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    人生は沼だらけ

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    人生は沼だらけ

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    二犬小説。エワ即売会(8)展示。鳩原密航後のランク戦に臨む犬飼の話。※二犬要素薄味

    ##二犬
    ##イベント

    犬の矜持『犬飼先輩、東方向から王子先輩が接近中してます』
     ベイルアウトの光を見上げ、一心地つく暇もない。氷見の通信が響いた。身を翻した視界の端に、路地の屋根の上の影を視認した瞬間、犬飼はシールドを展開する。
     頭上から叩きつけられるように降る弧月の刃を集中シールドで受け止めて、素早く後退し距離を取った。恐らくフリーにすればスコーピオンかハウンドが飛んでくるだろう。引き金を引いて、アステロイドの弾幕を叩き込む。
     王子にはシールドで防がれたものの、ひとまずは距離を置くことができた。
    「やるね、スミくん」
     薄らと笑みを浮かべる王子の表情には、余裕すら伺える。
    「褒めてくれるのは嬉しいけど、このまま逃がしてくれたりしない?」
     軽口混じりに問いかけると、王子が僅かに眉を下げた。
    「うーん。二宮さんたちと合流されるよりは、ここで手負いのスミくんを倒すのが定石だろう?」
    「まあ、それは俺も同感だけど」
     お互いの出方を探るように、視線を交わす。獅子の欠損など致命的なものはないものの、犬飼の消耗も少なくない。きっとここで犬飼を確実に落として、二宮隊に王子が奇襲をかける算段だろう。
     向こうでやり合っている香取隊とは当たりたくないはずだ。何せ今日の香取は随分と調子がいいから。

     一方犬飼の方はといえば、二宮と辻󠄀は生駒隊と交戦中で応援は見込めない。むしろ今回のランク戦での唯一のスナイパーである隠岐に、少々ちょっかいをかけたいくらいだ。
     ともかく膠着状態でいるのは避けたい。突撃銃からアステロイド、ハウンドと弾丸を放ち、王子とは反対方向に地を蹴る。
    『ひゃみちゃん、隠岐くんの潜伏候補出せる?』
    『グラスホッパーがあるので、信憑性はないですが』
     内部通信で氷見にマークをお願いすると、すぐに反応が返ってきた。
    『ありがと』
     レーダーに表示されるのを横目で確認する。位置が割れるまでは、虱潰しといこう。犬飼は早々に次の行動を決めて、追手の方へと銃口を向けた。受け身になっては、王子相手に勝ち目はない。できれば少々手傷を負わせられれば御の字だが、と思考にノイズが走る。

     アステロイドで牽制しつつ後退るが、難なくシールドで払われた。次の瞬間、王子が跳んだ。反射的にハウンドを織り交ぜて放ち、弾の軌跡が何発かは命中する。が、掠めただけだ。
     距離を詰められ、迫る凶刃をシールドでいなせど、衝撃でバキリと割れる。もう一方の刃が閃き、すぐにシールドを滑り込ませた。
    「流石に、こっちの土俵で負けるわけにはいかないよね」
     戦闘中とは思えないほど涼やかな声が、すぐ近くで聞こえた。刃先を伸ばしたスコーピオンが犬飼の首に食い込み、駄目押しのようにシールドを砕いた弧月が腹に刺さる。見上げた表情は笑みを浮かべていて、自身も腕部から黒煙を上げているとは思えないほどだ。

    『戦闘体活動限界。緊急脱出』

     悔しさに顔を歪める暇もなく、淡々としたシステム音が木霊する。そして、白く塗り潰される視界と共に、意識が飛んだ。


    *


     八月の半ば、照り付けるような太陽は未だコンクリートを強く焼いているはずだろう。だが空調の行き届いたボーダーのラウンジでは、無縁の話ではあった。
     昼のランク戦があらかた終わって小一時間ほど。夜のランク戦を観戦する者は、大体ここで時間を潰すか、個人ランク戦に興じるかの二択に分かれている。シーズンも数戦を残すところとなり、C級隊員の話題に上るのはもっぱら今回のB級一位の座についてであった。

    「いい加減起きろってー」
     ボックス席の一画。べたりとテーブルに突っ伏した背中を、隣の当真が間延びした声と共に指先でつつく。伸びた背中は顔を上げることなく、半ば濁音混じりの声で呻くばかりだ。その前に置かれた、冷えていただろうペットボトルは酷く汗をかいている。
    「犬飼、いつまでそうしてんだ」
     向かいに座る荒船がちらりと目をやって、半ば呆れ混じりに言った。ボックス席の机には各々勉強道具やら仮題が広げられているようだったが、荒船の前には少しくたびれた参考書が開かれて置かれている。
    「だってさぁ」
     その言葉に不貞腐れたような声を返して、ようやっと犬飼がのろのろと顔を上げた。
    「だってもくそもあるか。B級まで落ちてきたと思ったら、とんとん拍子に上位まで上がっといて何が不満なんだ」
     悪態混じりに荒船が犬飼を睨む。その言葉通り、一度A級から降格された二宮隊は謹慎期間というブランクはあったものの、序盤から順調にポイントを重ね、今は上位をキープしている。
    「不満も何も、さっきの試合だよ。王子に落とされたの、もうちょっと何とかならなかったかなーって」
     起きたと思えば少し行儀悪く頬杖をついて犬飼が言うと、荒船が露骨に顔をしかめた。
    「お前があそこで欲出さなきゃ良かっただけだろ」
    「荒船ひどーい! そんなストレートに言わなくてもいいじゃん!」
     作ったような声色で、犬飼が背を丸めて泣き真似をするように顔を覆う。
    「おいおい、やめてやれよ~」
     庇うような口調の当真も、口元は弧を描いている。
    「でもあそこは、あいつの引き際が甘かったろ」
    「まあそりゃそうだな」
     犬飼の肩を持ったのは一瞬で、荒船の指摘にあっさりと当真が肯定を返した。
    「当真ー!」
     裏切られたように犬飼がまたがっくりと肩を落とす。へらへらと笑う当真はどこ吹く風といった様子だ。そんな向かいの様子に荒船が呆れていると、その横の穂刈がラウンジのホールの方に視線を向け、軽く手を振る。
    「こっちだ、二人とも」
     ボックス席に近付いてきたのは、北添と村上だった。どうやら丁度ランク戦終わりだったらしい。入れてー、と北添が当真と犬飼の方の席に、村上が穂刈と荒船の席に身を寄せる。
    「待て待て俺潰れるって」
    「酷いよ当真くんー」
     しくしくと泣き真似をする北添が並ぶと、確かに手狭そうだがそれは向かいも同じようだ。
    「そっちの方がマシだろ、俺とゾエが並ぶよりかは」
     穂刈の言葉に、荒船がうんうんと頷く。四人席よりは広い場所を確保していたのだが、それでも窮屈そうなのはそれぞれの体格の差だろう。

    「ねー二人も聞いてよ。荒船と当真が俺のこといじめるんだけど」
    「あらま、いじめはよくないねえ」
     犬飼が咄嗟に北添と村上に泣きつくように言うと、本気にしていないのか北添がのほほんと笑みを返す。困ったように村上が横の荒船と穂刈に視線を向けると、穂刈が口を開いた。
    「ランク戦のことだ、さっきの」
     そう補足を加えると、やっと納得したように村上が首肯する。
    「ああ、そういうことか。俺たちはついさっきまで試合が長引いてて、見てなかったんだ」
    「別に、犬飼が王子に落とされたのをぼろくそに言ってただけだぜ? いじめじゃねえ」
    「それじゃ鋼に伝わらねえだろ」
     見かねた荒船が、当真の言葉に付け加えるように先の試合の顛末について説明をした。そもそも結局は二宮がポイントを重ね、隊としてはほぼ白星みたいなものだ。何を不貞腐れているんだか、という嫌味めいた言葉もちくちくと犬飼を丁寧に刺してくる。

    「そもそも、鳩原いねえんだから、敵だって今までより仕掛けてくるのは当然だろ?」
     目を細めた当真が犬飼にそう告げる。だが周りの面々は、鳩原という単語に少し空気が張り詰めた。
    「そうだよね、早く慣れないとなあ」
     犬飼の呑気な言葉が、それを一瞬で霧散させる。色々な噂は数あれど、鳩原の除隊は彼女が重大な隊務規定違反を犯したから、ということになっていた。表向きは。
    「……俺たちは二宮隊と影浦隊に引っ搔き回されて、参ってるけどな」
     肩を竦める荒船に、たははと北添が頭を掻く。
    「いやー、ゾエさんたちも降格したくてしたわけじゃないしねえ~」
     んーと犬飼が、首を傾げる。
    「でもどっちもすぐ上位に上がったし、中盤ではほとんど荒船たちと当たってないよね?」
     ゆるりと笑って放たれた言葉に、ぴく、と荒船が柳眉を逆立てた。
    「お前、今日のランク戦も大して堪えてねえな?」
     立ち上がりかけた荒船を、慌ててサイドの二人が宥めにかかる。ごめんってー、と謝りながらも荒船の見立てはそう間違っていない。

