エリオットの災難これは夢だ。悪い夢だ。
エリオットは空き教室の片隅で荒い息を繰り返した。
走って、とにかく走って、誰もいないこの場所に逃げ込んだ。
そして窓ガラスに映る自分を見て、体の動きを止めた。
大きい三角の耳、赤茶色の長毛、ふさふさと立派な尻尾、それからチョコレート色の瞳。
俺はエリオット・ハワードのはず。
だが、今の自分はたった一匹の猫にしか見えない。
そんなことあるわけがない。
あるわけはないのに、目の前に映る猫も自分同様酷い顔をしている。
「ニャア」
試しに出してみた声は、やはり猫そのものである。
落ち着け、落ち着くんだ。
貴族たるもの、予想外の事態に直面しても冷静さを失ってはいけない。
その為にはまず、何が起きたのか思い出さなければ。
朝はいつも通り、漂う冷気とシリルの声で目覚めた。
エリオットは朝に弱い。……脳が覚醒するまでに少し人より時間がかかるだけとも言う。
かくして朝から熱いダージリンを飲み、何度も欠伸を噛み殺した。
とはいえ校舎に入りさえすれば、エリオット・ハワードは栄えある生徒会役員として模範生徒となる。
学業において貴族たるもの申し分ない態度でこなし、チェスを数局終えると一足先に教室を後にした。
そう、その後に……足元に何かが転がってきた。
「なんだ?」
エリオットが対象物を見ようとしたその時、転がってきたそれは音を立てて割れた。
咄嗟に目を瞑ったものの、一瞬のうちにピンク色の煙に包まれ、次に目を開けると世界は一転していた。
(なにが、起きたんだ)
固く瞑った瞳をゆっくりと開けた。
視覚情報があれば大抵のことは理解することができる。
だけど、今回は例外だ。
いつの間にか廊下に倒れこんでいたようで、ゆっくりと体を起こす。
嫌な予感というものはなぜこうも当たるものなのか、エリオットは絶句した。
目に入るものすべてが巨大に見える。
その理由は果てしなく続く廊下に眩暈がして下を向いた時にわかってしまった。
自分に何が起きたかではなく、自分がどうなったのかということを。
「おい、バレたらまずい。急いで薬品を回収しろ」
そんな声が近くの教室から聞こえてきた。
エリオットは条件反射というものか、見つかってはいけないという防衛本能が働いて走り出した。
そして、現在、空き教室で項垂れる一匹の猫である。
なんらかの実験に巻き込まれてしまったに違いないのだが……
(はぁ……)
とことんついていない。
まぁ、猫でもため息をつけるというのは新たな発見かもしれないが。
ふと、ぴくぴくと耳が反応する。
人間よりも優れた猫の聴覚が聞き覚えのある音を拾った。
これは、ベンジャミンのヴァイオリンだ。
(あいつ、今日は何に感化されたんだ?)
天才の考えてることは分からないから困る。
この前だってシリルがグレンに怒られている時に嬉々として作曲をしていた。
専ら彼を止めるのは自分の役目となっているがこんな姿ではまず無理だ。
俺がいつもどれだけあの気分屋に振り回されているかを身をもって体験してくれるであろう誰かに同情しつつ、エリオットは歩き出した。
ベンジャミンに見つかったら最後、
「あぁ、なんて素敵な新しい出会い!!!この喜びを今奏でよう」
なんて、騒ぎ出すに違いないから。
窓の縁へと飛び移り外に出るのは、あっけないほど容易だった。
土足か否かも貴族とは何の関係もない猫であるならさほど気にはならない。
学生が作った魔法薬程度であれば、時間経過で効果は切れるはず。
ならば今日は誰にも振り回されることなく、猫は猫らしく一人優雅に休ませてもらおうじゃないか。
ちょうど中庭に陽だまりが見えたので向かうと大きな木が風に揺れて葉を揺らしている。
忘れられない記憶が頭の中に過った。
幼少期は木登りが得意だったけれど、もう登ることは一生ない。
たとえ今が猫の姿であれど。
木の根元に丸くなると、自然と瞼は閉じ始める。
夢の中でなら、忘れたくない彼と今度は木登りをできるかもしれない。
ほんの少しの理想を願いながら、エリオットは目を閉じた。
しばらくして、かさりと草を踏む音が聞こえた。
猫になっても平穏は程遠いらしい。
ゆっくりと目を開けると、目の前に見覚えのある人物が立っていた。
(はぁ……なんだってシリルがこんなところに)
よりにもよって、シリルに見つかるとは思わなかった。
こいつは気難しいから、学園の敷地内でくつろぐ無害な猫に対しても、説教を垂れるかもしれない。
起き上がって後退しようとすると、シリルはまるで目線を合わせるようにしゃがんでじっとエリオットを見つめた。
(なんだよ)
