欲しいものは　よくも休みなく舌が回るもんだと思う。まるで、口から生まれてきたのではないかと錯覚してしまうくらい、この男は本当によく喋るのだ。「ミスラさん、今夜一緒にハーブティーを飲みませんか？」と、ルチルから誘いを受けたのは数時間前。なにやら市場で珍しいハーブを見つけたらしい。いつにも増して上機嫌なルチルは、鼻歌を歌いながらハーブティーを淹れている。「この歌は、南の国で流行している恋の歌なんですよ！」と、ミスラが聞いてもいない情報まで交えて。そうして数十分が経過した今現在、ミスラの目の前にはとっくのとうに空になったティーカップ。奥底の花柄まで、くっきりと浮かび上がっている。

「ミスラさん！　ミスラさんったら聞いてますか？」
「はあ…………」

　曖昧な返事は、部屋に溢れかえる植物と絵画に溶けていく。どうしてこうもよく喋ることがあるのだろう。ミスラには不思議で仕方がなかった。ルチルの話す内容は、これといって決まった話題のない四方山話ばかり。この時間に何の意味があるのか分からなかったが、それでも、こうして相手の顔を見ながら、たわいないお喋りをする時間が好きだとルチルは言っていた。会話を交わすことで、相手のことをよく知れるから、だそうだ。

「もー、ミスラさんはぼんやりさんなんだから！　もうすぐ、ミスラさんのお誕生日ですよね？　何か欲しいものはありますか？」
「誕生日……？　別に欲しいものなんてありませんけど。俺は、欲しいものは俺の力で手に入れます」
「うーん……それはミスラさんらしいですけど……」

　ルチルのあやふやな返答に、ミスラは頭を捻る。自分の生まれた日なんて、とうの昔に忘れてしまった。何かをもらった記憶さえ、頭の片隅にすら残っていない。

「駄目なんですか？」
「駄目ではないですけど、ミスラさんの欲しいものをプレゼントしたかったんです。特にないのであれば、私がミスラさんにとっておきのプレゼントを用意しますね！」
「はあ……」

　取り留めのない話の中で、唯一意味のある話題だった。――欲しいもの、か。新しい呪具や鹿肉のソテー。ファウストの帽子でもいいかもしれない……。こうして考えてみると、ぽつぽつと欲しいもの、とやらが思い浮かぶ。しかし、「どうしても欲しいか」と聞かれたら、そうでもないのかもしれない。朧のように浮かんでは消えてしまうくらい、取るに足らないことばかりなのだ。

「夜も更けてきましたし、そろそろお開きにしましょうか」

　ルチルはそう言うと、テキパキと手元を動かし、空になったティーカップをトレーの上へと乗せていく。よいしょ、とゆっくり立ち上がる。かちゃんとした金属音と共に、ちいさくティーカップが揺れている。結局、『欲しいもの』とやらは、考えたところで分からなかった。それでも、ルチルが自分のために何かを用意してくれる、ということを思い返すと、途端に気分が良くなった。頭の中には、先程の流行歌が小気味よく流れてくる。

「それじゃあ、俺は戻ります。お邪魔致しました」
「はい。おやすみなさい、ミスラさん」

　ふふん、と脳内に流れるメロディーを口ずさみながら、機嫌良くドアを閉めた。
　



　カーテンの隙間から、かすかに旭光が漏れ出している。人差し指で瞼を擦ると、黒々と浮き出る隈の濃さが一層目立つ。いくら瞼を閉じたところで、眠れるはずがないのに。最後に眠れたのはいつだっただろうか。賢者の力を借りても、必ず眠れるとは限らない。気怠い声で唱えた呪文と共に、カーテンが開く。空は白み始めていた。自室で瞼を閉じている間に、どうやら夜は明けていたらしい。
　
　扉を開くとがらんとした静寂が魔法舎の廊下を包む。自室にいるのも飽きたところで、散歩に出かけようと思ったのだ。まだ空が白み始めたばかりの時間。誰の気配もしなかった。寂寂たる光景も、眠ることが出来ないミスラにとってはいつもと変わらない日常だった。片手には三日月のクッション。頭には付けっぱなしになったアイマスク。呼吸音一つ聞こえない廊下を歩き、中庭へと出る。ひとたび外の世界へと足を踏み出せば、鳥のさえずりや風の音が聞こえてくる。そんな命の気配と共に、大きな足音が三つ分聞こえてくる。

「あれ？　ミスラじゃないか。こんな朝早くにどうしたんだ？」
「……眠れなくて。ただの散歩です」
「おい、散歩してるくらいだったらオレの相手しろ」
「はあ…‥嫌ですけど」

