かきかけ腕からそろりと針を抜いたアリサが、ほっとしたように息を吐く。くすんだ色の静脈血を採血管に移し分ける操作まで、いつになく落ち着いた様子なのがむしろ怪訝で、ローは眉を寄せた。採血や注射の手技は何度も練習相手になってやっているのに、この女は毎度毎度妙に肩に力が入りすぎてへたくそなままだなと思っていた。今さっきみたいな落ち着いた手技は初めて見た。
「右からも取っときます?」
「いや、もういい」
病原体の正体さえわかれば充分だし、どうせ船内のラボでできることは限られている。そんなにたくさんのサンプルはいらないだろう。
椅子に腰掛けたまま採血管とシリンジを片付けたアリサの手が、そのままてきぱきと自分の左腕に綿球を留め付けるのを見下ろしながら首を横に振る。自分で発した言葉なのに、耳の奥に聞こえる声が聞き慣れないものであることで、余計に眉間の皺が深くなる。いつもより近い距離から見上げてくるアリサが、ぱちりと瞬いた。
「やっぱりへたくそでした?私の採血」
すぐにその眉が下がる。この女の悪い癖だ。
「今日はそうでもなかった」
「よかった」
ほかの船員がいる場なら対応に困るところだが、今はラボでふたりきりなので正直に教えてやる。アリサは素直にほっと胸を撫で下ろした。眉は下げたままで。いつもへたくそなのは事実なので、そこは否定してやれない。ローはため息を吐きそうになるのを堪えながら、まだ自分の手首を取っている彼女の手に視線を落とす。半分重なった互いの手が、今はほとんど同じ大きさだ。
「こっちの方が血管も細そうなのにな」
思ったことを口に出したら嫌味のようになってしまった気がする。しまった、と目を上げるが、そこで目の合ったアリサはむしろはにかんで見えた。なんでだよ。
「確かにちょっと細かったですね、いつもより。……キャプテン、本当にしばらくそのままでいるんですか?」
「しょうがねえからな」
目を覗き込むようにして問われて、初めてちゃんとため息を吐いた。耳に聞こえる女の声が、どうしても自分の声だと思えなくて、慣れない。
「女になる病」とかいういつぞやのふざけた攻撃は、一度確かに克服したはずだったが、後遺症というかなんというか、未だにたまに思い出したように発症する船員がいる。当初と同じように接触で伝染するし、覇気でどうにかする以外の解決法がないから、毎度毎度ローが一度罹ってやる必要があって、いい加減、いくらなんでも鬱陶しい。何度目かの船内パンデミックでさすがに観念して、きちんと治療薬を作る方針に切り替えたのが今朝だ。
何にしても一番抗体を持っているのはロー自身のはずで、しょうがないのでさっさと罹って自らサンプルになることにした。それに際して採血がへたくそなアリサをアシスタントにしたのは、“女”の彼女は「女になる病」に罹らないというのが第一の理由で、もうひとつは単に彼女とローが恋仲だからだった。
じっとこちらの顔を覗き込んだあと、ちらりと視線を落としたアリサが少し複雑そうな顔をする。
「女の子のキャプテン、カワイイし、しばらく一緒にいれるのはうれしいですけど、何日かそのままでいるなら服はどうにかしてほしいですね……」
その目は明らかに、ローがTシャツに無理矢理押し込めた乳房の方を見ていた。
「ちゃんと着てるだろ」
「着てますけど、いろいろこぼれそうだしいろいろ透けてるじゃないですか。あと揺れると痛そう。ブラジャー着けてほしい」
胸の方を見たままこういうことを言われても、アリサは恋人だからいちいち気を立てずに済む。
確かに手持ちの服では胸(だけ)が窮屈だし、かと言っていつも通りにシャツのボタンを開けると船員たちの視線も声もうるさいし、邪魔くさいのは間違いない。揺れるのも事実だし、アリサは素直に心配している風だったが、ブラジャーなんて余計に窮屈そうな物を着けてたまるものかという気持ちはある。
「下着はともかく服はおまえのを借りたほうがマシかもな」
