどあの日、間違いなく母様の夢の続きを見た。
輝くように白んで消えた、彗星みたいな奇跡を。
「そうして世界は、優しく勇敢な一人の海賊によって救われたのでした」
最後の一行を読み終え、絵本を閉じる。まるで絵本の世界に入り込んでしまったかのような静寂も束の間。閉じ終わると同時に、ワッと盛大な拍手が湧き上がる。聞いてくれる子供たちの満面の笑みと、興奮冷めやらず、きらきらと光る瞳の色が、なによりもルチルの心に熱を灯してくれる。
「ルチルお兄さん! 新しいお話の続き、面白かったよ」
「伝説の宝珠が見つかってよかったね!」
あっという間に子供達に囲まれ、ルチルの周りはぎゅうぎゅう詰めになる。
「みんなに楽しんでもらえてよかった。また今度、新しいお話の読み聞かせをするから、是非聞きにきてね」
「やったー! ルチルお兄さんの読み聞かせ、楽しみだな!」
次回作の告知をし、満足げに去っていく子供達を見送った。伝説の宝珠と隠されていた真実が明らかになったあの日から、既に三ヶ月が経とうとしていた。こうしてブラッドリーさん率いる死の海賊団から下船して、フォルモーン島での日常を送っていると、あの胸踊る非日常がまるで幻だったかのように思えた。絵本の読み聞かせ。市場での買い物。趣味であるサーフィン。ここでは凪いだ水面のように、穏やかに日々が過ぎていく。
「あっ! やっぱりここだったんですね! 兄様――っ!」
そんな穏やかな水面に波紋を広げるような。遠くから溌剌としたミチルの声がする。帰ってくるのは明日だと聞いていたけれど、何らかの理由で早まったのだろう。振り向きざまに、ミチルへと視線を移す。
「ミチル、おかえりなさい! 留守にしててごめんね。帰ってくるのは明日だって聞いてたから」
「はい、大丈夫です。ここに来て正解でした! 明日のはずだったんですけど、これから天候が荒れるだろうって、フィガロ教官が……だから、一日早めに帰省してきました」
顔を上げるとミチルの言う通り、海上の雲はどんよりとした濃灰色に染まり始めていた。もうじき、島もスコールに見舞われるかもしれないな、と思ってしまうくらいの空模様。読み聞かせ後にサーフィンをしようとボードを持ってきていたが、またの機会となりそうだ。
「ミチルの言う通り、雨が降りそうな雲だね。早く家に帰ろうか! 今片付けるから、ちょっと待っててね」
「はい! ボクも片付け、手伝います」
テキパキと絵本を鞄の中へ入れ、足早に岐路につく。いまにも雨が降り出しそうな曇天とは裏腹に、予期せぬミチルの来訪に心は浮き足立っていた。
ミチルは全寮制の海軍学校に通う生徒で、一年のうち決まった時期にしか帰省が出来ない。今回はテストを終えたタイミングで、学校から帰省許可が降りたのだ。ミチルの座学の成績はトップクラスで、今回もライバルであり、仲良しの友達と首席を競い合ったのだろう。唯一の家族であろうと、簡単には会えない環境下。それに加えて海賊船を下り、長旅を終えたばかり。久しぶりに元気そうなミチルの顔を見ることが出来て、心の底から嬉しさが込み上げてくる。留守にしていた空白の三ヶ月間、海軍と敵対相手となる海賊船に乗っていたとはミチルを心配させてしまうので口外出来なかったが、帰ったらどんなお土産話をしようかなと考えるのは楽しかった。
「はい、お茶淹れたよ」
「やった! ありがとうございます」
お茶を啜りながら、学校での生活や伝説の宝珠についての話に花が咲く。手紙一つで飛び出してきてしまったものだから、案の定ミチルには根掘り葉掘り質問をされた。母様が探し求めていた、伝説の宝珠について。彗星の天使の奇跡。まるで御伽噺のようなルチルの返答に、ミチルは食い入るように耳を傾けていた。
「それで兄様、母様のお友達には会えたんですか?」
