Mr.AUTUMNside S
マーク・スペクターは秋が嫌いだ。
彼から分かたれたスティーヴン・グラントが彼と過ごした時間の中で気づいたことだ。恐らく春も好んでいないが、秋ほどではない。彼にそのことを聞いたことはないが、間違いないと確信するくらいには彼の隣で過ごしていたし、彼を隣から見てきた。
マークは夏が好きだ。ジリジリと全身を焼く太陽も、茹だってしまいそうな熱気も、眠れない熱帯夜も好んでいた。
マークは冬が好きだ。凍える寒波も、見るだけで霜焼けになりそうな降り積もった雪も、一向に温まらない部屋やベッドも好んでいた。
ただ生きているだけで罰を受けているような、そんな季節こそマークは好んでいた。好んでいる、と思うと同時に、生きることに肯定的だ、ともスティーヴンは思っている。冬が長いイギリスは彼にとって過ごしやすい国なのかもしれない。
そんなマークの季節の感じ方に、自罰的なきらいのある彼らしさをスティーヴンは感じていたが、それは感傷であり寂しさと痛みであった。多くの人が好むであろう、春の穏やかな温もりも秋の爽やかな涼しさも、彼に安らぎを与えてくれないのだ。
夏は終わり、秋がやってきた。マークの嫌う季節だ。
イギリスらしく移り気な空模様はクルクル変わり、晴れていたかと思えば厚い雲が立ち込め雨が降った。雨水は空気や地面の暑さを奪うと排水口へ流れテムズ川へ夏を連れ去ってしまう。
マークは雨の日も嫌っていた。季節を問わず嫌っている。雨の日のマークは、晴れや曇りの日と同じ平坦な態度で日常を過ごしているようだったが、冥府でマークと彼の弟の間に起きた不幸を知ってるスティーヴンから見ると、その態度はとてもうまく隠せていると言えるものではなかった。
窓を叩く雨粒を見るマークの眉間にはいつもより少し深く皺が刻まれている。
彼と弟の間にあったこと、彼と家族の間であったこと、過去に囚われたままのマーク。「君の責任じゃない」の一言で全部乗り越えられるだなんて、スティーヴンもそこまで楽観的ではなかった。
雨が降り秋がやってくる。夏は戻らない。マークは冬が来るのをじっと耐える。いかにもな素振りなんてしないが、秋のマークは消え入るように静かで、反比例してスティーヴンの心は酷くざわめく。
彼の感情は彼のものだ。彼が自身を罰するのは彼の自由だ。そんな彼の抱えた痛みを軽くしてあげたい、いっそ自分が肩代わりしたいだなんて。
(それって僕のエゴなんじゃないかな…。)
だとしても、スティーヴンはマークに何かをして上げたかったし、できることなら彼をこの世界の全てから守りたかった。そこにはマークを守るために生まれたという義務感のような感情も含まれていたが、それ以上にスティーヴンはマークを愛していた。スティーヴンはアイデンティティとも言えるその義務感と自身の心底で燃える愛情の違いを見つけることができないでいたが、そんなことは些細な問題で、何よりも重要なのはマークを苦しみから遠ざけ、彼の平穏と幸福を願うことであった。
雨が止み、雨上がりの風が秋の訪れを伝える。
「マーク、雨も上がったし散歩に行かない?」
マークがスティーヴンの何気ない提案を断ることはほとんどない。あったとしても先約があるだとか、後の予定に響くだとかで、マークの感情に拠って断られたことは一度もなかった。
夕暮れ時並んで歩く。隣を歩くマークをチラと見たスティーヴンは、マークの手を繋ぎたいと思ったが、そのきっかけを掴めないまま、並んだ二つの影に焦点を合わせる。
二人の間に漂う沈黙は重たいわけでもなく、むしろ足取りは軽くて、軽すぎるくらい。ただ、秋の気配を纏った雨上がりの冷たい風に、軽い足取りのマークがそのまま攫われてしまいそうでスティーヴンは怖くなったが、それでも彼の手に手を伸ばす勇気を持てないまま、公園に到着する。
無事に辿り着けたことに安堵したスティーヴンだったが、しかし自分の臆病さにとことん嫌気がさした。秋に怯えてしまうなんて。(なにがスーパーパワーだ…。)
フラットからほど近くの小さな公園には人工の小川が流れ、川沿いには珍しい品種のグラスが生い茂り、雨上がりの風に吹かれ細長い葉を揺らしている。幾分と薄くなった雲の隙間から夕日が覗き、グラスの葉と穂を秋色に染めていた。
美しかった。それは来る冬の前の、最後の生命の輝きで。
「きれいだね。」
なんて、なんの気もなくスティーヴンはマークに話しかける。マークはほんの少し、顔をしかめていた。
「そうだな。」
言葉とは裏腹なマークの表情。
