心音※グラカイ、ボクロク、テリロク、カイロクカイ、ボクカイ全てを同軸で信じる宗派の人間が書いています
悲願の達成と同時に唯一無二の親友を失ったカインは、いつも通り淡々としてあまり変わりがない。ただふとした瞬間に遠くを眺めることが増え、夜はいつまでも空を見ている。自分とほとんど瓜二つの、ボックスに言わせると「整いすぎて怖い」顔は、うっすらとした疲労感に覆われて最近は見るからに血色がよくなかった。恐らくは眠れていないのだと思う。半身を失ってからずっと、彼は夢に沈めずにいるに違いない。
俺もボックスも、当然カインの身を案じていた。だがあくまで平然と振舞う彼の努力を、気遣いで潰すのはどうにも違うような気がしてならなかった。結局なにを言うでも、するでもなく、せめてもという気持ちで細かな仕事を握り潰してカインに僅かな余暇を与えている。あまりにも些細で密やかな心が、何か一つでも無言の寂寥を癒すことを祈りながら。
「ロック」
「ん……。開いてる」
いつも通りのようでいて、どうしてかやるせない日々だった。暇ならば眠ればいいものを、カインを想っているうちに気づけばこちらも夜更かしをしている。
このところ日課のようになった茫然とした時間。進む時計をじっと眺めて、何をするでもなく更ける夜を見送っていると、控えめなノックが耳朶を打った。入室の許可を投げれば、すぐさまぬらりと巨躯の影が部屋に入り込んでくる。視線を放れば、エメラルドグリーンの透き通った瞳がじっと俺の姿を映した。魔人を継いだ男、ボックス・リーパー。日頃、若さを感じさせない貫禄を纏う青年は珍しく年相応に困ったような顔をしていた。
「ちょっと真面目な話。いい?」
「ああ」
飄々とした態度を押し隠したボックスの声音は、至極真剣に潜められている。俺と彼の間で交わされる雑談の大半は軽口交じりの喧嘩腰だが、思い切り眉根を寄せた青年を茶化す気には流石にならない。ベッドかどこか、適当な場所へ腰かけろと顎をしゃくる。ボックスは少し迷って、どこにも座らず俺の隣へと歩み寄った。
「昼間、カインに用事があって部屋に入ったんだけど。ゴミ箱見たら、これが沢山捨ててあった」
目の前に差し出されたボックスの掌を覗き込む。現れたのはプラスチックでできた錠剤の抜け殻。所謂薬の包装だ。
「睡眠薬……」
「……あれ? 詳しいね。俺、薬だってことしかわかんなかったからこっそりくすねて調べたんだけど」
意外そうに目を丸くするボックスを横目に、苦笑いを浮かべて塵屑を拾い上げる。力任せに握り潰された跡は、カインの手によるものだろう。
「昔、飲んだことがあるってだけだ。俺もあんまり、夜が得意じゃなかったから」
「昔って、子どものころ? これ強い奴なんじゃないの」
「そう。だから身体に合わなくて、結局飲むのはやめたんだけど」
あまりいい思い出ではないが、かといって恐ろしい記憶でもない。憎むことで保っていた心が、憎むものを失って瓦解しかけていた少年時代の話だ。傷であれば、癒せたのかもしれない。だがあの頃俺を苛んでいた焦燥や困惑は、分厚い暗雲のようだった。立ち込めるばかりで、追い払おうとも掴むことができない。訳も分からないまま養父に慟哭と衝動をぶつけ、テリーはそんな俺をなにがあっても暖かく包んであやしてくれた。だがぬくい体温にさえどうしても安心することはできず、何度も寝ずに夜を明かしては身体を壊して柔らかな碧眼を心配に染めてしまっていたことがある。流石に医者の力を借りるべきだと手を引いてくれたのはテリーだった。常日頃、何事にものんびりとおおらかな彼が多少強引に掌を握ってくれたあたり、あの頃の俺は見るからに憔悴していたのだろう。
