遅効性の毒 押し入った小部屋は埃っぽかった。たぶん、碌に換気もしていないのだろう。
噎せ返るような黴臭さに、キィニチは思わず顔を手で覆ったが、連れられた旅人にはそれが間に合わなかった。息も絶え絶えな様子で汚れた空気を吸えばどうなるかは想像に容易く、扉の陰に押しやられると同時に肺が吃驚して震える、その生理的な動きを可哀想に思いながらも、彼の口をもう一方の手で塞いだ。掌が生温かくなっていく。無慈悲な対応に耐えきれなくなった分がぽろぽろとまなじりから零れていった。キィニチは己の対応の乱暴さを謝りたかったが、壁一枚隔てた向こう側が矢庭に騒がしくなったので、それも叶わない。床が抜けてしまうのではないかと思うほどに粗暴な足音が幾つも連なり、暫く、嵐の只中だった。四方を敵意と恐怖に囲まれ、冷えた手で心臓を掴まれるような、生きた心地のしない時間をやり過ごす間、キィニチは旅人をずっと抱きしめていた。背中をさすっていた。その薄い凹凸には、まるで旗を立てるように、矢が一本生えていた。
嵐が過ぎ去ったのち、旅人の様子を窺うと、彼の顔は汗と涙でぐちゃぐちゃで、そして青褪めていた。矢が栓となって出血はそれほど酷くなかったが、体を貫かれた痛みと異物の刺さった違和感は酷いものだろう。傷は、深くもなければ内臓を傷つけてもいない。それだけが幸いだ。
周囲に自分たち以外の気配がしなくなってから、警戒を解かぬままにキィニチは部屋の外を一瞥した。本来はアハウやパイモンの手を借りて確実な安全を確保したいところではあったが、生憎、秘境へと続く門を潜った途端二人の気配は消え失せていた。内外を隔てる門には鍵がかかっている。迷路の如き内装を進みながら漸く鍵を手にしたというところで、秘境内に潜んでいたヒルチャールに遭遇したというわけだった。中にはいったいどれだけの数の敵が潜んでいるのか、アハウとパイモンが中に入れないまま外に弾きだされているだけで済んでいるのか、現状何もかもが不透明だったが、それよりも優先すべきは決まりきっている。
ヒルチャールの土足は、直前に泥濘でも踏んだのか、異形の輪郭がありありと床板に刻みつけられており、多数の足跡が泥の河を形成しているようだった。その様子から暫しの安全を勘案するとキィニチは旅人に向き直った。彼は布を自分の口元に押し当てて、健気にも荒い呼気を抑えようと縮こまっている。
「さっき通った道には見覚えがある。時間はかかるだろうが、出口まで案内できるだろう。暫く耐えられるか?」
旅人は恐る恐る自身の傷口に手を這わせて、その根本の具合を確かめる。呻き、痛みに歪む表情、噛みしめられる唇。とても動ける様子ではない。思わず伸ばした手を旅人は制止した。
「お前ひとりぐらい抱えていける」
彼は力無く首を振った。
「間に合わないよ」
奇妙なことを言うと、旅人は酷くゆっくりとした動作で鞄に手を伸ばし、中からナイフと包帯を取り出した。
「傷の治りが早すぎるんだ」
躊躇いながらも、差し出すように彼は背を向けた。
キィニチは目を瞠った。傷口に添えられた手の際からは矢が生えているものの、想定していた有様からは程遠い。旅人の指先が矢尻の埋まる肉の周囲をなぞっていく。畝のように盛り上がったそこは、矢が刺さった拍子に噴出した血に濡れていたが、殆どが乾いていた。旅人の蒼白な顔色はとめどない失血によるものではなく、肉体が異物を巻き込みながら元に戻ろうとするために生じた、痛みによるものだったのだ。常人ではありえない程の回復力に驚きながらも、キィニチはすんなりと旅人の言葉を受け入れていた。彼を庇いながら逃走に費やした時間は長く見積もっても四半刻にも満たないだろう。倍近くの時間をかけて集落まで戻ったとして、その頃にはこの一本の矢は初めから旅人の背に生えていたと言わんばかりの顔をして根を張っているに違いない。
「ごめん、嫌なこと、させるけど」
湿気った床板を濡らしたのは汗だろうか、涙だろうか。旅人は最後まで口にはしなかったが、これ以上ない懇願だった。
彼の体質はあまりにも特殊だ。少なくともテイワットに生きる『人間』のそれではない。あの小さな相棒もこのことを知っているのだろうか? 否、知らない筈がない。言いふらすようなことでもないから、旅人がへまをしなければ、キィニチには一生知り得なかったことなのだろう。
