路傍の小石 検査のために取っ払われた装備の中から覗く、うねるように跳ねた毛先が気になるのは私だけなのだろうか。朝、定刻、ケルシー医師の冷めた声色、ペンが滑る音、静けさに雫を垂らすような淡々とした診察、その他数名の医療オペレーターからドクターへ注がれる視線。定期健診は何もかもいつも通り、滞りなく進んでいる。
私の頭の中は二つの並列な思考に支配されていた。一つはこの健診を無事に終わらせるために医療機器を正確に操作すること。もう一つは彼の頭の爆発具合について。毛先が奔放に跳ねるさまはある種芸術的と言えるかも知れないが、社会人としては失格だ。と、一般論として私はそう考えている。このような注釈を入れるのは、この場に同席する他の医療オペレーターの誰一人としてそのことを指摘しないからだ。あのケルシー先生ですら何も言わない。この場に於いて一番の新参者である私だけが知らぬ、一種の決まりごとのようなものがあるのかもしれなかった。或いはとうの昔にドクターは身だしなみについて注意を受けたのかもしれない。改善の意思が見られない患者に、口酸っぱく同じことを言い含めるほどケルシー先生は愚鈍ではないし優しくもないだろう。我慢の限界に達すれば別の手段を取って有無を言わさず目的を達成する。私は日が浅いながらも、ケルシー先生と、先生のドクターに対する遠慮の無さをそういうふうに解釈していた。その距離感は彼らの信頼を表しているのかもしれないが、ドクターはケルシー先生に叱られることを恐れていて、頭が上がらないことも知っている。そういった小市民のような一面を持ち合わせているドクターに、私は少なからず親近感を覚えていた。
寝癖がマスクに再び覆い隠されたところで、ケルシー先生はドクターを私ごと部屋から追い出した。正確に言うと追い出されたのはドクターだけで、私は彼を執務室まで送るように言いつけられたのだ。医療部とドクターの執務室を結ぶルート上には彼を誘惑するものが多数ある。かの悪名高い購買部、食欲を刺激する香りの漂う食堂――羅列すればキリが無い。ドクターの寄り道を防ぎつつ執務室まで辿り着くこと、それが私に与えられた任務である。まるで囚人の護送のようだ。良心の咎めを無視しなければならないので気が重い。
ドクターの半歩後ろをついて行きながら考え事をしていると、前から誰かが私の名前を呼んだ。つられて顔を上げる。しかし私の視界に映る人影はドクターだけだ。まさかこの人が私を呼んだのか? ぼうっとしているように思われたのか、彼は再度私のコードネームを口にした。「どうかした?」しかも気遣われている。一度も戦場に立ったことのない、どころか片手で数えられる程しか会話を交わしたことのない、ただのオペレーターの名前を彼が覚えていることに驚いて、「は、はいっ、何でもありません」意図せず声が上擦る。
「もうここには慣れた?」
「はい。リターニアの事務所の何十倍も大きいので、まだ時々道に迷いそうになりますが、皆さんが良くしてくれるので」
「懐かしいな、私もはじめの頃は一人じゃ出歩けないぐらい複雑に感じた」
「同感です。通勤で使う道は覚えましたが、それ以外となると部屋に帰れなくなってしまうかも」
実のところ、これは冗談ではなかった。私は本当に道に迷ってしまって真夜中をあてもなく彷徨う羽目になってしまったのだ。本艦に着任してから三日目のことだった。
私はあまり、夜中に一人で外(と言っても本艦内は実質室内なのだが)をうろついたことがなく、心細さと不安を抱えて歩いていた。足音を立てるのも恐ろしく、忍び足で移動していたので歩みはいっそう重たかった。艦内は夜になると一部区画を除いて節電の為に明かりを落とすので、ぼんやりとした月明かりを頼りに進まねばならない。方向感覚すら失って似たような景色の通路を勘頼りに進んでいると、僅かに明かりの漏れる部屋があることに気付いた。暗がりの中でそれを見つけた時、まるで砂漠の中でオアシスを見つけたような、救いを与えられた気分になってそこに駆け込んだものだ。そこはドクターの執務室だった。彼は深夜になっても仕事をしていた。私にとってはかねてより噂を聞いていたあのドクターとの運命的な対面であることに間違いはないが、彼にとってはどうだろう。私たちは何一つ特別な会話はしなかった。ただ、一杯のホットミルクを与えられ、宿舎までの道順を教えてもらっただけだ。ドクターの親切は、帰路へ着く私に大きな勇気を与えた。いざ自身の部屋の前まで戻ってくると、偶然の中で捧げた祈りが実現したような安心感よりも当然だと言わんばかりの感覚が勝った。
ドクターの寝癖が気になってしまうのは、きっとその経験があったからに違いない。私は自身を冷静に分析することが出来ている。この出来事がなければ、きっとドクターのことを自堕落でだらしない人だと誤解していただろう。診察中に欠伸を噛みしめ堪えるさまに何かを感じることも無かっただろう。ホットミルクはベッドに転がった私をすぐさま眠りへと誘ったが、ドクターはあの後も手足の末端を冷えさせながら仕事を続けていたのだと、あらゆるもしもの妄想が浮かぶ。そしてこれらの確信じみた考えこそがドクターを執務室に押し込めることを拒む原因なのだ。けれども歩むことを止めなければやがて目的地に着くものだ。
起きている時間の方がずっと長いだろう執務室の扉が開くと、ドクターは振り返って私に礼を述べた。
「ここまで送ってくれてありがとう。迷わず帰れるかい?」