「ううん。また旅に出る機会があれば、次こそは会って伝えられたらいいな……」
小さい頃に一度だけ会ったことのある母様のお友達。炎のように赤い髪の毛。気怠げな緑色の瞳。うんと上背があるから、首を直角に曲げないと顔が見えなかったことを、今でも鮮明に覚えている。彼が家に来訪したのはそのたった一度だけ。それからすぐに、不慮の事故で母様は亡くなった。ミチルが海軍学校に入学するのをきっかけに、宝珠を探す母様の夢を追って家を出た。フォルモーント島に移住してからは、母の夢の続きを追う側、密かに彼を探していた。昔、母様と同じ海賊船に乗っていた彼に、母の死を伝えようと思っていたのだ。
「そうですね……でもそのお友達、海賊なんですよね? 海賊なんて悪い奴に決まってます」
「母様が生きていた頃は海賊だったけど、今はどうなんだろうね。……ミチル、全ての海賊が悪いって決めつけてはいけないよ。良い海賊だっているかもしれない。母様だって、有名な女海賊だったでしょう?」
「それはそうですけど……」
ミチルはマグカップを両手に持ちながら、もごもごと口を動かしている。心が葛藤で揺れているようだった。母様が有名な大海賊だと知ってから、ミチルの海賊を見る目は以前と少し色が変わったような気がしていた。きっと、百%悪いとは言い切れないのだろう。
「もし、母様のお友達に会うことができたら、ミチルにも会わせてあげたいなあ」
「ボ、ボクは大丈夫です! 海賊なんて会いたくありません!」
「そうかなぁ。海賊だったとしても、とっても優しい人かもしれないよ」
そう言って、お茶を一口含む。話に夢中になりすぎて少しばかり冷めてしまったが、まだマグカップにはほんのりと温かさが残っていた。
窓の外に目を向けると、暴風雨が吹き荒れ、怒り狂ったような高波が轟音を立てている。ブラッドリーさんやネロさん、海賊団のみんなは大丈夫だろうか。こんな悪天候の中、母様のお友達も、今もまだ航海を続けているのだろうか。
ルチルの度重なる思いは、波打ち際で砕け散る白波とは違い、胸の奥深くに留まっていく。
――どうか、無事に嵐が過ぎ去りますように。
そう、祈った。
◆
「うーん……ブラッドリーさんたち、大丈夫だったかな?」
思わず独り言が口をついて出る。家が左右に揺れるほどの暴風雨。不安定な海上の船はひとたまりもないだろう。今はネロさんも一緒だし、なんとか持ち堪えてくれればいいな、と願う。
砂浜を踏みしめながら空を見上げると、昨日の嵐が嘘のように雲ひとつない青空が広がっている。からっとした晴天に、自然と足取りも軽くなる。
ルチルは昨日の暴風雨で見切りをつけたサーフィンをしに、海へと向かっていた。潮風が亜麻色の髪を揺らす。海は空の色を移し、どちらともない境界線と共に深い青に染まっている。きっとこの青を絵に描いたら素敵だろうなと更に胸が躍る。
ミチルはどうだろうか、と、サーフィンに誘ってみるも「久しぶりに市場で買い物したいので、ボクは大丈夫です」と断られてしまった。なので、午前中はミチルとは別行動になる。何気ない一言に、もう一人でも出掛けられるくらい大きくなったんだな、としみじみと成長を感じた。可愛い弟であることは確かだが、いつまでも子供ではないということを思い知る。
ビーチに到着すると、ウェアに着替え、早速準備運動に取り掛かる。ぐいーっと関節が伸びている感覚が気持ち良い。ビーチを離れ、ゴツゴツとした岩場のリーフポイントへ移動していくと、白波がうねりながら岸へと寄せてくる。嵐の後ということもあり、波も高い。絶好のサーフポイントだ。そのままパドリングで沖へと向かい、大波のピークを待つ。もしかすると、今日はグランドスウェルに乗れるかも知れないなと、胸を躍らせる。ワクワクしながら波を待っている間、顔を撫でるような風が気持ち良かった。ふと先へと目を向けると、海の向こう側から一際大きな波が見えた。タイミングを見計らい、華麗に波に乗る。そうして重心を保ちながら、猛スピードで海上を駆けてゆく。