「……沢山、って言ったっけ?」
「うん、沢山。ゴミ捨て場も見てきたけど、ここ数日出されたものの中には平等に混じってる感じだった」
暗黒の血の影響か、単なる体質なのか判然としないが、俺の身体はどうも薬に反発をする傾向がある。この睡眠薬も、数日間はよく効いてくれたがその後は吐き戻したり、熱を上げたり、結局不調が勝ってしまった記憶があった。
ボックスの見た抜け殻の量が、果たしてカインが「飲み下した量」と比例するのであれば、彼の身体は薬に負けてはいないのだろう。むしろ飲んでも飲んでも、何の恩恵も受けることができていないのかもしれない。だと、すればだ。
「これは……全部俺の想像だけど。もしカインがこれを、例えば効くまで飲んでるとかだったら、結構不味いと思わない?」
「思う、どころか。十中八九その通りなんじゃねーの」
ボックスが続けた懸念は、俺の脳裏を過った推測と概ね同じものだった。大きく頷いて同意を送ると、呆れや困惑を複雑に絡ませた小さなため息が戻ってくる。
「こういう時って、どうするのが正解?」
純朴な子どものような問いかけに、腕を組んでこちらもため息を吐いた。それがわかれば、苦労はしない。問いを投げた張本人であるボックスとて、頭ではわかっているのだろう。今俺たちが「どうにかしたい」と思っている事柄に、明確な答えなどありはしないのだ。
正解のない問いほど、厄介なものはない。堂々巡りの思考がどれだけ重いか。胸に積もっていく戸惑いがどれだけ痛いものなのか。それは、よくわかっているつもりだった。
「正解、は、わかんねー。けど……放っておくのはもう限界ってのは、わかるだろ」
重く落ちた沈黙を、破る。ボックスの澄んだ目は、どこか縋るようにして俺を見降ろしていた。喧嘩の場ではあれだけ頼りになる好戦的な瞳が、こうも力ないのははじめてのことだ。
「うん」
「だから俺たちは、考えなきゃいけない。答えがないときは、それを探しにいかねーと……。足掻くのをやめたら、それでしまいだ」
「そうだね」
現状整理と、冷静な肯定。言葉が折り重なる度に、少しずつ頭が冴えていくような感覚がある。迷うにしても独りではない、という事実が今はただ心強かった。
「こういう時は頼りになるね、ロック。流石お兄ちゃん」
「散々ガキ扱いしてよく言うぜ、どの口だ、これか?」
「あでで、つねんないでよ。今日はほんとに、そう思ってる。……ひとりだったらどうしたかなって思うと余計わかんなくなるんだ。だから、ロックがいてくれてよかった」
幼く項垂れていたエメラルドがほんの少し、いつもの調子を取り戻したのを見てほっとする。このところのボックスは、往々にして俺を「兄」と呼んで揶揄うが、家族がなく生まれもわからないという男にとってその呼称はあながち冗談というわけではないのだろう。俺もかつて、テリーを兄や父のように思って深い安寧を得たことがある。もし彼もそうであるのなら、朗らかな呼び声を本気で咎める気にはならない。
「……あ」
「ん?」
「もしかして、これが正解?」
不意に笑い声を潜めたボックスが、ふと呟いて首を傾げた。なにが、と目線で聞き返すと指輪を嵌めた指先がひょい、ひょいと俺とボックスを交互に指し示す。
「ふたり、いること」
短い言葉を噛み砕く。ふたり。確かにここには、俺とボックスの二人がいる。ふたりでいて、それを心強く思っている。カインとグラントも、きっとずっと二人だった。
(でもカインは、その二人の一つを失ったんだ。だから――、いや、そんなことボックスが一番よくわかってる。ふたりいること。……俺たちがいること?)
