【弟子バロ】なかなか抱けないけど最後には抱ける話② 三日後、亜双義はバンジークスに同伴し、倫敦郊外の宮殿かと見まごう侯爵家を訪ねていた。貴族社会は上下社会。相談事でも上の者からの頼み事ならば、下の者が出向くのが筋らしい。
荘厳な空間を抜けて使用人に案内されたのは、男性客をもてなす間、書斎であった。ぎっしりと本に囲まれた空間は、どこか古い、知の地層というようなにおいがした。
「よく来てくれた、バンジークス卿」
はしばみ色の髪を神経質に分け、片眼鏡をつけた壮年の紳士。模範的な貴族の風体であり、微笑を浮かべているがどこか冷たい抜け目なさがある。それがオスティア卿の印象であった。
仰々しい挨拶と紹介にあずかりながら、亜双義は油断なく男を観察した。会うのは初めてだが、名前は知っている。彼から師へは、何度か晩餐会や狩り、撞球 へ招待する手紙が送られていたのだ。もちろん逐一手紙をあらためているわけではないので、実際にはもっと来ていただろう。
大抵は丁重に断っていたと思われる師も、半年に一度くらいは応じていた。わざわざ亜双義も共に、と誘われたのは初めてのことだった。
師の兄君と友人だったという男は、年齢よりは若々しい。妻子がいるので特別警戒することもないだろうが、断られてもめげずに手紙を送るしつこさと、渋々応じる師の態度が少し気になっていた。気を引き締めて笑顔を作り、心の内を覆い隠す。
ゆったりとした一人掛けのソファに腰かけ、使用人が運んだ茶を勧めながら、オスティア卿は気遣わしげに眉を上げた。
「先日の泥棒の件については、気の毒だった。窃盗が増えているというが、よりによって検事の家を狙うとは。嘆かわしい……」
「貴方のお耳に入るまでとは、お恥ずかしいことです」
亜双義は膝の上で拳を握った。あの夜は押っ取りサーベルで犯人を追ったが、姿を見ることもあたわず逃げられた。
翌朝警察を呼んで証拠を探したが、遺留品の類はない。足跡から、どうやら塀を乗り越えて窓から入ろうとしたところ、防犯装置が作動したのだろうということになった。
おまけにその翌日にはどこから嗅ぎつけたのか、新聞が面白おかしく「バンジークス邸に泥棒入る! 何が目当てで死に急ぐのか」と騒ぎ立てる始末。亜双義の苛つきはなかなかだった。
「犯人については、何か分かったかね?」
「残念ながら何も……」
ホームズとアイリスが改良した防犯装置はベルを鳴らすと共に写真を撮っていたが、夜闇の中、ブレにブレた帽子とコートらしきものが写っていただけで、証拠にはならなかった。ただ、あの装置のおかげで邸内への侵入はなかったのだから、師は礼として上等な菓子を贈り、死角をなくすように装置をもう二つ買った。
壮年の男は、わざわざ腰を浮かせてバンジークスの腕に触れた。
「何も盗られなかったのだからまだよかった。何より、君にこれ以上傷がついたら兄上が悲しむだろう」
「……恐れ入ります」
――いつまで触られているのだ。
接触を甘んじて受け入れたままの師を見て、いっとき激情が燃える。亜双義は自らを叱咤しながら茶に口をつけた。こんなことで怒ってはいけない。
「時に、アソーギ君……だったか。こちらの言葉にも慣れたものだね」
オスティア卿は、片眼鏡のフレームを手で押さえ、ようやく亜双義に目を向けた。失礼とも言える褒め言葉も、受け流すのは慣れたものだった。
「ありがとうございます。毎日近くで生きたクイーンズ・イングリッシュを拝聴できる。この上ない学びの機会です」
「かの大法廷には私も参加していてね。君の堂々たる戦いぶりには感銘を受けたよ。この前の裁判は、傍聴はできなかったが記録の写しを読ませてもらった。やはり師匠がいいのかな、よい論述だった」
二人して恐縮したところで、本題に入る。
「相談したいのは、来週ハイドパークのホテルで開かれる夜会についてだ。フォーサム卿からの招待状は……?」
「既に社交界から身を引いた故、謹んで辞退しましたが、何か心配事でも?」
嘆かわしい、と紳士は首を振った。
