海に行ったのに泳がず帰った日の話 朝、アラームの音で目を覚ます。コーヒーを淹れて、テレビを付けるとニュースが流れる。働き始めてからのルーティンのようなものだ。
『今日から八月となりますが、厳しい暑さが続きます。』
聞き流していたアナウンサーの声が、八月と言った音だけが嫌にはっきりと耳に入った。
壁の薄いアパートでは、外で鳴く蝉の声までうるさい程に聞こえてくる。夏だなと思うと同時に、自然と夏に生まれた友人を思い出してしまうのはもうどうしようもない。
携帯を開くと、ちょうど今思い浮かべたヤツからメールが来ていた。
『今日仕事終わったらいつもの喫茶店!』
この男を友人と呼んでいいのかどうか、もう何年も決めかねている。
中学を卒業してから、バイク屋で整備の仕事を始めると同時に不良チームも卒業した。
夜遊んで学校行かずに昼まで寝るなんて生活もやめて、今では朝起きて遅刻もせずに真面目に働いている。そうして安い給料を貰ってボロいアパートでなんとか一人暮らしをしているわけだが、親のいない中卒が雇ってもらえてるだけありがたいんだろう。
昔は二十歳過ぎたら大人だとか、働き始めたら大人だとか、なんとなくそんな風に考えていた。実際こんな暮らしを五年程続けて二十歳となったが、果たしてオレは大人だと言えるんだろうか。
ついガキの頃に思いを馳せてしまうのは、あの頃からずっとくすぶったままの気持ちがあるからだ。こんなメール一つで、今日は早く仕事を終わらせようなんて気がはやってしまう。出来るだけ平静に見えるように、『了解』とだけ返してコーヒーを飲み干す。
今から会うわけでもないくせに、結局いつもより十分早く家を出た。
定時で仕事を終わらせて、待ち合わせの喫茶店に向かう。夕方といっても、まだまだ日が高い季節になった。
「ケンチーン」
「おぅ」
店に入って、一番奥の窓ぎわの席。それがいつの間にかオレたちのいつもの席になっていた。オレの入店に気付いて笑いながら手を上げる姿なんて、もう数え切れないくらい見ている。それでも一向に慣れない心臓が飛び跳ねて、思わず足を止めてその顔を眺めてしまった。
「なんか用でもあったのか?」
なんでもない振りをして、向かいの席に座り口を開く。
「今度の週末さ、海行こ」
「はぁ?なんだよ急に」
学生時代ならいざ知らず、気軽に遠出ができるような生活からは遠のいている。目の前のコイツは昔から全く変わらねぇけど。
「夏だなーと思ったら行きたくなった」
「自由すぎる」
昔から、コイツの思い付きにどれだけ振り回されてきただろう。素直に振り回されてやってる理由は、途中で考えるのをやめてしまった。
「オレあんま金ねぇぞ」
「安いホテル探しといてやる!」
断られないと思ったんだろう、途端に嬉しそう顔を輝かせる。この顔が見たくて断れないんだと、コイツは分かっているんだろうか。
「いいだろ、オレの誕生日前祝いだと思って」
誕生日祝いに二人で海に行くって、それはもうデートってやつじゃないのか。
そんなトチ狂ったことを口にしそうになって、無理矢理飲み込んだ。
「……しょうがねぇなぁ」
結局口を突いて出たのは、いつもの決まり文句。
そう、しょうがない。断って他の誰かが代わりに誘われるなんて、想像しただけで腹が立つ。学校卒業しても、チームを卒業しても、隣に立っていたいだなんて。
どうしようもないくらいずっと、この男に片想いをしている。
「さすがケンチン」
笑った顔が眩しくて、目を細めて眺めてしまう。
「……夏だなぁ」
窓から差し込む太陽のせいにして、視線を外した。昔は一々、この気持ちがバレやしないかと気を張っていたものだ。今はもう、そんなこと考えもしないんだろうとタカを括っている。
「昔もバイクで海行ったよな」
「オマエのホーク丸がガス欠した時な」
あの時は六人だったのに今回は二人なのかとは、意識してるみたいで聞かなかった。
家に帰ってシャワー浴びて、なんとなく癖で携帯を開く。
『ネットで調べて一番安いホテル予約した!』
