宝箱 昔、バギーの鼻を噛んだことがある。
理由は美味しそうだったから。
真っ赤で、ツヤツヤで、やわらかそうで。一番はバギーについてるから。甘そうだと思った。
結果は甘くはなかった。やわらかくはあったが、思ったより弾力があった。めちゃくちゃ怒られた。バギーにも、レイリーさんにも。ただ、あのときの感触は忘れられないものになった。あの感触を再現しようとゴムボールを噛んでみたが、硬すぎだったり、弾力がありすぎたりで全然だった。仕方なく空気を噛むふりして口を開けていたら引かれた。バギーに。
とはいえ、昔の話だ。体感五十年前ぐらいには昔の話だ。そんなに生きちゃいないが。昨日の話にできないほど、バギーと同じ船で過ごした日々は懐かしい思い出になってしまったのだ。オーロで過ごした日々は昨日のことのように感じるのに、あいつとのことは昨日にできない。船長が処刑された日に振られたせいだ。
バギーとの思い出をそこにおいてきてしまったみたいだ。
そう言って、バギーが残したミニトマトのヘタを摘まむ。そのまま口に放りこんだトマトは簡単に弾けて汁が口の中にひろがった。
「そういうこたァ、酔ってから言いやがれってんでい」
良い酒を飲ませてやっているというのに、バギーは苦虫を潰したような顔をした。船が沈んでしまいそうなほどのため息にそんな顔をするなよと傷ついてみせても、目はどこか遠くをみたまま。
トマトを見たときにバギーの鼻を噛んだ思い出話をしたから、すでに赤鼻に関する自虐は聞いたあとだ。
「なあ」
「ヤなこった」
「まだなにも言ってないだろ」
言わなくてもわかると、俺の皿からブルーベリーが二、三粒持っていかれる。確かにわかってくれている。なんだかんだとコイツも覚えてくれている。
「テメェは昔から考えてること変わってねェんだよ。アホシャンクス」
「そうか? まあ、バギーのことはそうかもしれねえな」
「うぜえ」
さすがに声に出されると傷つく。
そう酔ったふりしても、うるさい、まだ酔ってねえだろ、と押しのけられた。
「バレたか」
「あたぼーよ」
当たり前なんて、バギーにとってはそうであっても、俺にとってはそうじゃない。
前言撤回、変わってない、なんてことはない。離れてしまった時間が長いせいで、あの頃抱いていた感情が一気に成長してしまった。バギーにとって当たり前でも、俺にとっては当たり前じゃない。溜まりに溜まって、忘れかけていた恋しい時間が、再開したことによって波のように押し寄せてきている。
乙女心も、バギーの心も、一ミリも知っちゃいないのに。
欲しいと思ってもこの手には残らないし、あの頃のようにそばに居ることすら出来ない。
「大人になっちまったなあ」
「……大人どころがジジイだろ。シワも傷も、髪の薄さも」
「おい、最後のは聞き捨てならねえぞ」
「は! 潮風に晒され過ぎて額が光ってるぜ」
グラスを持った手が人差し指で、額を押し込んできた。気にしていることをわざわざ口にしなくてもいいじゃないか。そう泣いたふりしたところで、笑うだけで気にもとめられない。
それでいい。
「サッサとジジイになりやがれ」
ずっと昔に閉じ込めた感情。その宝箱を開けずに済めばそれでいい。
「そうしたら、面倒なことも全部忘れられる」
そう思っているのに、変わらないお前が、その宝箱の鍵だなんて。
「忘れられるかよ」
単純すぎて、笑い話にもできなかった。