「ああ、恐ろしいことに……。気の迷いだろうが、彼はずいぶんと堕落してしまった。薬物の入ったワインを飲み、ホテルで夜な夜な……甚だしい放蕩に耽っているのだよ。自分たちで楽しむだけでなく、男女を紹介して引き合わせるなど、売春に近い状況にもなっている。由々しき事態だ」
それは、とバンジークスは言いよどんだ。
「薬物は違法なものですか?」
「仏蘭西の神秘という触れ込みだったようだが、飲まされた者の様子からは阿片にもコカインにも見えた」
「阿片の濫用は非難されていますが、使用自体の法的な規制はまだです。――アソーギ検事、法的な所見を聞いても?」
「はっ。薬局法により、阿片および芥子の調製物の販売は、薬剤師によるものでないといけません。が、コカインは対象外です。ワインに阿片が入っており、なおかつ販売した場合は薬局法違反となります。また男女の紹介について、見返りを受け取ったかどうか、未成年がいたかどうかでも罪状が異なります。その両方に当てはまる場合、八十五年の刑法改正法により、薬物の投与による売春の斡旋として刑事犯罪となります。未成年の性行為について、敷地を貸した世帯主も罪に問われますが、自宅ではなくホテルなのでそこも争点となるでしょう」
勉強したことを過不足なくまとめあげ、よどみない回答に努める。
うむと頷いた師は満足げで、誇らしい気分になった。
「オスティア卿。このように、社会的には厳しいことですが、違法性については調査の必要があります。ワインの成分と未成年の売春に相当することがあったかがポイントでしょう。警察には……?」
おぞましい虫の名前でも口にするように、紳士は肩をすくめてみせた。
「警察! あんな奴ら、何の役にも立たない愚物の集団だ。我々の世界を土足で荒らしまわらせたくないから、君に頼んでいるのだ。無論、アキラカな犯罪ならば法の裁きは必要だ。しかし彼は寄宿舎の同輩で、共に育った仲だ。積極的に悪さをするような奴ではない。一時の気の迷いや、誰かに利用されてのことだろう。素行不良だったら厳重に注意してやめさせ、もし罪を犯していれば自首を勧めたい」
「お気持ち、拝察いたします」
紳士は厳めしいステッキを撫でながら、憂いを帯びたため息をつく。
「私は以前注意をしたから警戒されていてね。もしよければ、だが……。来週の夜会に参加して、違法性があるか調べてくれないだろうか」
「それは――」
「仮面付きとはいえ舞踏会に野蛮な警察を入れることなどできるものか。シーズンももう終わりで次が最後の機会だ。信頼できる貴族は君だけなのだ、バロック。今も彼がいれば……失敬。つい余計なことを」
隣の師が震えた息を吐くのが聞こえ、奥歯を噛んだ。胸がざわざわする。
彼。その言葉が指すのは、きっと亡きクリムト氏のことだろう。
「……分かりました。私の方が警戒されるでしょうが、夜会への参加と調査、引き受けました」
「感謝する! 私も参加はするから、なんでも協力を――」
その後、調査に必要な情報を聞き、打ち合わせをすることとなった。
あらかた終わったところで、外出していた細君が帰宅した。ぱっと館が賑やかになり、ぜひ夕食をという誘いを固辞されても、ご婦人はなおもバンジークスを捕まえてあれこれと話しかけていた。
天井の高いホールで、オスティア卿は亜双義に向けて苦笑した。
「うちのはおしゃべり好きでね、捕まったら長いぞ。そうだ、内緒話だが――前の裁判での主張、個人的には賛成だ。人の欲望は際限がない。堕落した獣ではなく人を人たらしめる法を、ルールを、民衆の上に立つ者の責務として、我々は厳粛に守らねばいけない」
ぴりりと緊張が走る。前の裁判での主張とは、思ってもいない、同性愛者への差別的な非難だった。
恐縮した返事をしながら、亜双義は師による評を思い出していた。
――彼は兄の友人で、同じくらい高潔で潔癖な人だった。彼らの前に行くときは、いつも緊張した。タイの角度すら、少しも曲がらぬように何度も鏡を見たものだ。
かのバンジークス卿すらそう言うなんて、成歩堂が拝謁でもしたならどうなるか。
