【ブラネロ家族】ある晴れた春の日に 朝からネロはご機嫌だった。朝起きると、もう部屋のキッチンにはいなくて、ジュニアは眠い目を擦りながら厨房まで遠征した。いつもなら、少なくともジュニアが起きる頃にはまだ部屋のキッチンにいて、おはよう、を言ってから厨房に行くのに。
「ネロ?」
「お、ジュニア起きたか。おはようさん。ネリーはまだ寝てた?」
「うん、父ちゃんと一緒に寝てる」
父ちゃん、とは、自分にそっくりな方の父親、ブラッドリーのことだ。
同じ名前をもつ父をブラッドリー、と呼ぶのがなんだかくすぐったくて、ついいつもブラッドリーの方を父ちゃん、と呼んでしまう。
実際は、ネロもブラッドリーも父ちゃん、なのだが。
ジュニアはネロのエプロンが好きだ。白いシャツはゆったりとしていて、エプロンと一緒に腰のあたりで括られてしゅっとする。シャツの背中のたゆみと、その下のエプロンの細いシルエットがなんかかっこいいと思うのだ。
ねだってブラッドリーにネロのエプロンを巻いて見せてもらったことがある。
ブラッドリーの方が腰が細くてエプロンの紐が長く余ってリボンが大きくなったのに、ブラッドリーの方が逞しく見えて首を傾げたのはまだネリーが生まれていない頃だ。
父ちゃんのが細いのに、父ちゃんのがムキムキに見える。
そのまま口にしたらブラッドリーが爆笑して、ネロが悔しそうにブラッドリーの尻をベチンと叩いて良い音をたてていたのが印象に強く残っている。
後からブラッドリーが教えてくれた。
ネロはムキムキじゃねえように見えるけど、そう見えねえだけで本当はムキムキなんだ。そっちの方が、武器を隠し持ってるみたいでかっこいいだろ? と。
確かに、自分が押してもびくともしない酒瓶が入った木箱を軽々と持ち上げてしまうし、自分とネリーを腕にぶら下げてすたすたと歩いたり走ったりすることもできる。
俺だってできる、と腕を差し出したシノをヒースクリフが全力で止めていたことまで思い出して、ジュニアはくふ、と笑った。
今日は、ネロもブラッドリーも任務のお休みを貰ったらしい。一緒にお休みをとるために、ブラッドリーは昨日も遅くまで任務と奉仕活動とやらに出向いていたらしい。
らしい、というのは、ネロから聞いた話だからだ。ジュニアが寝る時間になっても、ブラッドリーは戻らなかったので、直接は聞いていない。
でも、大きな手に頭を撫でてもらったような記憶があるので、多分帰ってきた後、いつもみたいに頭を撫でてキスをしてくれたんだろう、と思う。
それにしても、ネロは、厨房の当番もカナリアに代わってもらったと昨日言っていたはず。
なんでこんなに忙しそうにしているんだろう?
寝てるのか、ちゃんと起きれるのかなブラッドの奴、とネロがオーブンにグラタン皿を入れて蓋を閉めながら苦笑した。
「まあ、父ちゃん昨日頑張ってたもんな。よしジュニア、お手伝い頼めるか?」
「! うん、俺できるよ!」
「テーブルの上の籠にサンドイッチ詰めてくれるか?崩れねえようにそっとな」
サンドイッチやフライドチキン、お手製のハーブソーセージ(これは、ジュニアが詰めるのを手伝ったものだ)が並んでいる作業テーブルを指さして、任せたぜ、とネロが笑った。
テーブルの上には、蓋が閉められる大きな持ち手がついた籠が置かれていた。
「おはなみ?」
「そう。賢者さんの世界の春の風物詩で、さくら、とかいう花が綺麗に咲いているのを眺めて楽しむんだってよ」
「ふぅん??」
ピクニックみたいなものだろうか。
賢者の塔からエレベーターに乗り込みながら、ジュニアは首を傾げた。
今日はクロエが仕立ててくれた水色のシャツと深緑に黒い意図で細かな模様の刺繡が入ったジレの上に、薄手のフード付きの上着を重ねてきた。
膝までのズボンはミチルが小さい頃に着ていたものを、南の国に連れて行ってもらった時気に入って譲ってもらったもので、気に入っている。
「でもさくら、ってお花は、ここにはないんだろ?」
「似たようなのがあるんだよ。って言っても、俺達もさくら、を実際に見たことねえから、賢者さんに聞いた感じでは、だけどさ」
「しゃくや」