     あそこで王子に取られるのは妥当も妥当。敵のスナイパーへの最短距離を探るより、さっさと退却する方が得策だった。別に戦略的撤退などよくある話だし、ランク戦においてプライドが~と犬飼がごねるかと言われると今更の話だ。
     犬飼の心にしこりを残しているのは、そこではない。
    ――人数の慣れでは片付けられない、ズレがあった。

     鳩原がいた時は、彼女の精密射撃が武器だけを撃ち落とすほどのものだということはよく知られていた。伝聞でも、結果でもってもである。二宮隊と相対する隊は、常にそんな彼女の脅威に晒されていた。
     スナイパーを警戒することに思考を割かれれば、当然人間の動きは鈍る。勿論、今までの試合全てがそれのおかげで万事上手くいったとまでは言わないが、鳩原の存在はそれだけ二宮隊において重要なものの一つだった。
     単独で戦っていると、そのズレがなおさら顕著になる。表層に決して出すことはないが、そうして生まれた焦燥が犬飼の心中に巣食っていた。

    「あーあ、トリオンにまだ余裕あるし、サブトリガー増やしてみようかな」
     荒船が落ち着いた頃、犬飼があっけらかんと告げる。
    「でももうスコーピオンも入れてたよね? これ以上何入れるの?」
     同じくトリオン量の高い北添が、犬飼のトリガーを指折り数えた。
    「佐鳥に教えてもらうといい、ツイン突撃銃なら」
    「もー流石に反動あるし、二丁も持てないから!」
     穂刈の冗談を流しつつ、村上も淡々と意見を述べる。
    「入れるものは選ばないと、今の連携を乱すんじゃないか?」
    「うん、あんまり変わったのは入れないつもり。いくつか候補はあったけど、ハウンドとかどう? サブで入れてる人も、少なくはないでしょ?」
     にこにこと微笑む犬飼に、荒船がぼそり呟いた。
    「お前が今日負けた王子とかな」
     その言葉に、犬飼は荒船をじとりと睨む。
    「根に持ってるな~?」
     犬飼がさらに荒船をつつこうと口を開く前に、村上が苦笑しながらそれを遮った。
    「まあまあ。ハウンドならいいんじゃないか? 単純に、攻撃手段以外にも用途は多いし」
    「教えてくれそうなプロフェッショナルも、隊にいることだしな」
     荒船の声で、全員同じ顔を思い浮かべたのだろう。頷く面々に対し、犬飼だけが一瞬渋面を浮かべた。
    「あー、二宮さん……?」
     珍しく歯切れの悪い声を、犬飼が上げる。
    「んだよ、俺たちが頼むならともかく、お前今更二宮さんに頼めねえとか言うんじゃねえだろうな」
    「頼みにくいんじゃなくて、頼みたくないの」
     犬飼の言葉に訝しげな視線をそれぞれ向けられ、犬飼がこんこんと指先でテーブルを弾いた。
    「あの人、今出水くんの弟子じゃない? 時間取ったらあれだし、それに加えて最近忙しそうだからね」
     文面だけ取ればまるで殊勝な態度の犬飼に、荒船と北添は顔を見合わせ、村上と穂刈は少し目を丸くし、当真は生暖かい目を向ける。
    「それで拗ねてんのか犬飼は」
    「やだなー、そんなんじゃないよ」
     へらりと笑って躱すが、少しひやりとした。それを気取られぬことはなく、荒船が首を捻る。
    「でもあの人以外って言ったら誰当たるつもりなんだ? サブで使ってる相手でもいいが、やっぱ教えてもらうならその道のやつがいいだろ」
     その話題に乗るようにして、犬飼は少しテーブルの上に身を乗り出した。
    「二宮さんに見てもらうのは、もうちょっと物になってからでもいいかなって。それにタメにいるじゃん? 動けてサポートもできて、頭も使える射手が二人も」


    *


     隊室の扉が音もなく開く。次いで、お疲れ様です、と聞き慣れた声がした。
     椅子に座っていた犬飼は、タブレット端末に落としていた視線を上げる。
    「やっほー辻󠄀ちゃん。早いね」
     ちらりと視線を向けた壁掛け時計は、まだ昼を過ぎて少しの時間を指していた。今日は二宮隊での防衛任務があるが、今回は夜間任務である。
    「任務までランク戦ブースに行こうかと。約束があるんですけど、早くついてしまって」
     淡々と告げた辻󠄀は、犬飼の様子を伺ってテーブルの上に荷物を置いた。
    「犬飼先輩こそ何してるんですか?」
     首を傾げる辻󠄀に、犬飼はひらひらと手を振って返す。
    「この前言ってた、ハウンドの練習。水上と会長に見てもらおうと思って、待ってたんだ」

     あの後、メールや運良く会えたタイミングで打診してみたところ、思いの外快諾してもらえた。水上は若干渋っていたものの、しばらく飯を奢るのと引き換えに引き受けてもらえたのだ。勿論、お礼は二人ともにする予定ではあるが。

    「そういえば、そんな話してましたね」
    「あはは、辻󠄀ちゃんって俺の話あんまり興味ない?」
     特に表情を変えることのない辻󠄀にそう言うと、少し顔をしかめた。
    「そんなことないですよ。ちゃんと覚えてたじゃないですか」
     そう抗議して、辻󠄀はそのまま冷蔵庫の方に足を向ける。荷物を置きに寄ったのかと思っていたが、とそれを眺めていると辻󠄀は中からペットボトルを二本取り出した。そして戻ってくると、その内の一本を犬飼の目の前に置く。
    「これ、先輩もどうぞ」
     そう言って、辻󠄀は犬飼の向かいに腰かけた。
    「これどうしたの? この前来た時はなかったよね」
     犬飼が物珍しげに、良く見かけるスポーツドリンクのペットボトルを手に取る。完全にイメージでしかないが、二宮隊の隊室にあるものとしてはなんだかあまりイメージがない。
    「二宮さんが置いて行ってくれたんです。俺たちで飲めって」
     辻󠄀の言う状況が、更に似つかわしくないものだったから犬飼は少し目を丸くした。
    「へえ、差し入れ? 珍しいね」
     とうとう思ったことを口に出すと、辻󠄀も同意するかのように頷く。
    「太刀川さんに押し付けられたって言ってましたよ、ダンボールで。自分は飲まないからいらないそうです」
    「まあ、確かに飲んでるイメージないね」
     甘いものは別に嫌いではなさそうだが、それよりもコーヒーとかの方が好きそうだ。
    「ですね。ひゃみさんと俺は時々もらってるので、先輩も持って行ってください」
    「そうする、ありがとね」
     来客はまだのようで、手持ち無沙汰にペットボトルに手を伸ばし嚥下する。冷たくて、さっぱりとした甘みが体に染みて、ふうと息をついた。最近あまり飲んでいないから、こんなに美味しかったっけと内心首を捻る。

    「というか、サブトリガー増やすんですね。もうスコーピオンもあるのに」
     辻󠄀の声にゆるりと顔を向け、ううんと犬飼は唸った。
    「そうだね、でも近接ではやっぱり攻撃手には分が悪いじゃない」
     先のランク戦を思い出しながら、とつとつと言葉を吐く。
    「それは適材適所じゃないですか?」
    「でも、俺たち個人で動くことも少なくないでしょ?」
     犬飼の言葉には一理あるのか、辻󠄀が黙した。
    「後は単純に、弾トリガーってやっぱり使い道多いからね。使えれば応用が効くかなって思ってさ。銃手はやっぱり、腕落とされた時がきついんだよねえ」
     ひらひらと、犬飼が利き手を振って見せる。
    「トリオン自体にはまだ余裕あったし、大丈夫かなって。急に実戦投入したりしないから、そこは安心してよ」
    「そこは心配してませんけど、二宮さんには聞かないんですね」
     辻󠄀の疑問に、思わずうっと声が漏れた。涼しい顔をして――いつものことではあるが――、不意打ちが上手いものである。
    「二宮さん忙しそうじゃん? 最近はいつにもまして」
    「まあ、確かにそうですね」
     別にそれ以上突っ込んでくる気はないらしい。ほっと内心胸を撫で下ろしつつ、犬飼は言葉を続けた。
    「そうそう。それにB級上位の射手二人がついてるからね、ものにできたらランク戦期待してていいよ」
    「そうか」