さっき別れたばかりなのに、届いたメールにどんだけ張り切ってんだと笑ってしまった。
携帯を眺めたまま、ベッドに横になり目を閉じる。すぐに頭に浮かぶのは、嬉しそうなアイツの顔だ。
親にも捨てられたオレと会うのが嬉しいなんて言うヤツ、昔はいるとは思わなかった。会う度嬉しそうに楽しそうに笑顔を浮かべるもんだから、いつの間にか笑って欲しいなんて欲が生まれた。こんなに片想いを拗らせるまで、好きだなと思う瞬間は数え切れないくらいあって。だけど気持ちを口に出来ない理由も、同じ数だけあるのだ。
男同士で、昔馴染み。胸を張って親友だと言えるような、アイツの笑顔のためにただ献身できるような、そんな純粋で綺麗な感情ならよかったのに。
風呂上がりというだけではない熱を持った体がどうしようもなくて、履いたばかりのスウェットと下着をずらして右手に性器を握り込んだ。そのまま上下に扱きながら、想像するのはアイツの裸だ。男同士で、一緒に銭湯も行ったことがある。意識されてないからこそ晒された体は、華奢に見えてしっかり筋肉が付いていた。そこに汗がつたうのを目にした時、たまらなく欲情してしまったのを覚えている。
「……はぁっ」
扱く度に先走りがグチグチと音を立てて、熱のこもった息が漏れた。高揚感と罪悪感がぐちゃぐちゃに混ざって、結局は欲を吐き出すことしか考えられない。
「くっ……」
手に吐き出した精液をティッシュで拭ってようやく、高揚感がナリを潜めて罪悪感に苛まれた。
「こんなんで海行くとか、大丈夫か……」
好きなヤツの水着姿眺めて、二人で一緒にホテルに泊まるのか。なんだそれ。
「……好きとか、言えるわけねぇ」
信頼を、してくれてるのだと思う。なにがあっても裏切らない、ワガママを言っても許される。そう信じて、心を明け渡してくれている。心を開いた相手には、どこまでも甘くて甘ったれなヤツだから。
親に愛されなかったオレには、いまいち人の愛し方を理解できない。それでも下心とも呼べるようなこの恋愛感情は、信頼を裏切るものだということは分かっている。
傷付けたくなくて嫌われたくなくて、死ぬまで隠して隣にいようと思ったのはいつだったか。オレは一生初恋を引きずったまま、物分かりのいい大人なんかにはなれないのかもしれない。
そう、オレは死ぬまでこの気持ちを隠し通す覚悟を決めてたんだ。
約束の週末がきて、水着姿を見ても動揺しないようにと馬鹿らしいがシュミレーションまでしてきたんだ。バイクで海の近くまで来て、海は明日朝から行くことにしようなんてホテルのチェックインに来た時も隣で寝れるだろうかと緊張するのを悟られないようにフロントスタッフから目を離さなかったんだ。
「はい、セミダブル一室ご予約のお客様ですね」
「は?セミダブル一室?」
コイツの行動力の前ではシュミレーションなんて無意味だということをすっかり失念していた。
バッと隣の男に顔を向けると、きょとりとコチラを見上げている。
「ホテルの予約サイトで、二名一室で一番安いとこにした」
「なるほど」
確かに金がないと言ったのはオレだ。予約したと言われた時にどんな部屋か聞かなかったのもオレだ。だからってセミダブルベッドに成人した野郎二人で寝ると思うか?そんなシュミレーションはしていない。
「すいません、もう一部屋」
「本日は予約で満室でございます」
空いてますかと最後まで言う暇もなく、一部屋分の鍵を渡された。無慈悲。
「ケンチン、行こうぜ」
オレの隣で鍵を受け取った男は、それはもうなんとも思ってなさそうな様子で部屋に向かうエレベーターへと歩いていった。
「……」
オレはオマエをオカズに抜く男だぞ?
……言えるわけなかった。
「とりあえずコンビニで夜食買う?」
「そうだな」
部屋に入ってみると、中には小さなテーブルとセミダブルベッドしかない狭い空間だった。大変よろしくない。荷物を置くと、財布と携帯だけ持って逃げるように部屋を出る。
あのセミダブルベッドで惚れた相手とくっついて寝るのか?正気か?