　中庭に出た途端、カインとシノに話しかけられる。どうやらこれから朝練に向かうらしい。こんな早朝から鍛錬だなんて、どうかしているとしか思えない。ミスラは「鍛錬なんてやりませんよ」と、一言。大きな溜息を吐き、花壇の淵へと横たわる。頭に付けっぱなしになっていたアイマスクを下げると、視界に広がっていた曙色は黒い闇へと変転する。カインやシノに話すこともなければ、話しかけられたくもなかった。こうして横になってしまえば、すぐさま踵を返すだろうと思った。ミスラがゆっくり瞼を伏せようとすると、頭上から誰かの声が降ってくる。

「そういえばミスラ、今日は誕生日だろう」

「誕生日」という一言に、気怠い体を起こす。付けたばかりのアイマスクを外すと、目の前にはレノックスが立っていた。

「……はあ、俺、誕生日なんですか？」
「自分の誕生日も忘れたのか？　ミスラらしいな」

　小さな笑みと共に、レノックスの眼鏡の奥底に見える真紅の瞳が一層細くなる。自分の生まれた日など、たいして覚えていない。唯一覚えているのは、「今日は誕生日だから」と、大量の酒瓶を寄越してきたかと思えば、その殆どを自分で飲み干してしまい、ベロベロに酔っ払った今は亡き師の姿だった。

　ミスラは何百年も前の出来事を追憶する。顔を上げ、辺りを見渡す。大鎌の姿が見えないことから、シノは先に訓練に出向いたのだろうと察した。花壇の淵に腰掛けるミスラの存在に気がついたカインと瞳がかち合う。瞬間、カインは何かを思い出したかのように口を開く。

「そういえば、少し前からルチルとミチルがミスラの誕生日だからって張り切ってたな！　確かプレゼントに……ちょっ、レノックス！」
「…………秘密にしてほしいと言われただろ」

　意気揚々と話し始めたカインの口を、レノックスの手のひらがストップをかける。もの言いたげに動いていたカインの口も、レノックスの一言でピタリと静止する。

　今度は「プレゼント」と言う言葉で、ルチルから『ミスラさんにとっておきの誕生日プレゼントを用意しますね』と言われていたことを思い出した。自分のために贈り物を用意してくれることに、気分が良くなったことも。それなのに、ルチルが自分に『秘密』をしていることがあるなんて……。胸の奥に正体不明の靄がかかる。口から生まれてきたのではないかと錯覚してしまうくらいよく喋る男が、ミスラに伝えられないことがある。その事実がなんだか面白くなかった。長らく眠れていない不眠のストレスも相まって、途端に腹の虫の居所が悪くなる。ところ構わず当たり散らしたら、この靄は晴れるのだろうか。こんな気持ちになるなんて、何が何だか分からない。まるで細い針が何本も心臓に突き刺さってしまったかのような痛みは、更に苛立ちを募らせる。

「ミスラ、俺が口を滑らせた。本当に悪いと思ってる」
「ちょっと、秘密ってなんです？　答えないと殺しますよ」
「それはすまないが、今は言えない」
「はあ？　なんで言えないんですか？」

　深々と頭を下げて詫びるカインの目の前で悪態をつく。今すぐ山の一つでも吹き飛ばしたい気分だった。

「ミスラ、少し落ち着け。もう少し日が昇る頃には分かると思うんだが……」
「…………」

　会話の間に割って入ったレノックスが、ミスラとカインの仲を取り持つ。曙色をしていた空の色は、もうすっかり元の青さを取り戻していた。
　

　教えてもらえないのなら、探し出せば良い。
　

「《アルシム》」
　短い呪文と共に、空間を繋ぐ扉が開く。ミスラの胸にかかる靄は未だ晴れないまま、困惑と焦燥感と共に扉を潜った。
　

　＊＊＊
　

　ミスラが最初に向かったのは、隣にあるルチルの部屋だった。普段はノックをしてから部屋を訪れるのだが、今回ばかりは緊急事態である。早々に見つけ出して、隠している『秘密』を教えてもらわないと。もう随分と出入りをするようになり、見慣れた部屋の中。その見慣れた光景の中に、亜麻色の髪の男は見当たらなかった。がらんとした静寂が、焦燥を掻き立てる。

「ちっ。あの人、どこにいってるんだか……」

　魔力を辿りルチルの気配を探るも、居場所を探ることが出来ない。弟のミチルの魔力は、自室から確かな存在を感じるのに。何故かルチルだけが忽然と姿を消してしまったように、気配を辿ることができないのだ。