     目の前の辻󠄀と、完全に同じタイミングで体を硬直させる。不意に降ってきた低音に、ぎぎぎと錆びついたみたいにぎこちない動作で、犬飼は顔を上げた。
     いつの間に隊室に入ってきていたのか、いや自分たちは気付かなかっただけかもしれない。早鐘を打つ心臓を押さえ付け、犬飼は表情にいつも通りの笑みを纏わせる。二人を見下ろす二宮は私服で、どうやら本部には来たばかりであったようだ。

    「……珍しいですね、早めに隊室に来るの」
     本当にタイミングが悪い、と今この時だけ心中で悪態をついてしまうことを許して欲しい。正面の辻󠄀も、表情には変化はないように見えるが、若干そわそわと犬飼を窺っているようだ。
    「ああ、少し用事があってな」
     そう言った二宮が、テーブルの上に視線を向ける。それを追うと、どうやら犬飼の前に置かれたペットボトルを見ていたようで、これ幸いとそれについて口を開いた。
    「これ、ありがとうございます。さっき辻󠄀ちゃんから、一本もらいました」
    「ああ、まだあるから持って行け」
     それにはーいと返事をしつつ、これで二宮の興味も他に向いたかと安堵しかけるが、再び二宮の目が犬飼を射抜く。
    「ハウンドを使うのか?」
     淡々と二宮に訊ねられ、どきりと心臓が飛び跳ねるような心地がした。だが、それをおくびにも出さずにへらりと笑みを返す。
    「この前のランク戦で思う所あって、試しに触ってみようかなーって程度なんですけど」
    「そうか」
     ふむ、と二宮が思案するように目を伏せた。長い睫毛の影が顔に落ち、一瞬見入ってしまう。そのせいだ、この後放られた爆弾に上手く対応できなかったのは。
    「分かった、俺も同席する」
    「――えっ!?」
     俺の声が、やたらと隊室内に響く。数拍事態を咀嚼し、慌てて立ち上がって二宮さんに言い募った。
    「待ってください、用事あるって言ってたじゃないですか! そっちの方を優先しなくて大丈夫ですか!?」
    「片付けたい書類があっただけだ。別に期限が近いわけじゃない」
    「いや、いやいやいや!」
     憮然とした二宮に返す言葉が、混乱した頭では浮かばない。助けを求めて辻󠄀を見るが、そこには荷物を抱えて扉の方を向いている辻󠄀の姿があった。
    「お、俺はランク戦に行くのでそろそろ……」
    「待って辻󠄀ちゃん! 置いてかないで!」
     咄嗟に辻󠄀ちゃんを捕まえようとしたが、そそくさと退室されてしまう。
    「任務までには戻ってこいよ」
     そんな二宮の声が、隊室に空しく響いた。


    *


    「これ、どういう状況なん?」
     ぽつりと水上が呟く。二宮隊のトレーニングルームは、現状はプレーンな状態であった。無機質な白いタイルが、四方を囲んでいる。
     その中には一様に換装し、顔を引きつらせた犬飼と、眉間に皺を寄せた水上と、苦笑している蔵内。そして、いつも通りの仏頂面で三人を睥睨する二宮の姿があった。

    「えーっと、俺もよく分かってない、かも?」
     心からの言葉である。犬飼がこれまでになく、歯切れ悪く告げた。その様子に水上が眉間を指で揉み、浅く息をつく。
    「はーい、犬飼と蔵っちこっち集合ー」
     打って変わって気の抜けた声色で二人が呼ばれた。しかし、水上の表情は変わらずである。
    「二宮さんは、ちょーっと待っててもろてもええですか?」
    「ああ、構わん」
     二宮から了承を取り、手招きされるままに水上の方に寄った。すると耳打ちするように、少し顔を寄せて水上が口を開く。
    「いやなんで犬飼が分かってへんねん。呼ばれたから来たちゅうのに、二宮さんが仁王立ちで待っとったこっちの身にもなってみろや」
     仰る通りで、何も言い返せない。それでも流石に少しくらいは弁明させてほしい、犬飼に取っても完全に虚を衝かれたのである。
    「いやね、聞いてよ。俺がこれからハウンド教えてもらうんだって言ったら、二宮さんも見るって……」
    「そういうことは事前に言わんかい!」
    「さっき言われたんだって!!」
     水上に肘で小突かれながら突っ込まれ、思わず犬飼も声を大きくしてしまう。というより、そもそもこんな一室で密談も何もないのだが。
     まあまあと何とか蔵内に取りなされ、水上が深くため息をつき、じとりと犬飼を見る。
    「俺正味嫌やで、二宮さんの前で犬飼に教えんの」
    「俺も流石に気まずいかな」
     その気持ちは理解できるから、閉口するしかない。犬飼も里見はともかく、弓場の前で若村に教えろと言われたら、流石に困る。絶対に場所を変える。

     正直犬飼自身も今の二宮の思考が分からず、困っていると言えばそうだった。隊に入った当初よりは考えていることが分かるようになったと思っていたが、まだまだ甘かったらしい。

    「じゃあこうしないか」
     天の声が響くように、蔵内が口を開いた。犬飼と水上の視線がそちらに集中する。
    「とりあえず弾トリガーの基礎自体は、二宮さんから学ぶっていうのはどうだろう? 俺たちも二宮さんから学べることは多いと思うし、基本的なことは自隊の隊長に教わる方が犬飼のためにもなると思う」
     流石にそれは来てもらった蔵内と水上に悪いのでは、と犬飼は水上の方をちらりと窺う。
    「ええんちゃう?」
     水上が肩を竦めて、犬飼の視線に答えた。
    「俺なんかはほとんど我流みたいなもんやし、ちゃんとした人のやり方聞けるんはええかもな」
     二宮さんがええんなら、と水上が締め括ると、蔵内が待たせていた二宮に声をかける。
    「話はまとまったか?」
     内緒話など形だけで、ほとんど話は聞こえていたのだろう。二宮の問いに蔵内が返す。
    「二宮さんさえよければ、今回は俺たちが二宮さんにご教授いただくということでお願いしてもいいですか?」
     俺は構わないが、と言葉を切った二宮の視線が、つつっと犬飼の方に向いた。思わず犬飼が二宮をまじまじと見つめるが、感情の読めない目が見つめ返してくるだけだった。
    「えーっと、よろしくお願いします。会長も水上も、お礼はちゃんとするから。ありがとう」
     びしりと姿勢を正してその視線に答えると、二宮は満足そうに一つ頷く。
    「とりあえず基本的なことから教えていく。ひとまずサブトリガーを設定し直せ」
    「犬飼、了解」

     二宮からの仰せで、トレーニングルームのモニターを覗き込んだ。その設定を弄りながら、ぐるぐると思考が脳内を巡る。
     別に二宮から指導を受けたくなかった、などということは決してない。ただ、何となく知られたくなかったのかもしれない、と上手く言語化できない自身の感情を犬飼は結論付けた。それにしても、どうしてこうなったのかは全く分からないが。浅く息をつく。


     そうして始まった、二宮の初心者射手講座、ハウンド編は夕方頃まで続いた。
     何せ弾トリガーに触ったことなど、入隊時に手当たり次第に試していた時以来である。最初は弾を割るのも一苦労だった。だが、終盤頃には探知誘導くらいはそれっぽくなってきた。
     まああくまで、訓練内でという話なので、犬飼が実戦で使うというにはまだまだ練習が必要といったところである。
     犬飼の練習中にも、二宮は二人の質問やらに答えていたようだ。中々身のある話だったと蔵内はほくほく顔であったし、水上も珍しく素直にためになったと言っていた。
     夜の任務の前には元々解散する予定ではあったが、慣れないことをしたからと蔵内の進言で早めに解散することになった。

    「二人ともありがとー! ちょいちょいまた聞くかもしれないけど、その時はよろしく」
     ひらひらと手を振って、二人を見送る。ついでにスポドリも一本ずつ押し付けておいた。
    「ああ、できる限りは答えるよ」
     快く言ってくれた蔵内に対して、水上は程々にしてほしいわと肩を竦める。でもなんだかんだと付き合ってくれることは知っていたから、今は何も言わないでおくことにした。

