あまくてにがい どうも朝から喉の調子が良くない。痛むわけではないけれど、乾燥した感じで、乾いた咳がぽろぽろとこぼれる。今朝出発したばかりの島の気候が身体に合わなかったのかもしれない。
昔からどうにも呼吸器が弱くて困るんだよなあと喉を撫でて、あとで暖かい飲み物でも飲もうかなと考えながら、ひとまず船長室をノックした。
「キャプテーン、私でーす」
いつも通りに呼びかけて、返事を待たずにドアを開ける。どうせ中にいるし入るなとも言われないだろうし、そもそも向こうも私が勝手に入る前提で返事をしてくれないことも多いので。
壁沿いに置いたデスクの脇で椅子に腰掛けて分厚い本をパラパラめくっているキャプテンは案の定動じた様子なく、というかこっちに目も向けず、私がドアを閉めてからようやく「どうした?」と訊ねてきた。視線は本に向けたまま。
まあ別にそれくらいいつもだから良いんだけども、一応私はただの船員じゃなくてキャプテンの恋人のはずなんだから、もうちょっとそれ相応の態度があってもいいんじゃないかと思わないでもないけれど、まあ私も仕事で訪ねてきたのでそれも良いとして、しかし椅子に座って組んでる脚が長いのがムカつくので、わざとずかずか足音を鳴らしてそばに寄る。
「今回の船としての購入品と現時点の船内の備蓄の一覧ができたんで一応見といてください」
埃っぽくて乾いた倉庫でけほけほ言いながら作った紙の束を突き出すと、ようやくその目がこっちを見た。
「なんだ、早かったな」
「めちゃくちゃ褒めてくれていいですよ」
「偉い偉い」
私は胸を張ったのにキャプテンの意識はさっさと受け取った紙面の方に移ってしまった。目が合ったのは一瞬だし、全然心のこもってない声だしでやっぱりちょっと素直にムカついてきた気がする。
長い指が器用にぺらぺら紙をめくるのをにらみつける。キャプテンは真面目な顔で、きちんとリスト全体に目を通しているようだった。真面目で結構なことだ。私はその意識がこっちに戻ってくるのをじーっと待った。
「――非常用の備蓄はそろそろ回転させたほうがいいか」
食料庫のリストに辿り着いたキャプテンが、こっちを見上げずに言う。こっちを見てくれないと独り言なのか話しかけられてるのかわからないじゃないか。私はふてくされながら一応返事をする。
「じゃあ次の購入予定に入れておきますね……」
けほこほ。乾いた咳がうっかりこぼれて、キャプテンの目がこっちを向いた。しまった、と口に手をかぶせる。
「すいません……」
せっかく目が合ったのも慌てて逸らす。この人は腐っても医者だし、私がしょっちゅう喉風邪を引くのを知っているし、すぐに喉風邪に効くという甘苦い粉薬を出してくるし、私はその薬があんまり好きじゃないのだ。
手で覆った下からまたいくつか咳がこぼれる。キャプテンが心なし声を低くした。
「おまえ、喉、」
「ほらあの、今朝までの島が結構乾燥してたじゃないですか、その上で乾燥した倉庫にいたのでちょっとアレしてるだけでして……別に喉が痛いとかそういうんじゃないんで……」
「なんでそんなに言い訳がましいんだよ。念のため診せろ」
ややいらついた様子のキャプテンがもう一個の椅子をデスクに引き寄せて、その座面をぽんぽん叩く。だってキャプテンの出す薬が不味いんですものなんて言ったら余計怒られそうだったので、私はしぶしぶ言われるがままにそこに腰を下ろす。
もうちょっとこっちに意識を向けてほしいとは思ったけれど、こういう方向の意識は求めてなかった……。
薬の味を思い出して俯きながらお尻を落ち着けていると、大きい手のひらがおでこに当てられて、そのまま顔をぐいと上げられた。ぎゃっ、と喉から声が出る。
「……熱はないな」
大真面目に顔を覗き込まれて居心地が悪い。というか顔が近い。今聴診器を当てられたら動悸が早いのを見咎められそうだ。
「症状は咳だけか?頭痛や鼻水は?」
「ないです……」
キャプテンの指が額からそのまま輪郭をなぞって顎まで下りてくる。
「一応ちゃんと喉も診せろ。ほら、口ひらけ」
「は~い……」
顎を押されて、ここまで来て抵抗も何もないので、私はしぶしぶ口を開けた。好きな人に口の中を見られるのってどうしてもかなり居心地が悪いのだけれど……。
と、思った矢先に何故かキャプテンと目が合う。
あれ、と疑問がかたちになる前に、その親指が私の唇に触れた。
「うぇ?」
そのままぐいと口を押し開けられたかと思うと、反対の手の指が当たり前のように口の中に滑り込んでくる。思わず引っ込めようとした舌が指の腹で押さえつけられる。キャプテンの指の味。
「ン、んん……」
そのままざらりと表面を撫ぜられると、どうしたって背中がざわざわした。喉の奥が鳴る。指は舌先まで私の舌を撫ぜて、ついでにもう一度下唇に触れてからあっさり離れていった。
椅子が引かれる音。
「――喉の炎症はなさそうだな」
「い、いやいやいやいや!」
キャプテンがしれっとしているので思わず声を上げる。今のは絶対、そんなにしれっと流せるような触り方じゃなかった!
「なんだよ?」
案の定、キャプテンはにやにやしながら私を見た。
「おれの診察に文句でも?」
「今のは診察っていうかもうセクハラですよね!?」
「ちゃんと喉が見えるよう触っただけだろ。医療行為だ」
「じゃあ私以外にもあんな触り方しますか!?直接指突っ込みます!?」
「この世にはちゃんと舌圧子っつーそれ用の器具があってだな……」
「知ってますよ!見せないでいいですから!つーかやっぱセクハラなんじゃないですか!!キャプテンのすけべ!」
わざわざデスクの引き出しをごそごそし始めたキャプテンの手首をひっつかむ。
「そんだけ大声出せるなら問題ないな」
「誰のせいで大声出す羽目になってるんですか……」
「おまえが構ってほしそうな顔してたから構ってやっただけだろ」
「ぐっ」
わかっててわざと無視してたなこの人。思いっきり愉快そうに笑いやがって。ちょっと悔しいやらちょっと恥ずかしいやらで口ごもると、ぱっと手を振りほどかれた。
「まあでも一応薬は飲んどけよ。おまえはすぐに肺炎一歩手前までいくんだから」
さっきごそごそしていた引き出しから分包された例の粉薬がいくつか出てきて、それがそのまま私の手に握らされる。結局薬は飲まなきゃいけないのか……。げんなりしながら手のひらの上の包みを数えて、何日分かを計算していると、頭の上に手が置かれた。やわらかい手つきで髪を撫でられたかと思ったら、そのままついでみたいに耳元をくすぐられて肩が跳ねた。
「ちょっと、」
睨み付けようと顔を上げて、目が合って、結局私は言葉に詰まる。
――私はこの人のこういう顔に弱いのだ。
キャプテンは今度は私の髪の毛をぐしゃぐしゃ撫でて、何がおもしろいのか笑い声まで零した。
「ちゃんと構ってやるのはそれを飲みきった後な」
「……別にそういう方向の構われ方じゃなくてもいいんですけど……」
というかこれだと生殺しだ。なんで私が一方的にこんな気分にさせられなきゃならないんだ。その上どうしても飲まなきゃならなくなった苦い薬を握りしめて、私は小さく咳き込んだ。