まだいたの、と言えば、おりますとも、と嫌味の通じない朗らかさで応じられるのにも、なんだか慣れてしまったと思ったのに、慣れたころになってずいぶんあっさりと去っていくところも、終始彼女の強引なペースに巻き込まれてしまって、ありがちに例えるなら、嵐だとか事故だとかそういう類のどうにも抗うことが敵わない、降りかかる災難のような、七星蘭世という少女は自分にとってそういう存在なのだったと、ネイルは思う。
彼女がここにいたことは、そういう一過性の時間だったのだから、別にすっかり忘れてくれて構わないし、自分もそうするつもりなのだ。ただ、ネイルは、突然転がり込んできた蘭世のその強引さの中に、もう何処にも行くあてがありませんもの、と呟いた少女の寄る辺のなさを、聞かなかったことにして放っておくほどには、冷たくなれなかった、たぶんそれだけなのだ。
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3歳になる頃には世界の仕組みがわかってしまったので、そのときからネイルにとって、世界は退屈でつまらないものになってしまった。
両親は幼い息子の賢さに恐れ慄き、彼らにとって最大限の努力はしたものの手に負えなくなって、息子をより良い場所へと追放してしまった。それはネイルにとって、短すぎる幼少期の終わりだったのだが、ネイル自身はそんな感傷はその場ですっかり忘れ、自分は世界なんてものよりもっと高次の仕組みを知り、それを忠実に維持するべきなのだと、まるで使命のように、思い至ったのだった。
恐れも何も知り得なかった幸福な幼い世界から、知りすぎた自分は追放されてしまったのだから、ここはヘイブンなのだし、自分でそう名付けたのだ。
「あっ、そういうの、ノブレス・オブリージュですねぇ、ガクト様もそういうお方でしたけど……」
無意識に、ということは、驚くべき鈍感さで、前主人へ通底し続ける思慕を覗かせて蘭世が言うので、ネイルは溜め息をついたあと横を向き、少女と退屈しのぎにお喋りをしてしまったことをかなり後悔したのだった。
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ネイルの右手の人差し指に指環がはめられている、ということに気付いたのは、彼が王道遊我とラッシュデュエルをしたときだったかもしれないし、蘭世がヘイブンに転がり込んでから彼をもっと近くで見たときだったかもしれない。
彫金の重厚な装飾の施された金の指環は似合っているようでいて、彼の白く長い指には痛々しくも見え、蘭世は、彼が指環をしていることを意外に思い、それでますますその指先を観察してしまう。こっそり、右手人差し指にはめる指環の意味を検索してみたりもして、その結果は確かに彼の印象に違わないような気もしたものの、けれど、本当の意味なんてものは彼にしかわからないし、そんなものは初めからないのかもしれなかった。
ヘイブンのコンソールを叩くたびに、カードを引くたびに、あるいは、相棒である玉座に触れるたびに、蘭世はそっとその指先を見遣っては、その白い指に科せられた指環の重さを想ってみる。
全く勝手に、けれど、だからその想像の中で、ネイルの指先は重たげにきらりと光って、何かの意味を生むのだった。
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姉の悪い癖が出た、と思ったときには大抵が手遅れで、姉の瞳に映るすべてはロマンスに都合よく見えてしまうので、凛之介はそれ以上、姉がポンコツにならないよう制止したりするのが、弟として姉にしてやれるせめてもの気遣いなのだったが、姉は姉で、そういう自分の悪い癖を直すどころか、自覚するのも困難なようで、それでいつも、ぼろが出る。自分ではしっかり者のつもりで通している蘭世の、そういうポンコツ具合を一番良くわかっているのは、やはり、双子で弟でもある凛之介で、姉の恥は自分の恥というか、早い話が、自分と姉を同一視しているところがあるのは、まあ仕方がないのだ。
今回も姉の悪い癖が出て、それはいつ何がきっかけになるのか、すべては姉の御眼鏡に適うかどうか、なのだけれど、だとしたら、姉が一時でも身を寄せていた彼にも、何かの拍子で発動してしまうかもしれない。例えば、うっかり、姉の前で眼鏡を外す、なんてことが……。
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バタバタと忙しく彼のもとを出てきてしまってから落ち着いて話をする機会もなく、過ぎてしまえば、彼のところに置いてもらったこともずいぶん前のことのように思えて、蘭世は久しぶりに見るネイルの姿を、黒衣の布越しに、ちょっと見つめてみる。割と何でもこなせるタイプらしいネイルは、剣道の審判をしに出てきていて、それは彼の業務の内の役割なのだけれど、案外、楽しそうに見えたのだ。
蘭世が、あの庭に行き着いたときのネイルは、もっと他人を寄せ付けない雰囲気を纏っていたように思って、けれど蘭世はそれを気にしない少女の強引さでその傍にいたのだけれど、その間中だって、楽しげな表情を見ることは出来なかったのだ。そういう意味では、蘭世にとって、セツリの庭は彼女の秘密の花園足り得なかったけれど、それでも、ネイルは確かに、声をかけてくれたはずなのだ。
遊我やロアや……そういう関わりに触れて、彼はそういう表情をするようになったのかもしれない、と蘭世は思い、その関わりの中に自分がいたことは、やはり、それこそすっかり「忘れて」しまったのだった。
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対策会議だなどというものだから覗いてみれば、まったく、あれでは先が思いやられます、と彼の忠実な執事で玉座のセバスチャンが呆れて言い、それはネイルも同じだったから、ホログラムスクリーンに映し出されている地上の騒ぎから視線を外すと、思わず溜息が出てしまう。
その騒ぎの中には、先日までヘイブンに押し掛けていた彼女もいて、どうにもエキセントリックな性格をしている彼女は、万事が自らに都合の良いロマンスに見えてしまうらしい妄想癖を披露し、さらにはそれらを書き留めた日記帳までもご丁寧に晒していたのだった。
「まさかネイル様のことまでも、あのいかがわしい観察日記とやらに記していないでしょうか」
「別にどうとでも……私は他人の嗜好に口を出す趣味はないよ」
セバスチャンがやたらと心配するような口調で言ったけれど、ネイルはあまり興味も持てずに、ホログラムスクリーンをオフにすると、今度こそ彼女を視界から弾き出してしまった。
「それに、本当に見られて困るものなら、鍵でも付けておけばいいんだ」