果物と夜咄眠れない夜は嫌いだ。暗い闇の中、じっと朝が来るのを待っているなんて落ち着かない。夏のじっとりとした空気のせいで喉が渇くし、冷蔵庫までいちいち立つのも面倒くさい。落ち着かない。
いつかの閉じこもった押入れの中のような、息苦しさがぶり返しそうになり檸檬は布団を蹴り上げた。
「なあ、起きてんだろ」
隣の布団の相棒に声を掛ける。
蜜柑は自分に背を向けて、静かに身体を横たえていたが、潜めるような静か過ぎる気配から起きているのだと分かっていた。
蜜柑は数秒の沈黙の後、億劫そうに寝返りを打ち「なんだ」と低く応えた。
背中で返事をしなかったあたり、檸檬と同様に眠れないのだろう。
「なんか話せよ。暑苦しくて眠れやしねえ」
「話したら逆に眠れないだろ」
「どっちにしろ眠れないんだから、一緒だろ」
黙ってうだうだとするくらいなら、たとえ笑えない寝物語でも、聞いた方が気が紛れる。
こんなに蒸し暑いなら、蜜柑の家に泊まれば良かったかもしれない。檸檬の住まいは今、クーラーが壊れかけておりいまいち効きが悪い。
「お前が眠れないなら、俺が寝付けないのも道理だな」
「なんだよその理屈は」
少しの沈黙の後、蜜柑は身体を起こした。
「詰めろ」
「え、こっちくるのか」
「寝る前に大声を出したくない」
話すには距離が遠いということだろう。しかし檸檬も蜜柑も仕事柄、小声でも通りやすい発声が身に付いている。大声っておまえ、と抗議しかけたが、その前に蜜柑がぼふんと布団に傾れ込んできた。
いつもより行動が荒い。1.5倍くらい、荒い。
「蜜柑」
「……あいつ」
予想よりも乾いた声で、ぽつりと溢した。
「やっぱり殺しておけば良かった」
平静の形を保った声色は、普段会話の途中に滑り込む嫌味よりもよほど粘度が低い。恨みつらみ由来でない、純粋な殺意が二重瞼の下でちらちらと揺れて見えた。
「なんだよ、この前のことか?」
檸檬は先日の仕事を思い返す。
餅は餅屋で、交渉は大抵蜜柑の仕事だ。ただし交渉の現場には、基本的に檸檬も同行する。大男二人と相対することになった依頼人は、そこで頼もしさを感じてくれれば良いのだが、圧され、圧された自分を恥じ、そして何かを埋め合わせるように蜜柑と檸檬を貶し、謗り、自分の優位を確認して、安心する。そういう行動を取る人間が少なくなかった。
故に、蔑みには慣れていたし、そもそも威嚇の中でも最も恐るるに足りない部類であるため、普段であれば「またなんか言ってるな」で流すことができる。しかし、先日の依頼人は少し毛色が違ったのだ。
「殺し屋風情が」
話を纏める段階に入ったところで、依頼人の男は薄笑いを浮かべてそう吐き捨てた。表社会の、とはいえ裏社会とも繋がりのある会社の、檸檬たちより一回りほど歳が離れていそうな社長である。
「殺し屋ってか、厳密にはなんでも屋だけどな。今回もボディーガードしろって話じゃなかったか?誰か殺すのかよ痛ッてえ!」
「俺たちの肩書きが不満なら、この話は無かったことにしてもらっても構わないが」
檸檬を踵落としで制しておきながら、蜜柑は強気に言い切った。
護衛の仕事なら、他に頼むことだってできるだろう。わざわざ依頼が来たということは、自分たちでなければいけない理由があるのだ。例えば、業界一と呼ばれる物騒な人間を連れておかないと安心できない状況にある、だとか。
それに、護衛なんて依頼人と連携が必要な仕事で、今からうだうだ言われるようじゃ先が思いやられる。ここらで一言いっておこう、破談になるならなってしまえ。
そんな勝算と打算と保険の入り混じった言葉だったが、依頼人は答えなかった。
代わりに机を蹴り飛ばし、コップの水を吹っかけてきた。
檸檬はとっさに身を交わす。
「はあ?何するんだよ。おまえ、殺し屋に親でも殺されたのかよ」
避けることもできただろうに、大人しく頭から水を被った蜜柑は、雫をぽたぽたと落としながら相変わらずの鉄仮面で依頼人を見ていた。
「仕事中は私に話しかけるなよ」
別に、こんな事態も珍しくはない。珍しくはないが、腹は立つ。
「だから帰り道に言ったじゃねえか。殺すか?って。素直に頷きゃ良かったのに、おまえは今後の評判がどうとか言って」