「《アルシム》」

　小さく唱えた呪文と共に、手のひらには形の良いシュガーがひとつ。……魔法は問題なく使える。きっと、ルチルは魔法舎の何処かにはいるはすだ。自身の魔法が証明してくれる。しかし、いくら魔法が使えるからといって、忽然と姿を消したルチルに、ミスラの焦燥感は増していく。何故、ルチルの気配が消えている？　ただでさえ弱いのだ。自分の手の届かない場所では守ることが出来ない。そのうえカインから『秘密』を教えてもらえず、ただでさえ得体の知れない感情に支配されて鬱憤が溜まっている。こんな状態で危険なことに足を突っ込まれでもしたら堪らない。考えれば考えるほど、キリキリと痛む胃に手のひらを当てる。

　――急がないと。
　――魔力を失うかもしれない。

　それと同時に、あの夜のルチルの言葉と笑顔が脳裏に浮かぶ。『ミスラさんにとっておきのプレゼント、用意しますね』……ああ、もう。訳の分からない気持ちに、ミスラの苛立ちは膨れ上がる。

「《アルシム》」

　呪文と共に、不明瞭な気持ち諸共消えてくれればいいのに。それと同時に、その気持ちの正体を知りたいとも思った。まるで湖面が揺れるたびに変化する、ぼやけた顔のように不安定だ。自分が自分でなくなってしまったかのような。あの北のミスラをこんな気持ちにしてしまう、ただひとりの魔法使いを探しに、足早に扉をくぐった。
　
　＊＊＊
　
　コンコン、と二回ノックの音を響かせると、「どなたですか？」と、扉の向こう側から問いかける声が聞こえる。開扉する前に訪問者を訪ねる弟の方は、随分としっかりしている。思い切りが良すぎる兄とは正反対だな、と思った。「ミスラです」と一言答えると、「ど、どうぞ……」と、ゆっくりと扉が開く。何かを隠しているような、歯切れの悪い返事だった。

「ミチル、ルチルの居場所を知りませんか？」

　開口一番、ルチルの居場所を訪ねる。途端、ミチルの虹彩は定まらなくなる。「えっと……」と、再度曖昧な返事をぶら下げ、右往左往に行ったり来たり。そのままミチルは顔を下げ、俯いてしまった。

「あの人、俺にプレゼントを渡すって言いながら、ちっとも俺の前に現れないんですよ。そのうえ何故か、ルチルの魔力だけが探れないんです。ミチル、本当に何も知らないんですか？」
「…………プレゼントは兄様から秘密にしてって言われてるので、ボクからは言えません……」

　ミチルは困ったように眉を下げる。深々と頭を下げるカインとはまた違った表情を浮かべているが、言われている内容に大差はない。『分からないことがあったら、目を見てお話ししましょう』いつの日か、ルチルに言われた言葉を思い出す。分からないから聞いているのに、当の本人がいないのであれば意味がない。今すぐ北の山に行って、魔物の一つや二つ殺してきてしまおうか。殺気立つビリジアンの瞳が、牙を剥こうとしていた。

「はあ？　どいつもこいつも秘密秘密って。秘密が分からないからこの俺が聞き回っているんでしょう？」
「……あの！　プレゼントは言えないですけど、兄様なら今、食……」
「もういいです。お邪魔致しました。《アルシム》」

　呪文と共に空間を移動する。ミチルの最後の言葉を聞き取ることなく、悲しそうに眉を下げるミチルの表情だけが、頭の中にこびりついていた。
　


　それからミスラは手当たり次第に空間の扉を開き、魔法舎中を探し回った。談話室。図書室。中庭の花壇。ルチルがお気に入りだと言っていた大きな木の根元。魔力を辿れないのなら、自力で探す他ない。魔法使い達に居場所を問いただすも、揃いも揃って「分からない」の一点張りであった。――どうして俺がこんなこと。思い当たる場所は全て探したはず。苛立つ気持ちと共に「ミスラさん！」と、一目散に駆け寄るルチルの笑顔が脳裏によぎる。瞬間、背中側からふわりと香ばしい香りが鼻をかすめる。その匂いに釣られ、踵を返す。

　匂いの源は食堂のキッチンからであった。中からは賑やかな声が響いてくる。どうやら中にいるのはネロだけではないようだ。バン！　と、勢いよく扉を開けると、分かりやすく肩を震わせる青髪が目に入る。その奥には、探し求めていた亜麻色の髪を揺らすルチルと、隣には銀髪の男の姿が見えた。

