春の嵐 人生の転機は突然訪れる。
「ねぇ、きみ!アイドルになってみたいか?」
「え」
人参が手から滑り落ちた。
あれよあれよと言う間に、ラウルはアイドル事務所に所属することになった。
「なんだ、この建物、でけぇーーー」
聳え立つ巨大な縦長の建物(ビルというらしい)を前に思わずそんな反応をしてしまった。自分に声を掛けてきたマネージャー?がそんな彼を見てくすりと笑った。
「驚くのはまだ早いよ」
そんな言葉にラウルはごくりと唾を飲み込んだ。
もしかしてとんでもなく場違いなところに来てしまったのではないかと今更焦りだした。
実を言うとアイドルという職業についてはあまり知らない。
というのも、ラウルはただの田舎もんなのだ。
人付き合いが極端に下手な家族たちに代わり、外に出稼ぎに行くのがラウルの役目というか日課で、この先ずっとそれが続くと思っていたのだ。
それが一変した。……決断したのは自分なのだけれど。
ラウルは元来好奇心旺盛であったからこそ、男の話を聞いて、ほんの少しお試しで見せてもらおうと本人は至って軽い気持ちだったのだが。
(どうしようかな〜姉ちゃんには出かけてくるとしか言ってないんだよな)
懇切丁寧な施設案内を聞きつつも、ぽりぽりと頬を掻きながら言い訳を考えていた。
「で、どうかな? アイドルに興味は出た? 歌やダンスとかは初めてだと思うけど、練習すればきっと付いてくるし、何よりきみには華がある。大衆を惹き付けるに違いないよ」
ラウルはこう見えて、頼まれたら断れないタイプだった。
そもそもここまで必死に何かを頼まれることはなかったのだけれど、それを無下にするのはあまりにも酷に思えて……絞るような声で
「家族と相談させてもらっていいですか?」
と答えた。
家に帰るのはいつもより少し遅れたし、何なら野菜の売上だって乏しい。
「ちょっと、あんたサボってたわね」
「あ、姉ちゃんちょうどよかった。相談したいことがあって」
「ふぅ〜んあんたがアイドルね〜」
「やっぱり姉ちゃんは反対か?」
「いいんじゃない、別に」
「そうだよな……ってえぇ!?いいのか?」
「むしろ今よりも収入が増えそうじゃない」
純粋に弟がやりたいのならやればいいというものではなく、金銭の問題が大きいようだが、それでもいい。
「ありがとう、姉ちゃん。オレやってみるよ!」
「あ、でもちゃんと野菜は売りなさいよ」
えぇ……と落胆の声を漏らせば背中をどつかれた。
かくして、ラウルはアイドルを目指すことになり、午前は野菜売り、午後はアイドルになる為のレッスンを受ける日々が始まった。
「おはよう〜」
今日も元気にダンス室のドアを開ける。
ラウルより年下か、同い年の練習の姿がちらほら。それさえもラウルには新鮮だった。なにせ辺鄙な田舎に住んでいるものだから子供はおろか住んでいる住人も少ない。街の開発に伴う移住も多く、残っているのはお爺さんやお婆さんぐらいのものだ。
だから当然ラウルには友達はおろか歳の近い人と言えば姉しか居なかった。
アイドルというものになるのかと言うよりも、この空間自体、ラウルには楽しくてしかたなかった。
元々力仕事もしているラウルは見かけによらずかなりがっしりとした体付きであるし、センスも悪くない。
それに加え「なぁあれってなんだ!」、「それ凄いな、教えてくれよ」と目をキラキラと輝かすラウルの人懐っこさに絆された他の練習生達とも良い関係を築けている。
そんな数週間を過ごして、ラウルはとある人物が気になっていた。
その人物はいつもたった一人で同じ場所で練習をしている。
「なぁなぁ、あいつは?」
「あー、うちで一番の古株だよ」
「? 歳とってるようには見えないけど」
「そういう意味じゃなくて。ここにいる誰よりも練習生歴が長いんだ」
「へーじゃあ凄い上手いってことだな」
「まぁ、そうだな。でもそれだけじゃだめだからな、アイドルは」
ラウルはその意味がよく分からなかった。
