合同誌・サンプル 足早にロンドンの細かに折れ曲がる路地裏の道を右に曲がり、左に曲がり、数段だけの小さな階段を一息に飛び降りると一瞬の浮遊感が全身を駆け巡る。夢見心地でフワフワと両足がいつまで経っても地面に触れることがないように思えるくらいマークは浮かれていた。
好きでも嫌いでもない仕事を終えた今日という一日、太陽は天辺から随分と傾いて建ち並ぶビルに縁取られた路地裏は薄暗く翳っていたが見上げた空の色は抜けたように青く、一日の終りを思わせるにはまだまだ遠いようだった。
ビルに挟まれているせいで細くなった青空の下、浮かれたマークは小さな会談を飛び降りた際の浮遊感をそのままに、足取り軽く目的地を目指した。マークが毎朝つける、彼自身の数少ないお気に入りの腕時計を見るために手元に視線を落としても、走るスピードが衰える様子は少しもなかった。そんなマークの猛烈な勢いに驚いた数羽の小鳥が上げた甲高い鳴き声は明らかに警戒の色を纏っていたが、マークはそんなことに気付くことはなかった。なにせマークは夢見心地に浮かれているのだから。
思い出すのは十時間ほど前の今朝のこと。マークとスティーヴンは本や雑貨があふれているせいでふたりには少し手狭なこの部屋にずっと暮らしている。窓の外が白み始めた頃からどのくらいの時間が経ったのか。マークはいつもそうするようにベッドに寝転んだまま、隣で眠るスティーヴンをぼんやりとした視界のまま見つめていた。燃え上がる夏の過ぎ去った初秋の朝でも、わずかに触れ合うふたりの素肌には熱がこもっているのか、熱から逃げるようにスティーヴンはときおりコロコロと寝返りをうってはベッドの上を転がって、マークの腕の中から逃げ出したり、戻って来たりを繰り返している。どこにも行ってしまわないように捕まえてしまおうか、とマークは毎朝真剣に、スティーヴンの遠くなる背中や、夢を見ているのか震える瞼を間近に見つめながら、その本音を実行してしまわないように苦心していた。彼女のグレーにもブラウンにも見えるクルクル跳ねた髪、影を作る長い睫毛、少しだけ丸くて高い鼻。どれもマークとおそろいのパーツなのに、マークには自分自身のものよりも行儀よく並んでいるように見えたし、ずっとずっと繊細に見える。実際、スティーヴンはマークより身体が小さかったし、線も細かったが、マークがスティーヴンに感じているものはもっとセンチメンタルなもので。だからこそ、今は仰向けに眠るスティーヴンの穏やかな寝息に合わせて上下する胸を見ているだけで、マークは真綿で胸をキュッと締め付けられる心地になってしまう。
薄いブランケット越しにスティーヴンの眠りを妨げないようにそっと腕を回すと、彼女のふたまわりも小さな体の丸みと柔らかさを感じ、マークはいつものように思い知らされた気になる。どんな時でも彼女の強さを信じていたが、それとは別に彼女の儚さを再確認して、少しだけ不安になるのだった。
マークは自分とほとんど同じ姿をした彼女のことを、真っ白な羽と金色の天使の輪っかを隠し持っている天使なのかもしれないと思っていたし、あるいは彼女にはキラキラしたラメのまぶされた綿飴の詰まった、口に入れるとあっという間に溶けてしまう甘くて清らかな砂糖菓子なのかもしれないとも思っていた。もし本当にスティーヴンが砂糖菓子だったとしたら、…そうじゃないことなんて知りきっていたマークだったけれど、…きっとマークは毎日彼女を食べ過ぎるくらい味わって飲み下して、その甘さに喉を焼いていたことだろう。
「ううん…」
スティーヴンがマークの腕の中で身じろいだ。目をつぶったまま猫のように宙を掻く仕草をしたが、それは全部マークの着ていたシャツに阻まれてしまって、スティーヴンは眉をひそめる。
彼女のギュッとつむっているまぶたがほんのりと開く時、マークは眠る彼女を抱き締めていられる時間が終わるのも感じていつも少しだけ残念に思う。とはいえそんな残念さは本当の少しだけで、目覚めたスティーヴンの瞳に最初に映るのは自分であるという満足感や誇らしさに、あっさり腕の中から彼女を解放することができた。
「………おはよ。」
「おはよう。スティーヴン。」
スティーヴンはすぐに起き上がることはせず、モゴモゴと緩慢な動きでブランケットから腕を出して、眠っているうちにこもった熱を辺りに散らすように手のひらをパタパタと揺らしている。いつもと変わらず愛らしいスティーヴンに、マークは少し前まで感じていた不安を忘れてしまうことができた。
「マーク、もしかしてまた、僕の寝顔みてた? もう、…やめてって言ってるじゃない。恥ずかしいから…」
いつから起きてたの、とスティーヴンが続けているのを聞きながらマークがチラリと窓の外を見てみると、いつの間にやら空は青色に近くなっていた。マークが目を覚ました頃に白みかけた空色がいったい何時のもとであったかなんて正確にはわからなかった。だってせっかく、スティーヴンの見つめていてるのに、チラリと時計を見る暇だって惜しい。とはいえ、スティーヴンに嫌な思いをさせたいわけではなかったから。
「…ああ、そうだ、そうだったな。忘れてたよ。」
その場しのぎではなく本心からの言葉だ。そういえば何度もスティーヴンからそう言われていた気がしたが、どうせまた忘れてしまう明日の自分自身を、マークはたちが悪いとにありありと想像することができた。
「悪趣味、君のその都合のいい記憶力のこと僕は褒めないから。僕のよだれを垂らした間抜けな寝顔を見て何が楽しいんだか︙」
マークは「間抜けなもんか、かわいいだけだ」と言おうとしたが、口をへの字に曲げたスティーヴンにその言葉をかけるは流石に藪蛇だと察して。
「努力する。…できる限り。」
そう言うだけに留めた。
「あまり期待しないでおくよ。ミスター・スペクター。」
寝起きとは思えないくらいに饒舌に喋るスティーヴンがマークの腕からもがいて逃げ出そうとしているのを、邪魔するつもりはない。
「別に、好きなだけ見てくれて構わないが︙」
「ああ、もう、喜ぶな!」
そんなつもりはなかったのに、油断していたのか頬が緩んでいたらしい。パチリとスティーヴンの指でマークの額は弾かれる。
「痛いな。」
本当は少しも痛くなかったが、ポーズだけしてみる。
「朝から僕を困らせた罰だよ。全然君には効果はないみたいだけど。」
痛くないことはスティーヴンにもお見通しのようで、あえなく彼女の不機嫌は継続されることになった。