「イヤッホー! やっぱりサーフィンは楽しいな」
大波に乗り、あっという間にビーチ近くまで戻ってくる。今日の波は一段と荒々しく、高さがあるので胸が高鳴った。ルチルは再度波に乗ろうと、今度は別のリーフポイントまで移動する。ボード片手にゆっくりと海の中へと足を沈めていく。すると、何やらぬるりとした感触が足を伝い、反射的に引っ込めた。
「わっ! びっくりした……蛸さん、かな?」
蠢く何かの正体を確かめようと、水面に顔を近づけてみる。水中でうねる触手が目に入り、きっとあれは蛸さんだろうな、と思った。ここで入水したら、きっとびっくりさせてしまう。ルチルがポイントを変えようと踵を翻した途端、うねる触手が地上へと飛び出し、足首に巻き付いてくる。
「えっ!? ちょっ、うわっ……!」
予想よりも遥かに大きい白い触手に足を絡みつけられ、海の中へと引き摺り込まれる。
――まずい。このままじゃ、息ができない……!
頭の先まで水の中へと引っ張られる感覚に、心臓が冷える。――瞬間、揺らめく赤を見た。
燃えるような赤い色。どこかで見たことのある色。多分、違うかもしれないけど、ルチルはその鮮やかな赤色に見覚えがあった。水中にも関わらず、目が離せなくなる。もしかしたら……と、呆気に取られていると、触手のぬめりとはまた違う何かに足を掴まれる感覚がしてぎゅっと目を瞑る。息が苦しい。指先が冷たい。このまま溺れてしまいそうな恐怖に、更に強く瞼を閉じる。
――ルチルが次に瞼を開いた時には、一面の青に視界を埋め尽くされていた。空も、海も、まるで溶け合っているみたいに青く染まり、自分が逆さまになっていることに数秒遅れて気がついた。ルチルがゆっくりと焦点を合わせていくと、巨大なイカに乗る、黒いターバンを頭に巻いた、ひとりの壮年と瞳がかち合った。
「クラーケンが戯れてるから何かと思ったら……首の紋章……は……? チレッタ……?」
「げほっ、げほっ。ちょっと、離して下さい」
はたして、ルチルの言葉が届いているのかいないのか。一向に離してくれる気配はないのに、足首を掴む力が少しだけ緩まった気がした。彼の何か物言いたげな表情からは、上手く感情は読み取れない。それに加え、体は宙に向かされ、意識を集中させないとぐらぐらと軸がぶれてしまう。母様の名前が出てきたということは、きっと彼は探し求めていた母様の友達、ミスラおじさんで間違い無いだろう。それに彼は今、母であるチレッタと自分を見間違えている。
――ずっと伝えられなかった真実を、今、伝えないと。
「私はルチル! 女海賊チレッタの息子です」
「は……? 息子?」
形の良い眉が歪みを持つ。エメラルドの虹彩は揺らめいて、どこか動揺しているようにも見えた。吊り目がちの瞳。亜麻色の髪の毛。あまり大きくない口。母から受け継いだものは多いし、実際間違えられてしまうこともあった。歳を重ねるたびにその見た目は顕著にあらわれ、母親の生写しだと言われることも、少なくはなかったから。
「はい。私はチレッタではなく、ルチルです」
発した言葉と共に、足首が軽くなる。同時に水飛沫が舞い、再び水中に落ちて体は重くなる。螺旋のように渦巻く思考の中、冷静さを取り戻しながら体の力を抜いて、なんとか水面に顔を出した。そうしてルチルが次に顔を上げたときには、獣の爪のような、鋭い翠眼がルチルを貫いていた。
「チレッタは、今どこにいるんです?」