負けじと睨み返すと、シリルは徐に手近な草をちぎってエリオットの前でゆっくりと揺らし始める。
(嘘だろ、お前まさか……)
シリルはいたって真剣な顔で草を揺らす。
エリオットは愕然とした。
そして頭を過るモフモフ事件。
普段氷の貴公子と言われるだけあって吊りあがった彼の瞳は、小動物になったエリオットの目線から見れば柔らかく、動物をただ愛でたいだけにしか見えない。
ほんの気まぐれで片手で草を叩くと、それはもう敬愛する殿下に褒められたときのように、口をむずむずと動かした。
でもこのままじっと付き合うのはごめんなので、そっと離れようとしたところで、第二の人物が現れる。
それはエリオットにとって一番会いたくない相手だったかもしれない。
「シリル」
彼に名前を呼ばれたシリルはすっと立ち上がって、草をポケットにねじ込んだ。
「いいよ。隠さなくて。きみが動物好きなことは知っているしね。それでその猫は?」
フェリクスはシリルの隣になって、エリオットを見下ろす。
「迷い猫でしょうか? 特に首輪もしておりませんし」
シリルと違って、フェリクスの瞳は何かを探っているようで思わず体が縮こまる。
その姿を見て、きゅっと彼の瞳が細くなったのをエリオットは見逃さなかった。
「この猫、シリルにとっても懐いてるみたいだ。きみが面倒をみるなら生徒会室で飼おうか」
にこりとした微笑みは、まるで悪魔にしか見えない。
本当に嫌味なやつだ。エリオットには分かる。彼は自分が誰か分かってるのだと。
「本当ですか?」
シリルは嬉々としてエリオットに手を伸ばす。
(お前の思い通りになってたまるか)
ふんっと鼻を鳴らして、走り出した。
「あっ……」
残念そうな声を背中に受けながら、森へと逃げ込んだ。
早く安息の地を見つけなくてはならない。
彼らの前で人間に戻ったら、そう考えるとぞっとする。
行く当てもなく走り回っていると、何か焦げ臭い匂いが鼻を掠めて足を止めた。
そろりそろりと足を進めると、匂いの根源には驚くべき光景が。
焚火だ。こんな森の中で。
これは由々しき問題だ。
なんと言っても、鉄の棒で焚火の中心にある謎の物体を楽しげに突いているのは、厄介な後輩グレン・ダドリーである。
彼は相当な魔力量を持っているわりにまだそれを完璧に扱うことができないらしい。
手のかかる後輩だが、教えがいがある。
シリルはそう言っていた。
そんな人物が森の中で焚火をしているとなれば……サーっと血の気が引くのを感じた。
「?誰すか?」
何かを感じたのかグレンは振り返った。
そしてエリオットと目が合う。
「なんだ、猫すか。猫くん、もう少ししたら美味いもん食べれますよ」
にかっと笑って、また鉄の棒で何かを突いた。
呆れた。
彼は全くもって危機感がないらしい。
さすがにここで何かあっては目覚めが悪い。
彼の目的が完了されるまで見守っておくこととした。
といってもシリル達に見つかるのは懲り懲りなので、草むらの中に隠れて。
やがて香ばしい匂いが辺りに立ち込め、
「できたっす」
鉄の棒で器用に何かを取り出し、用意しておいたバケツで焚火を消した。
「ほらほら、猫くん。見てくださいよ」
猫に対しても普段人間に対する態度と何ら変わりないところは彼らしいと言えば彼らしい。
焚火の中で焼かれていた包みを開けると、中身はお肉の塊だった。
上手くいったとばかりに、にこにこと笑う彼のレクイエムがエリオットには聞こえた。
肌に感じる冷気、それは彼の感情の起伏によって溢れだす。
(まぁ煙も上がっていたし、気が付かれないわけがない)
「やっぱり直火の蒸し焼きが一番美味いんすよね~会長には申し訳ないけど、これっきりにする予定っす」
「その言葉を今度こそは信じたいよ」
ゆっくりとグレンは振り返る。
そして目に見えるものは残酷な現実だ。
冷ややかな笑みを浮かべた会長と、ふるふると震える副会長。
「あ、えっとあの、その」
「貴様というやつは……殿下に一度注意をされておきながら」
(あぁ、猫になっても平穏は訪れない。)
続くシリルの怒声を聞いているうちにエリオットは何故か急に眠くなって、少し離れたところで気に凭れ掛かり目を閉じた。
騒がしい声が聞こえた。
いつの間にかヴァイオリンの音色まで加わっている。
でも何だかそれもあまり気にならなかった。
それはきっともうこの騒がしさが日常になりつつあるからだ。
目を開けると、エリオットの視界は普段と変わらないものになっていた。
視線を下げて、人間に戻っていることを確認したエリオットは重い腰を上げる。
「平穏って言うのはどこにもないんだな」
ため息をつきながら、いつも通りベンジャミンのヴァイオリンを取り上げるために。