     二人を送り出して、ちらりと時間を確認するがまだ辻󠄀と氷見が来るには早そうである。
    「二宮さんもありがとうございました。結局教えてもらっちゃって」
     用事も後回しにさせてしまった、と犬飼が礼を告げると、じとりと二宮の視線が向いた。
    「打開策を探すのはいいが、お前の役割を疎かにするくらいならやめておけ」
     相変わらず手厳しい言葉に、真意が分かっていても苦笑してしまう。
    「そもそも、何故俺に聞かない」
     ぱちり、と犬飼は思わず目を瞬かせた。対する二宮は、憮然と犬飼を見つめている。思ってもいないことを言われてしまって、咀嚼するのに少し時間がかかった。
    「えーっと、そうですね……」
     理由はいくつかある。言うか言うまいか少し考えて、その内の一つを選び取って口を開いた。
    「二宮さん。鳩原ちゃんのこと、まだ調べてますよね」
     犬飼の問いの形をした確認の声に、ぴくりと二宮の片眉が動く。注視していなければ気付かないくらいの、小さな動揺だ。否定の言葉は吐かれずに、沈黙が場を満たす。それだけで答えとしては十分だ。
     つい苦笑をこぼす。それについて、別に追求したかったわけではなく、ただ犬飼よりも優先することがあるだろうと言外に告げたかっただけだ。
    「出水くんのところで、色々教えてもらってるって話も聞いてますよ。これ以上根詰めさせるのもなって、それだけです」
     はあ、と深いため息が落とされる。
    「部下の指導に割く時間くらいある」
    「はは、すみません」
     犬飼に反省の色がないことは察されているだろう。だが、二宮もまたふんと鼻を鳴らしただけで、特に追及はしてこなかった。
    「まあいい。今日ので誰に師事するかは、お前が決めろ」
    「えっ」
     つい声を漏らす犬飼から、一瞬二宮の視線が外される。
    「考えなしだとは思ってない。好きにやれ」

     そう告げた二宮の口元が、一瞬歪む。その表情に、犬飼は吸い寄せられるように見入ってしまった。

     はっとしたのは、無機質な着信音が室内に鳴ったのに気付いてからだ。電話が来たのだろう、それを受けつつ二宮が隊室の入口へと足を向ける。
    「少し出てくる」
     それに犬飼はなんと返しただろうか。確か、ああ、はい、だとか、そんな返事をしたような気がする。
     僅かな間のことさえも不確かだったのは、脳内を二宮の言葉と、先の表情がぐるぐると渦巻いて占拠しているからだ。

     あの口元は、一見して分からないほどではあるが、確かに弧を描いていた。その事実が、胸中に落ちる。ぽつねんと寄る辺なく、一人その場に立ち尽くしていた。

     犬飼は呆然と自身の胸に手を当てる。とっとっとっ、と心臓がうるさく跳ねていた。

     二宮を怖いという人間が、ボーダー内に多くいるのを知っている。だけど、その実そうではないことも犬飼は身に染みて分かっていた。
     その二宮の人間らしさは、自隊の人間に顕著に発揮されることが多い。
     辻󠄀がたまに集めている恐竜の食玩集めを手伝ってやっていたこともある。遅くなれば氷見を必ず送り、一人で帰すことはしなかった。
     そして、二宮はまだ、鳩原が密航の主犯格ではないと信じていた。本人は、あの女がそんな大それたことができるわけがない、と言っているが、それが信頼と甘さでなければなんだというのだろう。
     そんな二宮が傾けた信頼に、犬飼は竦むような恐れを呑み込んだ。

    「お疲れ様です――、珍しいですね。犬飼先輩が一番乗りですか」
    「お疲れ様、ひゃみちゃん。今ちょっと二宮さんが出てるんだ。すぐ戻ってくると思うよ」

     どれくらい立ち尽くしていたのか、氷見が隊室に入ってくる。彼女が座るのに合わせ、犬飼も椅子に腰を下ろした。妙に、体が重い。

     そこから先の記憶は、朧げだった。ただ、淡々と普段通りに防衛任務をこなした、と思う。

     気付けば犬飼は、自室のベッドに身を沈めていた。


    *


     ゲート出現を知らせるけたたましい警報に、犬飼は顔を上げる。
     眼前には、まるで血のように赤い空が広がっていた。警戒区域のどこかだろう、とあたりをつける。ところどころ崩れた建物が、視界の端にちらついた。
     だが、周囲をじっくり窺う余裕はない。目の前の人物に、犬飼の目は奪われていた。
    「二宮さん……?」

     瓦礫が無造作に積まれ、小高い丘のようになっている。犬飼に背を向け、その上に立っていた。見慣れたスーツの裾を、風が僅かに巻き上げて揺らしている。
     犬飼の呼びかけに、いっそ緩慢な仕草で振り返った。見慣れた栗色の髪が、赤い空を透かして知らない色に変じる。
     逆光で影の差す表情は、それでもどこか安堵したような穏やかさを滲ませていた。髪よりも更に深い色の瞳が、確かに犬飼のものと交わる、その瞬間。
    「――二宮さんッ!!」
     その背後で、空が黒々とした大口を開く。紛れもなく、ゲートだった。
     慌てて二宮の元に駆け出そうとするが、ゲートから突如として暴風が吹き始める。その勢いたるや、犬飼の体を地面に叩きつけるように吹きつけ、飛ばされないようにその場に留まるのが精一杯だった。
     必死に地面に縋りつく犬飼とは対称的に、二宮は変わらずその場に立っている。トリオン兵が今のことろゲートから出てくる様子はない。だが危険なことに変わりはなかった。
    「――犬飼」
     どうにか二宮に近付く手立てはないかと思考する犬飼に、二宮が淡々と口を開く。距離は空いているはずなのに、その声だけはいやにはっきりと聞こえた。
    「俺は鳩原を探しに行く」
     地面をしがみつく指先が、震える。心臓が凍り付いたような心地で、愕然と二宮を仰ぎ見た。
    「二宮さん、なんで、」
     こぼれ落ちた言葉に、答えはない。くるりと踵を返して、二宮は一歩、一歩とゲートに向かって歩き出した。
     一向に風は止まない。強く、犬飼の体を、頬を打つ。それでも這いつくばるように、二宮の背を追うように、コンクリートに膝をついて、這ってでも進もうとする。が、それでは当然追いつけるわけもない。
    「待って、行かないで!」
     悲痛な犬飼の声に、二宮はゲートに呑み込まれる直前に足を止めた。肩越しに犬飼を振り返り、その口が開かれる。

    「犬飼、後はお前に任せた」

     必死に伸ばした手が、宙を掻き、地を叩いた。大口は一瞬で二宮を吞み込んで、ぷつりと消え去った。

    「二宮さんッ!!」


     犬飼は、目を開く。
     はっはっはっ、と全力で走った後のように、肺が空気を取り込もうと呼吸を繰り返させた。心臓ががんがんと暴れ出すように、脈を打っている。ちかちかと明滅していた視界が、段々と落ち着いて暗闇に目が慣れてきた。
     眼前には見慣れた天井が広がっていて、ゆっくりと身を起こすと自室であることにようやく気が付いた。
     全身に汗をぐっしょりとかいていて、切れた息はしばらく落ち着かないだろう。だが、驚きはなかった。

     覚めてしまえばなんてことのない。犬飼はここ数か月、何度となく同じ夢を見ていた。

     のろのろと緩慢にベッドに座り、そのまま立ち上がる。家族を起こさぬように慎重に自室を出て、洗面台に向かった。
     ぱちりと、電気のスイッチを弾く。蛍光灯の光が目を焼いた。眩しさに光を手で遮ると、鏡越しに自分の顔が映る。酷い顔だった。
     ため息をついて、顔を洗う。

     夢は毎日見ているわけではない。こうして悪夢に起こされない限り、睡眠はできるだけ削らないようにしているし、食欲がなくても腹には詰め込むようにしている。
     けれど、じりじりと犬飼の内側から、何かがこそぎ落とされていくような感覚は無視し難かった。
    「……嫌になるなあ」
     声のトーンをいささか上げてみたが、誰もいない空間では空しいだけだ。何もかもを振り払うように、蛇口を捻って出た冷水を手で掬い、前髪が濡れるのも構わず顔に冷水を叩きつける。
     ぽたり、ぽたりと水滴が顔を伝い、落ちる。

     表に出す気はさらさらない。ただ脳裏にこびり付いて離れない光景に、犬飼が未だに振り回されているだけなのだ。
     桜散った春の頃。花よりも生い茂る緑が目立つ時期。
     こつりと、鏡に額を押し付けると、水滴が鏡について、ひっかき傷のように垂れ落ちる。

