いい趣味してる つかれた印の朱色が、ファイルに入れる直前でぴっと横にはみ出た。「ああ」と落胆を隠さない声が飛び出すのと同時に、クリームを煮詰めたような金髪が揺れる。
「まだ乾いてなかった」
振り向いた背中、その上にある石膏が外されると、怪訝な顔つきが浮かび上がっていた。事態を伝えようと滲んだインクを目の前に差し出すと、ふんと鼻を鳴らされる。
「カンパニーはまだこんな前時代的な契約書を?」
「仕方ないだろ。昔のローンの更改だから、こうした方が無難なんだ。他はそんなことない。君の委任契約だって画面上で締結されたんじゃないの」
それほど大きくない動作でレイシオが頷いたときだった。歩く彼らのうち、先が分かれた派手な生地をひらひらと翻している方が、おっと、と立ち止まる。その立派なコートの先っぽを掴まれたからだった。
アベンチュリンが振り返ると、同じ目線には誰もいない。だが、ゆっくりと視線を下に向かわせると、肩くらいまで伸びた髪を幼くぱっつりと切り揃えた、年端も行かぬ少女がそこにいた。彼女のやわらかそうな指先は、奇抜な色をしたスペードの裏地をぎゅっと握りしめている。
「どうしたの」
さっとしゃがみ込んだ後頭部を、レイシオは見つめていた。こてん、と首を傾げる所作がわざとらしく見えたのか、彼は子に背を向けてからふうと息を吐いた。
「あのね。お兄ちゃんたち、もう帰っちゃうんでしょ」
アベンチュリンは、うんと短く頷く。すでに眉を下げた少女に、もう哀れみを覚えている。たったひととき、この星の居住環境についての調査のために接触した彼女とは、必要以上に親睦を深めすぎてしまった。
「はい」
そう言ってぴんと伸ばしてきた両手の先には、折り畳まれた紙片が摘まれている。僕に? と確認された少女が頷いたので、アベンチュリンはそれを受け取った。
そして、ずっと握られていたのか、しわがたくさん入ったそれを開こうとする瞬間だった。少女は、脱兎の如く二人に背を向けて走り出してしまって。
待ってと言う間もなかったので少し呆気に取られたが、仕方がないから、今達成できそうな文面の確認を行う。だが、そこに書かれている文字を見て、あっ、と、しっかり驚いた声が出た。
「どうした」
「言っていいのかな」
立ち上がりながらレイシオの表情を確認したアベンチュリンだが、回答をぼかしたためにそこにはもう訝しさが滲んでいた。このままはぐらかしつづけることでもない、そう判断して、やはり白状することにする。
「『おにいちゃんだいすき』、そう書いてあった」
「……そうか」
レイシオはいつもよりわずかに広く瞼を持ち上げたが、すぐに素っ気のない返事をした。
「嘘つきだとか言わないんだね」
「君が幼子に懐かれる理由は、分からないでもない」
てっきり厳しい言葉が続くと思っていたので、アベンチュリンは拍子抜けした。そして、ただときめきつづけているほど能天気にはなりきれず、疑念を向ける。
「教授が僕を手放しで褒めるなんて、気味が悪いね」
そう言って肩を竦めてみてもレイシオは鋭い声を出さず、それどころか、その燃える彗星のような光が浮かぶ瞳で、じっとアベンチュリンを見つめ続けた。静かな間に耐えられず、目を逸らしながら、なんだよ、と呟く。すると、今度は速やかに返答があった。
「根拠があるからな。いつもよりさらにリアクションを大きくしているのは、子どもに感情が見えやすいように、だろう。あとは、しゃがんで目線を合わせていたり、」
――もう大丈夫!
アベンチュリンは、気がつけばそう言っていた。普段は彼の聡明な頭脳が築くあらゆる物事への考察の恩恵を受ける立場にあるが、その対象が自分となると、話が違う。全力でその観察内容から話題を逸らしたくなった。
「は? 君が、手放しで、なんて言うから弁明をしようとしたのに?」
「いやあ……」
自分では意識していなかったことだ。特に恥ずかしい。
決まり悪そうに目を逸らしながら浮かべられた困惑の滲む笑みに向かって、レイシオは告げた。
「とはいえ、恋情を向けるとなると話が変わってくる。趣味が悪いとしか言いようがない」
辛辣な言葉を受け取って、アベンチュリン は、ようやく、そうそうこれこれ、と安堵した。そして、調子良く回りそうな口を開く。
「おいおい、僻みはやめてくれ。じゃあそういう君はラブレターをもらったことがあるの」
レイシオは黙り込んだ。しめしめ、と心の中でほくそ笑んだアベンチュリンだが、急に目の前にいた相手が淡々と自身の端末を弄り出したので、戸惑う。無視をして歩き出す、くらいならわかるが。
すると間もなく、操作されていたそこが、ずいっと自分の目の前に手を翻して突きつけられた。眉間に皺を寄せながら内容を確認して、うん? と相槌に疑問符を加える。
「チャット、だよね。しかも、僕とのメッセージ履歴を、開いた、って……」
だが、さっさっとスライドされていくそれは、ただのチャット画面ではなく、どうやらそのスクリーンショットらしい。わざわざ入手したらしいそれの意図を掴むために文面を検めたところで、アベンチュリンは、もしかして、と、とある心当たりに気がついた。それと同時に、首のあたりからじわじわと熱が迫り上がってくる。そしてそれは、すぐに頭頂部までを満たした。
『好き』
『大好き』
『君のそういうところが好きだよ』
『愛しい君。次はいつ会えるかな?』
そこにあったのは、歯が浮くような自分から彼へのメッセージの数々だった。言ったときにはノリという魔法が作用している言葉も、後から見返すと、全くそんなことはなく。しかも、頑なな面持ちで示されるものだから。
「……いや、たしかに、ラブ……コールかも、しれないけど。レターじゃないし……」
「経験としては十分だと思うが」
「いや、うん……」
「軽率に記録媒体に頼るからこうなる」
「はい……」
最後は消え入るような声で呟いたアベンチュリンに、行くぞ、とさっぱりした声が掛かる。紙だったら今この場でびりびりに破いてしまえたのに、と思うと、先程のやりとりも相まって遣る瀬無さが増した。
また冗談かと呆れていそうな彼が、それらをしかと受け止めていたらしいことにも、気持ちが高められて。アベンチュリンは、抱えきれない思慕を解消するために、勢いよく声を出す。
「ていうかやっぱりさっきのは聞き捨てならないよ。あの子を批判するなら、君だって趣味が悪いことになるんだからね」
「そうなるな」
彼にしては珍しく芝居がかった、やれやれとした口調だった。しかし、あっさりと認められてしまって、また胸がとくとくと騒ぎはじめる。だって、つまり、その好意が向いているのは。
アベンチュリンは、息を深く吸ってなんとか、動悸を治めようと努力する。もらった紙片をポケットに仕舞い込みながら。
そして、烏滸がましくも、ごめんね、と、脳裏に浮かべた少女の無垢な顔に謝った。