【ヴァシ尾】ばあちゃんの帰還「キヌちゃんでいいよ」
「は?」
「キヌちゃん……」
「うん」
「ヴァシリ……、ヴァーシャです」
「は?」
「ヴァーシャ」
「うん」
「えぇ……?」
「なんだオガタ」
「いやだって、ばあちゃんもヴァシリも、そんな呼びかた」
「ばあちゃん、アンコウ園じゃ名前で呼ばれてるのよ」
「郷里では親類にこう呼ばれてた」
まあいいけどさ、百之助は席を立つ。その背にキヌちゃんは「お茶はいらないよ。眠れなくなる」、百之助は「じゃあみんな、あったかい牛乳な」あたりまえに応じる。昨日までもいっしょに暮らしていたように。ホットミルクとは呼ばないのが尾形家流だ。冷蔵庫がパタパタいい、チチッと鍋を火にかける音、泡だて器がかちゃかちゃする。キヌちゃんは懐かしく耳を傾け、おおきな目をパチクリさせるヴァシリに「練乳をたっぷりいれるのさ」いたずらっぽく笑いかけた。
百之助は「きょうは、ばあちゃん、お客さんな」と主賓のもてなしにはりきっている。そのうしろ姿、大人になったなあ、しみじみと感じいる。
キヌちゃんはアンコウ園、いわゆる老人ホームで暮らしている。
すえの孫の百之助に、今は亡きじいさんが建てた家を託し、和をたっとび、嫌がらせを受ければ反撃し、不足なく、折り紙コーラス大正琴を趣味にして、つつましく暮らしている。
施設まで出迎えに介護用タクシーを呼んでくれる手際のよさ。ちょっと街をパトロールしたいと伝えると、車椅子をおして自宅までのみじかい散歩につきあってくれ、玄関ではあらかじめ用意しておいてくれた室内用の車椅子まで運んでくれた。思い出にあるのは、二世代前の世に建てたふるい設計の我が家。掃除はしにくく部屋はあたたまりにくい、はやりでない和室、立っているだけで腰を痛めそうなさむざむしい板張りの台所。しかしどうだろう、光がさしこんでいるようだった。ピンクのガーベラ。やさしい色あいの絵画まである。それにコタツだ。背のたかいコタツが和室にある。コタツ布団はピンク色だ。なにもかもキヌちゃんの好みにあわせられている。百之助は車椅子に腰かけたままはいれるダイニングこたつを自慢げに、うやうやしくめくった。キヌちゃんはプリンセス気分になる。
ふわっ……。
「つめたっ」
「あっ……! すぐ、あったまるよ」
わたわたとあわてた様子でドアの開け閉めを手伝っていた、いまはコタツのスイッチを入れてくれたのが、ヴァシリだった。
「紹介したいひとがいるから……男だけど……ばあちゃん、いいでしょ。帰ってきてよ」
百之助が面会に来たとき、年末年始の帰省をしないと伝えるや、孫はそう言ったのだ。意味をはき違えるキヌちゃんではない。新時代のおばあさんだ、差別も偏見も、おそらく少なめなはず。
いい子そうで安心した。
「緊張してるの?」
「……してます」
「アハハ! 素直だね」
「大事なひとに、大事なひとですと紹介する、通過儀礼だから。……キヌちゃん、どうぞおやつ」
ヴァシリはコタツのうえのミカン籠と菓子鉢をさしだす。上目づかいで、しょぼくれた猫のようだった。塩のきいたソフトせんべいとオブラートに包まれたカラフルなゼリー、ウエハース。これもキヌちゃんの好みだったものたち。もうそんなに食べられなくなった。
「べつにテストじゃないんだから」
コタツ、お入り。勧めるとキヌちゃんの正面、いそいそ足をつっこむ。もう温かくなってきた。進化したコタツはすごい。
