「……アーニャちゃん、ここしばらくずっとあんな感じよね。どうしちゃったのかしら?」
「……」
図書室の2階、中庭がよく見える窓から外に視線を落としているベッキーの言葉に、ダミアンは同じように外を見下ろしながら無言で返した。
2人の視線の先には、話題の主であるアーニャがベンチに1人座っていた。
10年生に進級して間もなく迎えた秋は、東国と西国が和平条約を締結して初めての秋でもある。済みきったこの青空の元で食べるランチもなかなか良さそうであるが、
「最近はランチを1人で食べたいとか言い出して、一緒に食べない事も増えたし」
以前から、ごくたまにだが「今日は1人で食べるね」と食堂で食べるのを避けていた節があった。しかし、ここひと月くらい前から、週に3回は1人で食べるようになったのを、ベッキーから聞かずともダミアンも気付いていた。
「……あいつ、昼飯殆んど食ってないな」
座っている彼女の膝の上に、ランチボックスに入ったサンドイッチらしき物が見えるが、ほぼ丸々残っているようだ。あと10分足らずで昼休みが終わってしまうと言うのに。
「デズモンド、何かアーニャちゃんから聞いていない?」
「親友のお前が知らない事を俺が知っているとでも?」
「同じ皇帝の学徒でしょ? 校内で一緒にいる時間はあんたの方が長いじゃない」
「別々の活動をやっているから、会話もろくにしてねーよ」
「そう……」
アーニャの事が心配なのはダミアンも一緒だ。だが――
(最近、俺を避けている気がするんだよな……)
進級前の長い夏休みの間に、ダミアンはある大仕事を1つ終えていた。
それは、婚約者との婚約解消。
公言していなかったが、ダミアンがまだ10歳にもならない頃、親が勝手にとある元財閥系の御令嬢と婚約を結んでいた。
とは言え、婚約とは名ばかりの関係だった。2人きりで会う事はなく、年に数回、両家揃っての会食で顔を合わせる程度。社交のような会話とエスコートで軽く触れるくらいのやり取りが精々だ。
そんな中で、あちらの御嬢様もこの婚約が不本意であり想い人もいるから解消したいと意見が一致した事から、先日の会食の時に、御嬢様と共に破談を強く希望する旨を申し出た。その後、多少の紆余曲折はあれど、ダミアンが想定していたよりあっさり解消出来た。両親ともダミアンに関心がなかったのが幸いだったのかもしれない。
これでようやく、アーニャと関係を進展させるために動けるようになった。まず、いきなり想いを告げるのではなく、アーニャにこちらを意識させるように――などとこっそり意気込んだと言うのに、まるでそれを見透かされたかのように、ほんのり避けられるようになった気がするのだ。
こちらと2人きりにならないように動いているっぽいし、目線が合う頻度もかなり減った。
夏休み前に、彼女に嫌われるような事をやらかした覚えはないのだが……。
突然、窓の向こうのアーニャが動き出した。
ばっ、と急に右手を振り向いた。そのまま硬直して2、3秒経過してから、顔の向きはそのまま膝の上のランチボックスを慌てて片付け出す。乱雑にランチバッグに詰め終わると、ベンチから立ち上がった彼女は、バッグを両腕で胸に抱えて、例の方を向いてじりじりと後退りをして――背中を向けて猛ダッシュでその場を去った。
「……?」
ついさっきまでぼんやりしていたのが嘘のような動きにダミアンは驚いた。
とっさにアーニャが見ていた方向を見たが、草木が生い茂っているエリアなので、ダミアンには何も異常が確認出来なかったが――
「なぁブラックベル、あいつが見ていた方向に何か見えたか?」
「いいえ、何も……」
ベッキーもアーニャの異変に気付くも、その原因は見えなかったようだ。
「……何なんだ?」
得体が知れない不気味さを覚えながら、ダミアンは無意識に右手を握り締めた。
◆◇◆
アーニャは、ずっと悩んでいた。
ちちとははに、生い立ちと超能力の事をいつ打ち明けるか、を。
ちちも、ははも、裏の顔をアーニャに教えてくれた。でも、アーニャは自分の秘密を2人に教えられなかった。
――嫌われるのが、怖い。
フォージャー家に来る前の4つの家で受けた仕打ちは、アーニャの中で今でもひどい重みとなってのし掛かっている。
打ち明けたい、ちちとははならきっと受け入れてくれる、でも絶対そうとは限らない、嫌われたくない、捨てられたくない……そんな感情がずっと無限にめぐっている。
そんな今、アーニャは危機を感じていた。
謎の視線。
夏休みが明けて進級した頃から、気味悪い『視線』を感じるようになった。
最初は、ダミアンと仲が良い事を妬む女子のものか、アーニャと付き合いたい男子のものだと思っていたが――何か違う。遠くから視線と共に向けられてくるわずかな感情は、アーニャを探っているような気配をはらんでいた。かなり距離を取っているからか、思考までは聞こえてこない。
そしてある時、視線の主が近い所にいたのか、心の声をキャッチした。
(まずいっ、007に近付き過ぎた! 読まれる!)
男の声だった。
声の主を探したかったが、気付かれた事に気付かれたくなかったので我慢した。
それから1週間、相手は警戒しているのか声は聞けていない。でも遠くから視線を感じるのは変わらない。
相手は、アーニャのかつての呼び名と超能力を知っている。そして、利用しようと何かを画策している。
研究所を脱走して10年経つが、まだ研究所は残っている? アーニャのこと捜してる? いやだ、もうあんな所に帰りたくない!
