果物と帰る場所 雨の日の仕事なんて珍しくもなんともない。むしろ、音を消し血を洗い流す雨は、殺し屋たちの仕事と相性が良い。
その俗言に異論があるわけではない、のだが。
ざあざあと扉の向こうに聞こえる激しい音は、雨風を凌ぐ壁と屋根を間に挟んだことにより、少しくぐもって耳に届く。まるで潜水艦で寛いでいるような気分になる。外に出る予定のない日の雨は、一定のリズムを刻む心地の良いBGMだ。
初夏、雨の日は気温が低く、少し肌寒い。本から少し顔を上げた拍子に、快適まであと一歩足りないぞわぞわと肌を撫でる空気をふっと意識してしまい、文章への没頭を阻害する。コーヒーでも淹れようと、蜜柑は読み進めていた小説に栞紐を挟んだ。立ち上がり、向かった先の収納棚から、湯沸かし程度にしか使っていない鍋を取り出す。それに水を張り、コンロの火をぱちんと付けた。
「何か作るのかよ。味噌汁か?シチューか?」
ベッドに寝転がり、漫画雑誌を読み耽っていた檸檬から声が掛かる。
蜜柑は長袖を来ているが、檸檬は既に半袖へ衣替えしている。さすがに肌寒さを感じているのか、温かいメニューを口にした。
「俺が料理してる所を見たことがあるのか」
「ねえな」
「コーヒーを淹れる」
「じゃあ俺ココアな」
当然のようなリクエストに蜜柑は少し眉を顰めたが、苦言を呈することはなくインスタントコーヒーの瓶を取り出し、続いて戸棚に仕舞ったココアの袋に手を伸ばす。
甘すぎて蜜柑の舌には合わず完全に来客用、すなわち檸檬専用と化しているそれは、取り出すと粉の重みを手に伝えた。ジップロックを開けると案の上、袋半分以上が残っている。
「檸檬。俺はココアを飲まないから、おまえが早めに消化しろよ」
取り出した黄色のカップに袋を傾ける。目分量で少し多めに、焦茶色の粉を積もらせていく。
「ココアってのはな、早く飲み切らねえと、なんて焦りながら飲むもんじゃねえんだよ」
「じゃあゆっくりたくさん飲め」
「置き場所には困ってねえだろ。どうせ、空いてるじゃねえか」
「もう夏だ。冷たいものを飲むようになる。まさか冬まで置いておくつもりか」
「置いておいたっていいだろ。粉っぽいもんは大抵、なかなか傷まねえ」
反論の手掛かりを求めてパッケージを裏返し、賞味期限を確認する。冬を越す期日が記載されており、軽く舌打ちをしながら戸棚へ戻す。
インスタントコーヒーの瓶を開けたところで、机に置きっぱなしの蜜柑の携帯電話がピリリと鳴った。
嫌な予感がして、手を止める。
「電話だ。檸檬、取ってくれ」
「へいへい」
軽い返事を寄越しながら、檸檬は渋々といった様子で腰を上げた。机に手を伸ばし、なんだよ、と無愛想に電話に出る。
要件を大方察しながら、緩やかな時間を引き伸ばすように、すり切り大匙二杯を丁寧に測る。
檸檬が保留ボタンを押し、蜜柑の方へ顔を向けた。
「蜜柑、仕事だってよ」
「今日か」
「断ろうぜ」
「ダメだ」
でもよ、と檸檬はカーテンに遮られた窓に目を遣る。
「すげえ雨だぜ」
なんでも屋である蜜柑と檸檬は、余程の理由がなければ依頼を断らない。あいつらに任せれば大抵のことは確実だというイメージが、次の仕事を運んでくれるからだ。仲介屋にしてみても、滅多に断らない業者の方が仕事を回しやすい。雨は降っているが、かなり降っているが、しかし悪天候は大抵、自分達のような業者の味方である。
分かりきった理屈を頭の中で並べ、気持ちを切り替えるように匙をシンクに投げ入れた。
「条件次第だな」
代われ、と携帯電話を指す。ざあざあといよいよ強まってきた雨音を耳に捉えて、短く溜息を吐いた。
「だから言ったじゃねえか。雨、風、雷で最悪の天気になるから、今日はやめとこうぜって」
「風と雷は聞いていない」
最も、台風であろうと断る理由がない以上は受けただろう。隣町まで電車で一本、日帰りで終わる簡単な仕事だった。
二人で無人のホームに立ち尽くし、荒れ狂う空模様を眺める。
「まあ、幸い電車の遅延もない。さっさと帰るぞ」
「遅延してねえのか。さすがだな。頑張ってるな」
檸檬は電車に向けて賞賛を口にする。無機物に心を寄せ、仲間のように褒める感覚が蜜柑には分からない。
ホームの屋根では防ぎきれない雨粒が、ぱらばらと頬にぶつかり、服を濡らしていく。
檸檬がふとぽつりと呟いた。
「蜜柑、おまえ、前はああいうの捨ててから出てたよな」
「ああいうの?どういうのだ」
「ほら、ココアとかコーヒーとか、淹れかけのやつだよ」
言われて、自分の行動を辿る。そういえば、先程淹れかけのカップを二つ、台所に置きっぱなしにしてきた。以前はどうだったか。無意識の行動は記憶になく、胸の内を探してもそれらしき変化の理由は見つからない。
「そうだったか」
「そうだっただろ」
ゴロゴロと轟く雷鳴を背に、ぽつぽつと時間潰しの会話をする。
「止む気配がないな」
「だな。まあ、帰って雨風が凌げる場所があると思うと」
ぴかり、音を置いてきた光が、檸檬の顔を明るく照らした。
「悪くはねえかもな」
帰宅して湯は沸かし直したものの、仕事終わりの身体に温かい飲みものは合わず、湯気を立てるコーヒーとココアに氷を入れて冷やした。
檸檬は「冷たいココアもいけるな」と嬉しそうな顔をしていた。