今の自分ならたぶんアリサより華奢だ。サイズは問題ないはずだし、始めから女の身体に合わせて作られている服の方が乳の収まりもいいだろう。ツナギでわかりづらくなっている彼女の身体のラインを思い出して言うと、アリサがまた眉を下げた。
「そりゃまあ私の体型はだらしないほうですけど……」
「そういう話じゃねえよ」
すぐ自己卑下に走るやつが身近にふたりもいると困る。ベポはまだしもアリサとは付き合っているんだから余計にだ。第一に、別に言うほどだらしなくはない。正直に表現していいなら肉感的というやつだ。
何となく預けたままだった左手でアリサの手を握る。いつもは小さく思う手が同じくらいのサイズというのは居心地が悪かった。やわらかい手のひらを指で撫ぜる。
「どうせもうあと何日かだけだからな」
アリサの目がこちらを見た。その口からため息が零れる。
「薬ができたら今のキャプテンも見納めなんですね……」
何故そんなに残念そうな顔をするんだ。ローは眉を寄せる。
さっきの採血の手技といい、こうやって手を取っても落ち着いている様子なことといい、いつになく目が合うことといい、何となく何もかもがおもしろくない。いつもはこっちが目を合わせると視線を逸らすし、身体に触れると肩に力が入って縮こまるし、こっちに触れるときはおっかなびっくりの調子なのに。付き合い立てならまだしも、一応、恋人になって結構経っているはずなのだが。
――本当は、これは彼女の望んでいない関係なんじゃないかと思うときもある。
先に関係を持ちかけた、というか、アプローチして告白をしたのがローの方だったから、余計にそういう不安が拭いきれない。どうしたってローはこの船の船長で、アリサは船員のひとりだという前提もある。あたかも船長命令みたいにならないように、細心の注意を払って時間をかけて外堀を埋めて、ある程度の確信を持ってから想いを伝えたつもりだが、そんなのはこっちの思い込みの可能性だって十二分だ。実際にアリサが何を思っているかなんて、ローにはわからない。
「キャプテン、」
まず、未だにふたりきりでも呼称が「キャプテン」なのはどういうことなんだ。呼ばれる度に何か線引きをされているような気持ちになる。かと言って名前で呼べとも言いづらかった。こちらから求めてしまうと、どうしたって無理に従わせているのではという不安からは逃れられない。
「あのお……」
「……なんだ」
恐る恐る、と言ったアリサの声にもう一度呼ばれて、ようやく思考が途切れた。無意識に握りしめていたかもしれないと、慌てて(さりげなく)手の力を抜いたが、目を合わせた彼女の表情はこちらを責めるようなものではなかった。
「その、なんというか、今のうちにちょっと……ハグとかしてもいいですか?」
「は?」
「あっ、すいませんなんでもないです聞かなかったことにしてください」
思わず低い声で答えてしまって、即座にアリサが縮こまった。舌打ちしそうになるのを押さえ込んで、その手を一度離す。
「ダメとは言ってねえだろ」
そんなことを正面から頼まれるのが初めてで、一瞬理解ができなかっただけだ。合意を示すべく軽く両腕を広げてやる。
「ほら」
声も掛けてやって、ようやくアリサが緊張をほどく。
「やったあ」
そして無邪気と言うべきだろう声で言った彼女が、躊躇なく胸に飛び込んできたので、不満を感じるより先に面食らった。
「すごい、キャプテンどこも細い、折れそう、なのに胸がおっきい……」
胸に顔を埋めたままでアリサが妙な感嘆を漏らすのが聞こえる。こっちが椅子に座ったままだからアリサはわざわざ床にひざまずくような形で、果たしてこれは本当にハグなのか。抱きしめ返していいものか判断が付かずに腕を宙に浮かせて、されるがままにしていると徐々に感情が追いついてくる。いや、おかしいだろ。