普段からよく手入れされているのだろう小型のナイフの刃先に旅人が触れると、腕に肩にと伝っていくように元素の流れが呼び起こされるのを感じる。旅人の耳飾りが炎の色を伴って淡く光った。そして起こった火がちりちりと刃先を焼いた。炙られた鉄は煌々と調子づき、その傍に佇むだけで周囲に熱を分け与えるような、高温の火かき棒に変貌する。そしてその熱は、他でもない旅人の手によってキィニチへ譲渡されたのだった。
狩りの一環で、弓術の心得はあった。普段は両手剣を片手で振り回すほどの膂力を以て獲物を仕留めるが、毛皮や肉の状態を気にしなければいけない場合、この方法は向かない。一矢で獣の心臓を射貫き、肉の筋をなるべく傷つけぬよう矢を抜いて解体する――こういった経験こそあれど、人体から矢を引き抜くなど、医師でもないのだから通常であれば到底承諾できない。けれど旅人は苦しげに浅い呼吸を繰り返しながら、今この瞬間もキィニチを信じて疑わず、その手がナイフの柄を取るのを待っている。
短い柄を手に取ると、とうとう引き返せなくなった。
しかし、一度覚悟を決めれば、行動は早い。
「少し動かすぞ」
旅人の目の前まで移動すると、首巻と一体化している外套を取り払って、ぱさりと布が落ちていく。インナー一枚になった旅人の体温はいつもより少し低い。だらりと垂れ下がった両腕を自分の背に回させた。
密着すると旅人のなだらかな背中を見下ろすことができる。
「しっかり掴まっていてくれ。肩を貸すから噛んで良い」
「でも」
「相当痛むはずだ。遠慮なんかしてみろ、食いしばった先から歯が欠けるぞ」
四の五の言っている暇もないので、キィニチは煙を吹かす刃先を傷口に近づけた。そこから放たれる熱を感じたのか、旅人の身体が強張る。
安心させるように背をさすりながら、少年の覚悟を問うた。「いいな?」この期に及んで、却って恐怖を煽る行為だったが、それで怖気づく程やわではない。「……いいよ」焼ける刃先が肌に近づけられ、暫しの逡巡を経ると、刃は覚悟と共に押し付けられた。柔らかな皮膚と肉がじゅうと音を立てた。立ち昇るのは有機物の焦げ付く匂いだ。同時に旅人は悲鳴をあげた。「ぁ、あぁッ――!」生きながらに肉を抉られ、鉄火に苦しめられながらも、それ以上の悲鳴を堪えるように、旅人はキィニチの許した通りに肩へ噛みついた。全力で立てられた歯は服越しであろうとも肌を突き破り、血が布の下を流れていく。
熱による止血を経ながら、キィニチの手によって引き戻された矢じりはぷつぷつと繊維を裂いた。矢じりのかえしによって与えられた痛みは、外側から刻みつけられる痛みとは格別の苦痛であることが、服越しの歯形と爪痕の深さから見て取れる。同時にそれらは慰めにもなっていた。何かに縋らなければみっともなく地面をのたくっていたかもしれない。それでも、肉の焦げるにおいに吐きそうだった。抱きしめられる腕の力強さに今にも涙が零れ落ちてしまう。「もうすぐ、あとすこしだ」優しい囁きは焦りを伴っていた。ずたずたになった血管は止血する傍から液を零し、まるで竜尾のように骨の流れに沿って道筋を描いている。「うん、うん……」死の淵で甘える子犬の声で、旅人は鼻を鳴らした。
旅人の背中へ刃を突き立てる手の首に、肩から軌跡を描いて流れ落ちる血が現れた。これでは最早どちらの流した血かもわからない。痛みは平等でないが故に、分け合うようにぴったりと抱き合いながら、二人は処置の済むまでを耐え忍んでいた。やがて矢じりが肌から勢いよく抜けていった。その傷跡は深く細く、色濃い痕になるだろうと思われたが、彼の体にそう言った傷跡は見受けられない。常識外れの回復力は何もかもを無かったことにしてしまうのだろう。旅人がヒルチャールの狙撃を受けた証は、今こうしている間も薄くなり、元通りに近づいている。からん、と、矢は床に転げ落ちた。
キィニチがなにか言うまでもなく、事実をしかと確かめて、旅人の表情は俄かに緩んだ。脂汗がこめかみを伝い落ちていく。
「よく耐えた」
「うん……」
