「貴方達何者 この誇り高きイーデン校の高等部で何をするつもり」
ベッキーの金切り声は、しとどに降り注ぐ雨の音に掻き消されてしまい、周囲にひと気もないので誰の耳にも届かない。
聞こえているのはこの場にいる者だけだろう。親友のアーニャと――彼女を取り囲む4人の黒スーツ達。
傘を叩く雨音のせいか、黒服達の接近を察知出来ず、気が付いたら大柄な黒服の男達が立ちはだかっていた。
ベッキーはアーニャの隣を一緒に歩いていた筈なのに、突如現れた黒服達によって引き離された。アーニャは傘を放って激しく抵抗するも、2人に両側から動きを封じられてしまう。ベッキーも加勢しようとしたが、いつの間にか背後に回り込んでいた1人に押さえられてその場から動けない。
そうこうしているうちに、残る1人――この中で唯一、スーツの襟にピンバッジを付けた男が、尚も藻掻くアーニャに何かを告げた。すると、ぴたりと彼女の動きが止まって、その瞬間に男がアーニャの腹に拳を叩き込んだ。くたりとアーニャの身体が完全に脱力する。
「アーニャちゃん!」
ベッキーの叫びも虚しく、黒服がアーニャを軽々と肩に担いで駆け出す。5メートルほど離れた辺りでベッキーを押さえていた1人も離れる。
4人が向かった先、敷地のすぐ外に1台の黒塗りの車が止まっていた。4人はそれに素早く乗り込むや、車はタイヤから雨煙を立てて去った。
「――……アーニャ、ちゃん……」
ベッキーは呆然と立ち尽くす。
あっという間の、まるでドラマや映画のワンシーンの出来事で、白昼夢を見たのでは、とすら思えてくる。しかし、石畳の上に残されたアーニャの傘とバッグとベレー帽が、現実に起きた事だと如実に伝えていた。
さすがのベッキーも、事の重大さに戦慄する。腰が抜けて座り込んでしまわないのが不思議なくらいだ。
と、ベッキーは思い出す。
(あのピンバッジ……!)
アーニャに拳を放った男がつけていた、ピンバッジの紋様。見覚えがある気がする。即座に記憶のアルバムを開いた。そしてすぐに見つけて――
「――グリフォン……?」
呟いて――ベッキーは即座に踵を返して走り出した。
◆◇◆
偶然だった。
2階の個別自習室から何気なく窓の外を見下ろした瞬間、こんな雨の中だと言うのに傘も差さず建物の方に向かって駆け抜けて行く女子生徒の姿が見えた。
「……ブラックベル……?」
ダミアンは小さく呟いた。
さっきまで彼女とアーニャ、ユーイン、エミールの5人で共にここで自習をしていた。
通学生のアーニャとベッキーはそろそろ帰宅した方がいいだろうと言うことで解散したが、寮生の残り3人は引き続き自習室に籠もっていた。
窓際のロッカーに入れているバッグから必要な参考書を取り出そうとした時、件の光景が目に入ったわけだ。
雨水が窓を滝のように濡らしていたのではっきり見えなかったが、シルエットはベッキーに似ていたよう思う。しかし、あの彼女が大雨の中で傘を差さずに全速力で走る姿なんて全く想像つかない。だから別人だと思って、すぐに自習テーブルに戻った。
それから間もなくだった。ノックも無しにドアを開けるなり、
「デズモンド! いるんでしょ」
ずぶ濡れのベッキーが怒声を上げて入ってきた。
「お、おい」
「どうした」
慌てふためくユーインとエミール。しかしベッキーは2人を無視し、大股でダミアンに向かって真っ直ぐ歩み寄って、睨み付けた。
「デズモンド家はいつから人攫いをするようになったのかしら?」
「……いきなり随分な言い草だな」
ダミアンは眉を顰めて立ち上がった。
個室で他に誰もいないからまだいいが、冗談でもそんな不穏な話はやめてもらいたい。
だが、彼女が冗談で言っているわけではないらしいのは、凄まじい怒気を孕んでいる表情を見れば一目瞭然だった。
「何があった?」
「たった今、アーニャちゃんが黒服連中に誘拐されたの」
「――何だと」
衝撃のそれに、ダミアンは目を見開いた。ベッキーの背後でユーインとエミールも同様の反応を見せる。
ベッキーは早口で続ける。
「指示役1人と、実行役3人と、運転手役1人。全員、体格のいい男達だったわ。
その指示役のフラワーホールに付いていたのよ……」
