ゴツゴウニョタイカ血鬼術(仮) 本日の任務をつつがなく果たした炎柱、煉獄杏寿郎は屋敷に戻って身を清め、大量に用意された食事を楽しんでいた。
柱の身の回りの世話は隠が交代で執り行う。今日の料理番は杏寿郎の好みをよく把握しているらしく、いつもにも増して箸が進む。
特にこのさつまいもの味噌汁は良い。母の味とは異なり、出汁は昆布、味噌は合わせで白味噌強めだが、味噌の甘さと芋の甘さがうまく調和している。
幾度目かのわっしょいを口にしかけたところで、杏寿郎の鋭い聴覚が異変を捉えた。
何やら玄関先が騒がしい。客人だろうか。だとすればこの気配は──。
よく知っているはずのそれがいつもとはどこか違う気がして首を傾げたところに、部屋の襖がスパーンと勢い良く開かれた。
そこに立つのは小柄な青年。
ザンバラに切り落とされた不揃いな黒髪に、白黒二色の縞羽織。口元に巻かれた包帯と首に巻き付く白蛇が印象的ながら、実の所最も目立つのはその瞳。月と海、左右で色の違う稀有な瞳に杏寿郎を捉え、さっと全身を確認した彼──伊黒小芭内は傲岸に頷き、告げた。
「任務は無事終えてきたようだな」
風邪でも引いたのだろうか、その声に違和感を覚えつつ、うむ、と答える。
「君も息災なようで何よりだ。よかったら共に食事を──」
「俺はいい。それよりも杏寿郎」
「食い終わったら、俺を抱け」
言葉の理解が追いつかず、汁椀を手にしたまま固まる杏寿郎の前で、小芭内が「先に寝所に行っている」と身を翻す。
我に返った杏寿郎は慌てて箸と椀を置き、縞羽織の長い袖を掴んだ。
「いや待て小芭内さすがにそれは言葉が足りない! 何がどうしてそうなるのかちゃんと説明してくれ!」
尤もな杏寿郎の要求を受け、小芭内が忌々しげにチッと舌打ちする。何とも理不尽な態度だが、彼においてはいつものことである。この程度で今更杏寿郎が気分を害することはないし、引き下がるつもりもない。
「……数日前、ヘマをして血鬼術を食らった」
ぼそりと呟かれた内容に杏寿郎は目を丸くした。急ぎ小芭内の全身を見渡すが、どこにも怪我をしている様子はない。
「傷を負ったわけではなさそうだが……」
小芭内は苦虫を噛み潰したような顔で、手首を掴む杏寿郎の手を払い、隊服とその下の白シャツのボタンを手早く外した。
「見てのとおりだ」
左右に開いたシャツの下から現れる白い肌。その胸元には細いながらもしっかりと鍛えられた胸筋が──。
なかった。
代わりに、二つの密やかな膨らみがそこにあった。未成熟な少女のものを思わせる、至極控えめなそれが、そこに。
「日が経てば治るかと思ったがその気配もなく、嫌々ながら胡蝶めの診察を受けた結果──俺が食らったのはゴツゴウニョタイカ血鬼術なるもので、変化が起こってすぐなら薬で治るが時が経つともう無理とのことだった」
早く診察に来ないからですよお馬鹿さん。
こういう下手に頑丈でまあこれぐらいなら大丈夫だろうと素人判断する患者が一番厄介なんですよねこうなったら治す方法はただ一つ女の象徴たる陰の箇所に男の象徴たる陽の箇所を受け入れその体内に陽の気を受け入れる──即ち性行為を完遂することですそうすれば陰に転じた肉体が強制的に陽へと染め戻され元の性に戻ることができるでしょうつまり誰でもいいから適当な男を捕まえて膣内に射精されまくってくださいこの血鬼術は命に関わるものではありませんが時間が経つほど治りにくく回数をこなさねばならなくなっていきますからできるだけ早く治療を始めた方がいいですよなんならこちらで手配しましょうか宇髄さんあたり治療実績もありますし適任かとあらお断りですかそうですかそれならさっさと自分でお相手見つけてちゃっちゃと治してくださいねこちとら忙しいんですよはい次の方──
小芭内は胡蝶の真似がうまかった。
いつもの笑顔を浮かべながら怒りを滲ませつつ淡々と応診する彼女の姿が鮮やかに浮かぶ。
なるほど、声と気配に違和感を覚えたのはそのせいだったか。肉体が変化して高い女性の声になったのを、あえて無理矢理低く発していたと見える。
元々が小柄で細身だし羽織も余裕を持たせた作りだから見た目だけでは全く気付かなかった。
こうして、実際に膨らんだ胸を目にするまでは──。
女体化と言っても恐らくその変化には個人差があるのだろう。