     あの五月一日のことを、犬飼は未だに覚えていた。


    *


    「もう少し冷えるかと思ってたけど」
     ぽつりと、鳩原が呟いた。
    「そうだね。これくらい暖かい方が俺は好きだなあ」
     鳩原の唐突さにも、慣れたものだ。すぐに気温のことだろうと犬飼はあたりを付けて返す。元々こういう話し方なのか、それとも窺ってから話すことが染みついて妙な癖がついたのか。鳩原が話を切り出す時は、こんなことが多い。
     どうやら予想はあっていたようで、鳩原はほろりと笑って言葉を続ける。
    「うん、過ごしやすくていいね」
     犬飼もそれに同意し、帰り路を行く。

     今日は犬飼の十八歳の誕生日であった。すっかり定例となったが、隊員の誕生日には二宮が焼肉に連れて行ってくれる。防衛任務後だったとはいえ、皆に祝われ腹は膨れ、プレゼントまでもらってしまった。
     焼肉屋前で、二宮は辻󠄀と氷見を送り、犬飼は鳩原を送って帰ると言って分かれた。もらったプレゼントが入った紙袋を、ゆらゆらと揺らして帰る子供のような仕草も、今は許して欲しい。
     空は夕焼けで朱に染まり、アスファルトをも染めている。いずれ更に陽が長くなり、夏の準備とばかりに梅雨が来るだろう。誕生日があるというのもあるが、梅雨の前のからっとして過ごしやすい今の季節が、犬飼はいっとう好きだった。

    「犬飼くん」
     言葉少なに、目に付いたものについてぽつぽつと話していたのだが、ふいに鳩原が立ち止まる。犬飼もつられて足を止めると、一つ曲がった路地に自動販売機がぽつんと佇んでいるのが見えた。
    「喉乾いたの? 何か飲む?」
     犬飼がそう尋ねると、ゆっくりと鳩原が首を横に振る。
    「ううん、そうじゃなくって。えと、あたしが買うから好きなの選んでよ」
     珍しい申し出に、犬飼はつい目を丸くした。
    「えっ、でも悪いよ。プレゼントだってもらったしさ」
     四人分のちょっとした重さになった紙袋を揺らす。けれど鳩原は犬飼を困ったような顔で見つめていた。
    「代わりに少し話していかない? なんか、そんな気分で……」
     ね、と表情のわりに鳩原の眼差しは、しっかりと犬飼を見る目は揺らがない。自分から何かを主張することの少ない彼女がそんなことを言うなんて、本当に珍しいと思った。

     でも、犬飼と話したいと思ってのことなら、悪い気はしない。
     資格自体は消されてしまったが、遠征という目標に一緒に向かっている仲間である。鳩原のことも、二宮隊の面々のことも、単純に犬飼は気に入っていた。

    「じゃあお言葉に甘えて。何があるかなあ」
     犬飼は表情を緩め、帰り道を逸れて自販機へと足を向ける。
     古い自販機は種類は少ないものの、安かった。運良くぶどうジュースを見つけた犬飼は、これ、と指差すと鳩原が買ってくれた。
    「梨のジュースはないね」
     と、犬飼がラインナップを眺めながら言うと、ふふ、と鳩原が小さく笑う。
    「あたしも見たことないよ」
     鳩原はりんごジュースにしたようで、がこんと古い自販機は小さな缶を二度、吐き出した。
     そして自販機の灯りの下に並んで、ぽつりぽつりと話をする。
     といっても、特に話したいことがあったわけではないらしく、少し身構えていた犬飼はすぐに肩の力を抜いた。

     思えばこうして二人で話すことはあまりなかった。ボーダー、学校、家のこと。他愛のない話が続く。
     共通の話題として二宮隊の話題になれば、もう話題は尽きなかった。最近鳩原が克服させた氷見のあがり症についての話や、最近辻󠄀がハマっているスイーツの話。二宮が加古と言い合っていた話をすれば、小さく鳩原も笑いをこらえていた。
     そんな風にしていると、鳩原が缶に口をつけ、ふいに視線を落とす。
    「犬飼くんは、二宮さんのこと好きだよね」
    「……うん?」
     肯定のそれではない声が、犬飼から漏れる。意味を取りかねて鳩原を見るが、ゆるりと笑う顔は常のものだ。
    「うちの隊で、あの人のこと嫌いな人なんていなくない?」
    「ふふ、そうだね」
     犬飼の返答に、鳩原含みのある笑みをこぼす。これも、鳩原にしては珍しい。
    「なんか、意味ありげだけど」
    「ううん、別にそんなことないよ」
     躱された感覚が否めないが、それならば鳩原だって同じだろうと口を開く。
    「鳩原ちゃんだって、うちの隊好きでしょ」
     それは勿論犬飼自身のことだって含んでいるが、そこら辺を尋ねることに特に気恥ずかしさはなかった。
     鳩原は雰囲気がどこか希薄というか、独特である。そんな彼女は両手で握りしめた缶を見つめ、笑う。何に思いを馳せているのだろう、犬飼はその笑顔を見て溶けて消えてしまいそうだ、と何となしに思ってしまった。
    「うん、好きだよ。この隊に選んでもらえて良かった」
     ね、と返す。犬飼だってそう思っているから、同じ意見の人がいるのは純粋に嬉しい。

     ふっと時間を確認すると、一時間ほど経っていた。
    「あんまり遅くなって、心配させちゃうといけないから、そろそろ帰ろっか」
     そう言うと鳩原も頷く。飲み切って少し経った缶をゴミ箱に入れ、鳩原にご馳走様、と告げた。

    「二宮隊は、犬飼くんがいるから大丈夫だね」
    「どういう意味ー?」
     いつも通りの鳩原の笑顔に、どこか不穏なものを感じてまじまじと彼女を見つめる。鳩原は曖昧に笑い、指先で頬を掻いた。
    「なんとなくね。誕生日おめでとう、ここから五分もないし、後は自分で帰れるよ。付き合ってくれてありがとう」
    「それはいいけど。こっちこそありがと」
     元の道に戻ると、夕陽は街並みに潜り、空の果てには夜の兆しのように薄く紫がかり始めていた。何度か送ってきた鳩原の家は、外観くらいは覚えている。もう見える頃合いだから、本人もこう言っているし大丈夫かと犬飼も帰ることにした。
    「じゃあ、またね」
     犬飼の声に、うん、またと鳩原は確かに言った。

     別れ際、家路へとつく鳩原を少し見送る。一瞬、鳩原がこちらを振り返った。心許ない街灯が、斜陽の街から浮き彫りにするように鳩原を照らす。
     その口が動く。音は聞こえない。だから、犬飼は手を軽く振ったのだ。

     鳩原が何を言っていたか、今なら分かる。
     後は任せたよ、と彼女は確かにそう言ったのだ。

     それが犬飼が鳩原を見た、最後の姿だった。


    *


     鳩原未来が、民間人にトリガーを流し、ゲートを通って近界へ渡った。
     そう聞かされたのは、数日後の話だった。隊員それぞれに聴取を受け、根掘り葉掘り鳩原のことについて聞かれる。
     あの時鳩原と最後に話したのが犬飼だと言われ、流石に動揺を隠せなかった。あの時の会話が、じわじわと実感を伴って胸中を巣食う。
     でもまさか、勝手に渡航するなんて思っていなかった、と上層部には正直に告げた。元より、知っていることなんてほとんどなかった。

     ようやく解放されると、既にかなりの時間が経っていた。疲れた体で隊室に戻ると、二宮が座っていた。
    「辻󠄀ちゃんと氷見ちゃんは、まだですか?」
     二人の姿が見えないから、二宮に聞いてみる。一瞬、視線を上げ、二宮は口を開いた。
    「早く終わったから先に帰らせた。お前も早く帰れ」
     と、素っ気なく告げられた。後でメールか電話でもかけてみようと犬飼は決め、二宮に視線を向ける。
     項垂れたように椅子に腰かけている二宮は、どこかいつもよりも体が小さく見えた。
    「何か飲みます? ひゃみちゃんには敵いませんけど、コーヒーくらいだったら俺でも入れられますよ」
     返事はない。自分で言っておきながらコーヒーよりかは別のものがいいだろうかと、給湯室に向かう。少し冷蔵庫を検めて、牛乳を軽く温めることにした。小気味よいレンジの音を聞いて、程よい温かさになったことを確認し、マグを二宮の元に持って行く。

    「二宮さん」
     犬飼の呼びかけに、はっとしたように顔を上げた。二宮の、訝しげな視線が刺さる。
    「まだいたのか」
     どこか呆然としたような声色に、犬飼は頷いて返した。
    「そうですよ、はいこれ。飲んでください」
     マグをその手に押し付けると、思わずといった様子で二宮が受け取った。
    「ただの牛乳ですけど」
     正直突き返されるかと思ったが、一口、二宮が口をつけ、深く息を吐いた。
     助かる、と礼までついてきて、これは相当やられているな、と他人事のように思った。犬飼もショックがないといえば嘘になる。でも元々表層に出ない性分であるし、本部長から聞かされた時の辻󠄀や氷見、そして今の二宮の様子を思えば、自分がしっかりしなければと思わされた。