そこでベッキーは間合いを詰めると、ダミアンの左手首を片手で掴んだ。目線の高さに上げるやもう片手で上着の袖をずり上げる。すると、中に着ているシャツの袖が露出して、
「――やっぱりそうだわ。
このカフスボタンと同じ紋様のピンバッジ!」
ダミアンがシャツの袖口に付けているカフスボタンを見て、ベッキーは断言した。
それには、グリフォンを象ったデズモンド家の紋章がデザインされていた。
◆◇◆
強い雨が、重く沈黙が落ちる自習室のガラスを叩く。10秒ほどそれが続いて、
「……な、何かの間違いだろ……?」
「そうだよ、見間違いの可能性が――」
「家来共は黙っていなさい」
宥めるように間に入ったユーインとエミールの方には一瞥もくれず、ベッキーはピシャリと遮った。気圧されてか2人は黙った。
ベッキーはダミアンの腕を離す。
「私、視力と瞬間記憶には自信があるの。見間違いでも勘違いでもないわ、絶対に」
彼女のそれに偽りも誇張もないのは、普段の学校生活から知っている。そして、この状況で嘘をつくような性格でないのも。
だからこそ――ダミアンは平静を装いながらも、内心では大いに混乱していた。デズモンド家の者がアーニャを攫う悪行を働いた事に。
(俺の家が、フォージャーを誘拐 何故だ あのフォージャーを 何故だ)
動揺のあまり、脳内に浮かぶのは同じ文言ばかり。脳が空回りする中だったが、ようやく1つ確認すべき事項に思い至った。
「ピンバッジ……」
「何」
「指示役のピンバッジの色、何だった?」
「……色?」
「あぁ。グリフォンを囲っている枠の色だ。覚えているか?」
「……金色だったわ、確か」
(父上か……!)
ピンバッジは、デズモンド家に仕えている者達の間でも、側近やそれに準じた立場の者にしか与えられない物だ。そして、色によって誰に仕えているか判断出来るようになっている。
銀色は兄、赤銅色は母、緑色はダミアン、そしてベッキーが見たという金色は、父。
(でも何故父上がフォージャーを 父上とフォージャーの間に何かあったのか)
父と彼女の接点と言うと、ダミアンが知る限りでは先月の懇親会だ。
親同士が対面した時、アーニャも自身の父親ロイドの隣に立っていて、彼女が父に頭を下げている場面を見た。父親同士は既知の間柄であれど、懇親会にフォージャー親子が参加したのはあの時が初めて。アーニャはきっとそこで父と初対面し、ロイドによる紹介がされたのだろう。まさかそこが発端か……
(くそっ、あの時俺も父上の隣にいれば……!)
その懇親会でのダミアンは、父とは軽く挨拶しただけで、行動を共にする事は無かった。父の隣に、兄のデミトリアスが居たからである。兄は父の第一秘書官として帯同する事が多いが、最近になって『次期デズモンド家当主』としての顔見世活動を始めたらしく、父の隣に立つ場面が更に増えているそう。だから、ダミアンは自身が父の傍に居るのは不要だろうと判断したのだ。
今になって、その選択を後悔する。あの時自分も立ち会っていたら、今回の一件に繋がる何かが見えたかも知れなかった。
「ちょっとデズモンド、黙っていないで何か言ったらどうなの」
「……少し黙ってろ」
「何よその言い方」
「いいから黙れ!」
(後悔している場合じゃねぇ! クソ、考えろ! 考えるんだ、ダミアン・デズモンド!)
ダミアンは部屋の中をゆっくり歩き出す。無意識の事なので自覚はしていない。
まず、考えるための足掛かりが欲しい。懇親会の後、実家かアーニャに何か変化がなかったか? 必死に記憶の糸を手繰り寄せる。
(! そう言えば!)
思い出した。懇親会の翌日、朝イチでアーニャに尋ねられた事を。どこか不安げな表情だった。
『ねぇじなん、じなんの父、懇親会終わってからアーニャの事何か言ってた?』
『は? お前の事をか?』
『うん……』
『あー……俺、父上とは会の最初の方で挨拶しただけで、その後は会っていないんだ』
『そっか。じゃあ分からないね……』
『何だ? 何かやらかしたから謝りたいってか?』
『違う。そういうんじゃない。知らないならいい』
(足掛かり、あった――!)