「オレアイス買おうかな。ケンチンは?」
「酒」
ホテルの一階にあるコンビニで、しこたま酒を買い込んだ。こうなったら酒に逃げるしかない。
部屋に戻ってアイツがシャワー浴びてる水音を聞きながら、しこたま酒を流し込んだ。
「ケンチンなんか顔赤くねぇ?」
「気のせい」
風呂上がりにアイツがアイスを舐める舌を直視しないように、ひたすら酒を飲み下した。
「オレもシャワー……」
「酒回って死ぬぞ!?」
思いの外体から力が抜けていたようで、腕を引っ張られると簡単にベッドに倒れ込んだ。
「ケンチン?」
「んー……」
ギシっとベッドが軋む音がして、腹の上に乗っかられる感触がした。見上げると見慣れた金髪が視界に広がるが、なんでかぼやけてその表情は見えなかった。
「この指何本か見える?」
「……可愛い」
「へ?」
顔の横でピースなんてしてるから、可愛いな、なんて思って。酔ってなかったら、携帯で写真くらい撮ってたかもしれない。
まぁ、酔ってなかったら可愛いなんて口にしてなかったんだろうけど。そっから先の記憶がない。
つまるところ酔い潰れて寝た。
次に目が覚めたのは、腹にゴッと何かが叩き付けられたからだった。
「は!?」
慌てて目を開けると、さっきオレに乗っかってたヤツが隣でめちゃくちゃ不機嫌そうな顔をしていた。
「え、なに」
「ケンチンがデカチンのせいで、オレが寝る場所ないんだけど」
「あだ名を変にもじるな」
オレのチンコがデカいみたいに聞こえるだろ。まぁ否定はしねぇけど。残念ながら目の前の男に片想い拗らせてるから右手が恋人だ。
「なんか腹に衝撃あったんだけど」
「オレの寝相」
「寝てなかっただろ」
そう、どこでもオレにもたれ掛かって眠り始めるコイツが、拗ねた顔して起きてたのだ。由々しき事態だ。
「なんかあったか?」
起き上がろうとすると、力を入れた瞬間腹に痛みが走る。
「ちょっと勢いあまって踵落としがきまった」
「有り余りすぎだろ」
不良だった頃無敵と呼ばれてたくらいなので、手加減はされたと信じたい。
「ケンチンさぁ、オレがわざわざこんな狭いベッド予約した意味わかんねぇの?」
「安かったからだろ?」
「ニブチンめ!」
オレのあだ名、ちょっといじられ過ぎじゃねぇか。
「オレ、もうすぐ二十歳だぞ?」
「そうだな」
「もう何年かしたらさ、オレたち人生の半分以上一緒にいんだぞ?」
「そうだな」
「なのにデカチンのくせにニブチンなケンチンは全くなんも言う気配ねぇしさぁ」
「は……」
もう一回腹の上に乗っかられて、さっき踵落としきめられた箇所がズキりと痛んだ。夢じゃない。
「二十歳の誕生日、プロポーズ待ちだったんだけど!」
「は!?」
目の前のコイツに片想いしてたのは認めるが、それは片想いであって両想いではなかったはずだ。告白もしてなければ恋人でもない。それがどうしてプロポーズ待ちなんてことになるんだ。
「ケンチンがオレのこと大好きなのなんて、中学の頃からバレバレだし。なのにこっちが大歓迎なのは全然気付かねぇし」
オレに乗り上げていた体を前に倒して、至近距離まで顔が近付いた。
「二人で出かけて、くっついて寝たかったから。セミダブルなの、ワザとだし」
拗ねたような顔して、だけど目元が赤く染まってるのが、顔近いからこそ分かってしまった。
「……ふざけんな、大好きなのなんて、小学生の頃からだぞ」
そう、小学生の頃から好きだった相手と、二十歳になって初めてキスをした。
酒飲みすぎて頭痛ぇし、踵落としされた腹は痛ぇし、なによりめちゃくちゃ心臓が痛い。
「……死にそう」
「え、吐きそう?飲み過ぎ?」
「オマエ、オレに鈍いとか言える立場じゃねぇぞ」
この後積年の想いが爆発して盛り上がるかと思いきや、飲み過ぎて当たり前に勃たなかった。文字通りセミダブルベッドで隙間なくくっ付いて寝た。寝れるか。
次の日海の近くにいるっていうのにチェックアウトまでホテルに居座ってセックスした。珍しく大人しくくったりしてる恋人に海はいいのかと聞いたら、『水着姿で悩殺してやろうと思っただけで泳ぎたかったわけじゃねぇ』と返ってきた。オレの人生散々コイツに振り回されてきたけど、何年経っても予想外なことばかりだな。
ところで今日は八月に入ったばかりで、恋人はまだ十九歳なわけだけど。
二十歳の誕生日にプロポーズを待ってるっていうのは今も有効なんだろうか。