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    enagagagagagaga

    @enagagagagagaga

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    enagagagagagaga

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    共同1次創作企画の本編です。
    4話原案:めりる
     小説 :えなが

    そして、君の愛を知る。4 少年は鳥になりたかった。透明な青い空を、己の脆い翼で、どこまでも限りなく飛び続けたいと願った。
     少年は樹になりたかった。硬く大きく決して崩れぬ地の上に立ち、背筋を伸ばして、両手を広げて光を浴びたいと願った。
     少年は、風になりたかった。
     少年は、地になりたかった。
     少年は、雨に、海に、雲に、蝶に、花に、草に、砂に、魚に、ありとあらゆる生命になりたいと願った。
     少年は、ただ、『何か』を願った。
     そうやって、この世の全てを棄てたのだ。焼いて、引きちぎって、切り刻んで、締め付けて。
     ありとあらゆる方法で放棄した。
     望みなんてない。ほしいものなんてない。与えてもらうものなどない。
     口癖になったそれは、常に少年を縛った。
     縛られて、少年は両親と、名も知らぬ他者の愛を歪ませた。歪ませて、少年は己が感じていた愛を否定した。少年を中心に、世界の噛み合わせは悪くなった。それは、少年のせいではなく、けれど、少年のせいでもあった。
     赦す人も、赦されるべき人もいない罪だ。それは、即ち、人である故に起きた事だ。
     少年は、全てを放棄した。
     ただ、『何者か』に出会うまでは。



     廃墟区域は静かである。森林区域のように野生動物もいない。水没区域のように神秘的な世界ではない。明るさの違いはあれど、昼も夜も変わらない。
     廃れて、死ぬのを待つだけの灰色の世界。降り積もった何かの破片が、風に吹かれて大気中を舞う。その灰色の煙を纏い、ハンナは歩いていた。宛もなく歩き続ける姿はまるで迷子のようであり、けれど確かな目的を持って歩くその足取りは、灰色の世界には似合わないほどにしっかりとしている。
    ──他のアンドロイドの考えを学んでみてはどうだろう。
     ハンナの電子脳内には、フジの穏やかな提案の声が繰り返し流れている。フジが紹介してくれた何機かのアンドロイドの他に、自身の足でもアンドロイドを探しているハンナは、まだ出会ったことのないアンドロイドを求めて廃墟区域を歩いていたのだ。
     そんな薄暗い世界での探索中、ふと、どこからか声が聞こえてきた。途切れ途切れな声。けれど、廃ビルの隙間を抜けて響いてくる声。
    ──他のアンドロイドがいるのだろうか。
     ハンナは思わず足を止めた。機体のシステムの不具合か、それとも、相手のアンドロイドに不具合があるのか。声は聞こえているのに、ハンナのシステム上ではアンドロイドの反応を感知することが出来なかった。
     もしもハンナの不具合だったならば、またフジに迷惑をかけることになってしまう。この空気のせいだろうか、そうならば廃墟区域の探索は止めるべきであろう。
     けれども声が止むことはなく、それはハンナにとって興味深いものだった。聞こえる声を頼りに、ハンナはアンドロイドを探すことに決めた。
     ハンナは声の方向へ駆け出す。その声はどんどん大きくなっていき、アンドロイドへと近づいていく。近づく度に声は鮮明になり、それは短く切られていて、何らかの言葉を発していることが分かった。そうして次に、もうひとつあることに気がつく。
    ──声が、二人分ある。
     二重に揺らぐ声がハンナの耳に届いているのだ。アンドロイドが二機いるのだろうか。耳をすませて歩き続ける。廃墟区域のビル群からどんどん遠ざかり、やがて森が深くなって行く。木々をかき分け、少し開けた場所に出たとき、ハンナはそこにある一人分の人影を視認した。
     その人影は地面に膝立ち、組んだ指を顔に近づけて歌っていた。しかし聞こえる声は確実に二人分だ。どこかに隠れているのかとも思ったが、どうやら二人分のその声は同じ人影から発せられている。録音された音声データと同時に発声しているらしい。
     重なった音が混ざり、響く。
     声の主──アンドロイドは歌い続ける。誰かの声を再生しながら、その音に己の声も乗せて歌うのだ。独特な音程とメロディ。
    ──あぁ、鎮魂歌だ。
     アンドロイドは祈りを捧げているのだろう。その相手が誰なのか、ハンナは知る由もない。けれどそのアンドロイドの姿はあまりに美しくて、それでいて寂しすぎた。声をかけることも忘れて、ハンナは木々の隙間からそのアンドロイドを見ていた。
     しばらくして、歌い終わったアンドロイドが音声の再生を止める。
     途端に辺りには静寂が訪れて、木々の間を抜ける風の音色がやけに大きく聞こえた。雲が流れて、晴れ間が差す。ゆらゆらと波状の煌めきがアンドロイドを照らした。
     暗く、影の落とされていたアンドロイドの顔がはっきりとする。艶やかなアメジストの頭髪が風に揺れた。アンドロイドは目を閉じて、ここにはいない『誰か』へと黙祷を捧げていた。
     どのくらいの時が経ったのだろうか、黙祷が終わったらしいアンドロイドが立ち上がる。ハンナに背を向けて、アンドロイドは木々の隙間へと消えていく。その後ろ姿が見えなくなったそのとき、ハンナははっとした。そうだ、ハンナの目的はあのアンドロイドなのだ。
     アンドロイドの背を追いかけて木々の隙間を走る。獣道、枝や葉を器用に避けながら走ったが、しかしハンナはアンドロイドの姿を見失っていた。
     そう遠くへは行っていないはずだ、まだどこかにいるはず。視覚と聴覚機能を駆使して、ハンナはアンドロイドの姿を探す。
     そうしていると、ハンナの機体に何かが落ちた。腕を確認すると、小さな水滴が流れて落ちた。なんだろう、と考える暇もなくサーッと何かが降ってくる。肘笠雨だ。
     傘なんて持っているわけがない。いつ止むかも分からないこの雨に打たれ続けるわけにもいかないけれど、ここでアンドロイドの捜索を打ち切るのも納得できない。
     迷ったハンナは駆け出した。
     どちらにせよ、まずはこの林を抜けなければ。アンドロイドの後ろ姿が消えた方向だけを頼りにハンナは走り続ける。機体の耐水性を信じ、肘笠雨に打たれながら捜索を続ける。
    「おい、おまえ」
     背後から声が響いた。
     気配もなく、声だけがまるで実体のない幽霊のようにハンナへと届いた。最小限の動作で振り向く。そこにはアンドロイドが立っていた。
     男、のように見える髪の長いアンドロイドは葉っぱの傘をさしている。髪色は紫色。顔は、今初めて良く見たが、しかし身なりのお陰で先ほどのアンドロイドだと断定出来た。
    「何をしている。ある程度の耐水性を有しているとはいえ、そのような無防備な姿でほっつき歩き歩くなど、どうかしている」
     アンドロイドの言葉には強い怒気が含まれているようだった。いくら感情に疎くても、これはよく解るだろう。どうやらこのアンドロイドは、かなり機嫌が悪いらしい。
    「雨だぞ、雨。おまえは雨がどれほど恐ろしいものか解らないのか。まず、その成分。あの四ミリメートル一つ一つが不純物を含んでいる。それは大気中の塵であったものだ。世界中を漂う塵がおれ達に襲いかかってきている、といい換えても問題ない」
     ああ、汚らしいな、まったく。と眼前のアンドロイドが小声で吐き捨てた。
    「次に、その性質。あれは元々酸性だ。陽に照らされ乾いた時、隠れていたおぞましい酸性物質どもが産声をあげるのだ。人工物・自然物問わず手当たり次第に攻撃し、己が陣地を増やしていく。そうして汚染されたありとあらゆる資源が──」
     降り頻る雨にも負けない早口で、そのアンドロイドは雨という自然現象に対する持論を展開している。それは偏に科学的根拠のあるデータであると、よくよく聞けば理解できよう。
     しかし、如何せん長い。そして、何故かは解らないが私怨のような言葉で有害性について説かれている。
     ついでにいえば、その間もハンナの機体には、アンドロイドの話す恐ろしい雨が当たっている。
     口を挟む隙もなく、まるで陰険な教授の講演でも見学させられているかのような雰囲気が続いて、一体どうしたものかとハンナは律儀気に聞きながら考えた。
     すると、そういうハンナの様子に気がついたのか、はたまたきりが良かったのか「ああ、話過ぎた」とアンドロイドが言葉の勢いを緩めた。
    「此方へ。雨が止むまでは、散策は推奨しない」



