光たれ騎士団に放られるまで、いわば「子ども」の頃の暮らしは、それなりに恵まれたものだったと思っている。公爵夫妻は私という子に柔く微笑むことはしなかったが、だからと言って冷酷だったわけでもなかった。貴族としての振る舞いについては手を抜かず養父が教え込んでくれたし、母は家庭教師を見繕って知恵を伸ばしてくれもした。容赦のない質問攻めで教師を困らせる度に叱責はされたが、学びを取り上げられたことは終ぞない。常に小奇麗な恰好をさせてもらい、子どもには似合わない学術書をそっと贈られたことさえあった。どういう経緯があったのかは知らないが、国の汚点と言わんばかりの忌み子を引き取るだけでも大層な苦悶があったことだろう。無償の愛で結ばれているとは言い難い、どこか他人行儀な家族だ。だが彼らが私を育ててくれたと言う事実は、愛の断片くらいにはなると思う。
最も、そんな微細な愛で満足していたのはもうずっと過去の話であるのだが。
「……♪」
「ん?」
書庫から対策本部室までの帰り道には、アルベールが詰めている団長室がある。窓の外から姿でも眺めていこうかと思っていると、背に丸まったデストルクティオから「おいしそうなにおいがする」と頭の中へ上機嫌な報告があった。言われて深く息を吸ってみれば、確かに甘い……いや、甘いを通り越して甘ったるい香りが漂っていた。焼き菓子のような上品なものではなく、やや安っぽい大衆的な香りである。どこか懐かしさをそそるその匂いは、よくよく覚えがあるものだった。
「……、アルベールが何か企んでいると見た。さてデストルクティオ、親友殿を揶揄って一休みというのはどうだろう」
「~♪」
「ふふ、賛成二票。では向かおうか」
気を抜くとすぐさま浮かれそうになる足音を殺して、静かに扉をノックする。部屋の中からはすぐに物音が聞こえてきたが、何故か友の返事は遅い。
「緊急か?」
ややあって戻ってきた声に、マントの下で顔を出すデストルクティオと顔を見合わせる。端的な問いかけの返事は彼が多忙なことを示す一言であるが、部屋から漏れ出る空気にさしたる緊張感はない。本当に多忙を極めている時のアルベールは、もう少しどたばたと喧しいはずだ。
「そうだねぇ、大急ぎだな」
「げっ」
こちらも緊張感なく返してみると、虚を突かれた悲鳴が聞こえてくる。人が訪ねてきたことではなく、「私」が訪ねてきたことに対する悲鳴に口角を上げた。企みごとをしているという推測は、どうやら大当たりだったらしい。
「おやおやおや? 揶揄い甲斐のある声がした。邪魔をするよ」
「こら待て、いつも勝手に部屋に入るなと叱り飛ばしてくるのはどこのどいつだ!」
慌てふためく友の声をよそに、団長室の重厚な扉を圧し開ける。部屋の中には甘い香りが一層強く漂っていて、常日頃の厳かな雰囲気が随分と薄くなっていた。
「ご機嫌麗しゅう雷迅卿? さて、その後ろ手には何を隠しているのかな」
「いや、なにも……。書類? ……うん、書類だが」
「へぇ、うまそうな匂いがする書類があったものだねぇ。懐かしい匂いでついついつられてしまったよ。いつぞや君と食べた、「いかずちやき」と同じ匂いだ」
「……、なにもかも分かっているなら知らないふりをするなよ」
分かりやすく唇を尖らせたアルベールは、観念したようにため息を吐くと軽やかに手招きをして我々に背を向けてしまった。背に潜んだ触手が出たいと身を躍らせるので、鍵を締めてマントを捲る。伸びやかに外へ飛び出したデストルクティオは、我先にとアルベールの手元を覗き込みに行った。唐突に視界に入り込んできた異形に、驚きの声は上がらない。それどころか、小手を纏わない色白の手先は星の鼻先をぐりぐりと弄って遊び相手を務めてくれている。
「~♪ ~?」
「ああ、そうか。お前は初めて見るのか。これはいかずちやきと言ってな、レヴィオン城下町の有名な駄菓子なんだ。駄菓子ってわかるか? 子どもたちが小遣いでたらふく買える安い菓子のことで……」
「普通の菓子とはまた違った方向で創意工夫が凝らされている。食い物だが、どれも玩具のようで面白いんだ。いかずちやきは特に不思議な売り物でね、自分で作るところからやるんだよ。当然失敗と成功がある。これは失敗の類だね」