はたと、思い出す。俺とボックスが喧しく口喧嘩をしている時、カインは決まって楽しそうに口角を上げてこちらを眺めていた。圧倒的な強者の胆力をもって、どこか荘厳な雰囲気を漂わせながらも、カインは姦しいのを嫌わない。どちらかと言えば賑やかな時間を愉しんでいる節さえある。
「……、ボックス、お前紅茶淹れられるよな」
「え?」
「準備しろ、俺適当にクッキー焼くから」
「まって、今何時……」
「何時だっていいよ、どうせカインは起きてるだろ」
「そうだけど……、待ってロック、俺も行くって」
さっさと立ち上がった俺の後ろを、慌てた様子の弟分が必死になって追いかけてくる。窓の外から覗く空は、良く晴れた黒に染まって美しい星を浮かべていた。
◇◇◇
海風の塩辛い香りに、甘い菓子の匂いが混ざっている。真夜中に似合わない香りは、不眠を引きずる呆けた頭にもしっかりとした疑問符を誘った。
(こういう香りを漂わせるのは決まってロック君ではある、が……。こんな時間に……?)
海を臨むバルコニーには時計がない。が、部屋を出てくるときにちらりと見やった時計は日付の変わる少し前を指していたような気がする。星空を眺めてどれくらいの時間が経ったか定かではないものの、少なくとも今が健全な時間でないことは確かだ。
「五感が冴えなくなるくらい参っているのなら、いい加減健やかに眠らせてほしいものだがね」
独り言は夜風に攫われて消えていく。時間と状況を鑑みて、香りは幻と思うほうが自然だった。もう、何日眠れていないか数えるのも諦めて久しい。
デッキチェアに放り投げた身体には碌に力が入っていなかった。戦いに沈めてきた腕は喧嘩となれば自然と力を振るうものの、それ以外の生活は億劫になる一方。重石が乗ったような気怠さは間違いなく疲労だろうが、かといって瞼を閉じても眠気は遠く、意識を途絶えさせることができない。
親友が死んでから、全てがおかしい。夜は長く、昼は明るさを感じずに、どこか世界が遠い気がする。姉が死んだ、という一報を聞いた時も、それが生きているという一転した情報が手に入った時も、身体には何の異変も来さなかったというのに。
「おかしなこともある」
もしも死後の世界があって、そこからこちらが見えるのなら。巨躯に似合わず心配性だった親友は肝を冷やしているだろう。だから何事もなく、変わらない「カイン・R・ハインライン」でいたいのに、いい加減に限界が近い。倒れそうという意味ではなく、かつてアベルが幼く呼んだ、小さな「カイン」の泣き声をもう押し隠していられそうになかった。なにをどうしたって、幼い自分が泣き止んでくれない。耳を傾けないようにしているつもりでも、どこからか慟哭が聞こえてくるのだ。あれを死なせるくらいならば、野望など。あれを死なせた弾丸は、俺を殺すものだったはずなのに。
「……ほんとうに、おかしなこともあるよ、アベル」
その慟哭を認めてしまえば、グラントが捨てた全てが無駄になる。だから私は、俺を認めるわけにはいかない。その反抗が事態を悪化させていることは重々よくわかっているが、では一体どうしろというのだろうか。
「……」
乱雑にズボンのポケットに手を突っ込んで、適当に詰め込んでいた薬をぼんやりと眺める。処方できる限りで、最も強い薬として渡された睡眠薬だが一度として効いた試しがない。だが、ぼんやりと思考が乱れはするので一応の気休めにはなった。ぷち、ぷち、と適当に掌に薬を出して、それを緩慢な動きで口の中に放り込む。
「馬鹿、薬の飲み方も知らねーでボスやってんのかあんた」