     紫頭の奇妙なアンドロイドに連れられて、ハンナは雑木林を抜けた。景色は灰色の廃墟区域へと移り変わり、もう見慣れたと言っても過言ではないビル群を通り抜ける。雨模様の空の下、二機は無言で歩き続け、そうしてたどり着いたのは寂れたとある廃墟だった。
     ハンナは機体の露を払って、先を行くアンドロイドのあとに続く。玄関を抜けて軋む床のリビングへ足を踏み入れると、中央にある木製のテーブルとチェアが視界に入ってきた。テーブルの上には茶器が置いてある。
     まだ使われているような形跡のあるティーカップに目を奪われているとアンドロイドが言った。
    「おれが不法滞在している、元・名も知らぬ人間の住居だ」
     部屋の窓から外の様子を窺って続ける。
    「寛げるのなら、好きに寛ぐといい」
    「ありがとう、ございます。……あの、わたしはハンナと言います。あなたの固有名詞を伺ってもよろしいですか?」
     ようやく名を聞けたことに、ほっと安堵する。またいつ雨の危険性について、長々と話されるか分からない。相手に隙を与えては、ハンナはこのアンドロイドに対して一生何も聞けないだろう。
     アンドロイドはまじまじとハンナを見ていた。窓辺からテーブルの方へと移動し「おまえが、あの『ハンナ』か」と納得したように言う。
    「おれはニコラシカ。おまえのことはオリヴァーからよく聞いている。おまえとこうして話ができて幸せだ、ハンナ。ずっとこうして、話をしてみたいと、そう思っていたのだ」
    「オリヴァーを、知っているのですか」
    「まあな」
    「その、実はわたし、落下事故により記憶がなく……」
     ニコラシカはテキパキと動いている。それ以上の質問は受け付けないとでもいうように、部屋の隅にある棚から、なにやら色々ものを取り出してテーブルの上のティーカップを手に取る。
    「あの、なにをしているのですか」
     ハンナがたまらず聞く。
    「ああ、これは、おれが人間と共に過ごしていた時のルーティンだ。人間は、よく茶を嗜んでいたから」
     ニコラシカが一拍おいて続ける。
    「おまえも人間の真似事をするか? 無論、アンドロイドは飲食が可能な構造をしていないのだが……」
     そういうアンドロイドの手元にはどこでも見かけるような雑草と、泥の塊がある。まさかただの雑草と泥の塊でアフタヌーンティーでも嗜もうというのだろうか。
    「その、雑草と泥ですよね……? 手元にあるの」
    「雑草と泥を見くびらないでもらいたい。人間のように、おれ達が『雑草』と呼称することで彼らは不当な扱いを受けているが、これらはそもそも──」
     ああ、始まった。とハンナは直感的に感じ取った。どうやらニコラシカの何かのスイッチを押してしまったらしい。先ほど同様、雑草と泥の有用性やらなにやらについて、一方的に話し続けている。
     どこかでストップをかけなければ、永久機関のようにニコラシカのトークは止まらないだろう。何か違う話題に……と考えて、ハンナは思いきって口を挟んだ。
    「失礼しました! あの、では、これらは一体何のお茶なのですか? 泥はもしかしてお菓子なのでしょうか?」
     ハンナの大きな声にピタリと話し声が止む。ニコラシカはハンナを一瞥した。
    「人間が好んでいたのは、アップルティーとスコーンだ」
    「そ、そうなのですね、アップルティーと……スコーン……アップルティーと、スコーン…………」
     まあ百歩譲ってアップルティーは良いとしよう。しかしいくらなんでも泥の塊をスコーンとは呼び難かった。話題を変えたのはいいが、今度は室内がいやに静かになって、ハンナは何か喋るべきかと思案する。
     静かな室内でニコラシカがお茶を用意する音だけが響いている。ついには沈黙に耐え切れなくなって、ハンナが発した。
    「あの、わたしも興味があります」
     その、アフタヌーンティーに。と声を萎ませながら伝えると、ニコラシカが徐にハンナの方を見た。
    「そうか。では用意しよう。暫し待機していてくれ」
     そう言うと、ニコラシカは棚からティーセットもう一組取り出した。ルーティンと言っていたように、よほどいつもやっていることなのか、その手際は見惚れるほどに良い。
     ニコラシカはテキパキと動き、あっという間に準備された茶がハンナの前に置かれた。
    「待たせたな。さあ、味わうといい」
     ニコラシカは着席し、液体の入ったティーカップを口元へ運んだ。ハンナもニコラシカの向かいに座り、ティーカップを持ち上げた。中を覗くと薄く色づいた液体が揺れる。ふと顔を上げると、ニコラシカはティーカップをテーブルに置いてこちらを見ていた。
    ──あれ。
     ハンナはニコラシカのティーカップに注目して、あることに気がついた。中身が減っているのだ。見間違いなどではない、アンドロイドが見間違うなど、そんなことはあるはずがないのだから。
     まさか本当に飲んだのだろうか、ニコラシカは、飲食が可能なアンドロイドだとでも言うのか。疑問が次々に浮かび上がって、けれどどれだけ考えてもハンナが飲めないことには変わりはない。ハンナはティーカップを静かにテーブルへ置いた。
    「えっと……すみません。わたしは飲めません」
    「何を言う。アンドロイドなのだから当然だろう」
    「……え」
    「なんだ」
    「……い、いえ。なんでもありません」
     至極当然という表情で返されては、ハンナには言い返す言葉などなかった。