一人と一匹の背に追い付いて、私もその手元を眺める。空の文化の手ほどきを引き継ぎながら眺めた机上には、書類など転がっていなかった。代わりに簡易コンロがとろとろと炎を揺らしており、その周りに卵や麦など食材の類が並んでいる。ボウルに溶かされた薄黄色の生地が、器を飛び越してあちらこちらに飛び散っているのは彼が調理に失敗した証だろう。不器用、という一言に思い切り顔を顰めるのに笑うと、尻にそこそこの威力で蹴りが入った。
レヴィオン城下町には、駄菓子屋と呼ばれる小さな商店が点在している。店とは言うが、自宅の玄関先に屋台を取り付けたような簡単な造りが一般的だ。温泉街から足を延ばした流浪の旅人たちが、小銭稼ぎに故郷から持ち込んだ菓子を売っていたのが始まりというが諸説あり、その起源についてはあまり定かではないらしい。昨今ではもっぱら子どもに向けた安菓子を扱う店として栄え、かのオードリック劇場もあちらこちらの駄菓子屋を拠点として活動をしている。
「いかずちやき」というのは、その駄菓子屋で最も人気のある菓子だ。弱火で温めた極小の鍋に生地を流し、そこに雷華晶から雷を放って一気に熱を通す。成功すれば勢いよくポン、と生地が膨らんでケーキのようなふかふかとしたものが出来上がるが、失敗すると生焼けの生地が飛び散るか、焦げた塊の完成だ。雷を注ぐタイミング、力の強さ、少しの運。それらが全て揃わなければ完成しない賭けの様なこれが、子ども心を妙に焚きつける。失敗されれば掃除の手間があるというのに、どこの駄菓子屋でも一番の目玉としていかずちやきが据えられているからその人気たるや語る必要もないのだろう。唯一のリスクは、「失敗した分を掃除すると代わりにひとつお菓子を貰える」というルールで補っている店舗が多いとはアルベールの談である。
「ふふ、なぜこんなところでこれを作っているのかは後で聞くとして。貸したまえ、デストルクティオが成功が見たいと言っている」
「待て、俺がもう一度やる。今度は上手くやるさ」
「いまだかつて君がこれを成功させるところを見たためしがないがね? それこそ教わった時も盛大に散らかしていたじゃないか」
「……、まぁ、手本を見てからのほうがいいか……。そこまで言うなら成功させろよ」
「誰に言っている、任せたまえよ」
渋々、といった様子で小鍋を寄越したアルベールを笑い、わくわくと身体をうねらせて小躍りする触手に見つめられながら生地を流す。肝心の雷華晶の準備がないのは、雷など指先からいくらでも出るアルベールならではの怠慢だろう。私も倣って、魔力の変換で仕上げの一撃を補うこととする。
「じっくり待つのが肝要でね。いきなりではいけないんだ、ある程度温まってからでないと上手く膨らまない。かといって火が通りすぎては粉々に砕け散るだけだ。いい生焼け具合を見計らって……」
「……、……!」
「今じゃないか?」
「早いよせっかち。もう少し周りがふつふつと粟立ってからやるんだ。煙が少しあがって……」
「……?」
「……、今!」
パチン! と俄かな雷の音が鳴り、小鍋から激しく煙が上がる。それが晴れると、液状だった生地は見事な焼き菓子となっていた。
「……♪」
「ふふ、どうだい?」
「なぜそんな簡単に……」
「タイミングと強さだろうねぇ。君の雷は人より強い、いっそのこと雷華晶を使ったほうが上手く行きそうだ」
焼きあがったいかずちやきをそろりと皿に移し、熱さと戦いながら欠片を千切ってデストルクティオに差し出してやる。大きな一口がぱくりと菓子を攫って行くが早いか、頭の中に歓喜の声が響き渡る。おいしい、おいしい! と小躍りしながら残りに齧りつこうとしているあたり、星晶獣の口は熱さに怯えることを知らないらしい。
「……! ……!」
「いいよ、全部食べて。これだけの材料があれば、いくらでも作れるからね」
「……♪♪♪」
「気に入った顔だな? やはり宿主に似るのか。お前もこれが一番好きだった」
唇を尖らせるばかりだったアルベールが、大喜びの触手を前にふと表情を和らげている。その暖かな眼差しが不意にこちらへ向いたので、僅かな動揺を押し隠してこちらも柔らかく微笑みを返した。
貴族として育てられた私は、城下の文化……所謂庶民の日常に疎い。いや、もしかすれば貴族の子であれど城下で遊ぶという思い出は当たり前なのかもしれないが、私にとって遊びとは一人で本を読むことばかりであったから。アルベールに言わせると「何でも知っている」私が、唯一答えを曖昧にさせるのがこの類の話題だった。