何はともあれ、彼に胸の内を明かすことは到底できまいと思った。
さらに紳士は身を寄せ、声を潜める。
「君はショックを受けるかもしれないが、実は――バロックは、かのヴォルテックス卿と関係があった、という噂がある」
「な、ッ~~~~」
どくんと心臓が跳ね上がる。確かに十年も利用されていたが、しかしそんなはずはない。
「やはり初耳だったか。従者もしていたのだろう? 君から見て、二人の間に心当たりなどは?」
「ありませんでした。仕事の範囲で当然お話しすることもあったと存じますが……」
「そうか。最近は何もなかったか。無実であると信じたいが、例の事件の直後……彼は非常に不安定になっていてね。これも噂だが密会の目撃者もいた。当時はでまかせだと一笑に付したさ。しかしあの法廷で死神の真実を知り、噂を思い出し――もし強要された関係であったら許さない。そう思った。彼は親友の弟で、私にとっても守るべき存在だ」
「…………」
かあっと腹の底が熱くなる。バンジークスの様子から、まっさらな身であることはよくよく分かっていた。それでも心乱される。今までの性体験について明言はされていなかったからだ。仮に何かあったなら――想像しただけで気が狂いそうになった。
「大丈夫だとは思うが、堕落からは抜け出すのが厳しいと聞く。もし彼が誰かと不適切な関係を結んでいたら、通報する前に私に教えてくれないか。彼は被害者で、これ以上家名を堕とさせるのは不憫がすぎる。誰にも悪いようにはしない。君が言うだけの謝礼も出すから、頼んだよ」
「……仰せのままに。ロード」
亜双義は努めて平坦な声を出した。彼は頷いて帽子の角度を直し、そろそろおひらきにしようと皆に呼び掛けた。
英国の天気は変わりやすい。館を出ると重たい雲が空を埋め尽くしていて、帰り道は雨だった。
※※※
使っていない客間の家具を寄せ、ホーン付きの蓄音機を運び込む。
即席のダンスホールにて、亜双義は悩み事を一時忘れ、ちょっと浮かれていた。目の前の練習相手が華奢なご婦人ではなく、身長六尺を超えるむくつけき大男だったからだ。
「貴君をダンスに誘えるようになったのは、喜ばしいことだ。紳士として認めてくれた証でしょうか?」
「ただの復習だ。教師を呼ぶまでもないからな」
亜双義の家はそこそこ大きかったが、しかし鹿鳴館にお呼ばれするほどでは到底ない。ただの留学生がダンスまで習得していたわけもなく、去年にみっちりと練習させられていたのである。
社交界からは引退したいという師であるが、しかし貴族として全く行かないわけにもいかないらしい。去年はシーズン中に何度か、司法関係者が多い場には亜双義も随行することになった。
ダンスの練習と聞いて胸を躍らせたものだが、待っていたのはスパルタ教師であった。完全な善意で一流の家庭教師を呼ばれたのである。おかげで舞踏だけでなく、年配のご婦人との会話や気分を害させないあしらい方までスピード習得したのだった。ロマンチックなことなどまったく、一片たりとも、悉皆なかったのが去年である。
今年のシーズン前にも同じ教師を呼ばれ、「復習してなかったわね!」と物差しでびしばしやられた。
含みを持たせた目でじっと見つめると、男は困ったように目をそらした。シャツにベストといういつもの室内着の彼とは対照的に、亜双義は正装であった。
「服のサイズは合っているだろうか」
「肩回りが少しきついが、大丈夫です」
「鍛えたな。次は……いや、なんでもない」
何かを言いかけてやめた男は、お小言に方向転換をした。
「先月の夜会では、踊らずに撞球ばかりしていただろう。踊りは嫌か」
「一応お見合いの場でもあるのでしょう。だったらオレがいても仕方ない。――あすこの坊ちゃんが撞球狂いでして。若者たちに何度ももう一回と迫られまして仕方なく……負かしました。彼らも法曹のタマゴだ、人脈は広げましたよ」
「まあよいが、節度と常識を持って行動することだ。次は潜入捜査なのだから目立たぬように」
「ええ」
蓄音機のハンドルを回し、レコードに針を落とす。再生時間の五分の間にどこまでできるだろうかと思いながら、壁際の紳士に近づく。
