美しい男だった。
長身で、すらりとした体躯は逞しく、けれど武骨さを感じさせるほどに筋肉質なわけではない。雄々しさと優美さが見事に調和した、しなやかで均整のとれた身体つきをしていた。
やわらかな光を纏う淡い白金の髪と、白皙の頬。形良い唇が、見つけた、と動く。
それは少し掠れて、あえかに震えていた。耳障りの良い声。身体の奥深くで、ひび割れたコアのどこかが軋んだ気がした。
まるで晴れ渡る空をそのまま嵌め込んだように蒼く澄んだ双眸が、俺の頭の先から爪先までを這う。
あちこち砕けたままの鎧と、仕舞うことさえ思うように出来なくなった、ぼろぼろの羽。きっと見るに耐えない有り様なのに違いない。男のゆるやかな曲線を描く眉が、痛ましげにひそめられた。
「君には休息が必要だ。さあ、」
おいで、と手を差し伸べられる。長い指。肌は透けるように白かった。
なぜ。どこに。どうして。
音を紡ぐことを忘れて久しい喉を抉じ開けることすら億劫で、それらの問いの代わりに俺はただ小さく首を傾げてみせた。
戸惑ったように、男は瞳を揺らした。
サンダルフォン、と穏やかな声が紡ぐ。
鼓膜を揺らして響いたそれを己の名だと認識するまでに、僅かながら時間を要した。長い、とても長い時間、誰かの声で形作られるそれを耳にすることなど、なかったから。
「……あんた、誰だ」
なぜ俺を知っているのかと、眼差しにこめて問いかける。
蒼穹を写しとったかのように美しい瞳が、大きく瞠られた。男が一歩を踏み出して、差し出されていた手が腕を取ろうと動く。それを、俺は咄嗟に振り払った。
乾いた音を立てて白い手のひらが弾かれる。愕然とした様子でそれを見る男を、俺は睨めつけた。
「触るな。何のつもりか知らないが……俺には約束があるんだ。大事な、約束が」
遠い遠い昔。俺は約束をしたのだ。
必ずこの世界を守ると。彼が守り育んできたものを今度は俺が、俺の意思で守り慈しむのだと。
人と世界と寄り添い、この空に精一杯に生きて——そうしてその果てにこそ、俺は帰ることができる。あのひとのところに。
だから、
「だから、休んでなど」
「サンダルフォン、……君は」
男が再び俺の名前を口にする。
こんなふうに誰かに名を呼ばれるのは本当に久方ぶりだった。何千年、もしかしたらそれ以上。硬く強張って響くそれでも、懐かしい感覚だ。つい頬が緩んでしまうのを自覚した。
対照的に男の眉間の皺は深くなる。
「俺はこの世界で、最期まで生きて、」
いつか、還るのだ。
その日までは、そばにいきたいと願ってはならない。そばにいて欲しいと焦がれてはならない。助けてほしいと縋ってはならない。ひとりはもう嫌だと、呼んではならない。
そう自らを戒め続けた。この世界でなすべきことをなして、いつか彼の元へと還るその日までは。そしてその時は、きっともうすぐ、
————ああ。でも。
いったい何処に帰るのだったか。
俺を待っていてくれるはずのそのひとは、何という名で、どんな姿をしていただろう。
俺の唯一無二の光。
彼は——————
♢ ♢ ♢
私の手を拒んだ彼を、私は力尽くで連れ去った。
鋭く払われた手を再び伸ばし、一歩を踏み出したこちらの意図を察したサンダルフォンは、眼差しを険しくさせて彼の戦闘手段である光剣を現出させようとした。だがそれは形を成す前に、もろくも崩れて消えてしまう。それらを維持するだけのエーテルすら彼の肉体には巡っていないのだ。今にも砕け散ってしまいそうに軋むコアの悲音が聞こえるようだった。
悔しげに顔を歪め、傷んだ羽を広げる姿を見ていられず、私は彼の身体を両腕に捕えた。想像していたよりも更に細く薄いそれを、懐に深く抱え込むようにして、我が身に縛りつける。
サンダルフォンは激しく怒り、抵抗した。
放せ、触るな、と吠えるように叫ぶ。硬く握られた拳が背を打ち、指先は私の腕に爪を立てた。
けれど、上手くエーテルを練ることができず、ただ物理的な衝撃しか齎さないそれでは、僅かにも私を怯ませることは不可能だった。