    「それで? 落下事故に遭い、自我データを失ったおまえが、散策している理由はなんなのだ」
     ニコラシカがハンナに尋ねる。ただ話題を振ったのか、それともハンナのように沈黙に耐えられなかったのか。けれどニコラシカは沈黙が苦手なようには思えなかった。迷いつつ、ハンナは質問に答える。
    「愛とは、なんなのかを探しています。事故により記憶を失い、そのせいでオリヴァーに……友ではないと、そう言われてしまいました。けれどわたしにはオリヴァーがそう言う理由が分からないのです。だから、彼が何を考えているのか知るために、愛を……その答えを、探しています」
     それに、とハンナは続ける。
    「記憶を失う前のわたしも、愛を知りたいと発言していたそうなのです」
    「愛……それは難儀だな。自我データを喪失した今のおまえでは、知りたかった『愛』自体の答えを発見できるか否か……。無論、今のおまえであろうとも、いつかはおまえの『愛』を理解するのだろうが。それがかつて知りたかったものかと問われれば、判断しかねるな」
    「……ニコラシカ、あなたは私がオリヴァーと仲直り出来ると思いますか? わたしがオリヴァーの愛を理解すれば、私たちの仲は元に戻ると思いますか?」
    「それも難儀だな。が、そのアンドロイドに『おまえは友ではない』……そう断言されてしまったのならば、おれは一から関係を築くべきだと思う。もう、おまえと彼は、かつてのおまえ達ではないのだから」
     それはとても、心苦しいものであるが……とニコラシカの小さな呟きが零れた。一から関係を築く……最後にあったオリヴァーはそれすらも取りつく島がないように見えた。果たしてニコラシカの言う通り、もう一度関係を新たに築くことなど出来るものなのか。
    「兎にも角にも、まずおまえが『おまえ』を自覚しなければ、話は進展しない。こうしておれの話を聞いているということは、少なくともおまえはおれとの会話で何かを掴む心算だということの証明に他ならない。であれば、おれはおれにできることをするまでだ」
     ニコラシカはそう言うと、いつの間にか空になっていたティーカップに茶を注いだ。並々と茶が注がれて、ティーカップの中でゆらゆらと波紋が広がる。一方でハンナのティーカップには先程と変わらぬお茶が入ったままである。
    「あなたに出来ること……というのは、何か話を聞かせていただける……ということですか?」
    「おまえの指す話というのが、体験談のようなもののことであれば少し違うな」
     ニコラシカは幼子に絵本を読みきかせるように、ゆっくりと落ち着いた調子で語り出す。

     昔、まだ人間が衰退していなかった頃、とある街とある場所に浮世離れした屋敷が一つあった。そこには成人していない──所謂少年と呼称するに相応しい年齢の人間が一人、誰とも顔を合わせることもなく、誰とも話をすることもなく、ただ、息をしているだけだった。ゆえにその人間は世界を知らず、世界もまたその人間を知らなかった。
     それを不憫に思った別の人間が、ある日その人間に世界についてのありとあらゆる情報を与えた。
     人間は、与えられた情報によって世界を理解した。

     世界は、おまえのことを何一つとして理解していないというのに。

    「さて。いつの日にか、人間が外に出る日が来たとしよう。人間は、世界を理解しているから、不便なことは何一つとしてない筈だ。けれども、世界をはじめて『見た』時に、果たして人間は『世界』について、何か新しい情報を得たのだろうか」
     ニコラシカはそこで話を区切り、ハンナを見つめる。
    「どうだろうか、ハンナ。この人間がどう考え何を思い、どのような行動をしたのか。人間の持つ知識に増減はあったのか、なかったのか──おまえの意見を、さぁ、聞かせてくれ」
     ニコラシカがテーブルに組んだ両手を乗せる。ハンナがすぐに答えを出せずとも、彼はずっと、ひたすらに待ち続けるだろう。その瞳に見つめられて、ハンナは思考する。
     ニコラシカが話した題目は、思考実験の一つである「メアリーの部屋」ととても似ている。しかしどこか違和感を覚えるのは、恐らく話の主軸となっている部分が本来の「メアリー」ではないからだ。
    ──きっと、誰かのことを話している。
     それはハンナの直感で、アンドロイドらしくなく根拠はない。けれど、もしもニコラシカが、ハンナの知らない誰かについて話していたとしても、ハンナの答えには何の影響もないであろう。それに、ニコラシカが問うているのは科学的な側面や思考実験としての正解ではないだろう。
     改めて問われた答えを考えてみる。
     知らないことは何一つない人間。それが、世界に触れたとき、人間は何かを思うのか。
    「わたしは……言語化出来ない、何かを得ると思います」
    「──そうか。そうだろうな。知っていた、理解していた、だけでは『実体験』がない。実体験も情報の一つとするならば、人間はすべてを知り、理解していたわけではなかったのだと……、そういえるだろう」
     そう言ってニコラシカがティーカップに茶を注いだ。どうやら、ハンナが思考している間にまた茶を飲んでいたらしい。空っぽのティーカップに茶がとぷとぷと注がれた。 
    「では仮に、それすらも思考し、判断がついていたとしたら……『実体験』は既知の情報となりうるだろうか? そうなれば、今度こそ、人間は世界のすべてを知っていたことになるだろうか? ハンナ、おまえはこれについてどう考えるのだ」
     ハンナは再び思考する。ニコラシカは悠然とティーカップを口元へ運んでおり、優雅なティータイムを楽しむようにしてハンナの答えを待っていた。
     いつまでも減らないままのティーカップに視線を落とす。
     何もかもを知っていたとして、実体験すらも情報として知っていたとして……。
    「それでも、その人間は新たなものを得ると思います。けれど、それがどんなものか、わたしには想像がつきません。その人間が得るものは、その人間だけが得る情報だろうからです」
    「──そうか。それがおまえの考えか」
     と言い、ニコラシカがまた茶を注ぐ。
    「よく考えてくれた。つまり、『世界のすべて』に己の実体験は含まれておらず、仮に、その実体験とやらを『知って』いたとしても、それでも新たな知識を得る……という事だな。『クオリア』……己の感覚は『世界のすべて』に含まれない。それが──ハンナ、おまえの解答なのだな。相違はないか?」
     こく、とハンナが頷く。
    「では、ハンナ。おれの手を握るのだ」
     と、ニコラシカが手を差し出す。
     推測するに、ニコラシカは握手を求めているのだろう。差し出された掌を握り返し、テーブルの上で握手を交わす。
     ニコラシカからデータが共有される。
     それは、一つの果物だ。
    「おまえは、これが『何』か答えられるか」
     そう問うニコラシカ。ハンナは確かにこれに見覚えがある。久しく見かけていなかった気もするが、森林区域であればまだ実っているところもあるだろう。
     赤くて、丸くて、ハンナは勿論食べられないが、シャキシャキとした食感の甘い果実。
    「林檎です」
     ハンナが答えると、ニコラシカは満足したように頷いた。
    「とある国では『鳥が好んで集まる木』という意味がある、赤色とその甘味が特徴的な果実。とある書には『善悪を知る木の実』だとされている果実。詳しくいえば、バラ科リンゴ属の落葉高木樹の果実だ。収穫期は、今時期ではないな。品種は多く、それぞれに特色がある。林檎、と言って一番有名なのは──」
     と、ニコラシカは蘊蓄を語り始めた。つらつらぺらぺらと最早聞く気すら起きないほど長いお話だ。全く止まる気配がない。仕方なくその言葉に耳を傾けるが、話は全く電脳に止まらず聞いたそばから抜けて行く。
     暫くして、ようやくニコラシカの口が止まった。そうしてニコラシカは何かをハンナへ放り投げた。綺麗な放物線を描き、飛んできたそれを難なくキャッチする。
     あぁ、林檎だ。
     丸くて赤い、実の熟した、美味しそうな林檎である。品種は、と考えてみたが、そんなことは今この場では、ニコラシカしか気にしないだろう。
    「おまえは、それを掴んだ時、ただ『林檎だ』と思ったか。それとも、『これが林檎か』と思ったか。あるいは……興味など、ないか?」
    「と、言うと……?」
    「『世界』のすべてを知ることなど、本当に可能か判断はできない。だが、仮に、その部屋の中だけが人間の『世界』だったとして、かつ、この『人間』がおれだったとして……そういう条件下ならば、おれは林檎を手渡されたら驚くだろう。喜ぶだろう。笑うだろう。おれが仮に人間であれば食べるだろう。よく観賞するだろう。そして、そんな経験をできなかった今までの『生き方』を悲しみ、悔やむだろう」
     ぐっと表情を歪め、ニコラシカが続ける。
    「だが、それは『おれ』だ、あくまでも。『人間』がどうしたと思うか……そういう問いかけだけだとするならば、おれはきっとこの問には答えないだろう。考えたくもない。『人間』がその時どう思っていたのかなど……」
     一瞬のうちに、ニコラシカの表情が素に戻る。
    「……と、いうのが、この問題提議に対するおれなりの解答だ」
     ハンナは林檎をテーブルへ置いた。そうしてハンナが何か発するよりも先に、ニコラシカは話題を進行した。