     何となく、二宮の横の椅子に腰かける。覗き込んだ目の下の隈は濃い。鳩原のことを聞かされた時、二宮は驚いていないようだった。恐らく犬飼たちよりも早く聞かされていたのだろう。
     鳩原については、表向きには重大な隊務規定違反による除隊として扱われるという。二宮隊は連帯責任として、B級への降格。しばらくの謹慎が告げられた。当事者としては不服だが、組織内での罰則としては妥当だろう。一応次のB級ランク戦には出られる日程ではあるらしい、かなり温情だ。

    「お前は、この隊に残るのか」
     思索に耽っていた犬飼を、二宮の声が現実に引き戻す。少し驚いて目を瞬かせるものの、二宮はこちらを見ていなかった。マグの中身は半分ほどに減っていて、二宮の表情は前髪がかかっていてよく見えない。
    「残るも何も、二宮隊は存続していいって言われたじゃないですか」
     元々はある程度隊内で習熟を積んだら解散するということも少なくはない。二宮隊がそのレベルだったかというと今は分からないが、そうでなくても隊ごと解散というのも無い話ではなかった。だがそれは今回の罰則には含まれていない。
     言外に、そうでもなければ辞める気はないと告げたつもりだったのだが、二宮は更に言葉を続ける。
    「それはあくまで、上層部での判断だ」
     トーンを落とした声が響く。二宮が発したにしては、覇気のない声だった。
    「この隊に残ればいやでも、隊務規定違反を起こした人間を出した隊だという評判がつき纏う。非はなくとも、だ」
     その先の言葉が容易に想像できて、犬飼は思わず顔を歪める。それさえも、二宮は見ない。見ようともしなかった。
    「他の隊でもやっていけるだろ。特にお前は」
     努めて感情を抑え、犬飼は細く息を吐く。
    「……それ、他の二人にも言ったんです?」
     静かに問うと、二宮はマグを音もなくテーブルの上に置いた。
    「言ってない。だがいずれは考えさせるつもりだ」
     その様子を、声を、見ていられなくて、聞いていられなくて。犬飼は衝動的に手を伸ばす。

     鳩原。彼女は本当に人をよく見ていた。観察上手で視野が広く、精密射撃にかけるプライドも情熱もあって、根気強かった。
     鳩原の言う通りだった。

    「じゃあ良かった。俺も二人も、やめませんよ」
     言い聞かせるように、投げ出されていた二宮の手を握る。先程まで温かいマグを持っていたはずなのに、酷く冷えきっていた。それをどうにかしたいと、強く思った。二宮が弾かれるように顔を上げ、犬飼を見つめる。ぴくりと指先が逃げるように震えたが、犬飼の熱が移ればいいのに、と強く握りしめた。

    「二宮隊が好きだから、残ります」
     ――あなたが好きだから残りますとは、流石に言えなかった。二宮の目が見開かれる。迷いのせいか、光の角度のせいか、それとも別の理由があるのか。二宮の瞳が、湖面のように波打って犬飼を見つめていた。寄る辺ない子供のようだと、思考の端で思った。

     そう、確かに好きだった。いつからかは分からないけれど、きっと隊を組んでから。この人を知ってからきっと間もなく、犬飼は二宮のことが好きだった。犬飼自身でも気付いていなかったのに、鳩原に見抜かれているとは大変癪ではあるが。
     この人の、合理的な思考ができるはずなのに、感情を捨てきれないところ。一度懐に入れた人間には甘くて、存外もろくて、それでいて強くあり続けようとする。そんなところにどうしようもなく引きつけられてしまった。
    「だから俺たちは、あなたの元に残ります」
     沈黙が場に落ちる。二宮が、そうかと低く呟いた。だいぶ体温の混ざった手を、そろりと離す。
    「俺からは話はしない。それに今はまだショックもでかいだろ」
     妥当な判断だ。二人が帰る時にどんな様子だったのかは犬飼には分からないが、すぐにまた動揺させるようなことを言うのは良くないだろう。
    「もし辻󠄀と氷見が抜けたがってる素振りを見せたら、俺に言え」
     はあい、と頷きながら、犬飼の頭をふと過ぎるものがあった。二宮自身は隊をどうしたいのか、二宮の考えは聞けていない。尋ねようとするが、既に二宮はマグを片付けるためか立ち上がり、給湯室の方へと歩いて行ってしまった。

     結局その後は帰宅するように促され、聞く機会を逸してしまった。それでも一度考えてしまったことは、中々頭から離れない。あの時聞いておけばよかったのに、口に出そうとすると喉が詰まったような心地になるのだ。
     犬飼はずっと己に問い続けている。二宮には聞こえもしないのに、ずっと。二宮はこの隊を続けていきたいのか。犬飼たちは、犬飼は、まだ二宮にとって必要なのか、と。

     それからだ。犬飼があの夢を見るようになったのは。


    *


     射手の基礎を教わってから一週間と少し、夢を見る頻度が増えた。
     着実にハウンドは物になっている、はずだ。辻󠄀にも付き合ってもらった模擬戦では、依然攻撃手には分が悪いもののハウンドで牽制、または相手の動きを削って、確実にポイントを取るということができるようになってきていた。
     ランク戦も、淡々と進んでいる。焦燥を抱えたまま、二宮隊は他の隊と一位を競っていた。二宮の強さは変わらない。犬飼たちが落とされるか、どこまでポイントを奪えるかが問題だろう。

     次が最終戦だ。次の結果で、今シーズンの順位が確定する。
     夢に引きずられてか、体力を明らかに消耗している自覚はあった。それでも、今まで温存していたハウンドを使うなら、次だとも思っていた。使わずに勝てれば確実でいいが、それでどうにかなるとも現状の自分には思えない。次のミーティング時に、犬飼の方から進言してみようと思っていた。

     今日は珍しく防衛任務もない。他の面子が本部に来る用事もなかったはずと、犬飼は午前中からトレーニングルームを占拠していた。
     夢中で弾を作っては放つ。気付けば時間はとうに経っていて、昼過ぎになっていた。ひとまずトレーニングルームから出たはいいものの、トリオン体でいたせいか空腹の感覚が薄い。このまま続けるのも手だなと、並べられた的に向き直る。
     その時、隊室のドアが開き、はっと顔を上げる。

     そこには二宮が剣呑な眼差しで、犬飼を見つめていた。
    「……お疲れ様です」
     犬飼が軽く会釈をしても、その視線はなおもこちらを突き刺してくる。
    「もういいだろう」
     淡々と、硬い声で二宮が告げた。
    「何がですか?」
     振りではない、本当に何の話か分からずに、二宮を見る。二宮は犬飼の言葉に、分かりやすく顔を歪めた。
    「それ以上無理をするのなら、次のランク戦にはお前は出さん」
     吐き出された言葉に愕然とする。ぐらぐらと足元が揺らぐような感覚に、二の句が告げられなかった。
    「お前は、何が気にかかってる」
     感情が、犬飼の心中でとぐろを巻いていた。暴風雨のようなそれを押さえ付けたくて、胸元を服ごとぐしゃぐしゃに掴む。俯く俺の肩を掴む手があった。
    「何がお前にそこまでさせるんだ?」
     気付いてしまう。ずっと見ていたから、ずっと聞いていた声だったから。その声色に滲む感情が、犬飼を心配して吐かれた言葉だと否応なしに理解させられる。
     もう、耐えられなかった。