付き合ってから今までこういうスキンシップをアリサの方から求められた記憶が全然ないし、当然こんな風に躊躇なく抱きつかれたこともないはずだ。突き詰めるとそもそも「お伺い」みたいなかたちでスキンシップを求められること自体がおかしいような気もしてくる。ローだってアリサに触れるときはまず合意を取るが、それはそうやってまず心の準備をしてもらってからじゃないとほとんど拒絶に近いレベルで硬直されてしまうからだ。本当にいきなり不意を付いたら本気の拒絶をされる可能性も捨てきれないし、さすがにそれは耐えられない。一方でこっちはいつでも歓迎する気でいるんだし、合意を取るにしてももっとカジュアルなかたちで来てもらってよかった。なんでそんなに下の方から来るんだ。いつもはそれ以前の距離感だというのも相まっていよいよおもしろくない。
「肩も腰も全部細すぎる……」
喜んでいるのか嘆いているのか判断のしづらいアリサの台詞を胸で(物理的に)受け止めながら、顔が見えないのをいいことにローは口元を歪める。見た目が同性になったからこういう気安さになっているのかもしれないが、別に中身や関係が変わっているわけではないので腑に落ちない。
「そろそろ気が済んだだろ」
いくらなんでも内心の苛立ちが勝ってきたので、引き剥がそうとその肩を軽く叩いた。多少声を低くすれば、さっきみたいに縮こまると思ったのだが、存外そうはならずに、なぜか腰に回された腕の力が強まった。
「……おい」
いつもならかわいげを感じるところだろうが、今はいぶかしさが勝る。胸の谷間に顔を埋めたままで、どうもアリサは何か逡巡しているようだった。
「……あの、キャプテン」
「なんだ」
少し待つと恐る恐るその顔がこちらを見上げてきた。なるべく不機嫌を見せたくはなかったが、答える声がどうしたって低くなる。――といっても、いつもに比べたら圧倒的に高い声なのだけれど。そのせいなのか何なのか、アリサも大して怯えるような素振りは見せない。ローの腰に腕を回したままで、少し視線を泳がせる。
「もうちょっとわがままがあるんですけれども……」
「……言ってみろ」
沈黙を肯定の代わりにするのはアリサには通用しない。だからちゃんと先を促したのに、アリサは妙に言いづらそうな顔のままで俯いた。
「そのお、……今のうちにキャプテンの……お胸を触ったりとか、……ほかのそういうこともしたいんですけど……」
「……はあ?」
今度はちゃんと耳から入った言葉を頭の中で咀嚼して意味を考えた上で聞き返した。案の定アリサはにわかに萎縮して、ちょっと後ずさってそのまま床に正座する。
「ごめんなさい嘘です調子乗りました忘れてください!」
「そういうわけにもいかねえだろ」
「びゃっ!?」
勢いで土下座でもされかねない雰囲気だったので、その前に顎を捕まえてこちらを向かせた。素っ頓狂な悲鳴は無視。膝に肘をついてアリサの顔を覗き込む。
「もう一回、ちゃんとおれの目を見て言え」
「……えーと……」
じわじわとその耳のふちが赤くなったのが見て取れた。しかしその目は逸らされることはなく、数秒のうちにアリサは腹をくくったらしい。
「今のキャプテンと……というか、今のキャプテンにえっちなことがしたいです……」
目が合っていたのは最初のわずかな一瞬で、すぐに伏せられて、その声もどんどん小さくなっていったし、さっきとは表現も何もかも違った。しかし、望まれている内容だけは間違いなくはっきりしていて、どんな顔をするべきか咄嗟にわからない。ただ眉間に深く皺が寄ったことだけは確かだ。顎を捕まえられたまま限界まで目を逸らしているアリサの視界には入っていないかもしれないが。
「あっ、もちろん今すぐこの場でという話じゃないんですけど……」
「当たり前だ」
それはさすがに無条件で断る。まだ真っ昼間どころかランチタイムすら来ていないし、何よりここは船の共有スペースだ。それくらいの分別は、一応ある。――と思うのは、裏返せば別に時と場所さえ整っていれば断る理由がないということだ。それが自分でわかるから、どうしていいかがわからなかった。
もちろん今まで肉体関係がなかったわけがないが、当然にアリサの方からそれを求められた記憶はない。軽いスキンシップでも思い出せないんだから、それ以上のことでは尚更だ。それをいきなり真っ向から要求されるのが、どうしてよりにもよって今なのか。というか、口ぶりからすると「今だからこそ」だ。なんで女の体のほうが求められるんだ?あまり深く理由を考えたくない。