ああ、またこの顔だ。不当な痛みを正当なものとして受け入れて耐えるような、そんな。(僕はどうしてうまくできないんだろう。)
スティーヴンは情けない気持ちを抑えられずマークから目を逸らし正面を見つめる。グラスの葉の輝きと小川のキラキラとした反射が酷く目につき刺さった。さっきまであんなに美しかったのに。
またしても沈黙。夕暮れ時の家路につく人々の足音や話し声がはっきりと聞こえる。遠くで名前を呼ぶ親の優しげな声とその声に応える子どもの声も聞こえた。幸福そうに聞こえる人々の声。
キュウ、とスティーヴンは自身の心臓が縮む音を聞く。
(僕はマークが大好きだ。大好きなのに、僕は彼のために何もしてあげられない、今も彼じゃなくて臆病な自分のことばかり考えてる。)
「スティーヴン。」
不意に聞こえたマークの声は、スティーヴンの想像よりずっと穏やかで、衝動に弾かれてスティーヴンはマークへ振り返る。
「…マーク?なに?」
「そろそろ帰ろうか。」
ぼんやりしていたせいかスティーヴンは辺りが随分と暗くなっていることに気が付かなった。
(空回りだ、全部。)
指先が冷たい。
(これじゃ彼の手を握ることもできない。でも…。)
それでも、スティーヴンはマークのために何かをせずにはいられなかった。
「そうだね。暗くなっちゃったし、帰ろう。」
今度は迷わなかった。スティーヴンはマークに手を伸ばし、手を取る。スティーヴンより冷たいマークの指先。喉の上の方がツンと傷んだが振り払う。スティーヴンは悲劇の主人公ではなく、マークのヒーローでいたかった。
「ごめんね。すっかり冷えちゃった。」
ギュウ、とスティーヴンが握った手をマークは振り払うこともなく、馴染むような強さで握り返す。
スティーヴンの心臓は高鳴り、温もりが指先にまで巡る。
(やっぱりマークはすごい。…マークみたいに僕もマークを幸せにしてあげたい。)
スティーヴンは手にある幸福が少しでもマークに伝わるように、指を絡めると更に強く強く握りしめた。
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side M
秋が嫌いだ。マーク・スペクターにとってそれはある時から変わらない。
ある時とは、弟と洞窟へ冒険に行った時。
ロンドンの秋は雨が降る。あの日と同じに、冷たく気まぐれで、いっそ暴力的で。小さなあの子を遠くへ連れていった雨が嫌いだ。
(…違うな、連れて行ったのは…俺だ…)
ある時とは、死の淵から蘇った時。楽園へ一人で行った時。
冥府の女神が側にいたがマークは一人ぼっちだった。楽園の太陽のオレンジ色や赤色に照らされた葦の大海原はひたすらに美しく、静かで平穏だったが、その光景とはうらはらに、焦燥とざわめきでマークは手の中の心臓が擦り切れてしまう錯覚を見た。
(ここは俺の楽園じゃない…)
マーク・スペクターは秋が嫌いだ。雨の気配は消えることがなく、夕日の色は孤独を思い出させた。自身でも止めようがない思考を忘れさせてくれる熱も寒さも秋は持ち合わせていない。
今年も秋がやってくる。身を焦がす夏の熱気を雨と風が攫い、マークに後悔と孤独を否応なく知らしめる。雨水に濡れた窓ガラスの表面の歪みはマークの不安そのものだった。
「マーク、雨も上がったし散歩に行かない?」
スティーヴン。スティーヴンの声。マークの孤独を忘れさせる柔らかくて温かい声。
スティーヴンはいつもマークに素晴らしい世界を教えてくれる。一人では辿り着けない世界へ連れて行ってくれる。マークにはスティーヴンの隣で見る公園の小川のグラスの輝きこそが何よりも美しいものに思えた。葦の楽園よりも、ずっと。
スティーヴンの隣では時間が瞬く間に過ぎていく。夕日は西に落ち、東から闇夜の幕が降りてくる。長く続いてほしいと願う幸福な時間ほど、マークをすぐに置き去りにしてしまう。どれほど名残惜しくても時計の針は戻らない。
「そろそろ帰ろうか。」
「そうだね。暗くなっちゃったし、帰ろう。」
スティーヴンの返事が耳に届くと同時に、マークの手を何かが包む。スティーヴンの手だ。
触れた肌は冷たくもなく、しかし熱すぎることもなく、心地よさだけを伝え、何を考えるよりも先にマークはその手を握り返した。
マークに応えるようにスティーヴンはさらに指と指を絡ませる。このときになって初めて、マークは自分の指先が冷えていることに気がついた。
(あたたかい…)
終わったと思った時間が、繋がれた手からまた始まる。
幸福がマークの心に火を灯し、スティーヴンへの愛情が身の内で燃える。熱いほどのそれは秋の不快な心地よさを忘れさせてくれた。
おしまい