「おや、こんなところに可憐な壁の花が」
「白々しい……」
「一曲お相手願えませんか?」
「う、うむ」
「女性らしくない返事ですね」
「茶化すな」
ふふっと笑ってお辞儀をする。差し出された手を取って、部屋の中央に移動した。肩を下げ、腕を上げてホールドを張る。手を組もうとするが、なかなかうまくいかない。おさまりが悪く、にぎにぎと握りあう時間が続いた。
「ふっ……はははっ」
「笑うな、位置がずれる……、フ」
双方背中に左手を回そうとして、またうまく姿勢が作れない。
「貴君は女性役ですよ」
「こんなに胸を反らすのか」
どうにかこうにか姿勢を作り、一歩目を踏み出し――ごちんと膝がぶつかったところで演奏が止んだ。
「くっ……癖になっている動作を修正するのは、ここまで難しいのか……!」
バンジークス卿の方が苦戦し、ハムレットの舞台のように落ち込んでいた。試しに亜双義も女性の動き方を真似してステップを踏んでみたが、確かに訓練で刷り込んだ動作と違うので混乱する。
それでも諦める気はないようで、もう一度、と師にねだられるのが嬉しかった。少し前の彼ならば「もっと他に適任がいる」と言っていただろう。こんな効率の悪いことをするのに、ロマンチックな意味を見出しても罰は当たるまい。
蓄音機のハンドルをもう二回まわしたところで、ようやく息が合ってきた。
優雅なワルツに合わせて、意外と忙しいボックスステップを繰り返す。
「ワン、ツー、スリー……」
ずっと意識が足にあった。ふと目の前にしっかりピントを合わせると、至近距離で目が合うことに驚いた。顔がいい。
重心も動きも全てがかみ合っていた。旋律がぼやけ、背景が見えなくなり、時が止まったように感じる。
窓から入る光が揺れる銀髪を照らし、滑らかな肌を白く浮かび上がらせる。口元がほどけていて、楽しそうだった。いま薄青の目が映しているのがただ一人であることを、誇らしく思う。
真実と復讐だけを求めて生きてきた。
絡まった因果のはてに見つけたもの。その真っすぐすぎる律義さと誠実さに目を見張ったり、危なっかしくてはらはらしたり、存外抜けたところに笑ったり、言い訳をしない姿にやきもきしたり、独占したいと腹をたてたり、傍にいたいと思ったり。
この感情に愛と名付けたのは間違いではなかった。
――それなのに。
数日前に聞いたヴォルテックス卿との噂話が、棘のようにずっと心の内に刺さっていた。
すぐに事実確認をすればいい。いつもの亜双義ならそうしていた。
しかし、できなかった。
デマだと分かっていたがだからこそ、口にした途端そんなことを気にした狭量な男になってしまう。ただでさえ、年下故に対等な男として見られていない実感があった。
このダンスのように、リードしたいのだ。であれば、そんなことは全く気にしない器の広い鷹揚な男であるべきだ。
しかしもかかしもいのししも、気になるものは気になる。ここ数日すこぶる寝つきが悪かった。おまけに今日は、かの判事が師の帯を引いてあ~れ~と脱がしてお手付きをしようとする悪夢を見て、叫びながら夜明け前に跳び起きたのである。
こんな素晴らしい時間に思い出してしまうとは、最悪だった。
「あ」「うん?」
集中が乱れたせいか、ターンの向きを間違えた。
力と力が別々のベクトルを向き、ずれた重心によりバランスが崩れる。まばたきの後には、どしんと絨毯の上に重なって倒れていた。
「ぐ……」
「大丈夫ですか!」
「問題ない」
押し倒すというか、乗り上げるような体勢になっていた。焦る。
詫びようとしたが、咄嗟に出た言葉はまったく違うものだった。
「オレが最初の男ですよね」
「ホワッ」
突然のことで、バンジークスは目を剥いて固まってしまった。亜双義もだった。
「……………………何の?」
「キスやベッドインをする関係である!」
「何故今?」
「沈黙は肯定とみなしてよろしいか」
「待て、落ち着け。頭は打っていないと思うが……」
「は、話をそらさないでいただきたい」