漢方では、肌は内臓の鏡という。生まれてすぐから「色白ね、お母さん似ね」とご近所の年寄りたちにかわいがられてきた百之助だが、キヌちゃんにいわせれば、そのモチっとしたおいしそうなふわふわほっぺは、りっぱなおばあちゃん似、おばあちゃん譲りだ。真冬にも風呂からあがりたてのような、しろくかがやく、みずみずしい肌。わが孫ながらいい男。
「百之助の母親は末っ子で、私が四十になってからの子でね、四十なんて今のお母さんがたじゃ珍しくないけど、当時は恥かきっ子なんてひどい言われようだったの。上の子はもう大きかったしね」
ひどかったのは自分自身だ。娘を妊娠したことが恥ずかしかった。恥ずかしい子として育ててしまったんじゃないだろうか。もっとちゃんと大事にできたんじゃないのか。
あの子の母親も十九だった。会わせたい男の人がいるって。そいつはこなかった。代わりに百之助が生まれてくれた。
「だからね、百之助にはくちばっかりで金も手も貸さない、うるさい親戚がいっぱいいるの。伯父さんっていってももうジジイよ。……わが子ながらなさけない。施設に入ると決めたのは私自身だったのに、それをまだ未成年の百之助に対して、俺の母ちゃんを追い出すのか、恩知らず、なんて言うの。私が違うって怒れば、母ちゃんは脅されて言わされてるんだよね、なんて猫撫で声でさ。わたしゃ耄碌してないよ。恩知らずはどっちだい」
誤解を受けやすい子だ。凛と怜悧な印象のあおじろいひたい。冴えすぎてつめたく見える。ショックでぼんやりしているだけなのを、お高くとまっていると、人でなしと陰口をいわれる。小さいときからずっと変わらない。隙を見せないつよさが、彼を追いこむ。しなやかささえ、不器用の一端だった。
ヴァシリに言葉の意味がつうじているかはわからない。神妙にフンフン聞いている。
不思議なかんじのする青年だ。百之助とおなじだ。痛みをこらえて生きているかんじがする。世界にあふれている五感をどきどきときめかせる星々が、彼らにとっては金平糖のなだらか棘でも痛みをもよおすものなのではないか。太陽のひかりは塩がききすぎ、香水はチクチクしすぎ、色彩は熱すぎて、ひとの温度は眩しすぎる。ピンクいっぱいにしてくれたけど、疲れちゃってないかしら――。
「そうそう」
キヌちゃんはぱちんと手を打つ。あの絵、と壁をさす。和室の長押に吊りおろされた、ちいさな絵。キヌちゃん好みだがピンクじゃない。
「あの絵、気になってたの……いい絵よね」
「あ、あれは、私が描いた!」
ヴァシリが身をのりだす。きゅうにおおきい声だと年寄りはびっくりしてしまう。
「キヌちゃんが、帰ってくるから、飾らせてほしいと頼まれて、持ってきた。私が飾った。あの絵は私に見えるこの部屋で、私に見えるオガタの心。ちいさくて、あたたかくて、頑張り屋さんで、さみしそうで、満たされてて、キヌちゃんとおじいちゃんのことが大好きで、私のことを悲しむように愛していて、ちいさく、さみしそうな、あったかい、燃えるような、根性があって、しゃんとしてる。だからいつもは私の部屋に飾ってる。私はいつもオガタの心を覗いていたいから。あの、あの、キヌちゃん、私は、できたら、この部屋にこの絵を飾らせてあげたい。私、私に、オガタに毎日お味噌汁を作ってもらわせてくださいっ!」
「ヴァシリなに言ってんだ!?」
百之助がもどってくる。そろーり、そろーり、なみなみと注がれたホットミルクの湯気のあまいにおい。形も色もバラバラのカップ。
「ふふふ、ヴァーシャはお味噌汁が好きなの?」
「そうでもない」
「作ってやったことない、というか作ったことないし。おい、変なこと言うな」
