JAM 仕事を辞めた理由は、腐るほどあった。下戸なのを知っていながら浴びるほど飲まされたこと、クソ威張り散らした取引先に罵られながら笑って頭を下げたこと、ずっと付き合っていた彼女を抱けなくなったこと。
そんなに性欲が強くない方だとは思っていたが、いざ勃たなくなったときの絶望はとてつもなかった。人生、終わった、と思った。駆け込んだ医者には「ストレス」ですね、と予想通りの診断をされ、副作用が怖すぎる薬を飲んでは見たもののまるで効かなくて、結局最低な別れ方をした。「ごめん、他に好きな人ができた」と嘘をついての。
そんなとき、同期の人間が不幸な事故にあったのが決定的なトリガーになった。俺が行くはずの出張は訳あってそいつが行くことになり、そしてその飛行機が、墜ちた。
そのとき「いやあ、霊幻くんラッキーだったねえ」と嬉しそうに口にした上司を許せなかった。それが酒の席だとしてもだ。俺とその同期は仲が悪くて、そこを踏まえてついそんなことを言っちまったんだろう。それにしても。
俺は人間が嫌いになった。人間だけじゃない、全て何もかもが。めのまえがさあっと暗くなり、次の瞬間俺の視界は全て一面の真っ赤な世界になった。
血の雨が降った。現実じゃない、もちろん幻覚だ。だけどそれは俺の未来を暗示しているようにしか思えなくて、だからその前に会社を辞めた。
ニートになってからは時間があまりすぎて、新聞や雑誌を隅から隅まで読んだ。怪しげな広告、そのなかでも極め付きのパワーストーンの紹介文を貪るように読んでいたとき、ふと俺は思ったのだ。
人間なんて、どうしようもなく愚かだ。立派になろうとするから苦しむし、綻びが生じる。俺みたいな至極普通の人間だってそうなんだ、世の中にはこういうものにすがりたい人間はいくらだっているだろう。そう考えると、指は勝手に事務所設立の概要を検索していた。
認可が下りるまでの条件を調べながら、俺はとてつもなくワクワクしていた。こういうのは出来る限りバカバカしいのがいい。俺は今まで使っていた名刺を見ながらまたひらめく。
霊幻だから、霊…とかでいいんじゃね? 子供の頃から霊媒師みたいな名前だって言われ続けてたし。どうせ俺の人生これから自由なんだ。もういちいちケチをつける上司も些細なことで拗ねる彼女も、何もかもいないんだし。
「霊幻さんもいろいろあったんですね……」
「まあな」
そして今に至る、と無理やりまとめた話を芹沢は神妙な顔して聞いた。俺は俺で、喋りすぎたな、と少し後悔してる。性的なこととか、飛行機が墜ちたこととか、とても朝食の話題にはふさわしくなかった。たとえ、ヒマに明かしての事務所でのゆっくりとした、ブレックファーストだとしてもだ。
だけど喋りすぎてしまったきっかけははっきりしていた。芹沢がパンに塗った大量のジャムに、「おまえいつか糖尿になるぞ」と揶揄いながらも急に目眩を覚えたのだ。目眩を逃すように、俺は昔話を延々とした。
あれ以来、赤い色に俺は弱くなってて、だから流血沙汰の事件とか来たら本格的に死ねると思う。パン一面にこってりと塗られたジャムですらダメなんだから。
「なあ、それよりかそれ早く食って」
「へ?」
「その毒々しい色したパンだよ。つーか今度から俺、マーマレードにするわ」
「はぁ……」
意味を理解できない、という顔をしつつも芹沢は俺に従った。大きな口を開けて、一気にパンにかぶりつく。口元にべったりとついたジャムをぬぐいながら、また一口。全て口内に押し込まれてしまうと、俺の口から大きな大きな安堵のため息が漏れた。
「俺もナイーブですけど、霊幻さんもそれなりですね」
「まーな。いたわれよ、芹沢」
「……はい。もし嫌なことがあったら、なんでも言ってください。俺が駆除しますから」
真剣な眼差しで俺を見据え、芹沢は言った。決意はありがたかったが、それよりも口元にパンの切れ端がくっついてるのが気になってしまう。だめだ、真面目なシーンほどこういうのが気になるってのは俺の病気みたいなもんだ。
「芹沢、ここ」
指先で口の端を指し示し、つうっと顎を上げて指令する。しかし芹沢はキョトンとしたまま、まるで意味をわかってねえようだった。
「おまえほんと察し悪いなあ」
呆れながら、だけど可笑しくてつい笑ってしまうと、なぜだか芹沢はむっつりと押し黙った。すみません、俺頭悪くて、と小さな声で口にしながら、ずいっと顔が寄ってくる。俺が指差している口元をべとっと、舐め上げられる。
「な、なんだよ。うわああああ!」
舐めやがった! おまえばかか! 犬じゃねえんだから飼い主舐めるな!!! つうか頭おかしいだろ!!!
「俺、また間違えましたか」
「間違えすぎだっつーの」
乾いた笑いが出る。すると何を思ったか、また芹沢は顔を寄せて来た。
「な、なにしてるの芹沢くん……」
「間違ってない気がします、霊幻さん笑ってるし」
俺のこれは失笑ってやつだよほんと使えねえなうちの部下は! つうか近い、やめろ、これじゃスキンシップ通り越してキスだろ……。
俺の予想を裏切ることなく、芹沢はむにっとくちびるを押し当てやがった。
「な……んで」
「霊幻さんのくちびる、すごく甘いです」
なんども、なんども、くちびるが押し付けられる。俺が押し付けたリップクリームの匂いと、芹沢の雄臭い匂いに頭がくらくらする。いつの間にか角度を変えて顔を寄せられて、くちびるの密着度が高くなって来ていたが、俺は気づかないふりをした。
なあ、これってどういう意味なの。慰めてくれてんの? やっさしいなあうちの部下は。ていうか芹沢克也って人間が優しいのか。
だけどキスはちゃんと好きな子にしような? でないと相手を、傷つけちゃうんだぜ?
「霊幻さん、泣いてる?」
「うるっせえ……するんだったらちゃんとしろよ」
肩が引き寄せられ、くちびるの角度がさらに変わる。わずかに開いた隙間からおずおずと舌先がノックして来たから、俺は観念してそれを舐め上げてやる。
「霊幻さん、えっろ……」
「仕掛けてきたのはおまえだろなに言ってんだてめー」
芹沢のやりかたは慣れてないくせにばかに気持ちよかった。何度も何度も絡めて爽やかな朝にふさわしくない濃厚なキスをくりかえしてると、甘ったるいジャムが口移しにとろけていく。
あっけなく消えていく味覚に、なんてことはなかったんだなと思う。
俺は俺の呪縛から少しずつ解放されていくのを感じていた。