    「――夢を見るんです。二宮さんが、鳩原ちゃんを探しに近界に行く夢を」
     吐息のような声だった。常の犬飼が発するには、力なく、弱々しいそれを、二宮は確かに拾い上げる。
    「そんなことをすると思っているのか」
    「分かんないでしょ、鳩原ちゃんだってそうだったんですから。何も、言わないでいなくなった……」
     俯き、隊室の床を睨みつけながら言葉を絞り出す。二宮に言われ、自分で開いた傷はじくじくと痛んでいた。
    「だからってお前が無理をする必要は」
    「二宮さんだって無理してるくせに?」
     二宮の言葉を遮って、犬飼が吐き捨てる。
    「このまままたB級で一位になって、A級になれれば遠征にさえ行ければ、鳩原ちゃん探せるかもしれないのに」
     犬飼が吐き出す切々とした願いを、二宮が諭すように否定する。
    「優先はボーダーとしての任務だ。お前だって分かってんだろ」
     そうだ、犬飼だって分かっていた。顔を上げ、二宮を睨みつける。
    「分かってますよ、こんなこと考えるだけ無駄だって! でも一度浮かんだら、やめることなんてできないじゃないですか……。何かできなかったのか、何か気付くことができなかったのか、あの時止められたら良かったなんて、何もかも終わった後に考え続けるよりはずっとましだ!!」
     犬飼の激昂が、隊室を揺らすような錯覚すら与える。ずきずきと犬飼の頭が軋むように痛んだ。感情の噴出に、あまりに体が慣れていなかった。ぐらつく体を支えるように二宮の腕の力が強まるのが、苦しくて辛かった。
    「もう置いて行かれるのは嫌なんです。もう誰にもいなくならないで欲しいのに、よりにもよって二宮さんの夢を見るなんて、耐えられない……。鳩原にだって、行って欲しくなかった」
     湿った声が喉から次々にこぼれ落ちる。とうとう犬飼は顔を覆って、自分でも直視できなかった自身の感情に胸を刺し貫かれるのに耐えた。
    「俺は、感情に支配されたくないのに。鳩原にだって、たった数人かそこらで近界に行くなんて、広い世界で弟を探すなんて無謀なことだって思うのに。あんただってここでもう手掛かりなんて見つかりっこないのに、鳩原のことずっと調べてるし。だから俺もこんな、馬鹿みたいなこと考えてしまうのに」
     もう恨み言のようなそれを、二宮はただ静かに聞いていた。その言葉一つさえ取りこぼさぬようにと、ただ犬飼の体を支えていた。

    「俺は、二宮隊が好きだった。今だって、こんな、好きなのに」
     こぼれたむき出しの本音を、聞き届けて二宮が口を開く。ぐっと、引き寄せられるような感覚に、犬飼は覆った手を退けようとする、がそれごと何かに拘束された。
    「俺はどこにも行かない」
     追って状況を理解した犬飼の喉が、ひゅっ、と鳴る。痛いくらいの力で抱きすくめられて、全身が、脳が、犬飼の世界が一瞬止まった。
    「お前だって同じだろう」
     慰撫するような声色が、犬飼の鼓膜を揺らす。
    「結局は感情に支配されて、合理的に動けてない。遠征目指して鳩原を探すって言うなら、あの時お前はこの隊を抜けるべきだった」
     その言葉に、あの日押し込めた感情がぶり返す。発露する不安が、喉からせり上がって、喉を震わせ、戦慄く犬飼の口からこぼれ落ちた。
    「俺のこと、やっぱりいらないですか」
     犬飼の言葉に、二宮が動揺をしたのか、身動ぎが伝わってくる。
    「ずっと怖かった、俺たちは残りましたけど二宮さんの意志は聞けなかったから。二宮さんは、この隊を続けたいと思ってくれてますか」
    「俺たちと、同じ気持ちですか?」
     犬飼を俯瞰する自身が、まるで今はこちらが子供のようだと囁いた。ただ、二宮の肩口に顔を埋めて、その答えを待つ。
    「俺が選んだ隊員だ」
     おずおずと二宮の声が響く。その言葉を、意志を、今度は犬飼が聞く番だ。
    「あの女がいなくなろうが勝ち上れると示したかった。俺の選んだこの人選で。だからそのために必要なことは、何だってするつもりだった。残ってくれたお前たちに報いる方法が、これだと思ったからだ」
     犬飼の視界がじわりと潤む。それでも嗚咽を漏らさぬように嚙み殺した。ただ、真摯な声に聞き入っていた。
    「出水に師事したのは、今の俺では不足だと思ったからだ。俺にはお前たちが必要だ。不要だなんて思ったことはない。俺もお前も鳩原も、似たもの同士だったというだけだ」
    「物事の道理を、合理性を理解しておきながら、そんなものよりも己の感情を優先する。どうしようもないさがだ」
     自嘲気味な言葉を、ただ穏やかな声色で二宮は語った。
    「だからどこかに行くものか。俺はこの隊にいる。お前たちがそうすると決めたように、俺がそうしたいからだ」

     ひくっ、と犬飼の喉から引きつった音が鳴る。
    「に、のみやさん」
     濁った音で、二宮の名を呼んだ。熱い涙が、決壊したように犬飼の目からこぼれ落ちる。次々と溢れるそれは犬飼の視界を歪ませるが、それでも二宮から目を離さなかった。ぎゅうと、二宮の体に縋りつくと、抱きしめる力が一層強くなった。それが、また犬飼の涙腺を軋ませる。
     子供のように泣きじゃくることなんて、それこそ物心ついた頃から覚えがない。目尻から顔まで、熱を出したように熱くて、引きつる喉は絶え間なく嗚咽を漏らし、話すことすらままならない。

     鼻だって垂れて、酷い顔をしている自覚があるのに、二宮は一向に離してくれなかった。それどころか恐る恐る伸ばされた手が、壊れ物にでも触れるように犬飼の背を撫でるものだから、堪らなかった。

     この人を好きで良かった、この人の隊で良かった。この人の弾丸に、盾になりたいと強く思った。今なら、いやこれからもずっと、そのためになら何だってできると思えた。

     ただがむしゃらに急き立てていた焦燥感が、やっと形を成す。
     好きで好きでたまらない、たった一人の人のためにずっと、強くなりたいと思っていたのだ。



     少し落ち着いて、二宮が犬飼の体を離す。名残惜しさはあったが、これ以上は言うまいと、犬飼は鼻を啜った。
    「すいません、涙とか、鼻水とかもついたかも……」
    「気にするな」
     そう言って二宮は、着ていた上着を脱ぎ、椅子の上にかける。
    「で、すっきりしたか」
     投げ渡された問いは、あっさりしたものだった。
    「はい、おかげさまで。というか、いつ気付いてたんですか、俺の体調のこと」
     気になっていたことを尋ねると、一瞬考えるように二宮が目を伏せ、再度口を開く。
    「シーズン前から」
    「待ってください、初めからじゃないですか」
     今思えば確かに、と思うようなことがあったようなないような。自分の体調を管理しきれていなかった後悔と、それがバレていた羞恥、言ってくれればよかったのにという恨み言が次々と浮かんでは消える。
    「ともかく、ランク戦までは大人しくしてろ。調子が戻らないような、さっきも言ったがお前は出さん」
    「でも次、最後ですよ?」
     犬飼の言葉にも二宮は頷かない、意志は固いらしい。
    「出たかったら死ぬ気で治せ。確認するからな」
    「はーい」
     渋ったものの、犬飼はさほど心配はしていなかった。もうきっと夢は見ないだろう。そんな確信があった。
    「家まで送る。早く荷物まとめろ」
    「えっ、いいですよ。夜でもないのに、帰れます」
     犬飼が驚いて言い返すと、二宮が忌々しそうに眉間に皺を寄せる。
    「うるせえ。たまには黙って世話焼かれてろ」
    「そ、ういうのは俺の役目じゃないんですか?」
     珍しい申し出に、犬飼の中の慕情が心臓の鼓動に燃料をくべた。それを宥めながら二宮に問い返す。伊達に二宮隊のバランサーとは言われていない。
    「辻󠄀や氷見はともかく、俺の世話なんて焼きたがるのはお前くらいだ」
     悪態を吐かれても、ふふっと犬飼は笑みをこぼす。
    「楽しいし、俺は好きですよ? というか二宮さん世話焼かれてる自覚あったんですね?」
     無言で睨まれて、犬飼はそそくさと荷物をまとめることにした。犬飼が本調子だったらきっと小突かれていたことだろう、やっぱり分かりにくいけど優しい人だとくすくすと笑う。

    「二宮さん」
     隊室を出る間際になって、二宮を呼び止める。なんだ、とぶっきらぼうな声が返され、二宮が振り返った。
    「いや、大したことない話なんですけど、ランク戦終わったら聞いて欲しいことがあって」
     おずおずと言うと、二宮は訝しげな顔をして口を開く。
    「言いたいことあるなら、今言え」
    「いや本当に大したことなくって。まあわがままみたいなものなので、俺が次のランク戦で活躍したら聞いてくださいよ」
     細められた目が犬飼を見つめ、やがて二宮はため息をついた。
    「勝ったらじゃないのか」
     確かにそこは勝ったらとかがセオリーだろう。犬飼の条件は少し違う。でも、そこは勝つか負けるか分からないから、などという弱気な理由ではない。
    「だって、勝ちますもん。俺たち」
     そう言って犬飼は、にっと笑みを浮かべる。一瞬、二宮が目を瞠ったが、ふっと一瞬だけ吐息のような笑みをこぼす。
    「好きにしろ」
    「やった! 俺頑張りますね」
     調子に乗った犬飼が、まずは本調子に戻せと小言を食らう。そうして、隊室を後にした。