そのささやかな、成長途上にあるかのような青いまろみは、小芭内の少女めいた顔立ちによく似合っていた。
いや、似合ってどうする。
杏寿郎は己の思考を遮るべく、小芭内のはだけたシャツをバッと合わせ直してひとまず視界を遮った。
「……ちょっと待ってくれ小芭内。状況は理解した。理解したが、その治療相手に、俺を選んだということか」
シャツで遮ったのに、脳裏にちらちらと先程の光景が瞬いて消えてくれない。布地をそっと押し上げる奥ゆかしい稜線と、たった今生で目撃した清楚な稜線が重なる。
仄かに盛り上がる、純白の雪丘とその頂に小さく芽吹く桜色の──。
杏寿郎は取り敢えず舌を噛んだ。強めに噛んだ。口内にはっきりとした血の味が広がるが、お陰で少し冷静さを取り戻せた。
今まで女人のそれを目にしたことがないわけではない。
鬼に襲われ衣服を裂かれ、あられもない格好となった女性を助けたことなど何度もある。
しかし、今よりもっと若い思春期真っただ中の頃でさえ、一度として彼女らの裸体が目に焼き付いて離れないということはなかった。
豊満というには程遠い、幼さを強く感じさせる大きさであればこそ余計に見てはいけないものを見てしまった罪悪感が湧いてくるというか小芭内にぴったりすぎて違和感が仕事しないというかかつて小芭内を少女と勘違いしていた際の妄想そのままというか原因はそれだ────。
昔、小芭内は一時期煉獄家で暮らしていた。父が任務において助けた彼を、その悲惨な境遇を案じ家に連れ帰ったのだ。
当時の彼は長い黒髪を一つに束ねており、育てられた環境のせいで仕草も言葉遣いも女性的だった。ために、杏寿郎はすっかりその性別を勘違いしてしまったのだ。
結果、初めての求婚から玉砕まで一分とかからなかったのは忘れたくとも忘れられない悲しい思い出である。
彼が少女であったなら、間違いなく娶っていただろう。何なら今頃子の一人や二人生まれていたかもしれない。
まさか初恋破れてすっかり諦めもついた今になって、こんな爆弾を投下されるとは思わなかった。
かつて恋した少女がそのまま育てばこうなっていただろうという、あり得ぬ夢想の産物が、たまに夢想してしまっていたそれが、今、目の前に具現化している。
また空転しそうになる思考を舌噛みで強引に止めて、杏寿郎はとりあえず手にしたシャツのボタンを留めてしまうことにした。単純作業を課せばその間に心を落ち着けることもできるだろう。
そう考えて指を動かそうとしたその時──。
指先に、ぽより、と柔い感触があった。
その正体など考えるまでもない。隊員に支給される隊服は下級の鬼の攻撃ならば防げるほどの防御力を誇るが、動きやすさも考慮されているため、薄く軽い。シャツなど特に、その下の体温が感じられる程である。更に言えば、小芭内は肌着を着用していなかった。
杏寿郎は、火山が爆発する様を幻視した。
爆上がりしかけた鼓動を柱としての本能が抑制する。杏寿郎の心身は現状を正しく危機的状態と判断した。
その凄まじい精神力を持って動揺を抑えつけ、表面上はいつもの笑みをたたえたままプチプチと手早くボタンを留め直していく。
もちろん歯は舌に立てっぱなしである。
下手に口を開けば血が溢れそうなのでひたすら無言で手を動かす杏寿郎に拒絶の意志を感じたのか、小芭内が焦ったようにその手を捉えてきた。
「すまん、杏寿郎。俺など相手にしたくはなかろうが、俺にはお前しかいないんだ」
先程の高圧的な態度は虚勢だったのか、今や見上げる瞳も声も心細げに揺れている。
その表情は、かつて夜に怯え震えていた彼の姿を思い起こさせた。声を殺して泣く彼を、毎夜抱き締めて寝かしつけていたあの頃。
その冷え切った身体に己の体温を分け与え、ゆっくりと全身の強張りを溶かしていく。やがて、腕の中で柔らかく解けた彼が、すうすうと安らかな寝息を立てることに安堵した。
愚図る弟をあやして笑わせ、安心し切って眠る様に抱く愛おしさとは違う、切ない甘さを孕んだ愛おしさ。
そう、あの頃の自分は紛れもなく──酷(こく)すぎる過去に押し潰されそうになりながらも、それを背負って立とうとする彼女に、恋をしていた。