嵐の前触れのような、冷たい声。季節は春。そこまで海水温は低くないのに、一瞬にして体は凍りついたかのように動かなくなる。それでも、意を決して伝えなくてはいけなかった。ずっと探していた母様の友達である、ミスラおじさんに。
「母様……チレッタは不慮の事故で亡くなりました。もう十年以上前の話になりますが、ずっとあなたに伝えたかった。でも、何処にいるのか、何をしているのか分からなくて、今まで伝えることが出来ませんでした」
「……チレッタが、死んだ? あの図太い女が? 何かの冗談でしょう?」
「……いえ、事実です。母は有名な女海賊でした。伝説の宝珠を探すと航海へ出てから、海の事故で亡くなりました」
「そう……ですか。俺は昔、あの女の船に乗っていましたから」
憂いを含んだ彼の表情に、喉奥がぎゅっと締まり、上手く言葉が出てこない。師のように慕っていた存在が、亡くなっていたなんて。想像するだけで胸が張り裂けそうになった。
「……まあ、あの人はそういう女でしたよ。急に海賊船を下りたかと思えば、人間なんかと結婚して。俺が知らぬ間に、また海賊船に乗っていたんですね」
「物心ついた時から、母が伝説の宝珠を探し求める姿を見て育ちました。きらきらとした母の瞳。浮き立つような声。そんな母から聞く冒険の話が、私は大好きでした。母の海賊として生きた証は、何事にも代え難い。短い人生だったかもしれないけれど、きっと母は幸せだったと思います」
ゆっくりと、母の意思を繋ぐように言葉を紡ぐ。ミスラおじさんは話を聞き終わると、頭を掻きながら海の先を見つめていた。次になんて言葉をかけようかと視線を迷わせていると、ぼそりとくぐもった声がした。
「……昨日、宿敵のオズを探し出してリベンジを果たそうとしたんです。それなのに、天候を操られてこの始末です。もう、本当に最悪ですよ。あんな海賊より、絶対に俺の方が世界一最強の海賊ですから」
怒りを孕む強い言葉の中で、どこか拗ねたようにも捉えられる口調だった。彼の話中から、昨日の悪天候はミスラおじさんと、世界中に名を轟かす伝説の大海賊オズ様が、戦いを繰り広げていた空模様だということを知る。
「あの物凄い嵐は、伝説の大海賊と噂される、オズ様のギフトだったんですね……! ミスラおじさん、体は大丈夫なんですか?」
「はい。俺は最強なので。海賊船は壊されてこの有様ですけどね。ペットのクラーケンに乗って漂流していたら、この岩場に辿り着きました」
ペットだと言うクラーケンに目を移すと、触手をくねらせながら海中に浮かんでいる。先程まで足を掴まれていた触手はかなり太さがある。体積だって自分の五倍はあるだろうか。その異様な姿にごくりと息を飲む。でももし、この子が幼少期に出会っていた子と変わらなかったとしたら……。期待を込めて、聞いてみる。
「あのこの子……もしかしてまだ私が小さい頃に一緒に遊んでくれた子ですか? 記憶は朧げなんですけど……わっ‼︎」
驚嘆の声を上げたと同時に、ルチルの体にクラーケンの触手が巻き付けられる。かと思えば、そのまま海上まで持ち上げられた。しかし、不思議と悪意は感じられない。どちらかというと、戯れついてくる犬のような親近感を覚えた。ミスラおじさんの返答を待たなくても、やっぱりこの子は幼少期に一緒に遊んだクラーケンだということは明白だった。海の中に引き摺り込まれそうになった時も、もしかすると一緒に遊びたかっただけなのかもしれないな、と思った。
「あなた、随分と懐かれてますね。そういえば、一度だけチレッタの息子に会ったことがあるような……」
「はい。私がその息子です。ミスラおじさんも、この子と一緒に遊んでくれましたよ。確か、海賊ごっこをしていたと思います」
頭の中で、朧げな記憶を辿るように思い返す。