    *


     ぴり、と緊張が肌を撫でる。
     B級ランク戦最終ラウンド、終盤。犬飼は市街地を駆けていた。

     後方から畳みかけてくる伸びるスコーピオン――マンティスをシールドでいなしつつ、ある方向へと駆ける。向こうも流石に犬飼の意図は分かっているだろう、時々降るメテオラの爆撃が煩わしい。
     既に絵馬がベイルアウトしているのが不幸中の幸いである。が二宮と辻󠄀は、ほぼ二宮隊と影浦隊で二分する形になった、残りの隊の掃討にあたっている。
     犬飼がすることはただ一つ。迫り来る影浦のマンティスを躱しながら、どうにか二宮の射程圏内に誘導することだ。

     だがこれは劣勢、と歯噛みする。入り組んだ路地にいるからどうにか斜線を切れているものの、犬飼の攻撃は常に向こうに読まれている。
    『犬飼先輩、持ちそうですか?』
    『今のところはまだね、そっちは?』
     辻󠄀からの通信に返しつつ、シールドを咄嗟に展開した。正確に犬飼の首を狙った刃が、シールドに亀裂を入れる。間髪入れずに突撃銃を向け、牽制しつつ後退り、マンティスの間合いを出る。だが、路地を曲がればまたすぐに詰められるだろう。
    『あと少しかと。向こうを押さえ次第、俺たちも向かいます』
    『なるべく早くお願い!』

     トリオン誘導で曲がり角の先に、ハウンドの弾丸を放つ。が、決定打にはならないだろう。
     頭の片隅には、まだ実戦投入していないハウンドが過ぎる。だが、相手が悪過ぎる。確実に避けられない状況を作らなければ、影浦に避けられるのがオチだ。
    「いい加減死にやがれッ!」
     唸るような声と共に、死角からの強襲が来る。咄嗟にシールドを滑り込ませるが、分離させたらしいもう一方のスコーピオンがシールドごと腕を跳ね飛ばした。
    「カゲこそ、今日はちょっとしつこいんじゃない!」
     アステロイドの掃射で距離を置く。至近距離だったから流石にいくらかは当たったものの、それでも犬飼のダメージの方は甚大だ。腕から、少なくない黒煙が立ち上る。

     ああきっと、影浦相手だったとしても貼ろ原野正確無比な弾は、きっと犬飼を助けてくれただろうに。思考が逸れる。

    『ひゃみちゃん、どこか大きめの、潜伏できそうな家とかピックアップできない?』
    『今マークします』
     ともかく見晴らしのいい所にはいられないと、レーダーを横目で確認し、駆けた。外観から見ても部屋数の多そうな住居に滑り込む。今更バッグワームを使って潜伏なんて手を取るつもりはない。二階まで駆け上がって、奥まった一室に飛び込んだ。
     ひとまず猛攻が止み、氷見に礼を伝えつつ、二宮に伝言を頼んだ。返事は来ないが、きっと否とは言われないだろう。
     仕込みをしながら、心を落ち着けるように息をつく。きっとすぐに影浦はやってくる。古典的な手段だが、やらない手はない。

     また頭の中を鳩原の影がちらつく。
     あの日、犬飼の誕生日の翌日に消息を絶ったことを、上層部に相当勘ぐられた。本当は裏で繋がっているのではないかと突かれたが、結局犬飼は鳩原の密航時自宅にいたことの確認が取れ、トリガー反応の有無で疑いは晴れた。

     きっと彼女なりのけじめか、手向けだったのだろう。
     時期を見極める必要があったとはいえ、鳩原の心中としては弟を探すための一縷の望みだったはずだ。それでも犬飼を祝って、帰り際に言葉を交わした。
     それだけで、鳩原が二宮隊に心を残していってくれたことが分かるだけで、犬飼には充分である。
     突撃銃を構える手の力が、自然と強まった。

     もう、犬飼は迷わない。違えない。

     頭上からは依然爆撃が続いている。屋根のひしゃげる音、レーダーで元より位置は割れているのだ。犬飼が立ち止まった現状、格好の的であることは間違いない。
     爆撃に紛れて、階下から物音がした。ふっと息を詰める。

     鳩原の信念は確かなものだった押しても、選び取った選択肢は間違っていたのだと思い知らせてやりたかった。
     ――俺たちを頼らなかったこと、必ず後悔させてみせるから。
    『犬飼。お前が合図を出せ』
     簡潔な通信が犬飼の耳に届く。一段落ついたのだろう、レーダーの位置を確認する。つい犬飼の口角が上がった。距離は、問題ない。
    『犬飼、了解』

     またね、と犬飼は言った。同じ言葉を、鳩原も確かに返したのだ。あの言葉を、あの時の会話を、犬飼は忘れることはないだろう。

     精々異世界で苦戦して、それでも足掻いているがいい。
     再び相まみえる、その時まで。


     瞬間、扉が蹴破られ、影浦が眼前に躍り出る。一瞬で肉薄され、シールドで抑え込む。影浦の鋭い視線が、犬飼を射抜く。が、すぐに目を見開いた。
    『――ハウンド』
     俺の意思に呼応して、四方に撒いたハウンドが一斉に起動する。鋭い舌打ちが響き、無数の弾が、確実に影浦の体に風穴を空けていく。
     だが決定打にはならない。
    「その程度で取れると思ってんのかクソ犬!」
     猛る影浦に、犬飼は笑って返した。
    「思ってないよ。俺がするのは、繋ぐことだから」
     ただそれだけを告げ、固定シールドを展開する。影浦がぱっと天井を見上げ、忌々しげに顔を歪める。間隙を縫って、マンティスが叩きつけられるが、こちらのシールドの方が早い。

     そして轟音と共に、屋根にとうとうひしゃげ穴が空いた。その隙間から見えたのは、無数の光の雨である。メテオラが凄まじい音を立てながら次々と着弾し、家ごと何もかもを破壊していく。
     影浦が這ったシールドが一瞬で粉砕され、その腕を持って行く。そして、メテオらを追うように、ハウンドの雨が無数に降り注いだ。

     まるで流星のようだと、それを見つめる。
    「これは、俺も危ないかも」
     他人事のように笑い、揺れる床の上で東海の衝撃に身構える。土煙が視界を遮り、影浦の姿がすぐに紛れて見えなくなる。だがベイルアウトの光が、流星に逆らうようにして空に昇って行った。

    「流石うちのエース」
     ひゅう、と息をつく。土煙が晴れ空が現れた。犬飼はすぐにシールドを解いて、立ち上がる。残るは北添のはずだが、あれだけ派手に撃っていればすぐに位置も知れるだろう。
     レーダーで位置を確認しながら、晴天を見上げる。雲一つない空は、今の犬飼の心中によく似ていた。

     まもなく、二宮隊はB級一位の座に収まる。
     二位は影浦隊となり、A級への昇格戦は降格させられて間もない二隊であるため、見送りとなった。

     二宮隊の快進撃としては、これ以上ない結果だろう。
     そうして、今シーズンのランク戦は幕を下ろした。
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    人生は沼だらけ

    MENU5/4 スパコミ 超吾が手に引き金を2023 にて頒布される、二犬合同誌に参加させていただきます。
    東2ホール ヌ19a「アルマの名前」(佐々川ささらさんのスペース)で頒布予定です。

    タイトル:Rendez-vous
    頒布価格:700円
    規格:A5/54P
    執筆者:佐々川ささらさん(イラスト) / くみこ・+さん(小説) / 人生は沼だらけ(小説)

    本文は私の分の冒頭サンプルになります。
    合同誌「Rendez-vous」サンプル 低く唸る自動ドアをくぐり、息をつく。自分と同じようにビルから吐き出される人波に乗って、そのまま通りへと歩き出した。腕時計を確認すれば、時刻は既に夕方頃。今日は他に予定もない。それでも思ったより長引いたと、肩の力を抜いた。ラフな格好でいいとはいえ、気を抜くことはできない。白い息を吐きながら、駅へと足を向けた。
     二宮も大学三年になり、既に一月半ば。来年の卒業に向けて、ボーダーでの防衛任務に加えて忙しい日々が続いている。就職先はほとんどボーダーで内定しているとはいえ、見聞を広めることは悪くない。今日もインターンの説明会を受けるために、三門から二駅離れたこの街に足を伸ばしていたのだ。
     丁度帰宅ラッシュか何かと被ったのか、随分と人通りが多い。だがその煩雑とした喧騒の中、とびきり高い金切り声が耳に飛び込んできた。
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