彼女のあの様子。懇親会がきっかけの何かが父との間にあったのは間違いなかろう。
取っ掛かりを得て、脳がようやくまともに動くようになった。思考をいくつか巡らせる。
そして――考えをまとめ終えて足を止めたダミアンは、ベッキーに向き直って、努めて冷静な口調で告げた。
「……ブラックベルが見た通りなら、その指示役は父上の側近だ。だからフォージャーを攫ったのは父上の指示で動いていると思う。
実は、この前の懇親会で、父上とフォージャーの間で何かあったかもしれないんだ。それがきっかけになっている可能性がある。
だが、残念ながら俺にはそれが何なのか皆目検討が付かない。父上とはここ数年、会話らしい会話なんて殆どしていないくらいに疎遠になっているんでな」
その瞬間、ベッキーの片眉が跳ね上がったのを、ダミアンは見逃さなかった。それでも続ける。
「だけど、父上の右腕になっている兄貴なら何か知っているかもしれない。俺も兄貴となら連絡取り合っているから、コンタクトは取れると思う。だからそっち側から探りを入れてみる。だが――期待はしないでくれ」
「――期待するな、ですって……」
カッカッと靴音を立ててベッキーがダミアンに詰め寄った。
「この期に及んでよくそんな事言わるわね 相手は自分の親じゃない! それにアンタ、アーニャちゃんの事好きなんでしょ 好きな相手くらいスマートに救い出してみなさいよ!」
「簡単に吐かすんじゃねぇ! 俺の家族事情と立ち位置を少しは知ってんだろ」
「知ってるけど知ったこっちゃないわ!」
ベッキーはダミアンの胸倉を両手で掴んだ。そして、直前とは打って変わって静かな口調で凄む。
「……いい? アーニャちゃんに何かあってみなさい。ウチのグループ総動員して、ありったけの弾薬をアンタん家にブチ込んで、焼け野原にしてやるわ」
ダミアンより頭半分低いはずなのに、まるでこちらが見下されているような錯覚。それ程にベッキーの気迫は凄まじいものだった。それを、ダミアンは真っ正面から受け止める。
「……準備はしてても構わねーぜ。無駄で終わらせてやるけどな」
互いに微動だにしない睨み合いが数秒続いて――ベッキーはダミアンから手を離した。そのまま退がって距離を取った事で、固唾を呑んでいたユーインとエミールがほっと胸を撫で下ろしたのが見えた。
ダミアンは乱れた胸元を整えながら、
「ブラックベル、お前はとりあえず着替えてこい。濡れたままだと風邪を引く。着替えたら、フォージャーが攫われた時の状況について、もっと詳しく聞かせろ」
「分かったわ」
返事を聞いてから続いて、
「それから、ユーインとエミール、出来ればお前らにも協力してほしい。いいか?」
「は、はい!」
「勿論です!」
「今夜徹夜になるかもしれないが」
「構いませんよ」
「徹夜して勉強するダミアン様に付き合ったことが何回もあるから今更です!」
「ははっ、それもそうか」
頼もしい返事に思わず苦笑いした。
◆◇◆
ベッキーが着替えるために出て行ったのを見送ってから、ダミアンは再び思考を始めた。
アーニャが捕われた理由は、今ここで考えても分からないから、今は一旦置いておく。
取り敢えずは……ジーブスに電話して父と兄のスケジュールを聞き出そう。それで得られた情報次第で、取るべき行動が変わってくる。
この部屋には電話がない。寮か、皇帝の学徒でダミアンに充てがわれている副会長の執務室に行かなくては。
「お前ら、ここで待っててくれ。実家に電話してくる」
「ご実家にですか?」
「あぁ、まず、父上と兄貴のスケジュールを確認する」
「分かりました」
「あの、待っている間、こっちで何かやっておく事はありますか?」
「あー、そうだな……じゃあ、ブラックベルが戻ったらご機嫌取りを頼むわ」
「っ」
「じゃあな」
固まったユーインとエミールを残して、ダミアンは自習室を出た。
廊下には照明が灯されていて、外を見れば、天気も相まって普段より薄暗くなっていた。
(雨、すげぇな……)
これから色々動く事を考えると、雨がこれだけ強いのは面倒だ。今朝の登校前に寮のサロンで観たニュース番組では、今夜には止むと言っていたが、本当に止むのだろうか。
そう言えば、その番組の豆知識コーナーで、今日は新月の日だとか言っていた。新月の日は願い事が叶いやすい日だとか何とか。
(願い事か……フォージャーを無事に助け出したい。いや、助け出す!)
今回の件で、最悪は父と……ひいてはデズモンド家と対立する事態になるかもしれない。そこまでならぬよう、気を引き締めて動かねば。
ダミアンは、その場で軽く俯いて目を閉じた。大きく息を吸い、吐き出し――それから目を開けて、顔を上げ前を見据えると、長い長い廊下を歩き出した。