モテるシャンプーの話「ねぇ、ドクター! ドクターならご存知ですよね! モテるシャンプーの話!」
「うん? なんだい、それは」
書類仕事から解放された勢いで飛び込んだバースペースはいつも通り喧騒に満ちていた。誰かのための祝いだと派手にボトルを開ける音が響いたかと思えば、その横では肩を叩かれ失意を慰めてもらっている者がいて、はたまた隣に座った見ず知らずの相手に飲み比べを仕掛ける者やら、酒瓶を抱えたまま床に転がる者まで。それは戦場で見る姿とはまた違った、彼らの彼ららしい姿で、私はそれを眺めるのがとても好きなのだった。なので手招きされたテーブルにふらふらと近づき、やあこの前は大変お世話になりましたと定型句の挨拶からだらだらと、やれ誰かの子供がもう歩けるようになっただの、恋人の誕生日の贈り物で悩んでいるだの、そういうのを聞きながらだいぶん私の顔は緩んでいただろうと思う。
そうしてエールのお代わりついでにつまめるものをいくつか調達して戻ってくると、完全に出来上がったリーベリの彼が顔を真っ赤にして私の名前を呼んだのだった。
「ドクターが知ってるわけないだろ!」
「俺ほんとに聞いたんですって、調達部門の知り合いが使った翌日に向こうから告白されたって」
知らない、と言われると対抗心がわき出してしまうのは私の悪い癖のひとつだろう。こと知識欲という視点でいえば私のそれは恐らく普通の人よりも大きなものを抱えている。それは記憶喪失であるというどうしようもない事実が多分に影響を与えているのは間違いないのだけれど、ケルシー曰く昔から何でもかんでも知識を詰め込むタイプではあったらしいので、単なる性分であるのかもしれない。ともかく私はそのシャンプーについて非常に興味を惹かれたので、彼らに小皿のナッツを差し出しつつ話の続きを促したのだった。
「レム・ビリトンの辺境で見つかった新種の花らしいんですけど、現地語の名前の音が炎国語だと『恋人募集中』って意味になるらしくて」
彼が酔っ払い特有のふにゃふにゃした発音で教えてくれたものを数回舌の上で転がし、ああ成程ね、と笑う。
「ほら、ドクターなら炎国語も知ってるから正しいってわかりますよね! ほら!」
「語順がちょっとおかしいけれど、十分意味は通じるかな。へえ、面白いジョークだ」
「そう、そうなんですよ! で、そこに目を付けたブランドが『恋人ができるシャンプー』って宣伝で売り出して、いま若い連中の間で流行ってるんです」
「結局よぉ、相手からの告白待ちってことだろ? そういう消極的な態度だからいっつもお前は長続きしねぇんだよ」
「オレは恋は誰かさんと違ってじっくり育てるタイプなんですぅー」
「つって前の前の恋人だっけ? 優柔不断すぎて二股かけられてたじゃん」
「思い出させないでくれ!!」
とまあその場はたいそう大盛り上がりで、最終的にはオーナーにまとめて追い出されるまで美味しいお酒を飲んだのだった。
さて、なんでこんなことを今思い出しているのかといえば、理由は至極単純で、目の前にあるシャンプーがそれしかないからである。忙しすぎてうっかり日用品のストックを買い忘れたことすら忘却の彼方に吹き飛んでいた。何度ため息をついてもすでに購買部は営業時間外であり、戸棚の奥には洗剤かこの例のシャンプーしかない。なぜそんなものがあるのかというと、あの大盛り上がりした帰りにその場にいた全員で面白がって注文したからである。人気の商品だったらしく届いたころには季節が変わっていてすっかり忘れていたため、適当にストック棚の奥に突っ込んだのだが、まさかそんなものに助けられるとは思わなかった。
「まあ、どうせフード被ってるし……ってうわ、結構匂いきついな」