「……うう、出過ぎたことを言ってごめんなさい……」
次の台詞に悩んでいるうちに、沈黙はすべて否定だと解釈するアリサが眉を下げる。思いきりがいいのか悪いのかわからないやつだ。アリサを萎縮させてしまうのはわかった上で、ローは小さくため息を吐いた。これくらいは許してほしい。それから顎を掴んだままの指をずらして、案の定こわばったアリサの唇に触れてやる。むに、と押しつぶせば困惑の目で見上げられた。
「今晩のうちにおれの部屋だ」
「……ひゃい?」
「今日なら相手してやる」
数日中なんて言わず、明日にはこのふざけた身体には用無しになっている可能性が高い。今のうちに約束しておくしかなかった。
アリサは何度か間抜けな瞬きをしてからようやく意味を理解したらしい。その顔が一気に熱を持ったのが触れている指先からもわかった。
「め、めちゃくちゃ身を清めてから行きます……!」
それは一体どういう反応なんだよ、と思ったが、もうわざわざツッコむのは諦めた。もしかしたらローが知らないだけで、いつもこれくらいの意気込みなのかもしれないし。可能性の薄そうな期待だけはしておく。
○
どこをどうどれくらい清めてきたのかはわからないが、アリサは夜半になってきちんと部屋を訪ねてきた。そして顔を合わせるなりいきなり手で顔を覆う。
「キャプテン、なんで服をちゃんと着てないんですか……」
「着てるだろ」
素肌にシャツを羽織っただけで前は留めていないが。指の隙間からこちらを見上げて、アリサは口をとがらせた。
「そのシャツのボタンは留められて初めて『ちゃんと着ている』カウントになると思います」
「だったらおれは今までこれをきちんと着た試しがないな」
元から窮屈なのに邪魔な乳房が増えている身体でボタンなんて留めていられない。アリサを初めとして周りがうるさいからしょうがなく昼間はTシャツを着ていたが、自分の部屋でまでまともに服を着なきゃならないといういわれはない。
「それにどうせ脱ぐんだから関係ねえだろ」
「そう言われると羽織ってくれてただけマシなのかもしれないですね」
顔から手を離して、しかし不自然に明後日の方向を見ながらアリサが言う。この女は何をしにきたつもりなんだという気持ちになるが、たぶんいちいち引っかかっていたらキリがない。ローはさっさとベッドに腰を掛けた。脚と腕を組んでアリサの方を見上げる。
「――で、どうする?」
よくよく考えてみれば、アリサの要望はただセックスがしたいというものではなく、今のローの女の身体に触りたいというものだった。好き勝手触ってやるのには慣れているが、触られるとなると勝手がよくわからない。というか、日頃を思うとアリサにそのようなことができるとは思えなかった。できるんだったら普段からもう少しその素振りを見せていてほしい。
ベッドの脇に突っ立ったアリサは相変わらず壁の方を見たまま、真面目な顔で顎に手を当てた。
「……えっと、じゃあ……。とりあえず私がここにひざまずきましょうか」
「それは絶対にやめろ」
今までそんなことをさせたためしはないだろと言いたくなるのを堪える。こっちの見た目が変わっただけでどうしてこんなに調子が狂うんだ。ため息は吐き出しながら、アリサの手を引いた。
「こっちに来い」
自分が先にベッドに乗り上がるとアリサも素直にマットレスに膝をついた。二人分の体重でどこかから何かが軋んだ音。完全にアリサに主導権を握らせようとしても埒があかないことを理解したので、しょうがなくこちらから、膝立ちのまま身体を寄せる。
「わ、」
顔を近づけるなり漏れた声をそのまま唇で塞いだ。頭の後ろを捕まえて、ちょっと唇を啄んでやってからその隙間に舌をねじ込む。こんなことですらいつもよりすんなりと受け入れられている気がした。それをどうしても喜べないままに歯列をなぞって粘膜を舐めて舌を絡めて、適当な頃合いで唇を離す。
鼻先が触れる距離で、アリサが妙にぱちぱちと瞬いたのが見えた。
「く、口もいつもよりちっちゃい……気がする……」
「うるせえな……」