「簡単だからふたりでやってみな。ヒャクちゃんは小学校のときに作ったはずなんだけど」
「うん」
「っ……うん!」
「出汁なんか顆粒でいいんだから」
百之助がそわつきだした。コタツにはいったものの、もじもじ落ちつかない。
「ばあちゃんミカン剥こうか?」
「おかまいなく。帰ったらアンコウ園のクリスマス会あるから、胃袋あけとかないと。あんたたち食べな」
「キヌちゃん、ゼリー剥く?」
「ええ……、うん。ヴァーシャも食べてね。オブラートは剥かないで食べられるのよ」
今日はお客さんなんだった。遠慮してばかりだともてなす側が困る。キヌちゃんはいま、とてもさりげなく、彼らを家主だと認めたのだから。
ポケットをさぐる。もうこれを使う日はこない。さびしくもあり、晴れがましくもある。
「これをヴァーシャにあげる。キヌちゃんからのクリスマスプレゼント」
「……! ありがとう……えっと……」
「このボロ家の鍵よ」
「え!」
チョコレートの包みがキラキラしてきれいだったから、赤と緑のを撚ったり折ったり合わせたりして、ポインセチアに見立てて巻きつけてきた。包装紙がきれいでとっておくなんて、ババくさくて恥ずかしくなる。こんなすてきな絵を描く子を相手に、こんなものみすぼらしくてたまらない。若者が喜ぶような、しゃれたブランドのキイケースを用意できたらよかった。
ヴァシリはそれを日にかざして照りかえしに目をほそめる。赤と緑のホイル、銀の鍵の反射がうすい肌を染める。うすい青灰のきれいな眼で、金色にひかる茶色のまつげがぱちぱち音の鳴るほどまたたく。しろい肌、黒、黒、黒ざんまい、白髪染めに失敗した金茶髪は猿にしか見えない、この家にあるのはそういった色彩ばかりだった。異様にも感じられる、ヴァシリは光沢ある虹のようだった。
「……大切にする」
「そうね、なくすと物騒だから」
「ばあちゃん、そうじゃなくて」
「ヴァーシャ。銀紙は捨ててちょうだいね」
「大切にする」
キヌちゃんは、はたと理解する。しろく抜けきった頬にも朱がさす思いだった。やさしい子供たちだった。
「恥ずかしい……でも破れちゃったら作り直してあげるからね」
「ありがとうキヌちゃん」
恥って、なんだろう。キヌちゃんには毒だった。
「ばあちゃん……」
「やあねえヒャクちゃん、変な意味じゃないのよ。鍵がなくたって、いつまでもここはうちのひとが建ててくれた私たち夫婦の家よ。でもね、ふたりが必要なら、ヴァーシャを私の息子にしてもいい。私の目が黒いうちに決めてちょうだい」
「ばあちゃん……! あの、俺、ヴァシリと、一緒にいたい……。じゃなくて。ヴァシリ。俺と一緒にいてくださいっ」
「っ! オガタッ! 私も、おなじきもち、一緒にいたい」
え、その段階?
キヌちゃんの混乱をよそに、ふたりは初々しくもじもじしつづけた。キヌちゃんは百之助の律義さをあまくみていた。ひとり暮らしになってもっと図々しく、わがもの顔でこの家で暮らしてくれてると思っていた。ここにいていいと、確信しているものだと、自分の存在を恥じることなく、堂々と。
ごめんね。キヌちゃんは呟いて、何年ぶりかにわんわん泣いた。娘の頃のように泣いた。若者たちはわたわたとり乱して手を変え品を変えキヌちゃんを泣き止ませようとしてくれた。
「正月休みくらい、帰ってくればいいのに」
「やだよ。孫に風呂の介助をしてもらうなんて」
シモの世話をさせたくないから施設に入所したのだ。この恥は毒じゃない恥。
キヌちゃんは夕方帰って行った。キヌちゃんはヴァシリがなに人かを聞かなかった。