「…………俺は、忘れっぽいのであまり覚えていませんが、もしかしてあの時の小さい毛玉ですか? ミスラおじさん、ミスラおじさんって妙に纏わりついてきた……」
「もー! 毛玉じゃありません! ルチルです。たった一度しか会ったことありませんけど、それでもミスラおじさんにはずっとくっついてたって生前の母からもよく言われていました」
母様に生前「ミスラ顔だけは良いから、ルチルも気に入ったでしょ?」と、言われた言葉が脳裏を掠める。久しぶりに顔を見ても変わらずかっこいいな、とは思うけれど、どちらかというと独特な空気感や雰囲気に憧れていたのかもしれない。歳は重ねているけれど、今も変わらずあの独特な雰囲気は健在だ。ルチルが痛いくらいの視線を感じて瞳を動かすと、ミスラおじさんにじっと見つめられていた。同じように視線を返してみる。すると、思いもよらない言葉が返ってきた。
「はあ……あなた、俺のこと好きなんですか?」
「えっ⁉︎ どうしてそんな話になるんですか⁉︎ 私は母様の死を伝えにあなたに会いに……」
「だって、好きじゃないとこんな辺鄙な岩場なんて来ないでしょ。そういえばあなたもスクアーマなんですよね? その首の紋章」
そうですけど……と返すと、「どんなギフトを持ってるんですか?」と質問を返される。先程まであまり興味を持たれていない印象だったのに、幼少期を思い出した途端に獲物を狙う獣のような視線を向けられる。こんなの、意識しないでいるほうが難しい。赤く染まる頬の熱は一向にひいてくれない。高鳴る鼓動に気が付かれないように、平静を装って言葉を返す。
「……手で触れた相手を麻痺させるギフトを持っています」
「へえ。使えそうだな。あと、そうだな……海賊船に乗ったことはあります?」
海賊船という言葉で、死の海賊団の一員だった日々を思い出す。沸き立つ好奇心と共に上船し、冒険に出たあの日々は、今も煌めく宝物のような光で胸の奥を照らし続けてくれる。母の死を告げたら、すぐに島へ帰ろうと思っていたはずなのに。思いの外、ミスラおじさんと長い時を過ごしてしまっている。数多の質問に答え終わったら、今度こそ島へと引き返そうと決意して、言葉を返す。
「三ヶ月前まで、ブラッドリーさん率いる死の海賊団にお世話になってました。度胸があって頼りになるとってもかっこいいキャプテンでしたよ!」
「はあ? 俺の方がかっこいいキャプテンとやらになれますよ。多額の懸賞金だってかけられてるし」
「まあ! そうなんですね。ミスラおじさんなら、きっとブラッドリーさんに負けないくらいかっこいいキャプテンになれますよ!」
うんと歳上なはずなのに、『負けないくらいかっこいい』の一言で、分かりやすく上機嫌になるミスラおじさんがなんだか可愛く思えた。伝えることも伝えた。これでもう、思い残すことなく島へ帰ることが出来る。
「それじゃあ、ミスラおじさん。私は島へ帰りますね」
「はぁ? 待って下さい。あなた、チレッタの息子なんでしょう? 俺と一緒に、船に乗ってください」
一緒に、船に乗って下さい……? 最後のミスラおじさんの言葉に、会いた口が塞がらない。
「ええっ!? 唐突すぎます。弟も待たせてますし、一旦島に帰ってから……」
「ブラッドリーよりも良い景色、俺が見せてやりますよ」
不敵な笑みと共に、長い腕に絡め取られる。不眠からなのか、隈が目立つミスラおじさんの顔がすぐ目の前にあった。唇が触れてしまいそうな距離に、決意がぐらつく。
島へ引き返そうと翻した踵は、迷う心ごと引き寄せられてしまった。引き返すか、このままミスラおじさんに着いていくか。ルチルの心は、蝋燭に灯される炎のように揺れていた。
◆
はたして、羅針盤の針が向いた先は、一体どちらだったのか。
その結末は、海の向こう側だけが知っていた。