暴れる身体を押さえ込み、背に還った六枚の羽を広げる。虹色の光彩を放ちながら彼の全身を包み込んだそれに、サンダルフォンは大きく目を瞠って息を飲んだ。
赤い瞳が揺れて、薄く開かれた唇が震える。色を失くしたそれが何かしらの言葉を紡ぐ前に、サンダルフォンの全身からがくりと力が抜けた。頽れそうになる身体を腕で支え、私は薄く吐息を吐いた。
今にも尽きそうだった力を振り絞った反動か、己の身の内にあるはずの羽を私の背に見た衝撃にか。いずれにしろ、負荷に耐えかねたサンダルフォンの肉体は意識を閉ざしてしまった。
白い頬に己のそれを寄せる。あれほど激したにも関わらず、それはひどく冷たかった。
「…サンダルフォン」
何度も何度も、繰り返し彼の名を呼ぶ。抱き締める腕に籠る力を抑えることは難しかった。圧迫されたサンダルフォンの肺から、ふ、と薄く吐息が溢れたことを認識してようやく自制が働く。それ以上には引き寄せられないもどかしさを、重ねた頬を擦り合わせることでどうにか散らした。
「サンダルフォン、…あぁ、」
どれだけの刻を待っただろう。
再びまみえる日を文字通り夢にさえ見ながら、あの優しくも寂しい無限の空間でひとり。
胸を焦がして待った再会は、けれど思いもかけない形で果たされてしまった。
「……君はここを、選んだのか」
サンダルフォン諸共に繭のごとく閉じた羽に遮られて、周囲の光景は今は見えないが、当時と何ひとつ変わらないままであったことは確認している。おそらくサンダルフォンの張った結界によるものなのだろう。エーテルやあらゆる元素がひっそりと息を潜めて動きを止めているそこでは、石造りの建造物は風化も劣化もしていない。破壊された瓦礫さえ、あの日のままに至る所に転がっていた。
時の流れに取り残された伽藍堂。ここはかつて私が生を閉じた場所だった。
そんな場所を、サンダルフォンはおそらく彼自身の終焉の地に選んだのだ。何を思ってそうしたのか、正確なところは量れない。けれど。
稼働限界を迎えているコアの損傷ゆえなのか、私を私と認識しないまま、それでも約束があるのだと、サンダルフォンは言った。そのために生きているのだと。それは、彼もまたその生の終わりの先に私との再会を望んでくれているのだと、知らせてくれるに充分な言葉だった。
だが、こうして再び空の世界に器を得た私は、彼の逝く先にはすでに居らず——長い生を終えて輪廻の輪へと還ろうとしている彼を送り出すこともまた、私にはできそうになかった。それがすべての命の正しく辿るべき道なのだとしても。
だから。
搔き抱いた愛しい身体を手のひらで辿って、囁く。
「失わせはしないよ、サンダルフォン。……どんな手段をもってしても」
あるいは君がこのまま、私を私と認識してくれる日はこなかったとしても。
もう二度と、決して君を手放さない。
眠り続けるサンダルフォンを腕に抱いたまま、私は気流に乗って空を漂う小さな無人の島へと降り立った。
かつては人の営みがあった、何処かの島の欠片なのだろう。一日歩けば端から端まで巡ってしまえそうな小さな浮島には、いくつかの家屋や田畑の痕跡があった。人の手が入らなくなったそれらには青々とした草が茂り、崩れかけた家屋はその壁面から屋根に至るまでびっしりと緑の蔓草に覆われている。
島の中心辺りには、背の高い樹々が立ち並ぶ林があった。大きく広がった枝葉が心地良い木陰を作っているその根本には小さな泉があって、碧く透き通る水底の地表から細々と透明な気泡が上がり続けている。
吹き抜ける風と、それら以外に葉を揺らす小さな生き物の気配。清浄な水と、青い植物の香り。命を育む土の匂い。ひとに見限られた小さなその島は、優しく穏やかな生命の息吹にあふれていた。
その泉の傍ら、柔らかな下草が繁る場所に抱いてきた身体を横たえる。柔らかな濃茶色の髪が風に揺れて、白い頬を擽った。悪戯なそれを、指先を伸ばしてそっと払う。風の音と草木の香りだけを伴に、赤い双眸が開くのを待った。
そして。
目覚めたサンダルフォンのしなやかな身体を、私はそのまま草の褥に組み敷いた。