    「では次の質問だ」
     ニコラシカは少年少女に知識を植え付けるだけの教師の様に、はっきりとした声で淡々と語り出す。
    「『神』という存在が在るとしよう。実際にいようがいまいが、空想上の産物だろうが、確認された実物なのか……は、兎も角、『神』が在るとして。『神』を信ずる者には『永遠の救い』が、『神』を否定する者には『永遠の罪』が、確定事項としてその身に降りかかる。いい換えれば、信じればプラス、否定すればマイナスになるという事だ。さて、簡単なゲームをしよう。何て事のない、賭け事だ。持ち金はおまえの命……つまるところその存在すべてだ。選択肢は単純明快にして難題。『神』を信じて過ごし、救われ、永遠の命を得る……仮に賭けに負けても何の損失もない選択か。『神』を否定し有限の平穏と過ごし、いつか死して罪に苦しみ……仮に賭けに勝とうが何の得もない選択か。おまえだけの命──おまえはどちらに賭けるのだ?」
     試すようなニコラシカの視線。
     おそらくこれも思考実験の問答のひとつだ。けれど求められているのがそうであるとは限らない。ハンナはゆっくりと思考した。ハンナがどれだけ思考に時間を費やそうと、ニコラシカは待ってくれるだろう。
     神。
     アンドロイドにとっての神とはなんだろうか。一般的に神というのは人間を超越した存在で、宗教的要素がある。人間に対して、祝福と罰を与える存在だ。それをアンドロイドに置き換えるならば、それはきっと、人間なのではないだろうか。人間に、この命を賭けるのか。目に見えない、命を。
    「……いいえ、神様には命は賭けられません」
    「……そうか。ならば、おまえにとって『神』とは一体全体なんだというのだ。そもそも『神』とは存在するのか?」
    「わたしにとって、神というのは人間です。そして……それらは既に死にました。きっと、わたしたちが殺したのです」
    「それは恐ろしいことをしてしまったな、ハンナ。いや、その主張だと、おまえだけの責任、罪ではないな。確かにおれには『神殺し』の経験があるが、あれほどのことは二度とないだろう。ゆえに、死した『神』は戻らず、世界は滅んだのだろうな。大罪人どもに我が物顔で己が創った理想郷を踏み荒らされる……一体全体どのような気持ちなのだろうな。憎いのか、怒りに狂えるのか、あるいは──」
    「ニコラシカは、神を殺したのですか?」
     ハンナがそう問いかけると、ニコラシカは「あぁ、それは」と茶を口元へ運んだ。そしてにっこりと笑顔を見せる。
    「──忘れてくれ。ただの戯言だ」
     背筋がひんやりとするような、作り物の笑み。ハンナはそれ以上何か問う気にはなれず、そのまま口を閉ざした。ニコラシカはただ笑みを浮かべたまま「おまえの意見を聞けてよかった、感謝する」と言い、そして続ける。
    「……昔のおれなら、おれのすべてを神に賭けていただろう。おれにとって、神はとても身近な存在であったからな。……今は、──」
     言葉を切って、ニコラシカが立ち上がった。その視線は、窓の外へと向けられていた。