感情に振り回されるからこそ年下のボーイだと言われるのだ。分かっていても止められない。悲しいほどに必死だった。自分を頭の隅から俯瞰する意識もあるが、体を突き動かすのは哀れなオスの衝動である。
「……言わずとも分かるだろう」
「異議あり! 証拠――はしょうがない、ハッキリとした証言が必要です!」
床に押し倒された非常に不名誉な状態で、男は唸った。ほのかに頬が色づいて、瞳が揺れる。
「う、うむ…………私は次男だ、昔は機会も必要性もなく……、法廷に立ってからは尚更であり――貴公が、は……初めてである…………」
「うおおおおおおおおおおお 勝った」
「異常行動は法廷内だけにせよ」
飛び跳ねるように立ち上がり、拳を何度も天に突き上げる。
壁に寄せられた椅子に腰かけ、くたびれたような情人は「何故」ともう一度訊いた。
「数日前、くだらない噂を聞かされました。あなたとヴォルテックス卿との間によからぬ関係があったと……。嘘だとは分かっていま、し…………」
言葉が止まる。
顔を強張らせた男は、震える指を唇に当て、青ざめていた。
「……嘘…………ですよね?」
「…………」
「――何をされた 何があった」
目の前が赤く染まる錯覚。気が付けば詰め寄って声を荒らげていた。耳奥でどくどくと血流が暴れる。
「噂が嘘か、それとも先ほどの弁明が嘘だったのか! はっきり言ってくれ!」
揺さぶる肩に手が食い込む。先ほどまでの柔らかな空気は、もうなかった。
「ま、待たれよ、違う――」
「貴君が不貞を犯したとは毛頭思わぬ。望まないことをムリヤリされたのか あいつに」
「ッ~~~~、落ち着け!」
「ほぎゅッ」
出し抜けにきつく抱きしめられて、頭が真っ白になった。予想外のことでまったく理解が追い付かない。
「シ――……」
なだめるような長い吐息。まるで獣や子供をあやすようなやり方だった。
急速に怒りがしぼんでいくのと共に、肋骨がみしみしと軋む。顔を豊満な胸に押し付けられているせいで息ができず、次第に意識が朦朧としてきた。
「落ち着いたな? 放すが暴れないな?」
「んぶ。……ぶはっ」
死ぬかと思った。顔を上げ、ぜえはあと荒い呼吸を繰り返して酸素を取り込む。
「……………………今のだ」
「イマノダ?」
椅子に戻って片手を額に当て、表情を隠すようにして男はぽつぽつと言った。
「……あの事件の後、私は……ひどく動揺し、平静ではいられなかった。何日も眠れず、酒で無理やり気絶するように寝るのが常だった。また……たまに、うまく息ができなくなるときがあった。吸っても吸っても息苦しくて、吐けなくなる。医者によると、稀にあるが対処の分からぬ発作だという。それが起きたら止むのを待つしかない、と」
息を呑む。生々しい傷だった。
プロフェッサー事件のこと――特に、彼自身の感情については、ついぞ聞いたことがなかった。我らの関係は複雑だ。言い訳など何一つしないこの男が、知られないように隠してきたのは当然だった。
――想像できていたつもりだった。
それがどうだ、ここまでの見えない傷があったと、己は何も分かっていなかった。
兄が殺され、信頼していた男が連続殺人を認め、自らの手で極刑に処した。
ハッピーエンドであるわけがない。正義を執行した達成感に報われたはずもない。
どうしてと問うても答える者は誰もいなかっただろう。
弟子入りしてから気づいたこと。彼の整然とした書斎には、死神関連の資料の隣に不自然な空きスペースがあった。何年も集めていた資料を処分したかしまい込んだか、そんな大きな空白だ。彼もまた、真実を求めていたのだろう。
長年鼓動と共に燃やした怒りがぐるぐると唸る。それでも目の前にいるのは父の命を奪った大罪人ではなく、一人残され立ち尽くす男だった。父母を亡くした亜双義と同じように。
「大きな汚職を争う裁判の前日だった。初めての大役を任された私は、上手くできるかどうか不安で仕方なかった。証明も論述も用意はできている。が、法廷で例の発作が出ないか気がかりでならず……恩人だと思っていたヴォルテックス卿に相談しに行ったのだ」
「…………」
