塗り替えているのは それを見つけたのは偶然だった。夜間シフトが終わって、少し経ったラウンジ。ボックス席の片隅からはみ出る足を、視界に捉えてしまった。
帰路につく三輪隊の面々と分かれて方向を変えたのは、奈良坂が病に侵されているからである。それも、医者でもどうしようもない類いの病だ。
ボックス席の目の前に立つ。足は無防備に投げ出され、組んだ腕を枕にしてその男はソファに横たわっていた。人のいないラウンジに響く微かな寝息と、浅く上下する胸だけが、男が生きていることを証明している。
「当真さん」
起きる気配はない。仕方なく、足を揺すって再度声をかけた。
顔を顰め、のん気に欠伸を一つ。瞼が薄く開き、緩慢に瞬きを繰り返す。それを奈良坂が黙って見つめていると、欠伸ともつかない声でむにゃむにゃと何かを言いながら当真は体を起こした。そうして大きく伸びをして、胡乱げな瞳孔がやっと奈良坂を捉える。奈良坂は思考の隅で薄ぼんやりと、猫の仕草を思い出していた。
「よう、奈良坂。昼寝の邪魔するとか、いい度胸じゃねえの?」
「昼寝って時間じゃないだろう。それに、こんなところで寝てると風邪を引く」
奈良坂の言葉を笑い飛ばすように、当真は口の端を持ち上げる。
「んなもん今更だろ、座るか?」
そう言って当真がソファの奥にずれ、合皮を軽く叩いた。奈良坂の方を向くように横向きで、その上胡坐をかいているから随分手狭そうに見えるが、本人は大して気にしていないようである。
頭の中で、今の時間と目の前の男を天秤にかけてみた。が、呆気なくそれは均衡を崩し、奈良坂はため息をつく。座席に腰を下ろすと、へらりと当真が笑った。
「本当に座るとは思ってなかったな。任務終わりだろ?」
「あんたが言ったんだろ」
奈良坂が眉根を寄せて、当真を軽く睨む。どこ吹く風というように、当真はテーブルに頬杖をついた。
「で、何か用でもあったか?」
当真の問いかけに、一瞬奈良坂が息を詰める。自分の顔が更に歪んだ自覚があった。当真の顔がどことなく目を細める。明らかに面白がっているのが分かって、それに一層腹が立った。
衝動に任せて、当真に手を伸ばす。胸倉を掴んで引き寄せると、薄い体は呆気なく近付いた。息もかかりそうな距離で、僅かな差で当真に見下ろされる。
「俺はあんたのことが好きだと、そう言ったはずだ」
きっかけは覚えていない。だが確かに奈良坂は眼前の男を好きだと思っていて、それを自覚して間もなく本人に伝えている。偏見の類いはなくとも色好い反応が返ってくるとは思っていなかったが、当真が言ったのは物好きだな、の一言だけであった。
それ以来何も言うこともなく、本人の振る舞いも変わらない。奈良坂がどうしようが、当真は意にも介さなかった。
「あまり無防備にならないでくれ」
切々とした己の声に、奈良坂は心底嫌気がさす。噛みしめた無力感も、もう味もしない。
「俺の前でも誰の前でも、だ」
前者は突き付けられるから、後者はそれでも嫉心を抑えられないから。当真が、黙ったまま片眉を上げた。それにはっとして、襟元を握りしめたままの手を離そうとする。だが、その上から手を重ねられ、とくりと心臓が跳ねた。
「そうかよ」
ふっと、呼気が奈良坂の唇を撫でる。あまりの近さに、当真に焦点が合わなかった。一瞬視線が交わる。そして、何か言おうと口を開いた奈良坂の声ごと、当真が呑み込んだ。
硬直する奈良坂に構わず、肉付きの薄い唇が奈良坂のそれを食む。かさついた皮の感触が生々しさに喉が鳴って、そんな感触をつぶさに拾うほどに意識を割いていた。
「――っ、んだよ」
それに気付いて咄嗟に当真を引き剥がす。吐き出した息は荒い。
「な、何を」
くらくらとする頭の中で、当真の肩を掴む手に力がこもる。ただ、当真は呆れたように首を横に振った。
「キスだよキス。おいおい、まさかそんなことも知らねえってんじゃないだろうな」
「そんなことは分かってる!」
奈良坂が言っているのは、何故当真がキスなどしたのかということである。それを口にしようと当真へ視線を向けると、喉元まで出かかった言葉が詰まったように出てこない。
「奈良坂。お前、なんも分かってねえのな」
その声色に、奈良坂は咄嗟に身を固くする。呆れたような口振りは変わらない。だが、柔らかな声が、眼差しが、奈良坂を戸惑わせる。当真に対して、ありもしない感情を期待しそうになるのだ。
「俺さあ、元々眠りはそんなに深くねえわけ。遠征なんて行ってると尚更よ」
先程までの妙な気配を霧散させ、淡々と当真は告げる。突然変わった話題についていけず、当惑する奈良坂をよそに当真が言葉を続けた。
「お前が俺のこと呼んでたのも聞こえてたぜ。流石に周囲の状況全部っつーのは無理だが、それくらいなら分かんだよ俺は」
当真の言葉を咀嚼し、浮かんだ考えを口にする。僅かに身を乗り出すと、ぎしりとソファの軋んだ音が続いた。
「じゃあ、俺を揶揄ってたのか」
「なんでそうなんだよ」
くつくつと当真は笑い、その手が奈良坂の目の前まで伸びてくる。思わず身構えると、指先で額を弾かれた。力がこめらていないのか、痛みは然程ない。
「こんなとこで手出してこいとまでは言わねえけど、お前の前でわざわざ俺が無防備にしてやってるんだぜ? その意味くらい分かれよ優等生」
当真の手が、額から下に下がる。指先が輪郭をなぞるように、頬を撫でた。体温の低い当真の手を、尚更冷たく感じる。勿論、奈良坂の顔が熱いからだとは重々承知だ。
恐る恐る、肩を掴んだままだった手を離し、当真のもう一つ空いた手に重ねてみる。当真は愉快そうにふっと笑うだけで、何も言わなかった。心臓が、酷く早い。
「……そもそも、あんたのやり方は分かりにくい」
「だーから分かりやすくしてやっただろ?」
親指が、奈良坂の唇を押すように撫でる。当真の声が、眼差しが、仕草が、その全てが、奈良坂に抗うことを許さない。それに従って、当真に顔を寄せる。
「――って」
触れた唇にあわく歯を立てたのは、ささやかな抵抗だ。当真が微かに口を歪めた気配がする。それでも、押し退けられるようなことはない。甘えを許容される快は、内側から蝕まれるようである。ぼんやりと、離れられそうにないと奈良坂は内心嘆息した。