ひょい、と口に含んだはずの錠剤はからからとデッキの上を転がっていった。不思議に思って見上げると、自らとよく似た金髪の青年が呆れ顔――に、少しの心配と焦りを混ぜた複雑な表情を浮かべてこちらを見下ろしている。気づけば腕にかなりの痺れがあった。恐らくは近づいて来た彼が、力任せに薬を叩き落したのだろう。
「ロック君」
「……ん。それ、効かないんじゃないの」
「ああ……いや、大事ないよ」
そういえば。若人二人にも、この不調は隠しているつもりでいたのではなかったか。はたと思い返して咄嗟に平然を取り繕うと、ロックは大仰なため息を吐きながらわざとらしく首を横に振って見せる。普段、彼を揶揄う俺の仕草だ。
「この状況でなんでもねぇは流石に無理あるぜ、カイン。ほら、起きる。寝れねーなら寝れねーで、余計に薬噛むよりいいもん食ったほうがいい」
平素、穏やかで優しい青年とは思えない強引さでぐっと腕を引き上げられた。抗えずにふらつきながら立ち上がると、ロックは有無を言わさず屋敷の中へと俺を引きずって歩いていく。
「どこへ?」
「パーティ」
「こんな時間にか」
「そうだよ。寝れねーときはもうあきらめて、昼間みたいに騒いだらいいんだ。テリーが言ってた」
「……狼の思考はどうなっているんだ」
「安心しろよ、実証済みだ。俺もあの薬はダメだったけど、パーティは効いたから」
「……」
ただでさえ強く惹かれている手を、一層強く握りこまれる。こちらを振り向かない金糸の表情は読めない。視線があれば思考を読むこともできるが、赤は名を呼ぼうが、なにをしようが、前を向いたままだ。
「ろっふ、ひょれふんごいおいひい!」
「だッ! ボックスお前! 味見は一個つったろ、なんで二個目行ってんだ夜中だろ!」
「だって美味しかったから、今日はなにしたっていいって言ったのロックだし。ちゃんとちっちゃいのにしたから許してよ~。あ、ボスおはよ~」
「……お前まで……」
連れ込まれた先は所謂食堂、兼台所だった。ロックが来るまでは飾り同然だった台所はすっかり道具に満ちて所帯じみており、いつの間にやら置かれた巨大なダイニングテーブルにはそれぞれ椅子の定位置がある。最も火から遠い左端が俺、その隣がボックス、向かいには調子がいいときに限ってグラントが座ることがあった。少し離れた、鍋に近い椅子がロックの席だが、遠くて寂しいと言う理由でボックスが隣に呼び寄せることがほとんどである。
机の上には、山のような焼き菓子がこれでもかというほど並んでいた。クッキーに始まって、パウンドケーキのようなものやドーナツまで盛り付けてある。ボックスが齧っているのはパンのようだが、中からチョコレートのようなものがあふれ出しているのが見えた。よくよく眺めると、ボックスが淹れたのであろう紅茶も淡く湯気を漂わせている。ロックの手が空いていれば朝昼晩と豪勢な食事が並ぶ場ではあるが、珍妙な時間にこの机が食べ物で満ちているのは初めてのことではないだろうか。
「あの香りは幻ではなかった、と」
「なんか言った?」
「いいや、なんでも。しかしこの時間に一体……」
「あー、やめよやめよ。今日はそういう日だよカイン、考えたら負け。理由が欲しいなら、うーん……そうだな、ロックの気分が乗ったってことで」
「ん、そういうこと。気分が乗らなきゃこの夜中にこんな手間かかる菓子焼かねーよ。俺が気まぐれを起こして、たまたまあんたとボックスが起きてたから誘った。それでいいか?」
「いいも悪いもないが……。……ふふ、いや、そうだな。夜中に考え事をするものではない、か」