ぴっきゅ、と、お気に入りの音が鳴るサンダルを踏みしめてネリーが首を傾げた。今日は首元の留め具が東の国風の水色のワンピースだ。灰青の髪がさらりと揺れて、シトリンの瞳が不思議そうに、噛み締めるように、ネロを見上げた。
自分と面差しが似た娘を見下ろし、ネロが柔らかく微笑んでその頭を撫でる。
マナ石をセットしながらブラッドリーが笑った。
「花、つっても、魔法舎の中庭とか、グランヴェル城の庭とは全然違うぞ。今から見に行くのはヴェリーチロッサム、っつう花だ」
「べりーちろっさむ」
「べりち!」
「薄紅の精霊、って言われている精霊に愛された花だよ。湖を囲むように、ぐるっと咲いていて凄いんだ。楽しみにしてな」
ゆっくりとエレベーターが東の塔を目指して動き始める。
もう少しでかくなったら箒で行くのも悪くねえな、とブラッドリーがジュニアの肩を抱いた。
東の塔に着いてからはほんの少しだけ箒で移動だ。といっても、ジュニアとネリーはそれぞれ、ネロとブラッドリーの箒に乗せられて、だが。
短い時間なら、ネリーも大人しく抱かれていてくれる。動けるようになってからはなかなかじっとしていられない彼女は、長い時間抱かれて箒に乗っていることができないのだ。
「あ!」
真っ先に声を上げたのは、ネロの前を飛んでいたブラッドリーの腕の中、ネリーだ。
そろそろ暴れ始めていて、がっちり彼女を抑え込んでいる太い腕を小さな手でテチテチと叩いていたのだが、バンザイをするように両手を上げた。
「見えてきたな。ジュニアも見えるか?ほら。木に葉がなくて、花が代わりに塊になって咲いてるんだよ。あれがヴェリーチロッサム」
ネロが笑って速度を上げ、ブラッドリーに並んだ。
「わ」
その瞬間前方に突然現れた色彩に、ジュニアは父親に似た濃いピンクの瞳を輝かせた。
大きな湖面はヒースクリフの目のような、透き通って綺麗な青。
その輪郭が桃色にぼやけて見える。
それは、湖面を取り囲む木々のせいだと、ジュニアにもすぐにわかった。
「ピンク!すっごい!クロエがつくってたドレスみたい!」
今度の任務で使うのだと、クロエが仕立てていたドレスがこんな色合いだった。
淡いピンクの生地に透き通るような青いオーガンジーと生地と同じ色合いのレースと刺繍で装飾された細身のドレス。
誰かが女性に化けて着るらしいそれを、クロエは今の季節らしく、と言っていたが、その意味がやっとわかった。
「クロエが言ってたいまのきせつらしいってこれなんだ!」
「おお、あのドレスか。そうだな、東の春の風物詩っつったらこの光景だからなぁ、この季節の祝宴に溶け込むならうってつけの色合いだぜ。なぁネロ?」
大人しくなったのも束の間、興奮して身を乗り出し始めた娘を掴み止めながら、ブラッドリーがにたりと笑って隣を見る。
「うるせえよ……あんな華やかな色味嫌だっつったのに……そもそもなんで俺が」
ネロは口をへの字に曲げて軽く箒をブラッドリーにぶつけてみせた。
ジュニアがそのやりとりの意味を考えるより早く、妹が目を輝かせて声をあげる。
「ぴく!」
ジュニアは嬉しくなってブラッドリーの腕の中へと身を乗り出して手を伸ばす。
ネリーがクリクリの瞳に兄を移して、嬉しそうに指先を握った。
「ネリー、ピンクすごいよなあ。ちょっと甘そうだし!」
「甘そうかあ?」
「あー、でも中央の市場でたまに出てる飴を絹糸みたいに細くして丸めた菓子がこんな色だったかも」
首を傾げたブラッドリーに、ネロが笑って応えた。
なるほどなと噴き出して、ブラッドリーが抱えていたネリーを両手でひょい、と持ち上げた。彼女はきゃあ、と喜んで歓声をあげる。
「おし、じゃあ本当に甘いか確認しねえとな!下に降りて花見しながら飯だ!」
「しー!」
「サーモンのサンドイッチあったんだ、あれ俺食っていい?」
「いいよ。ジュニアが食うかなと思って作ったやつだし。ブラッドにはスモークチキンサンドがあるし」
「ねり!ねりはぁ!」
「ネリーはミルクスープと、あと鶏と芋のグラタンも少し食べような。トマトのマリネもあるぜ」
お前はまだいっぱい食えないからなあ、とネロが笑って、箒にぶら下げていた籠を掴んだ。
「ブラッド、チビから目え放すなよ? 魔法使いの赤ん坊は精霊に愛でられやすいんだから」
「わかってるよ」
高度を下げて桃色の中へと降りていきながら、ブラッドが頷いた。