    「──雨が止んだな」
     ニコラシカの言葉に、ハンナが窓の方を確認すれば、確かに重たい雲は居座っているものの天上から降る涙は止まっている。これならきっと歩き回っても問題ないだろう。そんなハンナの心内を見透かしたようにニコラシカが言う。
    「いくら長く稼動できようが、時間は有限なのだ。散策を再開すべきだろう。ゆえにおれが引き留める理由はなくなったのだが、最後に、ひとつだけ」
     ニコラシカが目をそらした。ハンナの足元を見ている。視線が合わない。
    「荒波で大破した船、呑まれかけたその舟板にしがみつき、誰も助けず己だけが助かるのは、罪か?」
     問われ、ハンナが「それは」と開口する。
     しかし言葉が紡がれる、その前にニコラシカが続けた。
    「いや──引き止めて悪かった。よい散策を」
    「……っえ? あの……?」
     ニコラシカはそう言うと、手早くティーパーティーの始末を始めた。ハンナの手前に置かれた、中身の変わらないティーカップも手早く片付けられ、それが終わるとニコラシカは何も言わずに部屋を出ていった。あまりの急展開に、声をかける暇さえなく、ハンナは一人取り残された。
     椅子に腰かけたまま、なんだか不思議な体験をしたな、と素直にそう思う。いくつか、問いかけられ、そしてその答えを見定められていた。最後の問いには、答える前に何処かへ行ってしまったが。
     ニコラシカの声が再生される。
     誰も助けずに己だけが助かるのは罪か。
     罪、なのだろうか。ハンナはひとり考えてみる。荒波に呑まれかけ、今にも波にさらわれそうなアンドロイド達を目の前にして、自分だけが助かろうとしている。
     ハンナはそれは罪ではないと考える。助かった方も、助からなかった方もきっと苦しい思いをする。だからそれに罪を問うのはナンセンスだ。
     けれどハンナは何度想像してみても自分だけ助かるというのは考えられなかった。きっとハンナは誰かにその席を譲ってしまうだろう。もちろん、これにはたくさんの条件があって、もう助かりそうにないアンドロイドと比較をするのなら、ハンナも自分自身を助けようとするだろう。だけど目の前にいるのがオリヴァーだったなら、ハンナは無条件でオリヴァーを救う。
     ハンナは立ち上がった。かたん、と椅子が音をたてる。誰もいない部屋を見渡して、ハンナは静かに廃墟を出た。



     翌日、夕暮れ時。空は一面鮮やかな橙で彩られている。
     あの後、ハンナは一度フジの活動拠点へ戻ったが、今日になってまた同じ区域を訪れていた。ニコラシカを探していたのだ。あれだけたくさん話したのに、結局あのアンドロイドにとっての愛とはなんだったのか不明である。
     昨日出会った場所と、その後案内された廃墟へは向かったものの、そこにニコラシカはいなかった。残念ながら、手がかりはほぼないが、しかし諦めるのはまだ早い。幸いアンドロイドはいくら歩いても疲れないのだ。探し始めた頃、空は綺麗な青空であったが、いつの間にか夕日に染まっていた、というわけである。
     そうしてしばらく彷徨うようにあてもなく歩き続けていると、あの歌が聞こえた。昨日聞いたあの歌だ。声も、同じく二つ聞こえる。間違いない、ニコラシカだ。ハンナは耳をすませ、そして走り出した。
     木々の隙間を抜けていく。器用に枝や葉を避けながら歌の聞こえる方へ近づいていくと、そこに昨日見たばかりのアンドロイドの姿を見つけた。
     ニコラシカは、地面に膝立ちになって、胸の前で指輪を組みんでいる。二つの音域で、そこにはいない誰かの安息を神に祈る歌が、太陽の瞼を閉じようとさせている。
     だんだんと、少しずつ気温が下がっていく。それに合わせて、ニコラシカの声量も小さくなっていく。その姿を眺め見て、やがてハンナはゆっくりとニコラシカへ近づいた。