私はドクターに同行しただけで、彼より一歩も前には出なかった。道案内されたのは私の方だと今になって気付く。重要な患者でもあるドクターの執務室へのルートを覚える機会を与えられていたに過ぎず、二度とこのような幸運は巡ってこないことを悟る。私はなんとなく次の健診の終わりもこうして雑談を交わしながらほんの少しの時間を共有できると思っていたことを自覚した。冷静に考えてみれば私よりもずっと適任が居る。だがその事実が腹の底を締め付けるように冷やすうちに、私は殆ど条件反射のように頭を下げてしまった。感情を形にする機会をふいにしてしまった。頭を上げたころには執務室の扉は物言わぬ壁となり、断崖のように私を拒んでいた。
数ヵ月も経てばすっかり艦内の造りにも慣れてしまう。定期健診に付き纏うお決まりの光景にも緊張せずに済むようになった。
私は相変わらず、健診の朝になるとドクターの寝癖について考えこんでいた。手の込んだケアでなくとも、ほんの少し手櫛で梳かせばそれなりになりそうなものだ。しかしどのような理由をつけようとも衆人環視の中で彼に触れるわけにはいかないだろう。機会があるとすれば彼の出勤前だが、それ以上を考えないようにかぶりを振った。行き過ぎた想像を遮るために、あの晩飲んだホットミルクの味を思い出す。私はそのとき確かに感謝を覚えたのだ。恩に報いるために彼の寝癖が気になるというのであれば、オーバーワークを止めるように心を鬼にして彼を叱る他ないだろう。そうする勇気が無いのだから、跳ねた毛先がすとんと落ち着く様子を想像するだけの臆病者と化している。
そうして朝、時計が定刻を刻む。ドクターが医療部を訪れる。ケルシー医師の挨拶は相変わらず冷めた声色で行われる。カルテの上をペンが滑り、今日の日付を書き記す。主治医と患者以外誰も口を開かない静かな空間で淡々と診察が行われる。その場に居合わせるオペレーターの視線が一斉にドクターへ注がれた。定期検診は何事もなくいつも通りだが、私の心のうちは荒れた海のように不安定に波打っていた。
フードを下げ、フェイスガードを外す――露わになった彼の頭はきちんと整えられていた。同時にそれが彼自身の手によって行われたものでないことを本能的に理解してしまった。いつもより早く目が覚めたからだとか、とうとうケルシー先生によって強制的な指導が入ったからだとか、そういう性質のものではない。私は医師としてあるまじきことに、この様子を目の当たりにしてまず悔しさを覚えてしまった。先を越されたという悔しさだ。何一つ行動を起こしていないにもかかわらず。それからはもう何も手が付かなかった。彼は平時と変わらず欠伸を堪え、眠気のあまり目を擦る。なのに髪だけ整えられている。ホットミルクの味を思い出そうとしたが、ぐちゃぐちゃの思考がそれを拒む。
「――以上で診察を終了する。仕事に戻るように。……ああ、それと、君に渡す書類と薬品サンプルがあるからそれも持っていけ」
私は殆ど無意識に、反射的に声を上げた。「あの!」場違いに大きい声が羞恥を引き連れてやってくる。けれど行動に移してしまったものは仕方ない。立ち上がろうとしたケルシー先生を止めるように、咄嗟の言い訳を口にする。随分と早口で、挙動不審なのは自分でも理解している。
「量が多いので、わ、私が持っていきます!」
けれどケルシー先生は暫く考え込んで、それを了承した。
「分かった。では君に頼む」
多いと言っても一人で持てない量ではない。彼女の寛大さに感謝してもしきれなかった。両手に荷物を抱え、ドクターの半歩後ろを歩く。彼とこの道を歩くのは二度目のことだ。
「半分持とう」
「いえ、大丈夫ですから」
「では書類だけでも」
「それなら……。あ、でも、読み歩かないでくださいね」
ドクターは残念そうに渡された書類から視線を外した。私が着任してから数ヵ月、一向に彼の業務量は減る様子を見せない。この人が体を休められる時間は私の想像よりもずっと少ない筈だ。そしてその僅かな隙間を共有する相手が居る。髪を触らせる程親しい相手が。こうなってしまってはドクターの格好が羨ましい。もしくは鏡と、誰にも邪魔されない時間が今すぐ欲しくなる。半歩下がるのは彼の立場への遠慮も含むが、少しでも私の顔を見られたくないからだ。私は今、水面下で醜い嫉妬心と戦っているのだ。
「健診、いつもより早く終わりましたね」
「ケルシーが早めに解放してくれたからね。有難いことだよ」
「それは、今日のドクターが……」
「私?」
これを口にしてしまって良いものか、非常に私の頭を悩ませた。私の推測の正否にかかわらず、次回以降も整えられた恰好で彼が医療部を訪れることになれば、自身の心中に整理を付けるより先に音を上げてしまうかもしれないからだ。けれどもこの小さな一歩を習慣付かせ、やがて彼の無理な生活サイクルの矯正に繋がるかもしれないのであれば、医師として彼を褒めたたえるべきだと思われた。
沈黙の末、結局私は己に屈してしまった。これまで傍観に徹していた臆病者が、いざというとき勇敢に振る舞えるわけがない。「何でもありません」気の利いたことが言えれば良いのに、私は何でもあるように否定することしかできなかった。追及は飛んでこない。善意と一定の無関心に生かされていることがこんなにも苦しい。私はもぎ取った二度目の幸運をどぶに捨てた。閉まった執務室の扉を見つめながら、ドクターの髪はどんな感触なのだろうと、この期に及んで未練がましく考える。けれどもう、知りたくなかった。教えてもらいたくなかった。
私はその晩、ホットミルクを淹れた。人肌に温められたそれが食道を伝って体の内側を熱くするだけで、あの日舌を濡らした味はどこにも無かった。ベッドに横になったって目はずっと冴えている。転勤届を書く勇気すらくれないまま、夜が更けていくのを肌で感じていた。