「ルチル、探しましたよ」
「えっ？　ミスラさん？　ちょ、ちょっと待っ……」

　大股開きでルチルの元まで向かう。一度顔を見てしまえば、煩わしくてしょうがなかった気持ちは、たちまち安堵感へと塗り替えられていく。ルチルの頭の先から爪先まで、舐めるように見つめる。よかった。怪我もしてないようだ。それにしても、目の前にルチルがいるというのに何かがおかしい。何者かに、ルチルの魔力が包みこまれるように隠されている。再び殺気立つ瞳を向けるよりも先に、よく知る声が耳へと飛び込んでくる。

「ミスラ。……アーサーが驚く」
「…………オズ。そんなこと、どうでもいいですよ。どうしてルチルに結界を張っているんですか？　殺しますよ？」

　何故、オズが結界を？　考えるよりも先に、手元は動いていた。自身の魔道具を高く掲げる。ルチルが自分以外の魔法使いの魔力に守られていることが、どうにも面白くない。幸い、苛立ちを向けるには格好の相手だ。表情筋の一つも崩すことなく佇み続けるオズに対し、ミスラは魔道具である水晶の髑髏を向ける。口を開き、呪文を唱えようとしたその時、「駄目です‼︎　ミスラさん‼︎」と、静止を諭すルチルの声が響き渡る。今にも殺し合いが始まりそうな異様な雰囲気に、キッチンにいる誰もが固唾を飲んで押し黙っているところだった。

「私が張ってくださいって頼んだんです。オズ様に、結界を」
「はあ？　何でそんなこと頼んだんですか？あなたの魔力が辿れなくて、俺がどれだけ苦労したと思ってるんですか？」

　もう頭の中はめちゃくちゃだ。魔力が辿れず、ルチルの命と自身の魔力の心配をしながら、苦労の末にルチルを見つけて、やっと『秘密』を聞き出せると思っていたのに。焦燥感は留まることを知らず、止め処なく溢れ出してくる。

「ミスラさん、今日は誕生日だからミスラさんの好きなものを用意してたんです。まだ全部焼き切ってないですけど……はい、鹿肉のソテーに消し炭です。アーサー様も一緒に準備してくれたんですよ！　それにミチルとファウストさんと一緒に、呪術に使える呪具を選びました。あ、危険なものではありませんよ。ちゃんとファウストさんが見繕ってくれました。呪具はミチルの部屋に置いてあるので、あとでミチルと一緒にお渡ししますね！　それから……」
「はあ……もういいです」
「えっ？」
「……誰も、あなたがいる場所を教えてくれませんでした。なんで俺に『秘密』をしていたんですか？　しかもオズに結界まで」

　本当に、こんな状況に置かれてもよく口が回る。オズに結界を張ってもらってまで、知られたくない理由は何なのだろうか。難詰してやりたいところだったが、押し黙り、ルチルの返答を待った。

「……サプライズでお渡ししたかったんです。あの夜、何をプレゼントするか、中身まではお話ししなかったでしょう？　中身を知っているより、知らない方がきっと喜んでくれるかなって思って。魔法舎のみんなにも、秘密にして欲しいってお願いしていたんです。それと、キッチンをお借りしていたら偶然アーサー様とオズ様とご一緒になって。それで、こっそり結界を張ってもらったんです。」

　きっとミスラさんは、すぐに私を探し出そうとするだろうから。と、ルチルは笑っていた。

——本当に、この男は。

　呑気すぎて、心臓がいくつあっても足りなくなってしまう。安堵と共に多少は和らいだ胃痛が、再びぶり返してくる。そうしてミスラは大きな溜息をついた。

「まあでも、秘密にしていたのは、全部俺のために準備した『プレゼント』ってやつですよね？」
「はい、秘密にしていてすみません……。ご心配おかけしました」

ルチルはそう言って眉を下げたかと思えば、すぐさま花が綻ぶような笑顔に移り変わる。

「ミスラさん、改めてお誕生日おめでとうございます！　欲しいもの、ミスラさんの好きなものを用意したつもりですけど、どうですか？」

　陽だまりのような笑顔を向けて、ルチルが問いかけてくる。
　食べ物でも呪具でもない。
　
　俺が、欲しいものは――

「俺は、あなたが生きていてくれさえすれば、欲しいものなんて、何もありません」
「ミ……スラさん？」

　言葉と共に、ミスラはおもむろにルチルを抱きしめる。人肌が温かい。焦燥に駆られていた体に馴染むように染み渡っていく。ずっと感じていたい、自分の手元から離したくない。柄にもなく、そんな気持ちが頭をよぎった気がして。
　
　約束だけでない、胸を焦がす気持ちの正体から逃げるように、ミスラはそっと瞼を閉じた。