結果的に、護衛の仕事自体は無事に終了した。報酬もきちんと支払われたため、依頼人との関係は晴れて元依頼人、もしくは赤の他人に落ち着いた。終わった話といえばそうなのだが。
「そうだな、おまえの言うとおりだ。腹が立つ奴をそのままにしておくのは、心の健康に悪い」
「だろ?」肯定の台詞に、檸檬の声が弾む。「今度、仕事ついでに寄っていくか」
「ダメだ」
「なんでだよ。ちょっとお邪魔するだけだぜ」
「お邪魔する理由がない」
「あるだろ」自然、蜜柑の方へ身が寄る。「あのな、あいつ俺たちのこと舐めてたぜ。俺たちが業界一だって言われてることを知ったうえで、ああいう態度を取ってきたんだ。どういうことか分かるか?」
「どういうことなんだ」
「俺たちだけじゃなくて、業界ごと舐めてるってことだ」
「……ああ」
檸檬の意図を察して、蜜柑がすっと目を細める。
「それは、なんて言ったか。そうだ、沽券ってやつに、関わる。そうだろ?だからさ」
「なるほど」
「俺たちが代表してな」
「俺たちが、そうだな。責任を持って、きっちりと、教えてやらなきゃいけない」
「決まりだな」
「ああ」
顔を見合わせて笑い合う。
なんでも屋だが、殺し屋であることも間違いない。ご希望にお答えしてそっちの仕事もきちんと見せてやろう。時間外労働になってしまうのは仕方ない。
「話したら喉が渇いた」
「俺も」
水を汲みに立ち上がる。話したせいで、すっかり目が覚めてしまった。
そういえば、交渉の最中あの男が言っていた。
「おまえたち、一人でも仕事は出来るんだろうな。途中で片方死んだら、どうする」
「問題ない」
蜜柑はごく簡潔に答えた。
どうする、と聞いたのだから、問題ない、の理由が述べられるのを待っていたであろう依頼人との間に、妙な沈黙が流れた。
その時を思い出して、檸檬の口角が上がる。
「なにを笑っているんだ」
「いや、おまえ、片方死んだらどうするって言われたとき、すげえ短い答えだったなって」
もんだいない、六文字だ、と指を折る。
「ああ」
言われて蜜柑も記憶を遡る。たしかに、そう答えた。
片方が死んでも片方が仕事をする。できなければ、そのときは蜜柑か、檸檬か、依頼人か、もしくは全員死んでいる。問題ない、以外の返答は無意味に思えた。
「一人じゃなにもできない人間が」
そんなことも言っていたような、とついでのように思い出す。
あの男、もしかすると二人組が気に食わなかったのかもしれない。表社会と裏社会を股に掛ける社長というのは孤独な生き物なのだろう。もしくは一人にコンプレックスでもあったか。真偽の程は分からないが、そのあたりの事情に興味はない。
「まあ、俺は死んでも復活するしな」
「またそれか」
蜜柑はゆったりと首を傾げる。
檸檬が死んだら。こいつは殺しても死ななさそうだが、と思いながら想像してみる。
たぶん自分は平気だろう。一時的に手を組んだ人間はこれまでも何人か居る。それぞれ、目の前で撃ち抜かれては死に、裏切られてはこの手で殺し、おまえは一人でやるのが向いてるよと言い捨てて蜜柑の前から去った。ちなみに去った奴は、別の仕事で再会したときに殺した。
一人での仕事が一番なのは、言われるまでもなかった。基本的に、蜜柑はずっと一人で仕事をしてきた。
伝わらない意図、狂わされる段取り、機嫌を伺われ、見下され、しかも信用できない人間を間合いに入れるため神経を使う。百歩譲ってそれ自体は良いとしても、他人のせいで小説を読む時間が削られるのは我慢ならなかった。
檸檬は、適当で大雑把で全く性格は合わないが、仕事においては良い同僚だ。冷酷で、迷いがなく、引き金を引く速度だけは蜜柑とぴたりと一致する。だから組んでいる。それがすべてで、それだけで十分だ。敵に回って、あの銃口が自分に向いたら厄介だという損得勘定。向き合うのが面倒だから、隣にいることを選んだのだ。
水を汲むために檸檬が蛇口を捻る。
下に構えた湯飲みの上から、コップを重ねて蜜柑は水道水を掠め取った。
「あっ」
「おまえ、早くクーラーを直せ。暑苦しくて敵わない」
「クーラーってどうやって直すんだよ」
「知るわけない」