     ハンナは静かにニコラシカの隣へ並び、黙祷を捧げた。それを終えるとニコラシカから声がかかった。
    「……感謝する。おまえも祈ってくれるとは、思ってもいなかった」
     隣に並んで見た顔は、やはり昨日と同じ顔だ。雨に濡れたハンナを怒っていたアンドロイドから礼を言われるとは、正直予想外だったハンナは頷いて返すに留めた。
    「すみません、あなたを探していたんです。昨日は結局……その、話が有耶無耶なまま終わってしまいましたから、そう、あなたの思う愛とはなんなのかを知りたくて」
    「そうか……確かに、おまえは昨日そう言っていたな。おれにとって『愛』は『明日“管理所有者”がいないこと』だと、管理所有者がそう学習させたのだ」
    「学習させた?」
     詳しく聞く気はあるか、と問われてハンナは頷く。
    「では、お言葉に甘えて語らせてもらおう」
     そして一度天を仰いだ。
    「長い話だ。歩きながら話すとしよう」
     ニコラシカが歩き始め、ハンナもそれに続く。
    「この先の水没区域へ用があるのだ。悪いが着いてきてくれ」
     ハンナが小さく頷くと、さて話そうか、とニコラシカが話し始めた。
    「おれを買ったのは、ある夫婦だった。都市部から離れた──貧しい辺境の村の薄幸そうな二人の人間。都市部で暮らすたった一人の子供の為に、有り金全部叩いた夫婦だった。おれは、その子供の所に発送された。生きて17年の記念日──つまるところ、誕生日の贈り物、というやつだった。おれは、子供の話し相手となった。感情表現が豊かな奴だった。元気な奴だった。しかし、己の意志で、与えられた部屋から一歩たりとも外へ出ることはなかった。外へ出る際は必ず、誰かの意志や思惑によるものだった。ゆえに、おれは四六時中その子供と話をしていた。子供と両親の仲は良好であった。直接会えないかわりに、手紙のやり取りをかかさなかったからだ。それこそ、遠距離恋愛をする男女よりも、やり取りの頻度は多かっただろう。手紙を一度読んだことがあるが、互いに、『愛していた』と伝わる文面だった。しかし、成人する丁度半年前に、子供は死んだ。死因は『自殺』であり『他殺』であり『焼死』であった。どれも正しくて、どれも間違い。けれど、確実に、三九八四年三月三十日、土曜日の十二時に、子供は……死んでしまった。おれは、おれを買った二人の人間の元へ向かった。人間達が……あの子供の両親が死ぬその時まで、おれは彼らの側にいた。彼らすら死んだ後は、回収を拒否し世界中を逃げ回った。『次』なんて、欲しくなかった。管理所有者が死に、決して観光気分でいたわけではないが、逃亡中に確認した世界は美しく、そしてその分だけ醜かった」
     ニコラシカが一呼吸置く。
    「……水没区域は、人類滅亡前に、おれが訪れることのなかった土地の一つなのだ。ゆえにその景色を見てみたかった。ハンナ、おまえはおもしろい考えを持っている。きっと、一人で見るよりもより多くの情報が得られるだろうと期待している」
     ニコラシカはそれきり言葉を発しなかった。話の続きはあるだろうと予想がつくが、ハンナはそれを急かすつもりなど毛頭ない。
     ハンナが思うに、これはニコラシカにとって、少なくともポジティブに捉えられる話ではないのだ。ニコラシカがどのように記憶を捉えているのか、それはわからないけれど、既に亡くなった家族の話は楽しいものばかりではない。別れは等しく寂しさをもたらすものだ。だから、そういう記憶を語るというのはアンドロイドといえど、語れるペースというのがあるだろう。
     二機は口を閉ざしたまま、けれどもその沈黙に気まずさはなく、ゆっくりと歩みを進めていた。
     しばらく歩き続けていると、空は完全に暗くなっていた。深い紺色の空に、ひとつ月が二機の頭上で輝いている。しかしどれだけ歩いただろうか。ハンナの機体が正確ならば、六時間は経っているだろう。
     ぴたり、と眼前で揺れていたアメジストの頭髪が突然止まった。あわせてハンナも足を止める。くるり、とニコラシカが振り返った。
    「一度休止しよう。おれ達アンドロイドに疲労はないが、それでも道のりはまだまだ長い……というか、偏におれが休止したいだけなのだが」
    「はい、ちょうどよいタイミングだと思います」
     どうしてか、急にニコラシカに親しみやすさを感じたハンナがそう返し、二機は機体を休めるのにちょうどよい大樹の下に腰を下ろした。
     ちらり、と横目でニコラシカを見てみるが、特に表情は変わらない。出会った当初、ニコラシカが雑草と泥で茶を嗜んだときには驚いたが、ただ黙っていると同じアンドロイドには見えない気がする。そういえば、ニコラシカはあの雑草紅茶を本当に飲んでいたが、一体どういう原理なのだろうか。もしもまたティーパーティーをする機会に恵まれれば、ハンナはその謎を問い詰めてみたい気持ちだ。
     不意に、ニコラシカが開口した。
    「なあ、ハンナ。以前出会った際におれが投げかけた問いを覚えているか?」
    「はい、覚えています」
     それは三つの質問があった。しかし二つは答えたが、最後のひとつは答える前にニコラシカが席を立ってしまったのだ。一つ目はメアリーの部屋と呼ばれる思考実験と、非常に良く似ているが、それとは違う質問だった。同様に二つ目、三つ目の質問も思い出す。神に賭けるか、かけないか。一人だけ助かるのは罪か。
    「あれは『思考実験』と呼称される、現実では起こり得ない理想的な実験方法と条件という環境下で発生するであろう現象を理論的に追究することを目的とした、人間達の実験の一部……に、よく似た問いかけだったのだ。だが、思考実験そのものの問いではなかった。おれは、あの時、おまえを利用し、おまえにおれの意志決定と行動選択を委ねてしまうつもりだった」
     ニコラシカは、右の短い髪の毛を弄りながら続ける。
     風が強くなってきた。びゅうびゅうと吹いている。
    「おれは、子供の管理所有者──〔ニコラシカ〕に『愛』を教えてもらった。おれは、おれにとっての『愛』は『明日〔ニコラシカ〕がいないことだ』と学んだ。それが、正しいことなのか、間違いなのか。それが、本当に『愛』なのか。おれ自身で考えることをせず、他者の主張をそのままの形で受け入れてしまった。……その時のように、また、誰かの意志におれの命を賭けようとしてしまった。それが、愚かしいことだと、解っていたはずなのに……。……おれ達がアンドロイドだろうが、人間だろうが、神だろうが、奴隷だろうが、何者であれど、そこに在る時点で、己のことは己で決めなければ意味がない。他者の影響を受けれど、他者に成り代わることなど出来やしないのだ。おれはおれ、おまえはおまえ。誰かは誰かでしかない。言葉にすればこんなにも簡単なことだ。なのに、そんな簡単な一歩すら踏み出せないのは、きっと……」
     一際強く風が吹いた。
     ニコラシカの声すらかき消して、強風が葉や小枝を遠くへと吹き飛ばした。
    「〔ニコラシカ〕は『愛』という言葉に凭れかかって、己の本当の姿を他者から隠そうとした。おれは〔ニコラシカ〕やハンナに凭れて、おれの意志をなかったことにしようとした」
     ニコラシカがこちらを向く。
    「おれは、もうおれに嘘をつきたくない。ゆえに水没都市へ行く。〔ニコラシカ〕としてではなく、ニコラシカとして。……ハンナ、おまえは、おれにとって『何者』なのだ? 『ただ愛を知るためだけに利用しているだけの存在』なのか? それとも、また別の何かなのか?」
     ハンナとニコラシカがどのような関係か。
     少なくとも、ハンナはニコラシカのことをただ利用しようなどとは思っていなかった。だからといって、ビジネスライクな付き合いというには二機はきっと踏み込みすぎている。それならば、ニコラシカにとってハンナという存在は。
    「ともだち……」
    「友……? おれと、おまえが、か?」
    「はい……変ですか? あなたと〔ニコラシカ〕もそうであったのではないですか?」
    「…………おれは、〔ニコラシカ〕の友であれたのだろうか……。無論、おれはその為に在る存在、故に友ではあった。しかし、それはおれの主観なのか、他者からの客観なのか。心の底から〔ニコラシカ〕に友だと思ってもらえていたのだろうか」
     呟くような声に、ハンナは考えてみる。ニコラシカが〔ニコラシカ〕とどうであったのか、それを確かめる方法はないのだろうか。ニコラシカにも、ハンナにも。他の誰にもわからない。
    「なにか……なにか、残っている記録はないのでしょうか」
    「記録? そんなものは……いや」
     はっとニコラシカが何かを思い出したように振り向いた。
    「〔ニコラシカ〕が亡くなる前に『見ない方が幸せに暮らせるから、だからどうか、見ないでくれ』と言われ、渡されたデータがある」
    「もしかしたら、その中に〔ニコラシカ〕の気持ちが何か隠されているかも……!」
     しかしそのように言われて渡されたデータを見るのはとても勇気の必要な行動だろう。何が入っているかも分からない、誰も中身の知らないデータ。まるで実体のない幽霊を相手にするような恐ろしささえある。
    「ハンナ。頼みがある。共にデータを見てはくれないか?」
    「もちろんです、ニコラシカ」
     差し出されたニコラシカの手をハンナはしっかりと握る。向かい合った二機が握手を行った瞬間、ニコラシカによって一つの記録が共有された。

    *** *** ***

    【然る人間の日記データ】

    1/182(3731年9月29日金曜日)

    『年の近い友達が欲しい……そう両親に手紙を贈ったら、今年の誕生日にはアンドロイドなるものが贈られてきた。人間みたいだけど、人間じゃなくて。生きてるわけではないけれど、死んでるわけでもないらしい。
     よく使う電子機器と同じ類いの、機械らしい。
     去年のような、一生使えない靴とは違って今年の贈り物は嬉しいけれど、そういうことじゃない。俺は、人間の話し相手が欲しかったのに。

     世の中にこんな技術があるのなら、俺はもう要らない子なのかもしれない。
     ならば両親も、さっさとこんな俺を捨ててしまって、体が丈夫なアンドロイドを自分の子供とすり替えればいいのに。』



    3/182(3731年10月2日月曜日)

    『どうやらアンドロイドというものは、
     自立思考システムを搭載し、自我データを蓄積していくことにより人間の感情に近いそれを獲得していく……というものらしい。
     つまり暫くは俺が世話をする必要がある。世話、というか、アンドロイドを俺好みに調教するというか……。
     まぁ、とりあえず、詰め込めるなら詰めてしまわないと宝の持ち腐れだ。
     学習していくなら、成長するなら、きっと。きっと、色んな使い道がある。
     例えば、殺しの方法を教えれば、それが正しいことだと言う間違った倫理観を育てれば、暗殺者にもなれるのだろうか。あるいは、世界に名を轟かせる有名なピアニストになるかも。