若人二人の言葉繰りは軽やかなものだが、ロックの目が不自然に伏せられている。ボックスはともかく、ロックはマフィアの仕事を数年手伝ってなお嘘の不得手が直っていないのだ。つまりは「理由」の全てが偽りなのだろう。一体全体なんなのだと、今度は堂々としているボックスの瞳を眺める。と、「大人しく従え」という祈りのような意志が見えた。あえて逃げないエメラルドは雄弁だ。突拍子もなく拵えられた騒ぎが、誰あろう俺のために行われているものであると静かに教えてくれている。
「そーそ。はい、全部味見したけどパンが一番美味しかったよ、まだあったかいから、チョコがどろっとしててさ」
しばらく俺を眺めたボックスは、俺が抗うことなく椅子に座ると役目を終えたと言わんばかりにふと目を細めて笑った。ロックも満足げに頷くと、ボックスの隣へと腰を下ろす。
「全部が全部チョコじゃねーぞそれ。ジャムもあるし余った肉が入ってるやつもある。昨日の晩飯で余ったやつ、ついでと思ってつっこんだから」
「え、じゃあ俺二個連続でチョコ引いたのレアってことか。肉がよかったな~、もう一個たべよ」
「他も食えって」
遠慮なく伸びるボックスの手をひっ叩いたロックは、次いで俺の手を摑まえると一枚、二枚掌にクッキーを乗せていった。こちらも焼けたばかりのようで、まだ生地が暖かい。可愛らしく型抜きされているが、これは彼が私物で道具を揃えているということなのだろうか。
(そういえば……。姉上も、よくクッキーを焼いていたな……。お転婆な人だから、ここまで色のいい出来栄えではなかったが。ギースに持っていくと言って……ふ、散々な目に逢ったんだった)
載せられたクッキーをしばし眺めて、口に放る。塩梅よく焼かれたクッキーは香りがいいだけでなくさくさくと歯切れもいい。まだ十代だった姉が覚えたてで作ったそれとはまったく異なる出来栄えだったが、控えた甘さはよく似ていた。
「……どう?」
伺うように、ようやくこちらを向いた紅眼を同じ色で見つめ返す。襲い来る郷愁をそのまま伝えるべきかどうか少し迷って、結局包み隠さぬ感想を告げることにする。
「美味いよ。……なぜか懐かしい、と思う味だ」
「ふっ……、合ってるよ。それ、ずっと昔母さんに教えてもらったやつだから」
「……姉上に?」
「そう。味見係に叱られながら鍛えたレシピだから、自信作だって言ってた。今まで誰が味見してたのかなんて気にしたこともなかったけど、ひょっとするかなって思ったんだ」
掌に残ったもう一つのクッキーを見下ろす。ギースに囲われていた姉は、貧民街とは少し離れた多少治安のいい地区にひっそりと居住を持っていた。しばらくは俺もそこに暮らしていたけれど、子どもと言えど暮らしていくには金が要る。しばしば身体を壊す姉を気遣って金を稼ぐようになり、気づけば貧民街で過ごす時間も増えていった。
アベルとはその頃からの付き合いだ。俺の華奢な容姿を「貧民街に出入りするには危なすぎる」と気にかけていたアベルは、どこに行くにも俺の後ろを付いて回った。
そんな調子であったから、姉に彼を紹介したのは知りあって間もない頃だった気がする。既にサウスタウンで頭角を現し始めていたギースの女、として最初こそ委縮していたものの、そのお転婆具合に気が抜けるのは時間の問題で、やがてアベルは彼女の第二の弟として天真爛漫に振り回されて行くこととなる。
鼻歌を歌いながらクッキーを焼く姉上を見て、「ギースにやるなら食えるかどうかをまず見たほうがいいんじゃないか」と囁いたのは親友のほうだった気がする。言葉を選びに選んだ進言だったが、言いたいことはよくわかった。仮に食えない味だったとして、それが毒物かなにかだと騒がれてしまえば恋仲と言えど彼女の立場が危ういかもしれない。柄にもなく「味見する」と申し出た俺達を姉は不思議そうに眺めて、焼きあがったうちの二つを、二人にそっと分けてくれた。
