knockknockknockトントン、と控えめなノックの音が聞こえた。
ここを訪ねてくる人はそうそうおらず、ご近所さんかな?とアイクはエプロンをしたままでドアを開ける。
「ア、アイク……」
むせかえるくらい立派なバラに呑み込まれているモニカがいた。
小さな体でどうやってそんなものを抱えていたのか、バラの苗が一つとバラの花束が三つ。
「おかえり、マスター」
スマートな動作でモニカからそれらを取り上げ、椅子に座らせる。
モニカの弟子であるアイクは多少なことでは動じないのだ。
朝からモニカは何度もため息を零しながら、七賢人の会議に赴いた。
時刻は正午を過ぎて、もう三時に近い。
ネロはいつ帰ってくるか分からないにしても、せっかくならアイクはモニカと一緒にご飯を取りたいと三人分用意した昼食に手を付けないでいた。
でもそろそろお腹が空いてきて、先に食べようかと一人分を暖めなおしていた所でようやくモニカが帰宅した。
「モニカ、昼食はどうする?」
「食べたいです……」
ぐぅ~と返事をするお腹と共に、へろへろとテーブルにへたり込む彼女を見て、アイクはくすっと笑った。
室内に立ち込めるバラの匂い。
これでは食事中も気になるだろうと、窓を全開にして、二人分の昼食を暖め直し、食卓を囲んだ。
「「ごちそうさまでした」」
そうして息をついたところで、ようやく玄関の片隅に置いてあるバラに話題を向ける。
「ちょっと多すぎやしないかい?」
「ラウルさんに会議終わりに庭を見ていかないかって誘われて……バラとても綺麗ですねって言ったらあれよあれよと」
七賢人が一人、現在のローズバーグ家の当主であるラウル・ローズバーグというのは良くも悪くもアイクの脳には深く名前が刻まれている。
人参を突然送りつけてきたのも彼であるし、どうにか消費したと思ったら、次はサツマイモ、かぼちゃ、芽キャベツ……野菜の定期便が届くようになった。
食料はあって困るということはないはずなのに、残念ながら届く量に反してこちらは消費が間に合っていないのである。
といっても、しっかり活かし切ってしまうアイクの料理技能は上がる一方だ。
それにしてもバラといえば……アイクは少し渋い顔をした。
「マスターは知らないと思うけれど、王族の間で密かに伝えられている言葉があるんだ」
あまりにも瑞々しすぎる綺麗なバラを一本手に取る。
モニカは緊張した面持ちでアイクが差し出したバラを受け取って眺めた。
「―バラの香りのする物を供されたら、警戒せよ—ってね」
「どうしてですか?」
「茨の魔女は植物に対する付与魔術に長けている家なのは、マスターも知っているよね? 先代の茨の魔女は魔法薬を作って売買していたんだよ。その元に使われるのがバラなんだ」
「魔法薬って、たとえばどんな効果が?」
「まぁ、いろいろとね」
含みを持ってそう言うと、モニカはごくりと唾を飲み込んだ。
「だからマスターも不用意にバラの香りがするものには口をつけないこと」
モニカはこくこくと何度も頷く。
「それで、どうしようか」
バラに罪はない。ドライフラワーやいろいろと活用法はあるにしても、さすがに食して問題ないかは試す必要がある。
「あ、そうだ」
ふとバラにまつわる愉快な思い出が過り、アイクはにこりと笑った。
「きっと彼なら喜んでくれる」
「くしゅっくしゅっ」
なんとも愛らしいくしゃみを二度したレーンフィールドの領主エリオット・ハワードは鼻を擦った。
誰かが何やら悪い噂をしているに違いない。
咄嗟にそう思ったのは、自分の悪口を言いそうな人間が思いつくからである。
三人のうち、二人は無自覚、自覚を持ち悪意があるのはつまりは一人だけ。
そんな嫌な予感は数日後に実現することを彼はまだ知る由もない。
「エリオット様、お届け物でございます」
「あぁ、そこに置いておいてくれ」
ちらりとも荷物をみず、まだまだ山のようにある執務をこなすエリオット。
ようやくそれに手を掛けたのは、すっかり日が暮れてからのことだった。
「そういや何か届いてたな」
領主になってまだ日も経験も浅い自分宛の荷物なんて今思えば珍しい。
首を傾げつつ、箱を開けるとなんとも可愛らしくラッピングが施されたバラの花弁がたっぷり入ったパウンドケーキが目いっぱい入っていた。
エリオットは引きつる口角を必死に窘めながら宛先を確認する。