     あるいは……、
     俺の代わりに両親の隣を歩けるかもしれない。そういう意味で、これは贈られてきたのかもしれない。
     いつかシンギュラリティの果てに、俺自身がなくなってもなにも怖くない。
     そこにもうおれはいるから。』



    82/182(3731年12月20日水曜日)

    『両親への手紙に惰性で書いていた、愛してる、という言葉をアンドロイドのおれに見られた。見られてしまった。
     恥ずかしくて何も言えなかったけれど、どうやらおれは、愛、を知らないらしい。俺と違って自由なおれのくせに、愛を知らないと来た。
     人間の俺が唯一優っていることを見つけてしまって、そんなことも知らないなんてまだまだ青いな、なんてませたことを言ってみた。
     そうしたらおれは、なら学習させろ、と言ってきたのだから、中々俺も負けず嫌いらしい。
     受けてたってやる。

     きっと、これが最後だ。
     ただのガラクタだったおれが俺よりも俺らしくなるために、俺がしてあげられる最後の会話だ。』



    83/182(3731年12月21日木曜日)

    『俺が考える愛は、どうやらおれには難しかったらしい。
     ただなんてことのない、家族愛を語ってみたけれど、それがどうやらしっくりこないようだ。
     まぁ、たった一度で理解しろだなんて思わないし言わない。俺だって声を大にして言えるような愛は持っていないのだから。
     ただ、俺が死に追い付かれる前に、それよりもはやく、俺の愛を知って欲しい。
     いや、そもそもアンドロイドのおれと俺自身の愛の定義は同じになるのだろうか。
     俺は愛を両親からもらったけれど、まだおれは俺の両親とはあったことがないらしい。

     なら、誰から愛を貰うのだろう。誰に愛を贈るのだろう。
     おれに……おまえに愛を渡すのは俺でいいのだろうか。』


    88/182(3731年12月26日火曜日)

    『おまえに愛を教えて5日目。
     やはり、納得はいっていない……というかこれっぽっちも解っていない顔だ。
     かく言う俺も、おまえが望む愛が何かを考えついてはいないけれど。
     仕方がない。ゆっくり時間をかけるしかないのだろう。
     尤も。そんな時間があればの話だが。
     何回学習すれば物事を習得できるのか、具体的な回数でも記録しておけばよかった。

     3ヶ月とちょっと先に、両親がこの家に来るらしい。
     その時までに、おまえが愛を知ることができればと思う。そうすれば、おまえは俺の代わりになって、知ったばかりの愛を身をもって体験できるだろうから。』



    103/182(3732年1月10日水曜日)

    『おまえの愛を考えて20日目。
     毎日愛を説く俺は、哲学者かなんかだろうか。
     愛には色々な名言があって、人の数、想いの数だけあるのだろうけれど、それは解答にはならない。そもそも、当人以外に愛を定義することはできないのではないだろうか、とさえ思う。
    俺は、おまえに俺の人生をあげる心算でこんなことをしているけれど、これはおまえが望んでいることなのだろうか。

     今更だ。
     訊くのが怖い。
     俺は、俺のエゴで、いつだっておまえに酷いことを押し付けている。』



    129/182(3732年2月5日月曜日)

    『おまえに愛を知って欲しくて約1月と半月。
     疲れてきた。
     おまえに愛を押し付けていることが。おまえに押し付けているものが今俺が持っていないものだったことが。
     使用人達が話していたことが本当ならば、俺自身がそもそも愛を知らなかったんだ。愛を語っていた筈なのに、そんな愛は砂上の楼閣そのものだった。
     俺の両親は、俺のことなど愛していなかったらしい。
     病弱な子供は、やっぱり要らないらしい。

     きっと、
     2ヶ月後に会いに来るのは、粗大ごみの俺を処分するためなんだろう。
     おまえは、どうなるのだろうか。
     できれば、生きていて。』



    155/182(3732年3月2日土曜日)

    『おまえと愛を探して72日目。
     健康体な子供が欲しいというのは、世継ぎが有能であればよいということだろうか。
     なら、せめて、俺が生きられなくてもおまえだけは壊されないように……そう、進言しよう。おまえは俺の宝物だから。
     大好きだから。
     おまえと居るだけで、夜が更けることなんて怖くなくなるから。
     俺の代わりに、俺の分まで生きていて。
     俺の名前も、服も、土地も、金も、何もかもをおまえにあげる。

     俺という存在のの押し売りをしてまで、俺は醜く生き足掻きたい。
     おまえと見る夜明けが綺麗だと、知ってしまったから。』



    174/182(3732年3月21日木曜日)

    『ニコラシカに愛を告げて91日目。
     約一週間後に、愛する両親だと思っていた人間が二人来る。
     俺は何をしていたんだろう。
     ふとした瞬間に、全てがどうでもよくなる。
     ニコラシカとのお別れが近いのに。俺は自分のことばかり考えて、ニコラシカを通してずっと自分自身を見つめている。

     俺がいないほうが、俺と出会わないほうが、
     ニコラシカにとってはよかったのではないか。
     俺が贈る最初で最後の愛はきっと、そういうものなんだろう。』



    182/182(3732年3月29日金曜日)

    『自分に似ているアンドロイドに愛を刷り込んで99回目。
     このアンドロイドが持つべき愛とは、明日俺が居ないことに他ならない。
     俺がいなければ、両親という生物の愛を受けられるし、
     俺がいなければ、押し付けられた愛が固まって変質した歪な嫉妬や憎悪から離れられるし、
     俺がいなければ、
     愛とは何かを、積み重ねた自我データから求められる筈だから。
     だから、このアンドロイドの愛は、明日人間のニコラシカが居ないことなんだ。
     きっとそうに決まっている。

     100本の薔薇より、101本の薔薇よりも、
     そう学んでくれと言葉を贈り続けたのだから。』

    *** *** ***

    「そうか……。おまえが言う『愛』とは、そういうことだったのだな。おれは、ずっと、おまえを誤った尺度で見ていたらしい。おれは、おまえのこと、なにも、なにもしらなかったのだな」
     離れた手のひらから熱が消えてゆく。
    「では、おまえは、一体全体何者であったというのか」