全身から力の抜けていく少年の身体を抱き留めながら、キィニチは場違いな衝動に襲われていた。無性に口づけたくなっていた。抱きしめたくなっていた。例えそれが許されなくとも、今すぐどこか安全な場所に連れていって寝かしつけてやりたい気分になっていた――しかしキィニチの庇護欲の逆を行くように、旅人は弱々しい呼吸を繰り返しながら、据わらない手足を突っ張ってなんとか立ち上がろうとしている。そんな無理を見過ごせるわけがない。引き止める手に拒む手。旅人は食い下がった。
「いつあいつらが戻ってくるか分からない」
「あのぐらい、俺一人でどうとでもなる。お前が大人しく隠れていてくれるなら何も問題ない」
これは誇張でもなんでもなく事実だった。しかし旅人はなおも何か言いたげな様子でいる。どうしてこうも強情なのだろう。今の彼はまるで手負いの獣のようだった。群れに合流することもなく、誰の目にも留まらぬ場所でじっとして、命の零れていくのを少しでも遅らせている――そういう類の。けれど人は獣ではない。どのような過去を歩んでいようが、そう在れるはずだ。キィニチだって今更、自分が一人ぼっちで孤独の中に生きているなんて微塵も思っていやしない。だというのに、
「俺を頼ってくれないのか」
声音は、想像以上に拗ねていた。キィニチですら驚いたのだから、旅人の動きが止まったのも尤もなことだ。
その目で、その口で、キィニチを頼ってくれたなら、損得の埒外に飛び出して、代償を量ることすら忘れてしまうだろうに。それを知らないのは旅人だけだった。彼は当惑していたが、キィニチのまっすぐなまなざしを受けてより一層その色を深めていた。何一つ分からない、というふうではない。寧ろ、言葉の裏にある意味を理解しているからこそ、踏み出し切れない躊躇いがそこにあった。人にはみな自我があり、それ故にこころの一部分はいつだって理解者を得られないまま孤独でいる。その柔らかな部分を曝け出すことほど恐ろしいものはない。「頼ってるよ」辛うじて絞り出した言葉は己のままならなさに対する不安と苛立ちに満ちている。
キィニチはそれを真っ向から受け止め、宥めるように、抱き留める腕に力を込めた。
「足りない」
「足りないって……」
信じられないものをみるように(身体の自由が殆ど奪われているので横顔を盗み見るのが精一杯なところではあったが)、空は顔を上げた。
「最後まで頼ってくれ。……俺は、お前を大切にする権利が欲しい」
友人としての諫言ではない。それは、一個人としての、愛慕の訴えだった。
高熱の刃を自身の体に突き立てられることになっても頑としていられた意気地が、たった一言で瓦解していく。旅人は恐ろしくなった。己には為すべきことがあり、それが果たされればやがて世界から飛び立たねばならない。道すがら関わる相手と必要以上に親しくなりすぎないことをいつだって心がけてきて、今日日まで、よくやっていたはずだった。とんだ自惚れだ。現金なことに、動きを緩めていた心臓がとくとくと早鐘を打ち出す。血流が良くなったものだから、塞がった傷口からまた血が流れ出しやしないか、頭の隅で現実逃避に走っていた。
それでも、応えれば不幸になる人間が増えるだけだ。自身の軟弱さを目の当たりにしながら、その弱さを振り切るように旅人はかぶりを振る。
「離して」
拒絶は、素直に受け取られた。支えの無くなった体がぐらりと傾くが、なんとか踏みとどまる。
出て行き損ねた涙の最後の一滴が、瞬きの拍子に零れ落ちた。
頬を伝うその雫は、あっという間に冷たくなってしまう。涙だけではなかった。自分の体を支える腕の中の居心地をもう知ってしまった以上、そこから抜け出せば、より容赦のない落差に襲われる。戻りたい。戻って、先の事なんて忘れて、さっきの言葉を取り消して、「俺も」だとか「嬉しい」だとか、なんでもいいから打ち明けてしまいたかった。
キィニチとはほんの少しの距離だ。上半身を乗り出すだけで済む。そう考えていると、引き攣るような痛みが走った。ずきずきと内側から膨張するような回復痛。足元に転がる血塗れの矢。それらが旅人を現実に引き戻す。理性を取り戻させてくれる。いったい自分は何をするつもりだったのだろう?
「あ……」
旅人は漸く理解した。すべて手遅れだ。