My little 川面はまるで浮かれた花畑のようだった。日除けのパラソルがすし詰めになって咲いている。水の中に根を張る花達は、これが絵本の中の話であれば密やかな囁き声を交わしていたのだろうが、実際は真逆だった。その可憐な姿からは思いもよらぬ力強い快活な呼び声をそれぞれに発して客を呼び込んでいた。まんまとそれに釣られた客が浮かぶ小舟に近づくと、傘の陰の中からぬっと浅黒い手が伸びて、指が何かしらのジェスチャーを取る。細い川を大きく跨ぐアーチ状の橋の上から、ドクターはその様子を物珍しそうに観察していた。地上も水上もそれなりに混んでいたが観光地特有のぎらぎらとした騒がしさは感じられない。市場は利用者の殆どが地元民で占められるローカルなものだ。いったいどこからそういった情報を仕入れて来るのか、ドクターを誘ってここまで連れてきたのはエリジウムだった。
日差しは決して弱くないが、水場の近くだからか風が涼しい。小舟の群れはゆっくりと流れていく。レンガ橋の欄干に背を預けると街の様子が良く分かった。甲高く弾む声で駆けずり回る子供達、過積載の荷台を引き摺るようにしてペダルを漕ぐ男性、食料品を買い込んだ主婦達が並んでべらべら喋り通しながら橋を横断する。艦に閉じこもっているだけでは味わえない生温かな生活感を肌で楽しんでいると視界の端に良く知った顔が現れた。彼もまたドクターの姿を認めると、器用に人混みを避けながら駆け足でこちらに近づいてきたのだった。
「やあ、お疲れ様」
労いの言葉は口だけだった。「それが例の?」目が合った次の瞬間には、ドクターの視線はエリジウムがマーケットで買い付けてきた瓶詰に注がれていた。エリジウムはわざとらしく肩を竦めた。
「まったく、君の好奇心には頭が下がるよ」
「なんだ、君も食べたかったのかい?」
「遠慮しておくよ……」
ラベルも何も貼られていない角ばった瓶は掌に収まる程の大きさで、中身にはぎゅうぎゅうに何かが詰まっている。何かとは、正確に言えば発酵食品の類ではあるが、少しでも蓋を緩めたが最後周囲に甚大な被害を齎すだろうことは容易に想像できた。フェリーンやペッローのように嗅覚の鋭い種族がこの場に居合わせたのならまず間違いなく耳を平たく力無げに伏せていたことだろう。
何も知らない馬鹿な観光客からむしり取ればいいものを、遊び半分に買うのは止めておけと店主が忠告するぐらいだ。友人で遊ぶことはあれど、食べ物で遊ぶ趣味は持ち合わせていない。しかしドクターたっての頼みなので退くわけにはいかなかった。店主は最後に背を向ける客を呼び止めて、「通りと部屋の中では絶対開けるなよ」と念押しした。
文化の継承といえば聞こえはいいが今日までこのおぞましい珍味が生き残ることができたのは、愛や熱意ではなく義務感によってだろう。これなら砂虫を齧るほうが何倍もマシだ。
エリジウムは細心の注意を払ってその瓶詰を仕舞いこんだ。
「えっ!」
「ドクター、僕は馬鹿やって怒られるのは別にいいけど、ここで開けたりなんかしたらテロだよ。帰るまで僕が責任持って管理します。安心して、本艦に戻ったら返してあげるから」
「私の部屋には保管できる場所なんてもうないぞ」
「それはよかった、君の部屋に置いてる私物を処分しなきゃいけなくなるところだったよ。あ、そうだ、ソーンズの研究室ならどうかな?」
「爆発したらそれこそテロにならないか?」
「その時は三人で謝ろう」
ドクターは甲板にさかさまになって吊られる二人の男たちの姿を想像した。というよりも事実に基づいて記憶を再生したと言う方が近いだろう。ソーンズは近頃すっかり吊られ慣れてしまったから別の処罰を与えたほうが良いのではないかと、会議の休憩時間に雑談のネタにされていたことを思い出す。ドクターはそれに対して何と答えたのだったか――かなり適当な返事をした記憶がある。
巻き込まれてくれるらしい戦友たちが辿るであろう末路について考え込んでいると、ドクターの視界が一段と暗くなった。驚いて伏せていた瞼を持ち上げる。急に黙り込んだ様子をどう思ったのか、エリジウムが覗き込むように顔を近づけていた。そのために出来た影だった。
「ドクター?」
「ああ……少し考えていた。異論はないよ」
「やった。やっぱり持つべきものは友達だよね。いいアイデアだと思わないかい?」
「処罰の対象が増えたからといって、程度が変わるわけではないが。しかしその様子じゃ、さかさまになって説教を受けるだけだって高を括ってるんじゃないか?」
ドクターはわざと神妙な表情を作って目を伏せた。労しく思う、言外にそう態度に滲ませて軽く溜息を吐く。
当然、ドクターの予想通りにエリジウムの顔色が青褪める。
「なになに、僕どうなっちゃうの?」
「それがどうもね。代わりにどうするか、適当に決めたから思い出せなくって」
「今聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしたんだけど」
「次回までのお楽しみということにしておこうか」
悲鳴が聞こえたのは言うまでもない。
正午を過ぎると人通りが一層活発になるので、二人は川沿いを下りながら街並みを観光していた。街区を一つ跨ぐと景観にはそれほど変化がないにもかかわらず空気感が一新されたように感じられた。実際、観光客の割合がぐっと増えたように思う。川の上流の活気と静けさのバランスは心地良いものだったが、下るにつれてがやがやと騒がしさが増していく。左からは訛りの抜けないクルビア語が、右からは上品が過ぎたヴィクトリアスラングが飛び交って、頭がおかしくなりそうだ。