だがこの問題、アーニャ1人で解決するには荷が重すぎた。研究所の場所なんて覚えていないし、調べるにもどうやって調べれば良いのか。もし視線の主がアーニャの前に堂々と現れたらどうする?
――ちちに、相談するしか、ない。
だが、相談するなら、アーニャの過去を打ち明けるのが必須だ。心を読むなんて嫌われるかもしれないのに、更に助けて欲しいなんて、ちちはどう思うだろう。
ちちの本来の目的だった東西の平和は実現した。アーニャは本来お役御免の立場だ。そこへこんな相談しようものなら気味悪がられ捨てられてもおかしくない。
(――でも、アーニャはもう小さい子供じゃない。捨てられても自分で何とか生きていける。18歳までは養護施設で面倒見てもらえるはずだし)
イーデン校は退学する事になるだろうが仕方ない。
◆◇◆(話は飛んで)
「――ねぇちち、2人だけで大事なお話ししたい」
ロイドを真っ直ぐ見る。真正面から。すると一瞬、ロイドの脳内をぶわっとした何かが過ぎたのが見えた。しかしそれが消えた今、彼の心は恐ろしいほど静まり返っていた。言葉は聞こえてこない。ただただ静かだった。
「――分かった。ダイニングで話そう」
無言で移動して、座る前にそれぞれ飲み物を用意してから、2人は向かい合って椅子に座った。
「――ヨルさんが居ない時に話したい内容なんだな?」
「……うん」
やはりちちはある程度お見通しらしい。
でも、どこまでお見通しなんだろう。
アーニャはちちに話術でかなうわけがない。だから、回りくどいやり方ではなく、ストレートに切り出した。
「……ちちは、いつまで<ロイド・フォージャー>を続けるの?」
ちちの事だから、問答をいくつも想定していたに違いない。とは言え、これは想定外だったのだろう。驚愕で目を見開いて硬直していた。この質問は、『<ロイド・フォージャー>は期限つきの偽りの身分だと知っている』と言っているも同然だからだ。
硬直している隙に、アーニャは更に一撃を加える。
「『プランB』で世界平和も達成したんだから、ちちはもう<ロイド・フォージャー>は捨てて<黄昏>に戻っていいはずでしょ?」
ガタン!
「なんでお前がそれを」
――ちち、そんなあからさまにびっくりしたら、スパイ失格。
初めてロイドに会話で勝てた気がして、アーニャは内心で思わずニヤけてしまった。
「アーニャ、何でもお見通し」
「誰かから聞いたのか」
「――うん、ちちから聞いた。と言うか、聞こえた」
意味が分からないと言いたげなロイド。
そんなロイドから視線を外して、俯いてアーニャは続けた。
「あのね、アーニャ、誰にも言っていない秘密がある。黙っててごめんなさい。でも、知られると嫌われてまた捨てられると思うと怖くて言えなかった」
ここから先、言うのが怖い。
でも、言わなくちゃ進まない。
膝の上でスカートの裾を握りしめた。
「アーニャ、他人の思考が聞こえるエスパーなの。
孤児院に入る前は、どこかの研究所で『被検体007』って呼ばれてて、お薬注射されたり、体に電気流されたりする実験をずっと受けていた。
その実験で、アーニャはテレパシーの超能力が使えるようになった」
ロイドに秘密を打ち明ける恐怖と、研究所での嫌な記憶で、アーニャは声が震えそうになる。しかしそれをどうにか抑えて、話を続けた。
「研究所にとって、アーニャは貴重な成功事例だったみたいで、それからもっと実験が増えた。それが嫌で、研究所から逃げ出した。
もじゃもじゃがアーニャの事調べても、出生に関する情報が分からなかったのはそのせい。アーニャの存在は元々ない事になってると思う」
アーニャがロイドの子供になってすぐ、フランキーがアーニャの素性を調べたらしいのは、2人の思考から読み取って知っていた。
「アーニャ、多分どこかの研究所の息がかかった孤児院からか、人身売買で研究所に売られたんだと思う。だから、本当の両親は全然分からない。正確な出生日も年齢も分からない。
ちちが孤児院に来た時、6歳の子供を探しているのを心の声で聞き取ったから、6歳って嘘をついた。
クロスワードが解けたのも、ちちが考えていた答えを聞き取って書き写しただけ」
「嘘ついて、ごめんなさい……」
◆◇◆(話は飛んで)
始業してすぐの、1時限目が始まる前のホームルームで、担任のヘンダーソンから告げられたそれに、クラスメイト達はもとより、ダミアンとベッキーはより強い衝撃を受けた。
「ミス・フォージャーは、家庭の都合でしばらく学校を休む事になった」
瞬間、ダミアンはベッキーを見て、ベッキーもダミアンの方を振り向いた。
(知っていたか)
(初耳よ!)
アイコンタクトとわずかなジェスチャーで意思を伝え合う。
ヘンダーソンに見咎められない数秒のそれでお互いの情報を汲み取って、ベッキーは前に向き直った。
(どういう事だ フォージャーに何があった)
ベッキーの隣の空席、いつもはアーニャが座るそこを、ダミアンは凝視する。
――ヘンダーソン先生は、『家の都合で休む』hと言っていた。と言うことは、何かの病気とかそういった類いではないのだろう。
じゃあ、何が理由だ? このところ様子がおかしかった事と関係が?