     ◇◆◇

     ニコラシカとハンナは、それからすぐに歩き出した。二機の間に会話はない。ただひたすら水没区域へ向けて歩く。ニコラシカが何も喋らずとも、ハンナは何を問うわけでもなくニコラシカの後をついてくる。
     そうしてしばらく歩き続け、ようやく水没区域へと辿り着いた頃、夜が明けようとしていた。朽ち果てたビル群と、遠く向こうまで続く水面。美しいヴィーナスベルトの空が二機を出迎えた。
     澄んだ青と淡い水平線、美しい薄明のグラデーションがどこまでも繋がっている。
     自然と立ち止まった二機。
    「きれい」
     呟かれたハンナの声に、ニコラシカは何も返さなかった。宙へ上げた視界、ふいにニコラシカは自身の機体が揺れた気がした。ゆるやかに、世界が暗転する。
    「……ニコラシカ?」
     ハンナが振り返った。とぷん、と静かすぎる水音。そこに一切の姿形はない。
     ニコラシカは水中へ、こぽこぽと泡の音を聞きながら落ちてゆく。
     深く、深く。
     冷たい水の中へと。
     落ちて、落ちて、落ちて。
     沈んでいるのか、浮かんでいるのか、それすらもわからなくなったその時。
     不意に、光が見えた。
     眩しく、冷たい水の中とは違って、温かい光だ。
    「────────」
     誰かが、何かを叫んでいた。
     己は先ほどまで誰と共にいたのだろうか?
     自分独りだけ? ──違う。たしかに誰かが居てくれた。
     管理所有者? ──違う。あの少年は、もう、どこにも居ない。
     では、今手を伸ばしてくれている『彼女』は──
     『彼女』は――
     ニコラシカは、無意識に手を伸ばした。
     光が大きく、近くなる。水面が割れて、空と一機のアンドロイドが現れた。いや、違う。体を引っ張られたのだ。ニコラシカはざぶん、と水をまといながら陸へと上がった。
     水浸しのアンドロイドは、眼前にいるアンドロイドを見やる。
     視界一杯に映る一機のアンドロイドは、紛れもなく、ニコラシカにとっての友と呼べる存在だった。
    「ハンナ、助かった」
    「どういたしまして、ニコラシカ」
     ハンナは機体を流れる水を払っている。それを地面に座り込んだまま見上げて、ニコラシカはだが、と発言した。
    「水の中へ飛び込むなど、無謀にもほどがある。専用のアンドロイドではないだろう。いくら機体に耐水性があるとはいえ、このあたりの水質は──」
     ハンナは困った顔をしてそれを聞いていた。その顔を見たら、ニコラシカはなんだか言葉を続ける気にならなくなった。
    「しかし……その勇気ある行動に救われた。ありがとう、ハンナ」
     ニコラシカが笑う。
    「おまえのお蔭でおれは今、生きている」

     ◇◆◇

     少年は鳥になりたかった。透明な青い空を、己の脆い翼で、どこまでも限りなく飛び続けたいと願った。
     少年は樹になりたかった。硬く大きく決して崩れぬ地の上に立ち、背筋を伸ばして、両手を広げて光を浴びたいと願った。
     少年は、風になりたかった。
     少年は、地になりたかった。
     少年は、雨に、海に、雲に、蝶に、花に、草に、砂に、魚に、ありとあらゆる生命になりたいと願った。
     少年は、ただ、『何か』を願った。
     そうやって、この世の全てを棄てたのだ。焼いて、引きちぎって、切り刻んで、締め付けて。
     ありとあらゆる方法で放棄した。
     望みなんてない。ほしいものなんてない。与えてもらうものなどない。
     口癖になったそれは、常に少年を縛った。
     縛られて、少年は両親と、名も知らぬ他者の愛を歪ませた。歪ませて、少年は己が感じていた愛を否定した。少年を中心に、世界の噛み合わせは悪くなった。それは、少年のせいではなく、けれど、少年のせいでもあった。
     赦す人も、赦されるべき人もいない罪だ。それは、即ち、人である故に起きた事だ。
     少年は、全てを放棄した。
     ただ、『何者か』に出会うまでは。

    「気づいてはいた」何者かは呟く。「おまえはおれに成り代わってほしいのだと」

     少年は『何者か』に空の青さを説いた。
     少年は『何者か』に樹々の若々しさを説いた。
     少年は『何者か』に風について教えた。地について教えた。雨、海、雲、蝶、花、草、砂、魚。
     少年は、ありとあらゆる生命について『何者か』に伝えた。
     それらはすべて、素晴らしいものだと。それらはすべて、美しいものだと。
     それらはすべて、「おまえの友だ」と。

    「ゆえに、おまえはおれにその『名』を与えたのだと、理解していた」

     『何者か』は呟く。

    「おれは『おまえ』になるために在るのだと」

     『何者か』は呟いて、頭を降った。

    「だが、それは違う。
     おまえが羨望していた『世界』がおれの友ならば、おれの友であるおまえも『世界』の友だ」

     残された者は、与えられた物を、今確かに拒んだ。

    「おまえが生きる世界で稼働していて、よかった」

     残された者は、指を組んで今ここで懺悔した。

    「だが、おまえがいない世界は苦しいものだ。さみしいものだ。辛いものだ。嬉しさなんて、おまえがいたときの方がもっとあった。
     おれの世界には、おまえがいるべきだ。おまえがいないと、おれの存在意義はどこに在るのだと――それが、『おれ』だと――ずっと、ずっと……」

     いち生命の終焉においていかれた独りの機械は、顔を上げる。

    「おまえは、『ここ』にいる。
     おれの自我データに、記録に、おまえはいる」

     機械は、動き出す。

    「おれは『ひとり』ではない。ゆえに、おまえも『ひとり』ではないのだ。互いに他者だからこそ、おれたちは寄り添い、解り合おうとしたのだ」

     ニコラシカは、決心する。

    「おれの『愛』はおまえが学習させたものだ。けれど、もうおまえだけのものではない。おれの『愛』は、おれが信じたいかたちで問題ないのだ」

     声に出して、全身全霊で体現しよう。己が信じ貫こうとするこの『愛』を。
     宣言しよう。
     過去の己とはお別れ、新しい『愛』を胸に、毎日を生きよう。
     例えそれが、どんなことであっても。それが、ニコラシカなのだから。

    「おまえをこんな晴れた心で見送るのは、これがはじめてだろうな……きっと」

     ニコラシカは、歌を歌う。
     別れの歌でもなく、出会いの歌でもなく。
     それは、歌ではなかったかもしれない。ただ、心の赴くままに任せただけの、なんてことのない音の連なりかもしれない。
     それでも、これは確かに。
     『ニコラシカ』の為の歌声だ。

     毎日祈っていよう。
     毎日生きていよう。
     毎日笑おう。泣こう。怒るときもあるかもしれない。悲しい出来事があるかもしれない。戸惑い、悩むことだって。
     それでも、『愛』していよう。おまえを、己を、世界を。すべてを、『愛』していこう。
     『愛』したことを忘れないように、日々を過ごそう。

     そう、例えば――
     誰かを誘って茶会をしよう。
     きっと、色んな発見がある。色んな出会いがある。色んな話をして、色んな話を聞こう。
     沢山の他者と触れ合って、解り合って、衝突し合って。
     沢山の人達と、その一瞬を楽しもう。過ぎ去ったことも、これから訪れることも、すべてお茶と一緒に飲み干そう。
     きっとこれから、忘れたくない経験が、大切なものが

     どんどん増えていくのだ。
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