「話すうちに気鬱が膨れ上がり、気付けばまた呼吸ができなくなっていた。……そのとき、抱擁されたのだ」
「――!」
暗い感情が重たい煙となって肺を満たす。他の男が、よりによってかの黒幕がこの体に触れたと思うと、頭の血管が二、三本まとめて切れそうだった。
「発作を収めようとしての行動だった。卿にとって、歯車が設計通りに動くよう油を差すのと大差ない気持ちだったと思う」
「ぐぎ……先ほどのように、まったく同じような抱擁の仕方でしたか?」
「それは……」
師は言いよどんだ。健全なハグの思い出だけでは、あんな動揺はしなかっただろう。想像だけで臓腑が煮える。
「正直に言うと嫉妬するので聞きたくはない。しかし、聞かないままにするのはもっと嫌だ。憤死するやもしれぬ」
ため息が聞こえる。
「正直者め。本当に何もなかったが――抱擁されても、発作が止まらなかったのだ。だから、その……何だ、顎を掴まれ……上を向かされ……奇跡的な反応速度で何が起こるか予想した私は、咄嗟に彼を突きとばして距離を取り、法律の暗唱を行った」
「…………暗唱? なぜ?」
「昔は、勉強も兼ねてよくやっていたのだ。パニック状態で咄嗟におかしなことをしたとは分かっている。何故か発作は止み、慌てて部屋を出た。後日『キスで発作が止むことがある』と説明を受けた。やはり医療を目的とした行為だったのだ。その後検事の仕事に支障は出ず、接触もついぞなかった」
長い息を吐く。承服しがたい内容だったが、恋愛や性愛はなかったらしい。
「それだけですね? あとは仕事だけの関係で?」
「ああそうだ。仕事で会う機会も多かったから、噂の元になったのだろう。医者も紹介されたが断った。対処法はもう分かっていた」
「それは」
「暗唱だ。ある程度長めの文を読み上げると収まると分かり、冷静に対処できるようになった。数か月後には発作が出ることもなくなった。……もし事件の被害者が同じような状態になっていたら、何でもいいから音読をさせるといい。文字が読めなければ、己の言ったことを繰り返させるのだ」
バンジークス卿という男は、こんなときですら人のための知識を授けてくる。
「承知しました。――早とちりをして申し訳ない」
「いや、私がすぐに否定すればよかったのだ。……まだ謝ることがある」
まだあるのか。唾を飲み込む。
「あの頃、思ってしまったのだ。もし接吻を受け入れていたら、どうなっていたかと……。卿に懸想していたわけではない。男性に興味があったわけでもない。しかし当時は苦しくてどうにかなりそうで、おそらく――誰でもよかった。誰か寄りかかれる相手がいたら、他の何も気にせず罪すら犯していたかもしれぬ。あのとき拒めたのはとっさのことで、数秒反応が遅れていたら……その可能性を思うと、すぐ否定できなかった」
がっくりきた。脚から力が抜け、その場にしゃがみ込む。
「はあ~……」
「すまぬ……このような弱さ、貴公に見せるべきでは……」
「真面目か そんなところも! 好きだが! クソ真面目か!」
「?????」
「ちょっと貞淑が過ぎるな……いやそこもいいんだが箱入りの極みか……」
「ア、アソーギ……?」
「貴方のことだ、どうせ襲われても抵抗していたでしょうよ。異議なーし」
「いや、それは分からぬが……」
「オレが過去分まで信じると言っているのだ、それでいいでしょう」
「何故ちょっと呆れているのだ」
「あ~はいはい」
「こ、こら……! 不敬であるぞ」
困惑からの、ちょっとムッとした顔。極めて控えめな表情の変化が分かるのが、結構嬉しい。苛立ちはすっかり吹き飛んでいた。
「今現在、貴君がオレを愛しているのなら、何も構わないと言っているのです」
「へ…………」
「構いませんよね?」
立ち上がり、椅子に座りこんだままの男の顔を覗き込む。
顔ごとそらされ、顎を掴んで位置を戻した。ちょうど見下ろすかたちになったので、上を向かせる。
「………………………………同意、する……」
消え入りそうな声だった。長い睫毛が震えながら下を向くのが見えて、たまらずキスした。