結果として、アベルの助言は姉を救った。一度目はしっかり砂糖と塩を間違えていて、姉にも味見をさせることでどうにか差し入れ自体をやめさせた。姉は少女らしく落ち込んで、「美味しくできるまではギースにあげられない」としょぼくれ、数秒後には「だから特訓に付き合って」と俺とアベルの手を握りこんだ。
それからどれだけクッキーを食わされたことだろう。ああでもない、こうでもないと試行錯誤に付き合って、多少アドバイスもしてやり、たっぷり半年ほどの時間をかけて彼女のクッキーは美味しくなった。それをギースがどんな顔で受け取ったかは知らないが、それを彼女が息子へ受け継いだというのなら、きっと褒めてもらえたんだろう。
「カイン?」
「いや……」
固まる俺に不安げな声が降る。なんでもないよ、と言いたい大人の俺を、幼い俺が押しのけていく感覚があった。口が勝手に開く。何を言いたいか、頭はまるで纏まっていない。
「これ、を……。たぶん、同じもの……。それを、昔、まだ、姉上が若い頃に……」
「カイン」
がたんと音がして視界からロックが消えた。目の前が真っ暗になると同時に、甘い香りが鼻腔を満たす。長い髪を巻き込むようにして何かに強く抱えられていた。ロックだろう。彼の寄越す抱擁は、姉の力任せの愛情表現に本当によく、そっくりだった。
「ぎ……、っ、恋人に渡す、からと……。それの味見に、散々、付き合った」
「別に、ギースの名前ぐらい聞いたって怒んねーよ」
「っ……あれは、ギースの女にしてはほんとうにそそっかしくて、危なっかしくて、でも、それが愛らしいひとで……だから、俺もアベルも放っておけなかったんだ」
「そっか」
「姉上は戻ってきた。でも」
言葉が引っかかる。それを言ってはいけない。けれど、言わなくして夜は終わるのだろうか。
「カイン、だいじょうぶ、夢かもしれないだろ、何でも言っていい」
「……強引じゃない?」
「黙ってろ」
潜められた口喧嘩を気に留める暇もなく、十近く離れた子供たちのまえで私が一番、幼子に戻る。
「アベルは、もうここに居ない」
堰を切ったように、そのあとは言葉にならなかった。情けない嗚咽がつっかえるばかりで、とめどなく溢れてなだれ込む涙が甘い余韻を塩辛く上書きしていく。
「……あれ、が、いるから今がある、だから、っ、だから俺は」
「でもそれは、カインの本心じゃないだろ。いや、そっちだって本心だろうけど、本当にいいたいことはそうじゃない」
「……っ」
「いいんだ、矛盾してたって。俺は血の力が憎いよカイン。でも、この力がなかったら守れなかったものがある。憎いけど愛しい、そうやって、生きてる。聞かせて、あんた、もう一つ……何が言いたいの」
「……、っぅ、……っ、おいて、いかないでほしかった」
舌足らずの声が、どうか意味になっていなければいいと思った。気恥ずかしさというよりも、それを親友に聞かれれば呆れて頬を殴られるだろうから。いや、あいつのことだから、案外笑って何も言わないのかもしれない。お前は存外甘くて柔い、というのはアベルの口癖だった。ロックを預かってしばらく、彼の脆さを見たアベルに「よく似ている」と評されたこともある。
「う、っぁ……、っ……、ひ……ッ……っぅ」
「大丈夫。……確かにグラントはもういないけど、俺達はいるから……、カイン……。あんたは一人にならないよ、それだけ、それだけ忘れないで……」
穏やかで、一生懸命な声が耳を滑って行く。どこか安心する声だった。久方ぶりに、意識が遠のく感覚がある。聞こえてくる音も、香りも、全てが静寂に沈むまで。あまり時間はかからなかった。
◇◇◇
しゃくりあげるような泣き声が穏やかな寝息に変わり、部屋に二つ安堵のため息が木霊する。
「……寝た?」