あれはいつだったかの小隊での遠征中のこと。ふとしたきっかけで駄菓子の話に花が咲いたことがある。皆が各々盛り上がりを見せ始める中、何も口を挟まないでいる私にどこかの隊長殿が目ざとく声をかけてきた。そこで何を思ったのか、私は彼へ子どもらしい思い出がないのだとうっかり零してしまったのである。友という存在を得たことで欲が出たのだろう。見て見ぬふりをしてきた寂寥感に目が向いてしまったに違いない。
アルベールは茶化すことも驚くこともせず、そうかと一言頷いて、興味があるなら「子どもツアー」でもやらないかと予想もしない提案をしてきた。今からだって、子どもらしい思い出は作れるのではないかと。
次の休み、私はアルベールに連れられて一日中レヴィオン城下町を歩き倒した。彼の思い出に沿って傍を流れる小川で木の枝だけの無謀な釣りをしてみたり、木を揺らして落ちてくるのが木の実か木の葉か大きな虫かという大層どうでもいい賭けをしたり。駄菓子屋に連れて行ってもらったのもその時だ。いかずちやきを得意げに作りだし、面白いくらいに潔く失敗するアルベールを見て、店主とこれでもかというほど笑い転げたのをよく覚えている。決して貧相だったとは思っていない幼子の記憶。だがそれはどこか空虚を孕んでいて、振り返ろうともいい気のしないものだった。その過去に、ぱっと色がついたのがあの日のこと。私がアルベールのことを、単なる友ではなく救いの光として認識した一日でもあった。
「君と食べた初めての駄菓子の味だからね、気に入りもする」
「味が好きなのではなく?」
「ふふ、単純な菓子さ。味なんてあってないようなものだろう。これはね、誰と食べるか、どうやって食べたか、そういう思い出を食べるものだよ」
「思い出を……」
アルベールははっとしたように目を見開いて、やがて耐えきれないと言うように目じりと口角をうっとりと綻ばせた。白い歯を見せて笑った親友はそうっと私の腰を抱き寄せ、首筋に淡い口づけを落としてくる。友、などという言葉では到底表しきれなくなった深い、深い愛情は、私の中にあるあらゆる空虚をこれでもかというほど満たしてくれる。
「最近は温泉街の復興計画でまた、城に籠り切りだろう。なにか息抜きをさせてやりたかった。どうしようかと色々考えていてふと……駄菓子屋に連れて行ったお前がやけにうれしそうだったのを思い出したんだ」
「ふふ、それで団長室を駄菓子屋に? 無断改装にあれだけ厳しかった男がね」
「柱を運び込んで部屋を増やすような真似とは話の次元が違うだろ。あれは改装ではなくて改築、というか増築だ。俺のはもっと……そう、ミイムが時折休憩室を臨時電撃マッサージ店に改装しているような、ああいう催しの真似事であってな」
アルベールが指さす先に目をやると、書類の山に混じっていくつかの大きな紙袋が置かれている。自分の目は届かないので、触手に頼んで見てきてもらえば、中身は「たくさんおかし!」とのことだった。悪戯に笑った一匹が中に顔を突っ込んで菓子の物色をはじめているが、アルベールが制止しようとしないのでそのまま好きにさせてやることとする。触手も含め、私と思ってくれているのだ。彼が喜んでいれば私も喜んでいる。ならばいい。そういう許しなのだろう。
「てっきり、物珍しいから好きなんだと思っていた。俺と行くから好きだったのか」
「そうはっきり言葉にしてくれるなよ、私は君ほど素直じゃないんだ」
「俺はお前ほど賢くないよユリウス。教えてくれ、わかりたい」
「……。君がいるから生きると決めた、それが全てだよ」
後ろ手に金髪を探って、形のいい頭を撫でつける。アルベールからぱちぱちと静電気の音が聞こえるあたり、回答に満足がいったようだ。
「そら、せっかく用意してくれたのだから楽しまなければ。せっかくだ、派手に飾ろう。まずは書類を片づけて……」
「日が暮れないか」
「暮れたっていいさ。案外駄菓子と酒のペアリングと言うのも悪くないかもしれないよ」
アルベールの抱擁から抜け出して、悪戯っぽく眼を細める。友はすぐさま私の笑顔を写し取り、あどけない笑顔で強く頷きを返してくれるのだった。