「じゃあネイルは子どもではいられなかったんだ」
会話のふとしたすきまに鈍く光る切先を、遊我はネイルへ向けることがある。まるで食べ物の好き嫌いをたずねるように気兼ねない口ぶりで、核心をつくような会話をするのだ。会話というか話法だといってもいい。それは挑発でもあった。
「それは君だってそうじゃない?」
ネイルは意図して疑問形で返事をするが、それは少しずるいやりかただった。はは、と遊我は、ほとんど音だけで笑って流してしまう。
「本当の子どもはいまの自分が子どもだなんて自覚しないし、それが逆説的に無知で幸せな子ども時代だって、ことでしょう」
「子どもはそんなこと思わないだろう」
「だから、ネイルはここに来たんじゃないの?」
「……まあ、そうだけど」
もしかしたら、あまりにもみじかい子ども時代だったから、少しは惜しかったのかもしれない、ネイルは思いあたる。そういう感情が仲見世のお祭り騒ぎに、夜となく昼となく終わることのない喧騒の中に、あるのかもしれない……などと、他人事のように自らの分析をするのは、ネイルがもう子どもではいられないという紛れもない証拠なのだ。
避難所で聖域だって? 言い得て妙だね、と遊我は笑う。今度はちゃんと笑っていた。
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突如として、足元に空く黒々とした虚のような穴というのは、裂け目のようだ。むろん、それは現実と夢との裂け目である。
別にうさぎを追いかけたわけではないのだけれど、落ちた穴の先には不思議の国といってもいいくらいの別空間が広がっているものだから、半強制的な連行であったとしても遊我は、このすべてがある一定の秩序によって統治されている地下世界を訪れるのが楽しみでもあった。なぜなら、底の世界にはずいぶんと話の合う──それはお互いが同等のレヴェルで話が出来るという意味で──管理者がいるからである。
確固たる美学をもって統治される彼の王国はやがてミクロからマクロへと到達するのだろう、遊我は夢想してみる。けれど、ああ、やっぱり、──面白くない、それは、窮屈だ。
遊我はどうしたってそういう質の人間であり、それでなければそもそも彼と関わることはなかったのだ。
彼は彼の王国の王であり同時に奴隷でもあった。遊我はそれを窮屈だと思うが、ネイルにとっては真理であった。それなら、と遊我は思う。彼がたったひとりで窮めたセツリに則り、宇宙は少しでもうつくしくあらねばならないだろう。きっとそうだろう。
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ヘイブンを離れるにあたってネイルが気掛かりだったのは、唯一の私物である蔵書の処分だった。
本棚に整然と並べられた蔵書たちを引き抜き、無造作に積み重ねてできた山に、ネイルはいま、火をつけるところだ。
電子書籍が一般的な中にあって、ネイルがわざわざ製本を頼んだ蔵書たちは、それを椅子に座って読むという行為を含めて、彼が嗜好したプライベートな時間だった。それが叶わなくなり、彼はそれらの蔵書をすべて処分してしまうことに決めた。
好きだった世界を追われるのだから、好きだったものは連れて行きたかったが、それも叶わずにネイルはただのひとりで、ヘイブンを出る。ならば、こうして燃やしてしまうのが一番だと彼は思ったのだ。
燐寸を擦った指先を離れた火が、炎となって彼の世界を焼く。紙片を焚き上げる炎に照らされ、絶えず輪郭を淡く揺らしている影法師はどこまでも自分のものひとつのみで、どうもそれは、レンズに入ってしまった罅割れのせいではない気がして、ネイルは眼鏡を外してみる。
ぼやけた視界に世界はさらに淡く燃え上がって見え、ネイルは本当に此処にはひとりきりなのだと、いま、思い知る。
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遊我がときおり穴の底へ下りてくるのは、なにか明確な目的を持っているわけではなくて、ただネイルと話をするためだった。ネイルはそれを彼なりの親しさをもって歓迎した。なぜならふたりは、お互いの他愛もない話を楽しむことができる存在だったからだ。遊我はよく、他人のことをネイルに話して聞かせる。
「……キミに負けたとき、実はロアのところに行ったんだよ、ロアはひとを励ますのが上手いんだ。きっと自分を誰よりも励ましてきたんじゃないかな……。え、ルーク? ルークは友達。一緒にいるとそのときだけは本当に子ともでいられるんだよ、本気で悔しがったりさ……勝ち負けとか、ボクは……本当は、どうだっていいんだけど……」
それなら、私は? と聞いてみたくなってしまったネイルの興味を、見透かしたように、遊我は話の先を向けてくるのだ。
「ネイルは話し相手にはぴったりだよ。こうして地下の……土の下というか穴の底でこっそり、ふたりきりで話すのはとっても楽しいし……ネイルは、そうじゃないの?」
「その言い方は少し……ずるくないか?」
照れたネイルの横顔に微笑いかける遊我は、そうだね……と優しく言ってから、瞳を伏せる、それから再びネイルの瞳を、レンズの奥の瞳をとらえるように見て、それとも、もっと別の関係がいい? と聞いた。
「……いいと言ったらどうなるんだい」
「さあ、どうなるんだろう。でも、もしかしたら、いま以上に楽しいかもしれない」
「もしもの話はあまり好きじゃない」
ネイルはつれない様子でそっぽを向く。遊我のこういうものの言いかたには、いつもペースを乱される気がして、慣れない。それでも嫌いじゃない。土の下で、穴の底で、ヘイブンで、ずっと待っていたのは話し相手だったのかもしれない……そう思いあたって、ネイルは背けた顔をふたたび遊我に向けた。遊我の楽しそうな、表情。
「ボクたちが世界中の誰より楽しく過ごすのが、そう、決闘でもして──それこそが、君を追放した世界への最高の復讐だって、そうは思わなかい?」