「このまま、女の姿で戦えぬものかと幾度か試してもみた。元より筋力にのみ頼る戦い方はしていないからいけるかと思ったが──この身体では、雑魚鬼の首を落とすのがやっとだった。胡蝶の毒の如き強力な搦手がなくば、上弦はもちろん下弦とさえまともに戦えんだろう。空き過ぎた柱の枠を埋めるべく奮闘し、ようやくその一柱となり得る力を得た今、隊の戦闘力を低下させるわけにはいかない。
お前にとっては迷惑な話だろうが、これも隊の戦力保持のためと諦めてくれ。頼む、杏寿郎──」
己が手を掴むその手は、大きさこそさして変わっていないように見えるが、確かに膂力が落ちているように思われた。
剣士には不向きと言われる痩身矮躯ながらも彼が次期柱と目されるほどの功績を成せたのは、偏に、その激烈な修練の結果だ。
炎の呼吸ではなく水に適性があったため、煉獄家を離れて新たな育手に付いて以降、小芭内が積み上げてきた努力の中身を、杏寿郎は直接知っているわけではない。
けれど彼の変幻自在にして正確無比な剣筋が、気の遠くなるほどの鍛錬を経て研磨されたものであることは分かる。
そんな彼の、正に粉骨砕身たる努力を無に帰させるわけにはいかない。
ここは彼の頼みを受け入れるべきと分かっている。分かっているが──杏寿郎は、聞かずにはいられなかった。
「どうして、俺なんだ」
それを聞いて、どうしようというのか。
己は今更、彼に、何を期待しているのか。
杏寿郎を見上げたまま、小芭内が淡々と理由を語る。
「──見知らぬ男を閨に連れ込めるような手管は俺にはない。だからと言って下級隊士に命令するのは先輩ヅラして尻を貸せと言ってくるクソな輩と同類になってしまうから却下。ならば階級が同等か上の隊員が候補となるが、宇髄は後々この件で絡み続けてくるだろう未来が見えてクソ鬱陶しいから除外、悲鳴嶼さんは人格的に問題なくとも体格上物理的に無理だし、不死川は親友とそんなことをして気まずくなりたくないというかそもそも長期任務中でしばらく不在だし、冨岡は論外中の論外というか万が一引き受けられたとして最中に俺がうっかり死を選びかねん」
「なるほど、消去法だったか!」
ほんの僅かなりと期待してしまった自分が恥ずかしい。
その恥ずかしさを敢えて快活な相槌で打ち消そうとしたところに、小芭内が続ける。
「うむ、面倒ごとを押し付けてすまん。せめて未来の奥方のための練習台にしてくれ。煉獄家の跡取りとして、そろそろお前も嫁取りを考えているのだろう?」
考えていないと言えば嘘になるが、積極的に探してもいない。
見合い話はひっきりなしに持ち込まれているようだが、家長である父がああなので進めようにも進められないのだと思われる。
煉獄家に自ら婚姻を申し入れる家は、それなりの家格を有しているはずだ。家と家の結びつきを考慮しての縁組みであれば猶更、家長の意志は無視できない。
とは言え杏寿郎としては惚れた相手なら父も家格も無視して娶る気概はある。が、今のところそのような相手に出会う気配はない。己は知らず、幼い日の恋を基準としてしまっているのだろう。あの熱量に並ぶ想いを抱けぬのなら、きっと、今後も杏寿郎自身が伴侶を選ぶことはない。
しかしいずれは、業を煮やした周囲にせっつかれた父が適当に許可を出した誰かと添い、跡継ぎを成すことになる。
悪鬼滅殺の宿願にかけて、炎柱を生み出し得る血筋を絶やすわけにはいかないのだから。
互いに好き合って添うわけではなくとも、温かな家庭を築くことはできるはずだ。
相手を大切に、思いやる心を持ち続ければ──。
その心に、誰かの影が残っていようとも。
つきり、と胸を刺す痛みを押し殺し、杏寿郎は告げた。
「そうだな。ではありがたく学ばせてもらうとしよう。俺は膳を片付けて行くから、寝所で待っていてくれ。既に床の用意はされているはずだ」
承諾を受けて安堵したらしい小芭内が、ほっとした顔で頷き、部屋を出ていく。
襖が閉じられる寸前、こちらを振り向いた鏑丸がぺこりと頭を下げたように見えた。
残された杏寿郎は膳に向き直り、残る料理を掻き込んだ。最早味わう余裕などない。最後に冷めた味噌汁で口の中に残る血の味を全て洗い流し、ごくりと飲み下してから立ち上がる。
──鬼と戦う方が余程気楽だな。
緊張に強張る指先を握り込み、いつもの笑みを浮かべて廊下を歩む。
縁側から見上げた西の空に、彼の眼と同じ色をした月がひっそりと佇んでいた。