何か一つでも秀でているだけでそれはとても凄いことだと思うのに、彼の何がだめなのだろうかと気になった。
◇ ◇ ◇
「はぁ……」
シリルは自分の意思で笑うことができない。
もちろんクール路線のアイドルもいるにはいるが、それでも笑顔を振りまく正統派王子様のようなアイドルよりは遥かに少ない。事務所の方針はソロではなくグループ若しくはユニットでアイドルを売り出すこと。
自分もデビューする為には、誰かと組んで、練習生をしなければならないのだけれど……同じ練習生達から話しかけられてもシリルは言葉の意味を深読みして返答が遅くなる。
それを彼らは自分達と話したくないのだと解釈して離れていく。
そうしていつの間にか、誰も自分には寄り付かなくなっていた。
そもそもここでアイドルを目指す者と志が違う自分は最初から相応しくなかった。
シリルが今ここに居るのは、母の為。
父を早くに亡くし、母は苦労しながら女手一つでシリルを育ててくれた。
でも無理がたたったのか、母は病に倒れ、ただでさえ苦しい生活はもっと苦しくなった。
もっと家にお金があれば、母をきちんとした病院で治療することもできる。
自分でお金を稼ぐために、喫茶店の求人広告を見ていた時だった。
「きみ、アイドルを目指さないか?」
白銀の髪とこの顔立ち、それまで自分の容姿が武器になるとは思ってもいなかった。
シリルは冷静に男の話を聞いた。
母を病院に入れることを前提とするシリルの考えをのみ、かわりに立て替えたお金はシリルがアイドルとしてデビューしてから返金していくというもの。
そしてその上で、現状を打開することができるならとその身一つでこの事務所に練習生として入った。
シリルには後がなく、前だけにしか進めない。
足りない運動量もセンスもすべて一人で、練習を積んだ。
自分にとってアイドルとは、母に迷惑を掛けず、今の自分が目指すことができ、努力をすればなれるかもしれないという道でしかない。
本当は他にも道はあったのかもしれないのに、シリルは冷静に見えて目の前の餌に飛びついた。
今日もいつの間にか練習室には誰もいなくなっていた。
もしかすると集中すると周りの音が聞こえなくなるシリルに声を掛けてくれた者もいるかもしれないのに。
窓の外を見れば日は落ちてガラスに反射した自分の顔がぼんやりと見えた。
仏頂面な自分の顔を見て、これではだめだと口角を上げてみる。
困ったようにへにゃりと眉毛が下がった。
どんなステップよりもどんな歌よりも、笑うことの方がずっと難しいと思えた。
作った笑顔は誰がどう見ても無理をしているようにしか見えない。
表情筋を柔らかくすれば何か変わるかもしれないと、大きく口を動かしていた時、ギィィィと扉の音が聞こえた。
慌てて振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。
見慣れない、と思ったけれどそういえばしばらく前に新しい練習生が入ったと紹介されたことを思い出した。何より彼の燃えるような赤味がかった髪は目を引く。
「あ!」
そんな彼はシリルを見るなり、大きな声を上げてずんずんと距離を詰めてくる。
突然のことにシリルは為す術なく、固まった。
「オレ、お前と話してみたかったんだ!」
にこりと眩しい笑顔を向けられて、シリルはぎこちなく首を傾げた。
「私と? なぜ?」
「なんでいつも一人でいるのかなって」
別にすきで一人でいるわけではないのだが、シリルは自分の態度も原因だと分かっているから何も言い返せない。
相手は曇りのない瞳でただじっとシリルの言葉を待っている。
「……私は、喋るのが得意ではない」
「何だ! じゃあ特別一人がすきってわけじゃないんだな!」
「あぁ」
「じゃあ明日オレから声を掛けるから、練習一緒にやらないか? 一人より二人のがきっと楽しいと思うんだ。って、こんな時間じゃん。道が暗くなる前に帰らないと、じゃあまた明日な」
彼はまるで春の嵐のように、シリルの心を搔き乱した。