「寝た。……これ、上手くいったって言っていいと思うか?」
頽れるようにして胸元に倒れこんでいるカインを眺めながらボックスに目線を投げると、青年は音を立てずに両手を打ち、密やかな拍手を送ってくれる。
「寝たんならいいんじゃない。……、凄いね、改めて」
「別に……、勘が当たったってだけだろ。ちょっとした呼び水があったらもしかして、って。まさかここまで効くとは思わなかったけど」
「作戦的には勘かもしれないけど、その後だよ。ボスが目の前で取り乱した時、例えば俺だったら……あんな風に言葉を探せない。あんたが心をよくわかる、柔らかい人だからできることだと思う」
「褒めても菓子しか出ねぇよ、今日は」
「十分。カイン運ぶの、俺がやるよ。ロックの背丈じゃ足りないでしょ」
「殴られてぇか?」
「ボスが起きちゃう、静かにして」
悔しいがボックスの言う通りでは、ある。ボックスやグラントに並ぶと小柄に見えるが、カインはかなり上背のある男性だ。意識がある状態ならまだしも、ぐったりと脱力した状態の彼を背負って運ぶのはかなり骨が折れる。唇を尖らせながら抱えた身体を引き渡すと、ボックスはあやすように俺の頭を撫でていった。
「兄貴の威厳台無しなんだけど」
「ふふっ、まぁ、こればっかりはね。……戻ってくるから待っててよ、お疲れ様パーティしよ」
「おう……。……はは、今日は俺達のが寝不足かもな」
「違いない」
ひそひそと笑って、危なげなくカインを運ぶボックスを見送る。途端にがらんと静かになった台所で、山のまま残っているクッキーを眺めた。
(母さんは……、本当に親父を愛していたんだな。この味が親父に向けたものだって知ってたら、俺も憎しみばかりじゃ……。いや、そう知っていたらきっともっと憎んで狂っていたかな。覚えも、しなかったかもしれない)
クッキーを齧る。この時間に物を食うことに慣れていない胃が、あからさまにびっくりしているのを感じながら思い出の数々を辿った。幼い頃、小さな手を母に握られながら一緒に生地を捏ねた記憶。やがてテリーに振舞って、千切れるほどに頬ずりをされた記憶。ほたると北斗丸にやって驚かれたこともあるし、通りかかって勝手につまみ食いをしたドンファンには「野郎の出せる味ではない」とのことでしつこく彼女の存在を疑われたりもした。いずれにしても穏やかで、明るい記憶の宿った味だ。叔父の慰めにも、なれていたらいいのだが。
(肉、食いたがってたっけ。探しといてやるか……)
ついでに、飯を「栄養補給」として至極雑に取る弟分にとっても。いずれか、俺の振舞う味がなにかひっかかるものになればいいと思う。食事は日々について回る。ならば、暖かい思い出も付いて回ったほうがいい。
基本的にはなんでも美味いと食うボックスだが、どちらかと言えば甘いものより肉か塩気を好むようであるというのはこの数年での経験則だった。我ながらお節介を自嘲しながらパンに手を伸ばし、丸くきれいに焼けたそれを次々半分に割っていく。チョコ、ジャム、三つ目でようやく肉を引き当てて、ボックスの席によけておいてやった。
「柔らかい人、か」
ふと、青年が去り際に零した一言を思い返して目を閉じる。この身に流れるのは闘争の血だ。どれだけ足掻こうとついて回る戦いの宿命とは、この先もきっと縁を切れそうにない。しかし長い戦いの中にあって、俺はまだ柔らかくいれているらしい。ボックスの一言は、妙にじわりと胸の奥に染み込んでいくようだった。
「カインも、あいつも……大概、柔らけぇ奴だと、思うんだけどな」
誰に聞くでもない声は、誰にも届かずに消えていった。気づけば窓の外の黒に、俄かな橙が差し込んでいる。長い夜がじき明ける、薄ら灯りの気配はほのかな温もりを持っていた。