指揮官から痛々しい若者ぶった香りがしていても、うちのオペレーターたちならスルーしてくれるだろう。してくれるはずだ。多分。真夜中の決断ほど信用の置けないものはないが、私はさっさと寝て明日の大規模演習に備えたかった。次の危機契約に向けた今回の演習は参加人数がいつもよりも多く、普段はロドスに常駐していないオペレーターたちの予定もなんとか無理やりねじ込んだため失敗は許されない。一分でも一秒でも多くの睡眠時間を確保するためにもここでうだうだと悩んでいる時間はないのだ。
……今思い返せば石鹸で良かったはずなのに、その時の私は選択肢はただひとつとばかりに大きくもないボトルを掴んでシャワールームへと戻っていったのだった。
*****
その日、ロドス最大の演習場に激震が走った――――
ロドスの戦術指揮官といえば胡散臭いフードで顔を隠した得体の知れない人物というのが一般的な評判である。彼の顔を見た者は誰もおらず、ただ声のみで背筋が凍るほど的確な指示を与えてくる謎の人物。記憶喪失だという噂話もあるが、あの指揮の冴えを一度でも見た者の中で信じる人間は多くはないだろう。だがその謎の人物が、オペレーターの中では一種のカリスマ的人気を誇っていることは疑いようもない事実である。人気どころか崇拝や思慕とも言い換えてもいい。本日の大規模演習とてその人物の声かけひとつで、外勤からはたまた協力会社の社長職までのリストを見るだけで目を剥くようなメンバーが今か今かと彼の号令を待ち望んでいた。そんな中に、渦中の人物が『恋人募集中』の看板を背負って現れたのである。現場は無言のままパニックに陥った。
戦場に立つ者は往々にして嗅覚が鋭いものである。場の異変を文字通り嗅ぎ分ける能力は数少ない生への近道を保証する有利な能力でもあるし、種族によっては嗅覚をコミュニケーションのひとつとして常用している者もいる。誰もが正確にその近年有名になりすぎた香りを嗅ぎ分け、ざわりと動揺が広がっていく。ある者は尾をピンと立てたまま固まり、またある者は耳を伏せ周囲のたった今から手ごわいライバルとなった同僚たちを冷静に値踏みし、ある者は興味などないと無関心の顔を作りながらも利き手が得物から外されることはなかったし、すでにどこかへと着々と通信機で連絡を取り始めている者まで、演習場には先ほどまでとは違った緊張感で爆発寸前となっていた。
そうした表面上は静かな一触即発の空気の中、しかし彼は(今日はみんなはりきってるなぁ)と感心するだけでスルーし、その優秀な頭の中身を作戦指揮のことだけでいっぱいにしていた。若干寝坊したため設備担当との打ち合わせの時間が押していたというのも大きな理由であった。そもそも彼はその卓越した頭脳から周囲の注意を集めることなど日常茶飯事であり、この程度の異常な注目などただの環境音の一種でしかない。
であるため、そんな一触即発の空気の中を勇気を持ったオペレーターの一人が進みだした時も、配布資料にミスがあったかなとしか考えずににこやかに迎えたのだった。
「やあ、パフューマー」
「あのね、ドクター君。人間、やっていいことと悪いことがあるのよ?」
両肩に食い込む指の強さはなるほど普段から土に親しむ者たち特有のものだったと、湿布をもらいにきた彼は疲れた表情で語っていた。大きな通る声で十五分の休憩を言い渡した療養庭園の主は有無を言わせぬ笑顔で彼を私室まで案内させ、目の前で原因のシャンプーを没収した。そして帰還したのちに「誤報でした」とだけ場内一斉放送で伝えられたことで一気に緩んだ緊張感と、何がどうやらさっぱり理解できていない指揮官の下で、その日の大規模演習は再開されたのであった。
後日、何故だかよくわからないまま始末書を書かされた彼は最後まで首をひねっていたが、すれ違うオペレーターたちは軒並みちょっと残念そうな表情を隠しもしなかったとか。