特に目的地もなくぶらついているだけの足取りが段々と重くなっていく様子を認め、エリジウムの方が先に足を止めた。
「ドクター、疲れちゃった?」
「少し」
「折角だし、休憩がてら舟に乗ってみようよ。ほら、あっち」
彼は運河沿いの乗船場を指差した。
幾つもの小舟が繋がれている。小舟と言っても十人前後は乗せられるだろう規模の、しっかりした造りの舟である。寄ってみると年季の入った看板が目に入る。時刻表が何枚も貼られているが、どれも手書きの癖が強く、いったいどれがどの舟なのか――困ったように互いに目を見合わせていると、船頭が痺れを切らして声を張り上げた。
「あんたら、どうすんだ!」
船頭の被る日除けの帽子の下から、ぎろりと鋭い視線が飛んだ。ドクターは思わず隣に立つ男の袖を引いた。
「乗るのか?」
「どのみちここに戻ってくるでしょ。なら丁度いいんじゃない?」
物怖じしない様子でエリジウムが手を挙げた。二人が駆け込み終わると、舟はゆっくりと動き出す。既に他の客も乗り込んでいたので座れる場所は限られていたが、端に詰めるようにしてよろめきながらもなんとか腰を下ろす。体幹の強弱以前に無いも同然なので、下手をすれば川に放り出されていた。否、エリジウムが居なければその想像は現実になっていただろう。
いくら良く揺れるからとはいえ、成人男性二人がぴったりとくっついていれば目立ちそうなものだが、客の大半は物珍しそうに周囲の景観を楽しむことに夢中でいるようだった。
暫くして、隣の男がごそごそと身動ぎし始めたので、舟の外へ遣っていた視線を引き戻す。
「ドクターも食べる?」
恐らく先程のお使いの際、ついでに買い付けていたのだろう。拳よりも一回り大きなドライフルーツが手に収まっていた。瑞々しいオレンジ色のそれはアプリコットだろうか? ロドス本艦では中々見かけないものであることは確かだ。
「いい。あまり腹は空いてない」
「そう?」
己の腹の虫に聞いてみても、うんともすんとも言わない。これはいつも通りだった。今朝は朝食を辛うじて摂ったものの、そのせいか、不規則な食生活に慣れ切った身体は満足してしまっているようである。
ドライフルーツの香りは強く、やたらと甘そうに見えた。想像を巡らせているうちに、エリジウムの歯がそれに突き立てられる。においがつんと強くなる。豪快にも先端の丸みがすっかり削り取られてしまって、彼が咀嚼を終えて飲み込んだその瞬間に、ドクターの腹の虫が漸く声をあげた。ドクターの目が丸くなった。思わず腹を抑える。
自身の身体の反応に唖然としながら顔を上げると、目が合った。
「……やっぱり、一口貰えるかい?」
「一口だけなんてケチくさいこと、僕が言うと思う? まだ買ってあるよ。ほら」
そうして渡された少し小ぶりなドライフルーツを手に持つと、少し表面がざりざりとしていた。砂糖がまぶされているのだろう。恐る恐る、エリジウムがしていたように楕円の先にかぶりつく。けれども実は想像以上に硬く、何度も噛んで漸く千切ることができた。
珍味はさておき、ドクターがこうやって食事に興味を示す機会はそう多くない。エリジウムはその様子を微笑みながら眺めていたが、控えめに削れた果実の先端に目が留まると妙に違和を感じた。自身の手元のそれと見比べる。ドクターに渡したものは食べやすさを考慮してやや小ぶりな大きさのものにしたという違いはあるが、どちらも同じドライフルーツだ。ではいったい何が違うのか――ドクターは未だもちもちとした果肉を咀嚼している最中で、エリジウムの視線には気づいていないようだ。咀嚼のたびに頬が小さく膨らんで、嚥下を終えると満足げに目が細められている。そうしてまた、残った果肉に歯を立てる。
数秒を間違い探しに費やしたところでエリジウムはようやく違和感の正体に気付いた。ドライフルーツの齧られたあと、その大きさが随分と違うのだった。子供が齧ったってもう少しあるだろう、ドクターの歯形が描く形は随分小さくて、フェリーンの小動物が歯を立てたのかと思うほどに控えめなものだった。その事実に、思わず固まった。他者に庇護欲を抱いた経験はあるが、欲求の程度は人並の範疇に収まっていると断言できる。できたはずだが、エリジウムは己のことがここにきてよく分からなくなっていた。
「これ、すごく美味しいね」
にんまり笑った口元が、アーミヤへのお土産に買って帰ろう、と優しく形を変える。ちらりと覗く舌の先は生々しい内臓の色をしているというのに、鮮やかなオレンジ色の果肉よりもずっと甘そうに見えた。エリジウムは自身の掌に収まる食べかけのドライフルーツとドクターを見比べてから、改めて屈み、感触と甘みを確かめた。「ん、ぅ」くぐもった声を出す唇はあいかわらずぱさついている。けれどもくどいぐらいの砂糖の風味がした。だいたいいつもコーヒーの味がする舌が、随分と可愛らしくなったものだ。時間にしてほんの数秒ののち、すっと離れた唇を追いかけて、ドクターは男の白い頬へ噛みついた。本当は意趣返しに唇へ噛みつきたかったのだが狙いが定まらず、もうなんでもいいやと思って柔く歯を立てたのだった。
噛みつかれた跡など残っている筈も無いが、噛みつかれた方は驚いてその感触を指でなぞる。弱々しい力だった。真新しい記憶の通りに跡へ指先を滑らせるも、小さな楕円を描くばかり。
「道理で……」
思わず零れ落ちた独り言に、エリジウムは声を殺して笑った。なんならもう一回キスしてやりたい気分だった。