―モニカ・エヴァレット—
でもエリオットには分かっていた。
これの本当の送り主が。
それは忘れてしまいたい過去の古傷。むしろ自分は思い出さないようにしていたと言うのに元凶であるあいつは今さぞかし良い顔で笑っているのだろう。あの時と同じように。
そう考えるとはらわたが煮えくり返る思いだ。
あれは、フェリクスと一緒にチェスをしていた日のこと。
フェリクスは得意なものは少ないが、それでも比較的チェスは好きだったように思う。
といってもエリオットのほうが勝つことが多かったが。
でもその日は晴れの日で、本当なら遠乗りに行く予定だったが、フェリクスの体調が連日あまりよろしくないこともあって延期に。
元気に外で動き回りたかったエリオットは終始むっつりした顔で駒を弄っていた。
そんな自分の様子に困った顔をしているフェリクスを見てもなお、態度を改めることはしない。
そんなエリオットを見て従者は、とんでもないことをした。
「本日の茶葉はウバとダージリン、お茶菓子にパウンドケーキを用意しております」
「僕はウバ、エリオットは?」
「ダージリン」
フェリクスとはあえて違うものを選ぶというところもまたあけすけで、従者はうっかりと言っていたが、絶対嘘だ。
エリオットが主を悩ましていることにお灸を添えるつもりで、悪意を持ってやったのだ。
彼は……エリオットにバラのパウンドケーキを差し出した。
蒸らし時間もあり、先に紅茶とお菓子が出揃ったエリオットは疑問もなくそれを口にする。
まず口に入れた途端に噎せ返るほどバラの香りを感じた。
「エリオット、美味しい?」
無邪気にそう聞いたフェリクスの言葉に悩んだ。
美味しい?決して不味くは無いが、何だか不思議な味がしている。
でも出されたものにケチをつけるわけにもいかず、エリオットは返事をせずに紅茶でそれを流し込む。
それから、フェリクスの紅茶が用意され、彼も同じようにパウンドケーキを食べようとして、手が止まる。
「……これってバラ?」
訝し気な顔をするフェリクスを余所にエリオットの視界が霞み始めた。
目眩かと一度目を瞑って目を擦る。
そして、自分の空になったティーカップに紅茶が継がれる先を辿り、従者と目が合った。
その瞬間に身体に電流でも走ったかのようにどくんと心臓が脈打った。
(なんだこれ)
従者を目にした途端、自分の体が言うことを効かない。
いつの間にか手と額にもうっすら汗が浮かんでいる。
「どうかされましたか?」
いつもは嘘くさいと思う微笑みがやたら柔和に見える。
「……お前、よく見ると綺麗な顔してるな」
口を押え、吐き出された言葉に一瞬自分で戸惑った。
フェリクスは唖然としてるし、従者はきっと本当は意地の悪い顔でせせら笑っているに違いない……そう思ったのに、今は笑顔に加えてきらきらと星が散って見える。
「今日はなんだかお前がいつになくきらきらして見える」
「はは、光栄ですね」
実際には渇いた笑いと酷く無機質な返事なのだが、エリオットにはまったく響いていない。
それどころか、従者が笑うとどくどくと心臓が煩いくらい騒ぐ。
「これって……大変だ!い、今すぐお医者様を呼ばないと!」
「フェリクス、お前またどこか痛いのか?」
「違うよ、僕じゃなくてきみに必要なんだよ」
「俺は普通だ。それより従者、お前隣に座れ」
「申し訳ございませんが、ご遠慮いたします」
「……エリオット、落ち着いて。きみはきっと惚れ薬のせいでちょっとおかしくなってるんだよ」
こんな押し問答は薬の効果が切れるまで続いた。
実際に使われていた薬の量が少量だったこともあって、惚れ薬の効き目は数十分と短いものだったのは幸いである。
だが、不幸にもその間の出来事は鮮明に、エリオットの記憶に残っていた。
そう、憎たらしいほど清々しい顔で笑う従者の顔と共に、エリオットの黒歴史に刻まれる出来事であった。
*
「アイク、あんなにたくさんのパウンドケーキ、ハワード様に送ってご迷惑ではないですか?」
「大丈夫だよ。彼はバラのパウンドケーキが大好きなんだ」
あまりにもアイクが無邪気に笑うものだからモニカはほんの少し、ほんの少しだけ嫌な予感がした。
そして、そんな予感ほど当たるもので、二日後、パウンドケーキ片手にエリオットが襲来するのであった。
※モニカはアイクと一緒にドライポプリを作ってラナにプレゼントしたよ!